書評問屋

大学生も社会人になってしまいました。経済学に携わりながら、仕事をしています。主に書評を書いています(このブログは個人的な考えのみを書いています)。関心分野は経済学(Econometrics, Bayesian, Macroeconomics, IO, Machine-Learning)、哲学(ポストモダン)、社会・文化、歴史、物理学、小説・随筆などなどです。

久しぶりの読書であり、かつ久しぶりの哲学書の紹介になります。社会人になると、どうしても目の前の幾多の詮なきことに時間や労力が取られ、じっくり時間をとって何かを考えることが難しくなります。ですから、こうして久々に哲学書をじっくり読むと、思わぬ楽しみを感じます。

バートランド・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell)は、多くの分野において、人類の知識の拡大に対して貢献があります。まず、数学の集合論においては、ラッセルのパラドックスという「自分自身を含まない集合が、自分自身を含むのか?」という問いが非常に有名です(参考:『集合とは何か』)。フリー・スクールなど教育への提言も有名であり、平和運動、非戦論やラッセル=アインシュタイン宣言などの社会活動家としての側面も持ち、それゆえに投獄された経験もあります。さらに、「in recognition of his varied and significant writings in which he champions humanitarian ideals and freedom of thought」というように多様な作品群が理由となり、ノーベル文学賞も受賞しています(どうやら、1929年の『結婚と新道徳』の著作などが受賞の大きな理由だそうです)。とはいえ、ラッセルの最も重要な側面は、哲学者としての側面でしょう。本書は、1912年の『The Problems of Philosophy』という本の訳書になっています。


哲学入門 (ちくま学芸文庫)
バートランド ラッセル
筑摩書房
2005-03-01




まず本書の目標としては、ざっくり「現象(appearance)」と「実在(reality)」の区別という問題に対して、「判断」及びその元となる「知識」を合理主義・経験主義の両側面から規範的な考えとラッセル個人の考えを明らかにしていくということになります。第1章〜第13章までがラッセル個人の1912年時点でのこの哲学的問いへの回答になります。ラッセル自身は最期まで、ヘーゲルを中心とした大陸的な合理主義に対峙して、広義の意味での経験主義をベースに反論を展開していきます。そういった意味では、本書はラッセルを概観として掴むには十分ではないかと思います。それにラッセルの良いところは、何より平易であることにあります。彼の本の全ての共通点は、できるだけ幅広い読者に分かるように具体的な部分まで細かく説明を施すことにあります。この姿勢こそがノーベル文学賞の受賞理由だと私は個人的に思っております。そして、第14章では「哲学的知識の限界」、第15章では「哲学の価値」を展開しています。本記事では、先に第14章や第15章の中身をさらった上で、核論に入ろうと思います。



まず、哲学を学ぶことによる効能について、ラッセルは以下のように捉えています。
哲学の価値は主にその不確定さそのものに求むべきなのである。世代や地方ごとの習慣的信念や常識から、そして心に浮かんだことを慎重に考えて同意するのではなく鵜呑みにすることから、様々な偏見が生まれる。哲学的素養が全くない人は、一生をこうした偏見にとらわれて過ごす。こういう人にとっては、世界は明確で、有限でわかりきったものになりがちだ。日常の対象に何の問題も見てとらず、馴染みのない可能性を軽蔑的に拒絶する。それに対して、...(中略)哲学を始めるや否や、私たちは最もありふれたものによってすら、はなはだ不十分にしか答えられないような問題へと導かれる。それらが引き起こした疑いに対して、哲学はー正しい答えを確実に知らせられないとしてもー多くの可能性を指摘できる。そうして私たちの思考を広げ、習慣の抑圧から解き放つのである。それゆえ哲学は、「どんなものが存在するか」に関しては確信の度合いを減らしてしまうが、「どんなものが存在しうるか」に関する知識を著しく増大させる。開放的な懐疑の国に旅したことがない人から尊大な独善性を取り除き、見慣れたものにも見慣れない側面があることを示すことで、私たちの驚異の念を生き生きと保つのである。(p.190-191)
なかなか素晴らしい文章だと思いませんか?哲学的思索を一度でも経験した人は、呪いのように、疑義の目をあらゆるものに向けることになる反面、深淵へ近づく可能性を得るのです。哲学というものは、多くの人にとっては馴染みのないもので、何やら宗教がかっているようなものと思われがちですが、本来、もっとポジティブな学問であって、知識をどう生み出し、どう活用していくかを考える上では、ぶちあたる壁なのです。
ラッセルは哲学的観想が最大限に拡張される時、「敵対する二つの陣営ー敵と味方、授けてくれるものと邪魔をするもの、良いものと悪いものーに分けられることなく、全体が公平に見渡される」と述べています。とりわけ、知識を得るーつまり、自我を拡張するときー対象のうちに発見された特徴に自我を寄り添わせてゆくことを意識することで、自我の拡張は初めてなされると言います。これは反転するとわかりやすく、異質のものを認めずに世界が自我に似ていると錯覚するときには、自我は拡張されず、ある種の自己顕示欲となってしまうのです。要するに、自我の拡張ー知識の拡張ーは、自我を破壊しながら、自我の限界を押し拡げる行為なのです。それこそが先の引用の意図することであり、馴染みのあるものが突然別の側面からは全く違うものに見えてくる、ということなのです。
もっと分かりやすく言い換えましょう。ピカソと同時期に活躍したイタリア人の画家、ジョルジョ・モランディという人物をご存知ですか。彼は20世紀美術史では最も重視される画家の一人とされています。もちろん、ラッセルの時代には存在しませんが、彼の美術はある種絶え間ない自我の拡大と言えましょう。ピカソのアバンギャルドな描き方は正に彼の生き方ともリンクしていて、ピカソは若い頃から絵は売れ続け、女性遍歴もものすごかった世界を我が物にしたような人物でした。一方で、モランディが国際的にも認知されるようになったのは、彼が60歳も過ぎた頃で、彼は「孤高の芸術家」と呼ばれ、生涯独身を貫き、妹らと生涯を共にしたそうです。そんな彼の作風は、ピカソのキュビズムとは正反対で、作品のほとんどがビンの静物画なのです。そんな彼の何がすごいのかといえば、同じようなビンと造花の描き方を全ての作品で少しずつ変えているのです。つまり、対象は同じだけれども、その同じ対象に対して、光の当て方や筆のタッチを変えることで、作品としての違いを生み出したのです。ピカソが自分の作風であるキュビズムを押し通したのに対峙して、モランディは常に自分の限界を破壊し、新たな描き方に挑戦していたのです。正に、馴染みのあるものに対して、常に別の側面で見ることを体現した画家と言えましょう。
最後に、彼は哲学の価値に関する議論を以下のようにまとめています。
問いに対して明確な解答を得るために哲学を学ぶのではない。なぜなら、明確な解答は概して、それが正しいということを知りえないようなものだからである。むしろ問いそのものを目的として哲学を学ぶのである。なぜならそれらの問いは、「何がありうるか」に関する考えを押し広げ、知的想像力を豊かにし、多面的な考察から心を閉ざしてしまう独断的な確信を減らすからだ。そして何より、哲学が観想する宇宙の偉大さを通じて、心もまた偉大になり、心にとって最も良いものである宇宙と一つになれるからである。(p.195)
ぜひ、この文章を味わってください。


ジョルジョ・モランディの作品例

1.

Morandi_1

2.
Morandi_4
3.

Morandi_3

4.

Morandi_2

(From: https://bijutsutecho.com/insight/286/)


さて、ここからラッセルの哲学的観想とは何か?という問いへの答えを私なりに展開してみたいと思います。具体例として、引き続きジョルジュ・モランディのビンを使わせていただきます。上にご紹介したモランディの作品群をご覧頂きながら、哲学と絡めてご紹介します。モランディの作品の1と2はかなり似ているのがお分かりかと思います。ビンや水差しなど半分以上が同じものを使用しています。しかし、物体の高さや色合い、影のつけ方、更にはテーブルの境界線の描き方など細部まで見ると、かなり異なる絵だとわかります。これがモランディの世界の面白さでして、色合いの境界線のせめぎ合いや同じ物体でも描き手の目線によって、見え方の違いを明らかにしてくれるのです。これを全くの別の目線で、哲学的に眺めると、モランディの意図として、「物がどのように見えるか」つまり「現象(appearance)」という問いに真正面から向かった作品群であることがわかります。しかし、哲学上の大きな対として、現象はあくまで現象であり、「実在(reality)」つまり「物がどのようであるか」とは異なるという問題があります。もちろん、画家が知りたいのは前者の「現象」でありますが、哲学者や知識人が知りたいのは「実在」であります。
ビンや水差しは、それぞれの「the colour(その色)」をしているはずであり、私たちも当然「the colour」を前提に話しています。しかし、暗闇下や盲人にとっては、「the colour」は異なるはずであり、「実在の(本当の)」色について私たちの普遍の見解とはどこまで統一的に構築できるのかは、即座に怪しいものとなってしまうのです。これは、形、音、温度、匂い、硬さ(こうした感覚によって直接知られるものを、私たちは「センスデータ」と呼ぼう)にしても、同様の問題です。こうしてラッセル流には二つの難しい問題が立ち上がってくるといいます。
  1. そもそも実在の物的対象(物質)はあるか。
  2. もしあるのなら、それはどんな対象でありうるか。
ここでは、「物的対象」というのは、例えば実在のビンであり、現象で知覚されるビンではありません。そして、私たちは「物質」を全ての物的対象をひとくくりにした総体としてのものを考えます。そして、私たちの五感を通して知覚可能なものとは、実在に関するデータについての真理ではなく、センスデータについての真理に過ぎないのです。では、そもそも物質なるものは存在するのか。一つ一つ問いを立て、明らかにしていく、それが哲学の力であり、方法論なのです。


この物質の存在に関して、有益な方法を創造したのがデカルトです。私たちはビンや水差しの物体存在について疑うとしても、その存在の可能性を産んだセンスデータの存在については疑うことがありません。こうした直接経験は絶対的なものだと思われる、この出発点から、デカルトは絶対に疑えないものは自分自身だけであると確信するに至りました。「Cogito, ergo sum(我思うゆえに、我あり)」はこうして創出されたのです。
しかし、ラッセルはその問いをさらに深めます。前提を疑いましょう。そもそも昨日の自分自身と今日の自分自身は同一の人物なのでしょうか。もちろん、普通は疑いなく正しいでしょう。しかし、厳密に極めて確実な言い方をすれば、「私が透明なビンを見ている」のではなく「透明なビンが見られている」というべきなのです。この表現は「私」という主体を含んでいないために、信頼できるセンスデータだけを中心に考えることができるのです。実際、昨日の自分と今日の自分と私の自分が同じであるとは限らず、これは創作の世界ですが、フランツ・カフカの『変身 (新潮文庫) [文庫]』では、突然主人公の布地の販売員であるグレゴール・ザムザは朝起きたら虫になっていたなんてことがあります。もちろん、これは戯画・フィクションでありますが、そうした突然自分の見方や体が変わってしまうということは、ポジティブにもネガティブにもあり得るのです。例えば、わかりやすい例でいえば、交通事故による身体的外傷やストレスによる精神的障害などは本当に突然襲いかかるものです。足を失ったら、突如階段がとてつもない障害物になってしまい、心に傷を受けると、突然外に出るという行為や他者と話すという行為にストレスフルになってしまうのです。
つまり、その当座の経験ーセンスデーターだけが信用に足るものであり、自分とその経験以外のものが存在していることは、ある意味では、決して証明できないと認めざるをえないのです。こうして「センスデータ、例えばテーブルと結びついているとみなされるセンスデータは、実際に私たちから、そして私たちが持つ知覚から独立な何かが存在するしるしになっている(p.34)」ということを信じるのは合理的となるのです。しかし、知覚つまり「知る」というのは一体どういうことなのでしょうか。


「知る」ということには、哲学上、二つの用法が存在します。
  1. 第一の用法では、誤謬と対比される知識に当てはまり、私たちが知ることは真であるという意味で使われ、信念や確信など判断と呼ばれるものに対して適用される。この意味で私たちが知っているのは、何かが成立しているということである。この種の知識は、真理の知識であると言っても良い。(p.54)
  2. 第二の用法では、「知る」という語は、ものに関する知識に適用される。私はその知識を「面識(acquaintance)」と呼ぶことにしたい。この意味で私たちはセンスデータを知るのです(「知る」という語の用法に含まれている区別は、大まかに言って、フランス語での savior と connaítre の、あるいはドイツ語での wissen と kennen の区別に相当する)。(p.54-55)
まず、後者の面識による知識(ものに関する知識)とは、推論過程や真理の知識によって媒介されることなく直接意識しているもの全てに対して適用されます。色、形、硬さ、なめらかさ、温度、匂いなど、簡単に言えば、経験のみに裏打ちされている認識です。
一方、前者の記述による知識(真理の知識)は、例えば、物的対象としてのビンや水差しの知識は直接的とは言えません。物的対象をセンスデータによって記述しようとすれば、「これこれのセンスデータの原因となる物的対象」と言わなければなりません。この媒介を通すことで、ようやく真理の知識は表現可能となります。
この両知識は、つまりは全ての知識が、面識に依存し、面識を基礎とします。したがって、重要なことは、私たちの面識について考察することとなります。この直接的なものの知識ー面識ーは、いわゆる経験主義的な立場からの知識であり、一方、記述による派生的な知識は、合理主義的な立場からの知識と言い得るでしょう。



さて、もっと紹介していきたいと思うのですが、長くなりすぎるので、ここでストップしておきましょう。最後に、私が個人的に最もラッセルの知識に関する認識がまとまっている箇所を例示しておきます。ぜひ、実際に読んでいただき、私のこの読書録の認識と皆さんが読まれた際の認識が合っているか確かめてみてください。
分析していくうちにその姿を現し始めた、私たちの知識の源をざっと見ておこう。はじめに私たちは、ものの知識と真理の知識を区別し、さらにそのそれぞれを直接的な知識と派生的な知識という二種類に分けた。直接的なものの知識を面識といい、さらにこの種の知識が、知られるものが個別か普遍であるかによって二種類に分けられる。個別のうちで面識されるのは、センスデータと(おそらくは)自分自身である。どの普遍が面識によって知られるか、これを決定できる原理は全くなさそうだが、しかし明らかに、感覚可能な性質や時間・空間の関係、類似性、そしてある抽象的な論理的普遍は、そのようにして知られる普遍のなかに含まれる。派生的なものの知識は記述による知識といい、そこには何らかのものとの面識と、真理の知識の両方が常に含まれている。直接的な真理の知識は直感的知識であり、そうして知られる真理は「自明な真理」であると言える。この種の真理としては、感覚に与えられたことをただ述べるだけのもの、ある抽象的な論理学・算術の知識、そして(確実性では劣るとはいえ)幾つかの論理学の命題がある。「派生的な真理の知識」とは、自明な真理から自明な演繹原理を使って論理的に導き出せる、全ての知識である。(p.135-136)
これが第10章時点でのラッセルのまとめであり、さらに、ラッセルは、直感的知識の範囲と本性を検討し、真偽のそれぞれの意味を検討し、最後に「知る」ことの意味、そして「誤謬」の意味を明らかにします。


まあ、こんなことを学んで何になるんだと思うでしょう。そうしたら、またこのブログの初めの方へ戻る、あるいは本書の第14章・第15章へ戻ってください。きっと、「何か」が得られたのだろうと薄明な達成感はあるはずです。それが即座に生活へと生きてくるかは、保証はできませんが。


【オススメの三冊】

怠惰への讃歌 (平凡社ライブラリー)
バートランド ラッセル
平凡社
2009-08-01

(ラッセルの本で読むことをオススメするならこれ。とても読みやすくて、私たちの常識をいい意味で裏切ってくれる本。)


(カント哲学の入門は、本書かなと思っています。でも、難しめです...。)


(ジョルジョ・モランディについては、岡田温司さんの一連の著作が読みやすいのでは。)

 
           
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コメント

 コメント一覧 (2)

    • 1. 高橋昌久
    • 2018年08月29日 20:38
    • はじめまして。ラッセルの「哲学入門」は私も好きです。分かり易いレビューありがとうございます。彼の「西洋哲学史」もおすすめです。ではまた拝読します!
    • 2. 管理人
    • 2018年08月30日 00:32
    • こちらこそ、読んで頂きどうもありがとうございます。「西洋哲学史」ですか、ぜひ読んでみたいと思います。
      高橋様のブログも勝手ながら、拝読させて頂きました。勉強と研究の違い、正に私もそう思います。今後もたまに寄らせて頂きますね。
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