書評問屋

大学生も社会人になってしまいました。経済学に携わりながら、仕事をしています。主に書評を書いています(このブログは個人的な考えのみを書いています)。関心分野は経済学(Econometrics, Bayesian, Macroeconomics, IO, Machine-Learning)、哲学(ポストモダン)、社会・文化、歴史、物理学、小説・随筆などなどです。

とうとう、このブログの書評も100冊に達しました。当初は自分のコミュニケーション能力改善の一環で「書く」ことの表現力の改善くらいの心意気で始めましたが、なんだかんだ、4, 5年程度続きました。「継続は力なり」とは良く言ったもので、最初は本当に貧弱だった書く能力も、人並みには上がってきたと思います。今年度より社会人となりましたから、今までよりは書評を書くペースも遅くなってしまうかもしれませんが、たまに覗いてくださると、私はとても嬉しいです。

さて、そんな(個人的に節目の)100冊目には、前々から書こうと思っていた一冊があります。宇沢弘文の『社会的共通資本 (岩波新書) [新書]』です。


社会的共通資本 (岩波新書)
宇沢 弘文
岩波書店
2000-11-20



本書は私にとって思い出深い一冊であります。少し思い出話をさせてください。
本書を読んだのは2014年の夏頃だったかと思います。私は経済学部に入学しましたが、イマイチ経済学というものの良さが掴めず、むしろ経済学をかなり嫌っていました。というのも、何やら、利潤の最大化だとか、最適化すれば良いだとか、非常に無味乾燥なものに思えました。数式で社会を表現するというのも、まやかしのように思えて、例えば、「合理的個人の仮定」や「代表的個人の仮定」など制約が強すぎて、そんな個人が実態に合うはずがないと、嫌悪感を高めていました。だからか、やたら文学や思想、哲学、社会学などの本を読み漁って、自分の存在意義や理想郷、自分がどうあるべきか等、些細だけど重要なことにとても悩んでいたと思います。
もちろん、今では学部初頭で教えられるシンプルなモデルの重要性も理解しています。しかし、そのシンプルなモデルの先にあるものを見せない限り、人の好奇心はくすぐれないのではないかと思います。高校での教育もそうですが、「私たちの今学んでいることの先に何があるのか?」ということをもっと明示して欲しい、といつも思います。微分・積分を学ぶことで何ができるのか?英文を読めるようになればどれだけ自由になれるのか?私は高校生の頃、そうした疑問を払拭できずに、勉強なんて結局「脳を動かしている快感と他人への優越感」以外に意味はないと即断してしまいました。高校生の頃に勉強や学習の意味を理解させてくれる何かがもっとあったらな、と思いますが、一方でこうした自分の信念の形成には時間を要するもので、困難や挫折を通すことではっきりと実感できるものだとも思うので、私にとっては、学問や自分の存在意義を疑っていた高校生〜大学初頭までの時間はとても大事なものだったとも思っています。
さて、そんな大学生の頃、授業でカール・ポランニーの互酬と再分配の概念に触れて、本書もその流れで行き着いたのだと思います。宇沢弘文の本では、もっとも始めに読んだのは『自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47) [新書]』ですが、本書の方がエッセンスが詰まっている気がします。



では宇沢弘文という人はいったいどういった人なのでしょうか。2014年9月18日に逝去されてしまいましたが、86歳での大往生でした。日本人の中ではもっともノーベル経済学賞に近いと言われるほどに凄まじい業績で、新古典派経済学の二部門成長モデル(Uzawa-Lucas Model)や宇沢の定理(Uzawa's Theorem)など数理経済学的なアプローチによるモデルの定式化や新古典派モデルの動学的安定性・不安定性に対しての大きな貢献があります。ケネス・アローやハーヴィッチを師匠として、自らも36歳の若さでシカゴ大の教授に就任し、スティグリッツ(Joseph E Stiglitz)やアカロフ(George Arthur Akerlof)、キャス(David Cass)、シェル(Karl Shell)など世界的に活躍する錚々たる経済学者を育ててきました。宇沢弘文は40歳の頃に学者人生を左右する決断をし、東京大学に戻ってきました。この日本への帰国を境に、前期宇沢・後期宇沢とも揶揄されますが、大きく方向転換をします。日本に戻ってからは、先の『自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47) [新書]』や『近代経済学の再検討―批判的展望 (岩波新書) [新書]』、『経済学の考え方 (岩波新書) [新書]』などの著書をだし、自らも大きな貢献を重ねた経済学への批判を始めました。さらに、成田空港の建設反対・公害問題への取り組み・教育政策への提言・TPPヘの反対など社会運動家・評論家としての性格が強くなります。こうした自身の取り組みの結実が「社会的共通資本」という概念です。この概念自体の説明は後でしましょう。
また宇沢先生はとにかく大酒豪で、東京大学でゼミをした後は、ゼミの学生を自宅や酒場に呼び、学者のゴシップなどを肴にとにかく誰よりも酒を飲んでいたと言います。正確に言えば、ゼミにすら姿を見せず、先に酒場にいたということが多かったようです(松島斉「宇沢弘文先生とわが大学生時代」[2015])。朝は白いシャツを着てランニングをしながら東京大学の授業にこられていたそうですが、よく遅刻をして、授業も終わりに近くなった頃にやってきて、数式を黒板に書きつけ、誰もわからないまま授業が終わってしまうといったことも多かったと言います。こうしたユーモアに満ちた東京大学教授時代ですが、この東京大学時代にも多くの弟子を育てました。清滝信宏や松島斉などの世界的に活躍する経済学者を育てるとともに、浅子和美、吉川洋、宮川努、石川経夫、岩井克人、小島寛之など学際的な知識人を輩出しました。

宇沢先生の考えには、多くの賛否両論があります。確かに、晩年は感情的な経済学批判をメディアで繰り返すところも見られたようで、弟子から見れば見るに耐えかねないところもあったでしょう。そうしたやや思想的な部分が多かれ少なかれあったにせよ、それもまた一つの魅力だと私は思います。むしろ、学問への熱意の裏には、思想や信念が必要だと私は思います。機械的に何かを処理するような無味乾燥なものではとてもつまらない。私も授業をとっていたときに、FRBでも働いているマクロ経済学者にこう言われたことがあります。「You need to show us a clear statement. What is your belief?」といった類のことを言われました。いわゆる、Research Questionに当たるものですが、「あなたの信念は?それがもっとも重要だ」と。その時、結局、はっきりとしたメッセージを伝えるということは、もっともそういったことに慎重な学者にとってさえ重要であるんだなと感じました。「こうであるはずだから、それを証明したい」という信念が好奇心を弄り、生きる意味を吹き込んでくれるのでしょう。
このことは何も学問に携わるものだけに限りません。社会人として働く上でも、「こうしたい・こうあるべき」だから「こうしなければいけない」という信念こそが大事なのだと思います。そして、そうした体系の土台になるのは、結局、「知識」と「熱意」であり、それらを育むものは「読書」や「議論」しかないのでしょう。




私が宇沢先生のどこに感銘を受けたのか。それは宇沢先生がプロの経済学者であったにも関わらず、結局「人間の心」が価値判断の基準だったところです(宇沢弘文『人間の経済 (新潮新書) [新書]』)。そこに後期宇沢の理由がある気がしますし、人間臭さを感じることができて、宇沢先生の考えがすっと入ってくるところがあります。その「人間の心」を大事にするゆえに、宇沢先生はフリードマンのような金融至上主義やケインジアン的な需要のコントロールをしようという発想に対して、批判的だったのだと思います。そこで宇沢先生が代案として出してきたものが「社会的共通資本」なのです。

社会的共通資本とは、社会の基盤的要素としての社会資本概念を自然にまで拡張したものです(諸富徹[2003]『環境 (思考のフロンティア 第II期) [Kindle版]』,49 頁)。一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、豊かな経済生活を営み、優れた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような自然環境や社会装置であり、社会資本・制度資本・自然資本の三つから構成されます。
社会資本とは社会的インフラストラクチャーを意味し、主として都市を構成する物質的・空間的施設のことです。制度資本とは、社会資本を制度的な側面から支える全ての制度であり、市場自体もまた制度資本とみなされます。自然資本とは、「自然環境全般」を内包し、自然環境は、経済活動と密接な関連をもち、同時に「資本」としての役割を果たすものです。具体例としては、大気・森林・河川・水・土壌などがあげられます。こうした社会的共通資本の概念の画期的な部分は、自然を「ストック」として捉えることで、それに対する環境保全のための政策を「フロー」として区別して分析できる点にあります。
宇沢先生は、このような社会的共通資本を政府が安定的に供給し、国民が最低限度の生活を苦なく送れるようにすべきだと考えていました。この供給の方法も先見的な考えを持っていて、現物給付(教育制度や医療サービスなど)をベースにすべきだと考えていました。例えば、低所得者への施策として、ベーシック・インカムに関しては、毎月定額の給付が国民に支給されることの結果も含めて考えるべきだと述べていました。どういうことかといえば、いわゆる生活必需品は「需要の価格弾力性が低い」、つまり生活必需品であるから価格が上がっても購買量は大きく変化しないということです。ですから、ベーシック・インカムは財の供給スケジュールが変更されると、価格が上がってしまい、生活を保障できなくなる危険性があるといいます。そこで、宇沢先生は代わりに、食料供給などを行うべきであると考えていたようです。
宇沢先生は社会的共通資本は市場の価格メカニズムから乖離された状態で、政府がコントロールすべきと考えていたのです。これは微妙にケインジアンの需要のコントロールとは異なる概念です。ケインジアン的には価格のコントロールも加味されていたのに対して、社会的共通資本は価格に関しては含んでいない概念です。宇沢先生は補完的な生活の最低限の保障があることで、市場メカニズムも機能すると考えていた節があります。
そして、宇沢先生はそうした社会的共通資本の基盤には、社会的な分断が起こることを恐れていたように思えます。それが公害問題への反発や成田空港建設反対運動などだったのだと思います。社会資本・制度資本・自然資本のどれも誰かが逸脱して、その資本を傷つけてしまうと、維持には大変な労力がかかります。そのためには国民の誰もがそこに価値を見出している必要があります。ここに「人間の心」に宇沢先生の考えが依拠していた事実がありますし、そうした脆さがあります。




さて、今は人間の「心」や「信念」、「信頼」などが揺らぎやすい時代になってきています。それは私たちの行動範囲が広がったことで、可能性の拡大とともに現れた副作用なのだと思います。私自身、専門的になりすぎることがあるので、それをたまには和らげ、広い視野を持つことが大事だなと思わされることがあります。本書はそうした意味で、私たちの心を深く、優しいものにさせてくれる書物だと私は信じています。宇沢先生の人生や考えを知った上で、本書を読むと、経済学に止まらない大きな体系をそこに見出せるのではないでしょうか。
そして、先の松島先生の回顧録に同僚の市村先生や澤田先生の言葉が乗っているので、最後にぜひ紹介させてください。この言葉を重要だと考える松島先生にも宇沢先生の教えが流れているのだなと思います。
私たちは当然のように「生きる」ことに価値を見出す。しかし、アフリカではそうではないのかもしれない。生きることに我々ほどの希望をもっていないので、死に至る病を予防しようとしないのか。もしそうなら、だからといって、それはよくないことだと教育していいものなのか。

私は宇沢先生を通じて、「環境」という曖昧で人の心や価値観が如実に現れる分野に足を踏み入れました。個人的に、経済学の面白さは、ここにあります。「資源が限られている中で、人の価値観や信念の捉え方や人のより良い選択を研究する学問」が、経済学です(cf. Joseph E Stiglitz[2012], Nikolas G Mankiw[2014], AEA[2018])。経済学って結構面白いんです。


【オススメの3冊】

[新訳]大転換
カール・ポラニー
東洋経済新報社
2009-06-19

(私が当時大きく感銘を受けたもうひとつの本。市場に含まれない経済的な営みがそこにはあります。)


(もっと原始的な経済とはなんだろうか?価値とは何か?そういったことを考えるには中沢新一の著作はきっとオススメ。)


(諸富先生は租税や環境の研究者。宇沢先生の弟子ではないけど、考えはもっとも似ているのではないかと思います。)
 
           
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コメント

 コメント一覧 (2)

    • 1. 滝川寛之
    • 2018年07月15日 00:48
    • 3 記事おもしろかったです。
    • 2. 管理人
    • 2018年07月15日 22:40
    • 滝川様、記事を読んでくださり、ありがとうございます。
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