書評問屋

大学生も社会人になってしまいました。経済学に携わりながら、仕事をしています。主に書評を書いています(このブログは個人的な考えのみを書いています)。関心分野は経済学(Econometrics, Bayesian, Macroeconomics, IO, Machine-Learning)、哲学(ポストモダン)、社会・文化、歴史、物理学、小説・随筆などなどです。

かなり間が空いてしまいました。色々と環境が変わり、忙しさも合間って、中々本を読む時間を捻出できずにいました。ということで久々の書評になります。今回は前回に引き続き、経済学の本を取り上げたいと思います。世間的には少し前に流行ったということになるのでしょうが、行動経済学の中でもナッジというのが一時期話題になりました。ナッジ(Nudge)は「肘で小突く」という意味の英語ですが、ちょっと小突いてやって、人々の行動変容を促すという手段です。日本では最近実務でも取り入れられ始めているというところだと思いますが、欧米では政策や企業のマーケティングなどに幅広く取り入れられています。
例えば、滞納対策では、イギリスのBIT(Behaviourla Insight Team)が有名です。滞納者への督促状に「あなたが住んでいる地域のほとんどの住人は期限内に納税を済ませています」と明記したところ、納税率が68%から83%に上昇し、3000万ポンドの税金の回収に成功しています。人々の購買行動については、New Mexico State UniversityのCollin R. Payneらの実験で、スーパーマーケットのカートの半分をテープで区切り、テープの向こう側に果物と野菜を入れるように、そしてこちら側にその他の商品を入れるように、目印をつけてみたところ、果物と野菜の購入数が倍以上になったと言います。他にも、彼らの新しい調査では、スーパーマーケットの床に野菜や果物コーナーに向かう緑色の矢印を貼ることで、トータルの購買金額を増やさずに、購買者の野菜や果物の購入割合を増やせると言います(Journal of Nutrition Education and Behaviour, Collin R. Payne et al, 2016)。

一方で、ナッジに対して、私たちの行動が操られているようで気持ち悪いという意見があったり、国の政策として行う場合には、正当性が欠けているという指摘があるのも事実で、最もです。前述の例では、滞納は国民の義務違反ですし、スーパーマーケットについてはパイロット実験かつ国民の健康改善という良さそうな行動変容ではあります。とはいえ、ダイエットや食生活改善は、あくまで本人の意思に基づくものであって、強制できるようなものではありません。肥満も本人の望んだ食生活の結果と言えてしまいます。そうしたところから、行動経済学の大家である Richard H. Thaler and Cass R. Sunstein (2003, AEA Papers and Proceeding)も、Libertalian Paternalism(自由父権主義)と称しています。つまり、選択の自由はあるものの、人々の厚生を改善する方向に公私それぞれの機関が力を行使することを許容する主義ということです。これには賛否両論あるでしょう。人々の厚生とは国民全体でコンセンサスの取れるものなのか、国の権力で何をされるかわかったものじゃない、企業に思うがままに買わされているんじゃないか、など色んな意見があり得ると思います。こうして簡単に行動変容することを以ってして「人間は非合理だ」と叫ぶ方々がいますが、人間には合理的な部分と非合理的な部分があるという認識の方が全うだと思われます。いわゆる、顕示選好的(Revealed Preference)にある程度合理的に捉えられる部分もある一方で、不確かな選好もあるということなのでしょう。






前置きが相変わらず長いですが、本書は医療現場つまり医療従事者と患者における様々なバイアスとその対処法としての行動経済学についての本です。一般的に、疾病には薬という対処法がありますが、ガンや精神病、終末期医療などは正解が定まっていないので、どう言った治療をするか、そもそも病気に掛かっていることに気づかせるためにどうするか、と言ったことに対して、課題が数多くあります。医療では医療者と患者のコミュニケーションにおいて、患者の自由意志に任せるInformed Concentという原則がありましたが、最近は患者が独力で十分合理的な意思決定ができるとは限らないため、Shared Decision Makingという原則を敷くようになってきています。患者の意思決定に医療者も深く関わっていくということです。Shared Decision Makingを十分に行うためには、患者の持つバイアスそして提示の仕方による歪み、医療者自身のバイアスに対しての理解を深める必要があります。ここで、行動経済学の蓄積してきた体系化された知見が役に立つということなのです。


まず、実際の治療に入る前に、予防医療の観点からも自分自身の健康状況について把握してもらう必要があります。そこにHealthyな食生活をしてもらうというのもありますが(この文脈で欧米ではSugar-TaxなどのSin-Taxの議論が最近growingしています)、本書では例えばガン検診(第5章・第6章)が取り上げられています。八王子市の取り組みが例として挙げられていますが、地方自治体では市民の健康そして財政の面からも予防医療の推進が課題の一つになっています。特に、大腸ガンはガン死亡率で総合2位、女性で1位という死因になりやすいガンでありながら、早期に発見すれば完治の見込める、ガン検診の有効性の高いガンです。日本での大腸ガン検診率は41.5%と低く、厚労省の計画で目標とされている50%に届いていないのが現状です。なお、ガン検診は一般的に低所得者層と高所得者層での検診率が低いとされています。高所得者層は人間ドックなどで検査していると考えられ、低所得者層は情報が渡っていないあるいは面倒くさがって検診にきてもらえていないことが考えられています。そこで、どうやって検診にきてもらうかという課題があります。自治体の多くは郵便物などで検診へ誘引をはかることが考えられます。この郵便物に対して工夫をしようというところで、行動経済学の出番です。認知におけるバイアストして、利得と損失の参照点が異なるというのがあります。一般的に損失の方が利得よりも過大に評価されやすいため、行動に結びつきやすいとされています。このバイアスを利用した行動変容が、「フレーミング効果」と呼ばれているものです。

別の事例として、終末期医療があります。これには遺族の持つバイアスも関係してきます。「もし、あの時、〜しておけばよかった」と患者の後悔を引き起こさないようには、どうすれば良いのか。一般的に後悔には三種類あるといいます。
  • 選択結果に関する後悔(治療をやめるという選択に対する後悔)
  • 選択肢に関する後悔(治療に関して選択をしなかったことに対する後悔)
  • 選択過程に関する後悔(より早く選択をしなかったことに対する後悔)
こうした後悔に対して、何を後悔や損失とみなすかという認知的なプロセスが存在します。それを「Mental Accounting(心理会計)」といいます(第7章)。人は同じ金銭であっても、その入手方法や使徒に応じて、時に無意識に重要度を分類し、扱いを変えているのです。医療者としては、そうした遺族の陥る後悔に対して、それが最善であったと保証していくことが理想です。そのためには、早めの情報提供による細やかな意思決定そして一方で長期的な目標設定(延命することが大事なのか、最期は家族で過ごすことが大事なのかなど)を予めしておくこと、などにより納得のいく決断を引き出すことが大事になってきます。

こうした終末期医療においては、医療従事者のバイアスも働いてしまいます。いわゆる自殺幇助は罪に問われます。しかし、医療行為において安楽死に近い希望をどう判断すべきかは非常に悩ましいところです。例えば、人工呼吸管理を中止するという行為が本書では挙げられています(第10章)。遺族は人工呼吸管理の中止を望んでいる一方、医療者は中止はできないと判断します。過去に生命維持治療を中止した結果、担当医師が警察の介入を受け送検されたケースが存在し、ニュースでセンセーショナルに扱われてしまい、医師が生命維持治療に対して及び腰になってしまっているという現状があります。この送検されたケースではいずれも不起訴に終わっていますが、中止というリスクのある判断をすることに躊躇するのは自然なことでしょう。その結果、「現状維持バイアス」がかかり、中止という追加的な選択はしづらくなったり、「保有効果」によって既に開始している生命維持治療を手放しづらくなっていたり、「不作為バイアス」によって医療者の選択が大きな影響を与えてしまうという怖さがあるのは事実です。本書ではガイドラインの有効活用を唱えています。


ちなみに、日本の医師会や各医療系学会には様々なガイドラインがあります。例えば、日本循環器学会は実に55ものガイドラインが存在します。心不全や冠動脈疾患など疾病そのものに対してから心疾患者への災害対応・妊娠時の対応など多岐に渡ります。これらのガイドラインは比較的高頻度で改定されています(日本循環器学会のガイドラインはこちら)。

こうしたガイドラインが本当に効果があるのか、気になる方々もいるかと思います。これはまだ論文化されていないようですが、以前私がセミナーで拝聴したものでは、ガイドラインと全く同じではありませんが、中南米のとある都市で、心筋梗塞患者への病院の手続き(logistics)に対して行政による指針を定めたところ、心筋梗塞の生存率が、Difference-in-Differenceという手法を用いて検証したところ、有意に上昇したことが確かめられたそうです。もちろん、そのガイドラインは法的根拠のあるものではないでしょうし、かつガイドラインに従うか従わないかというのは男女に明確に差がある(本書第12章)など、医師間にバラつきがあるので(医療機関毎よりも医師間の方がバラつきがあるそうです)、Heterogeneityには留意しなければいけませんが、一定の有効性があると考えてよいでしょう。


最後に総括すると、本書は医療と行動経済学のクロスロードに位置する著作です。医学はRCT(Randomized Controlled Trial)や統計的なバイアスへの配慮などに対して、先駆けて研究の進んできた分野でもあります。しかし、日本では疫学の専門家が少ないなど、社会と医療の接触点での課題認識や研究が進んできませんでした。本書はそうした課題を洗ってくれる良い著作です。医療従事者もそしてお医者さんにお世話になりうる皆さんも、是非手にとってみてください。


【オススメの三冊】


(行動経済学の理論について。欲望つまりLove Economicsなどもカバーされています。)


(本書の第12章でも出てくる津川友介さんの著作です。私もこちらで書評を書いています。)

実践 行動経済学
リチャード・セイラー
日経BP
2009-07-09

(本書でも度々出てくるリチャード・セイラーによる行動経済学の手引書です。)

 
           
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