ナナシは目覚めてからもなかなか起き上がれず、
さらに数日間、ソファの上で寝たきりの生活を送っていた。
「すいませんス…どうも力が入らなくって…」
見舞いに寄ってくれた行商人に、ナナシはふやけたような笑みを見せる。
「いいよいいよ、そのまま寝てたらいいから。」
行商人はそう言うと、一瞬ナナシの姿をじっと見つめ、
それから、紙袋一杯に入った菓子を彼の脇に置く。
「はやく良くなってくれよ、元気な姿見れないと寂しいからな。」
「ぁ…ありがとうっス。」
ナナシが小さなお辞儀を返すと、行商人は微笑んで席に戻って行った。
ここのところ、やたらと菓子や食べ物の土産が多く、
ナナシは嬉しい反面、なぜそうなのだろうと不思議に思っていた。
もちろん彼は気づいていなかったのだが、彼を見たものは皆、
次に訪れるときには必ず、何かしら食べる物を手に現れるのだ。
そして、ミキが作る料理もまた、
何故か栄養価の高そうなものが多かった。
「力つけないとね〜。」
そう言いながら、食べやすく調理された肉の煮込みや、
豆を主体にした野菜の料理などを運んでくる彼女。
さらに不思議なのは、それらを幾らでも吸収してしまう様な、
今の現状の、自分の身体そのものだった。
そんな不思議の理由も、ナナシはさらに数日後、知る事になる。
ようやく立ち上がれるようになり、ふらつきながらも歩き出したある日、
ナナシは久しぶりに湯を浴びようとして浴室に行き、そこで初めて、
彼は鏡に映った自分の姿を見た。
「な…なんスかこれぇぇぇぇ!?」
全身鏡に移された自分自身を指差し、突然腰を抜かすナナシ。
駆けつけたミキが、ナナシのショックぶりに苦笑し、彼に言った。
「見ちゃったのね…。
それが今のあんたの姿なのよ。」
「これが…オレ…!!??」
ギブスで固定された左半身を持ち上げるように身体を起こすと、
ナナシはもう一度、まじまじと鏡を覗き込む。
「ガリガリじゃないっスか…」
信じられない、という表情で、呆然と鏡を見つめるナナシに、
ミキは手を差し伸べて彼を助け、立ち上がらせた。
「そりゃあね、あんた自分の体をあの狼に分けてあげちゃったんだし、
実際の肉体を持ってかれたわけだから、痩せてもしょうがないわね。」
「確かに…なんか色々吸い取られた感じはあったっスけど…」
ミキに言われて、ナナシは自分の頬を摩ってみた。
もともとそれほど肉のついていない頬が、すっかり窪んでいる。
ミキも、ナナシを支えて改めて、ナナシの状態を認識した。
女一人の力でも支えきれるほどに、ナナシは軽くなっており、
頬だけでなく、全身、哀れなほどに痩せこけてしまっている。
「ほんと、これじゃあ起き上がれないわけよね。」
ミキが言うと、ナナシも驚いた表情のまま、何度も頷いた。
「オレ、こんなになってたんだ…」
ナナシはピリカ・クンネチュプと交わったときの事を思い出した。
あの時に、一瞬感じた自分の消滅感、身体から精力が奪われ、
それとともに自分自身が何かに取り込まれていく感覚を思い出し、
ナナシは思わず全身の血の気が引くのを感じた。
「何か、思い出しちゃった?」
自分を支えるミキの視線に気づき、ナナシは彼女から目を反らせた。
自分の意思とは無関係に、確かにあの時一瞬、
彼女はナナシとの交わりの中で、彼自身に手を出していた。
必死に堪えながらも、後もう少しで果ててしまいそうだった自分に、
ナナシはミキに対して、少々ばつが悪そうな顔を見せる。
「どうしたの?大丈夫?」
ミキにそう尋ねられ、ナナシは慌てて彼女に謝った。
「なによ、変な子。」
苦笑しながら、ミキはナナシに言った。
「あんたは、あの狼を助けたかった。
狼が結果的に暴走してあんたに何をしたのかは解らないけど、
あんたは良く頑張ったんだと、あたしは思うわよ。
まあちょっとばかり…心配したけど。」
彼女が言うには、一瞬、ナナシの身体が崩れたように、
そのまま彼女の中に吸い込まれていきそうな姿が見えたという。
恐らく、後もう自身を保って堪えていられなかったら、
もしかするとナナシは、ピリカ・クンネチュプに完全に取り込まれ、
その存在を失っていたのかもしれない。
そう考えたとき、ナナシは眩暈を感じてふらついてしまい、
そのままミキの腕の中に倒れこんでしまった。
考えたくも無い"その後"を想像しただけで、十分恐ろしかった。
「そうね…あんたが一番、怖かったわよね。」
ナナシを支えて膝をおとしたミキが、彼の頭を抱え込んで、言った。
コーヒーと、薬草のまじったミキの香りが、ナナシの鼻をくすぐり、
ナナシはすっと気分が楽になるのを感じた。
やわらかく、暖かい彼女の感触が、思い出してくる別の記憶を和らげ、
不安な気分を鎮めてくれる。
「なにそれ、甘えてるの?」
すっかり自分の膝に落ち着いてしまったナナシに、
ミキは少し困りながらも、微笑んだ。
「しょうがない子ね。」
優しくナナシの頭をなでながら、ミキは囁いた。
「診察の時間よ!」
不機嫌そうなハルコの声が、店内に響いた。
彼女はソファに横になっているナナシのところまで来ると、
やはり軽々と彼の身を起こし、彼の身を拘束しているギブスを外す。
「起きたみたいだから悪いけど、痛いわよ。」
彼女はそう言って、ナナシの怪我の処置を始めた。
痩せてしまっていた分、怪我の具合も見た目が著しく、
かみ砕かれたその肩の部分は、痛々しく腫れたままだった。
牙の痕は不思議な事に、穴が埋められたようになっていたが、
ハルコはそれを喜びもせず、無言でその傷に麻酔を打つ。
「痛い!!痛い痛い!!!」
「当たり前でしょう、あんたここグシャグシャになってたのよ?
痛くなかったら、それはね、ここが死んじゃってるってことなんだから。」
縫製された肩の傷痕に、ぐりぐりと消毒用のガーゼを当てられ、
ナナシは子犬のような泣き声をあげて訴えた。
「まったく、こんな特殊な身体してるから、無茶ばかりするのかね?
本当にしょうのない駄目犬だよっ!」
涙目で自分に訴えるナナシに、ハルコは複雑な表情で言った。
それは、怒りとは少し違う、心配を含んだ強い気持ちの表れであり、
ナナシはもう殆ど覚えていないような昔、誰かがそんな表情で、
自分を叱ってくれていたのを思い出した。
「毎度毎度、あんたが病院に来るたび、あんたの事で呼び出される度、
どんなひどい事になってるのかと心配してしまう私の身にもなりなさい。」
ナナシの身を固定する、少し固めの布をバッグから取り出しながら、
ハルコはじろり、とナナシを見た。
ミキからも同じ事を言われた気がするが、やはり響きは少し違う。
この言葉の響きは、そう、もっと懐かしい…
「いいいいっ・・・・!!!」
思考の途中で肩に触れられ、ナナシはまた声を上げた。
「男なんだから我慢しなさいっ!」
「はいィっ…!!でも…痛いッ!!!」
「終わったら痛み止め上げるから!」
「はゅっ…!」
どうにも逆らい様の無いハルコの声に、ナナシは奥歯を噛んだ。
「そうそう、それから、こんな痛い思いをしたくなかったら、
無茶も程ほどにしておかないと、知らないわよ本当に!」
ハルコにきつい一言を付け加えられ、ナナシは何度も頷いた。
なんだかんだと言いながら、ナナシに必要以上に痛みを与えないよう、
ハルコは速やかに、できるだけ慎重に、処置を済ませてゆく。
そしてそれが全て済むと、ハルコは約束どおり、
ナナシがしばらく痛みを感じないでいいよう、彼に痛み止めを与えた。
「それから、あの狼のことだけど。」
後片付けを終えた後、ハルコはナナシの隣に腰を降ろして言った。
その目にじっと見つめられ、ナナシはまたびくり、と身体を震わせた。
「あんたの子供、作って行ったみたいだから、教えとくわね。」
一瞬、店内にいた事情を知る者たちの目が、驚愕の色に染まった。
「え…?」
その言葉に、凍りつくナナシ。
「だから、あんたがその身体になってる理由よ。
あんたあの狼に色々提供したんでしょう?身体とか、遺伝情報とか。」
ハルコは口調こそ静かになっていたが、やはりどこか不機嫌そうだった。
「あいつ、それでちゃっかりあんたの子供作って、もって帰ったから。
だからまあ、文句なりなんなり言いたくなったら、言ってもいいからね。」
彼女はそう言うと、手にしていたコーヒーを飲み、一息つく。
それからまた、彼女は自分を鋭い目で見つめる、
彼らの視線に気づき、「何よ?」と不機嫌そうに言った。
「こういうの、私嫌いなのよ。
相手はナナシから大切なものをかなり取り上げて行ったんだし、
それはナナシが知る権利のある事だと思うのよ。
それを秘密にしておけなんて、そんな理屈ないでしょう?」
ハルコはそう言って、ナナシを見た。
「そんな事言っても…ナナシの気持ちとか…!」
「言っておくけど、あの狼は、そんな事考えちゃいないわよ。
アレが考えてるのは、自分の後継者を育てる事だけ。
ナナシの気持ちなんてところまでは、考えちゃあいないわよ。」
ラオの抗議に、ハルコはすっぱりと言い返す。
「だからって、今それをいう事無いでしょう・・・」
アキラがそう言うと、ハルコはまたそれに対していい返して、言った。
「今じゃなきゃいつ言うの?ナナシが後でこの話を知っても、
多分この子は余計に落ち込むだろうし、私たちがそれを知ってた事も、
多分この子にとっては大きなショックになるに違いないわよ。」
「う…。」
アキラの反論に答えられなくなり、アキラも黙り込む。
「だからね、ナナシ。
あたしは不機嫌なの、突然あんな場所に付き合わされた上、
大事な子供みたいな、あんたをこんな姿にされて。」
ハルコはそう言うと、呆然としているナナシに言った。
「皆もあんたの事を思って黙っていたようだけど、
私もあんたの事を思って、言うわよ。
あんたの命を分け与えて、あの狼は子供を作り出した。
普通の生命の営みとは違う方法であっても、子供は子供、
あんたの命を分けた子供なの。
だから、会いに行きたくなったら、会いに行きなさい。」
ナナシがハルコのほうに顔を向けた。
「狼の理屈は狼の理屈、ましてや相手は科学遺産の産物。
あんたは、心と血の通う人間なんだから、人の理屈を持てばいい。
自分の血肉を分けた存在があるならば、大切にしたいでしょう?
それを秘密にされる理由なんてないし、そんな道理も無いわ。」
ハルコはナナシの痩せた頬を両手で触れると、なでた。
ナナシはどう言葉を返し、何を皆に話せばいいか解らなかったが、
誰を責めるべきでも無いし、そんな言葉はまず浮かばなかった。
「結局、あの狼も、事をつきつめればナナシの力に惹かれたって所か。」
店の端のほうで、ゼロがぼそりと呟いた。
「どういう意味です?」
書類の束をひろげていたウルが顔を挙げ、彼に尋ねる。
「狼が言っていた。
ナナシは、この世界そのものの生命と繋がる存在なのだと。
だからあいつは、必然的に全てに優しくなろうとするし、
周りの色々な存在は、あいつの存在自身に惹かれてやってくるとな。
もともとの在り方は違ったのかもしれないが、
ミドガルも、俺たちも、あの狼も、今はナナシのあの存在に惹かれて、
あいつの存在の何かに反応している。」
ゼロがそう答えると、ウルは書類から手を離し、ナナシを見た。
「なるほど、なにか人とは違う物を感じていましたが…
確かに、彼の事を我が物にしたい人間と、その力を利用したい存在、
そして、あなたのように無性に彼を大事にしようとする存在…
種類は様々ですが、彼の周りにはいつも必ず何かがいますね。
それに、今回のようなケース、完全に近い細胞再生技術や、
擬似生命体にそれを応用した人工生命体の誕生など…
本来私たち科学者の見地からして、信じられない様な出来事もある。
色々と興味深い存在ですね、彼は。」
「言っておくが、手を出したりしないでくれよ。」
ウルが珍しく見せる興味に、ゼロは釘を刺すように、彼に言った。
彼のその反応に、ウルはまた興味深そうに、ゼロの事をも見る。
「解っています、遺産の守護者を敵に廻すのは、
賢人といえども愚かな事ですからね。」
「自分たちで作っておいて、よく言うぜ。」
ウルに再度釘を刺すと、ゼロ席を立ち、ナナシの所へ歩いて行った。
ウルはそれを見送ると、再び書類に目を落としながら、呟く。
「いいのです、私は、あなたがきちんと役目を果たしてくれれば。
その上で、彼はあなたへの安定剤になってくれるようですから…
私はあなたのために、彼を大切にしますよ。」
「ナナシ、どうだ?調子は。」
ナナシの前に腰を下ろして、ゼロが言った。
「ん…あんまり大丈夫じゃない。」
「そうか。」
驚くほど素直に答えるナナシに少々驚きながら、ゼロは微笑んだ。
「聞いてる、ゼロがピリカ・クンネチュプを鎮めてくれたから、
オレはなんとか取り込まれずに済んだんだって。」
ナナシは顔を上げて、ゼロに言った。
「助かったよ、有難う。」
「気にすんな、お前が無事ならそれでいいんだ。」
ナナシの頭をなでながら、ゼロはナナシに言った。
ハルコは次の診察のために帰ってしまい、
皆どこか複雑な心境で、ナナシにかける言葉を捜していたが、
やがてナナシのほうが皆に声をかけ、心配させてしまった事を謝り、
それから、自分の事を考えてくれていた事に対して、感謝を述べた。
その後、彼は鎮痛剤が効いてきたのか、
ゼロを枕にして眠ってしまった。
結局何の言葉もかけられないまま、彼らはただ、
眠るナナシのことを見守っていた。
枕の感触がいつのまにか変わっていた事にナナシが気づいたのは、
それからしばらくたってからの事だった。
鎮痛剤の効果は薄れてきており、若干の痛みを感じながら、目を開く。
じんわりとした暖かみのあった友人の膝が、
いつのまにか、大好きな香りのする、柔らかなものに変わっていた。
そして、自分を覗き込む顔もまた、より好感的なものに。
「気分、どう?」
いい香りの漂うカップを片手に、ミキがナナシを見下ろしていた。
「うん…痛いっス。」
どこかぼんやりとしている意識のまま、ナナシは答えた。
「でも、気持ちはいいかも。」
彼はそう言って、ミキの身体に自分の頬をおしつけ、
自分を撫でるミキの優しい手つきに、目を細めた。
互いにしばらく、何も言わずにいた。
アルマとゼロは買出しに出かけており、客もおらず、
静かな店内に、ライトの灯りが揺れる影と、電気器具の音だけが響く。
「あのね…大丈夫よ、ナナシ。」
ふと、ミキがナナシに言った。
何事かとナナシが目を開け、自分の頬を抱くミキを見上げる。
その目に見つめられ、ミキがぼそりと言葉を細くした。
「その…子供が欲しいなら…あたしが産んであげるから。」
「…へ?」
一瞬の間がそこに、ずしりと重くのしかかった。
「いや、だからね!あたしはほら、あんたの人生に付き合うって言ったし、
もしあんたが…その、子供とか家族が欲しいとか思ってて…
あんたみたいな狼男のお嫁さんになってくれるひとがいないなら…
って話よ?そういう事だけよ?」
突然ミキが慌てながら、ナナシにあれこれといい始める。
しかし、ミキは自分の手がにわかに濡れ始めたのを見て、我に返った。
それは悲しかったのか、それとも嬉しかったのか。
自由な方の手で顔を覆い隠しながら、ナナシはしばらく、
ミキの腕の中でじっと何かを堪えていた。
「ミキさんは、見たの?赤ちゃん。」
少ししてから、ナナシはミキに尋ねた。
ミキは思い出しながら、彼に頷いた。
「どうだったスか?」
再び尋ねられ、ミキはまた、あの狼が抱いていた子の事を思い返した。
「あんたが、この間なったじゃない。」
「うん…?」
「アレにそっくりだった、可愛かったわよ。」
「そっかぁ…」
ナナシはそれを聞いて、複雑そうな笑みを見せた。
「見たかったな、オレも。」
ナナシのその言葉には、彼がピリカ・クンネチュプの意思を尊重し、
彼女が秘密にしようとしたその事を受け入れる含みがあった。
ミキはそれに対しては何も答えず、ただ一度ナナシに微笑み、
そのまましばらく、彼を抱いたまま慰めていた。
次の日には、ナナシはすっかり元気な表情をとりもどしていた。
恐る恐る入ってくる常連にソファの上から声をかけ、笑顔をみせては、
土産に貰った菓子を彼らにお裾分けしたり、話しかけたりするのだった。
そんなナナシの様子を見て、皆ようやく、安心していた。
丁度その頃から、一部の常連は、ある変化に気づいた。
ナナシとミキの微妙な距離感が、変わってきていたのだ。
そして、ナナシを狙うミドガルの中でも変化が起こっていた。
その件に関するニュースもその日、報道されていたのだが、
ソファの上で見舞い客達に囲まれていたナナシは、それを知らず、
その重要な変化に気づかずに過ごしてしまう。
緩やかに過ぎていく日々の中で今、
世界は重大な危機を迎えようとしていた。