心の貧しい者こそ幸福です

人には様々な生き方があると思いますが、共通して言えることは、すべての人は幸福を求めて生きていることだと思います。ほんとうに幸福な人とはどういう人なのでしょうか。

人は、有名になったり、お金持ちになったりして、表面的には、幸福そうに見える人でもその実、悲惨な中にいることは十分考えられることです。

また、直面する困難や問題を解決し、人に幸福をもたらすとうたっている、御利益宗教のようなものは、一時的には幸福感をもたらしても、根本的には人を、本当に幸福にしていない。うまい話は決して人を幸福にしない。

 

さて、イエス・キリストは、このマタイ5章~7章の「山上の説教」と言われて箇所ではっきりと、人が本当に幸福になりたいなら、ここにこそ、人の本当の幸福が有ると言っているのです。また、これは、天国の市民とはこういう人だと、イエスが、語ってくださった箇所です。

 

特に、このマタイ5章1-12節には、「幸いです=幸福です」と言うことばが、9回繰り返されて出てきます。ここに9回出てきます「幸いである」(ギリシャ語言原語・マカリオイ)とう語は、原文では、文章の最初に来ている感嘆詞、でありまして、「幸いだ!」という感嘆のことばです。

文語訳聖書では、「幸いなるかな、心の貧しい者。」というふうに、原語の響きを忠実に伝えています。さて、この「幸いだ」(マカリオイ)という言葉は、「外側から乱されることのない、内側からわき上がる喜び」、「人生の偶然の出来事や、変化に影響されることのない喜びをもつ幸福」を意味する言葉です。

 

英語で幸福を、Happiness と言いますが、その語幹は、HappeningHapで、「偶然、まぐれ、運」、を意味しています。つまり、英語のことばから言えることは、人の幸福とは、人生の運や偶然に、左右されるものだ、という考えがあることが解ります。

 

この世にも喜びがあり、幸福があります。しかし、この世の喜びや幸福HappinessHappeningの要素が強いのです。そして、それは過ぎ去っていくものです。運が去ってしまった、事業が失敗した、計画が失敗した、時勢が変わった時、この世の喜びはたちんまち消えてしまう、ということがあるのではないでしょうか。

 

しかし、イエス・キリストが言われている幸福は、イエス・キリストが与える幸福は、

事業が失敗した、計画が失敗した、時勢が変わった時でも、何をもっても、その内面の幸福を乱されないものであるということです。イエス様は「その喜びをあなたがたから奪いさる者はありません。」(ヨハネ1622と言いました。イエス様が語った、この幸福は、たとえ苦痛の中に、置かれたとしても、心に満ちる喜びであり、痛み、損失、悲しみ、嘆きも消すことが出来ない、喜びと幸福なのです。

 

さて、今日は、その幸福の第1と第2の使信、

53節の「心の貧しい者の幸福」4節、「悲しむ者の幸福」を学んでみたいと思います。

マタイ5: 3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

マタイ 5: 4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。

この言葉は、両方とも意外な言葉です。

 

マタイ5: 3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

心の貧しい者は幸福だ!とは、意外な言葉だと思います。普通、人は、貧しい者は不幸だと言います。しかし、イエス様は、心の貧しい者は幸福だ、と言うのです。

 

ここで、この「貧しい」と言う語は、「うずくまる」とか「ちじこまる」という意味を持つことばで、人を委縮させてしまうような貧しさ、を意味する言葉です。イエスは、立ち上がれないほどに貧困に打ちのめされた人、その人こそ幸いであるというのです。

 

すなわち、今、欠乏と困窮の中に生きている人、あるいは、悩みの中、試みの中にある人、飢餓に苦しむ人、その自分の貧しさを知っている人が、「心の貧しい人」だとイエス様は言われているのです。

 

つまり、イエス様が言う、「心の貧しい人」の意味するところは、生きていくための力、資源が自分の中には全くないことを自分で知っている人、認めている人で、そのために、生きるための必要な助けと力を、ただ神に求める人のことを言っているのです。

 

すなわち、自分が全く無力であり、無知であり、人生を生きるのに、自分には限界が有ることを知って、ただ、ひたすら神により頼む人のことです。

 

しかし、この世は、こういう人を嫌います。この世は、こういう人を賢くない人、として見ています。この世は、自己信頼、自己確信、自己表現への信奉を強調しています。出世したいなら、自分自身に自信を持ちなさいと言います。良いセールスマンであることは、自信と確信に満ちている印象を客に与えることであると。この世は、自分を表現する、自分を信頼する、自分に生まれつき備わっている力を自覚し、信じなさい、と言います。そして、それらを世に見せ、知らせることである、と言いますこれは「ヒューマニズム」とも言いますが、ヒューマニズムの落とし穴は、神を否定する考えであり、宗教も人間が作りだした文化と考えることです。ヒューマニズムは、人間中心の考え方です。人間の上に神はいないのです。

 

つまり、人間は自分を幸福にする力を、自分が持っていると言うのです。また、神を信じるなどと言うことは弱い人間のすることだ、人間は自分の力で生きていける、と言います。

そしてこれが、高い教育と知識、高学歴、お金持ちになることが、人を救い、人を立派にし、幸福にするはずだと言う主張になります。金持ちだけが、世界の貧しい人たちを助けられる=これが救いであると言います。

 

しかし、イエス・キリストは「心の貧しい者こそ幸福です。」と言うのです。そして、本当にその人こそ、幸福な人であると、イエス様は言われているのです。

 

つまり、人がいくら努力して、高い教育を受け、高い文化を築いても、神を神としない、人には、真の幸福はない。真の幸福は、私たちの創造主なる神のもとに立ち返り、その導きた従い、神の力に頼って生きるところにあると、イエス様は言っているのです。

 

そのために、人がなすべきことは、何でしょうか。

それは、自分の我を張って生きることをやめ、自力で生きるのをやめて、謙虚になって、神にすがることなのです。

そのためには、心の貧しさが必要なのです。自分が本当に貧しい者であることを、知る必要があるのです。自分の貧しさを知っている人だけが、自己主張をやめ、謙虚になって、神のあわれみに、すがることができるのです。

 

神の御子イエス・キリストは、まことの貧しさを味わったお方です。

イエス・キリストは、私たちにために貧しくなられました。天の栄光の御座を捨て、貧しい馬小屋に生まれ、私たちの罪の身代わりとして、十字架について、私たちの罪の罰として死んでくださったのです。

 

これ以上、貧しくなったお方はありません。だから、私たちがイエス・キリストを信じて救われるために必要なことは、私たちが富むことではなく、心を貧しくしてこのキリストを信じ受け入れることなのです。

 

そのとき、私たちの過去、現在、未来のすべての罪が赦され、救われるのです。そして、決して消えることのない、死んでも消えない、幸福が与えられるのです。

だから、イエス様は「マタイ53心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」=「天国は、心の貧しい者たちのものである。」と言われたのです。

 

天の御国を持つということは、神に属するすべてのものを持っているのと同じです。

だから、実をいうと、心の貧しいものは、何ももたないものではなく、すべてを持っている人なのです。神の持つ財産をすべて、持っているのですから、これ以上富んでいる人はいないのです。イエス様は、心の貧しい人たちこそ、真に富むものとなる、と言っておられるのです。

 

次に4節です。

マタイ5: 4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。

これも、また、普通世の中では、逆です。この世では、悲しむ者は、不幸だと、人々はいいます。そして、これが、この世の中の考えです。

しかし、天国の市民は、そうではないのです。

悲しみに会うことは、本当の慰めを受ける道だと、イエスは、言うのです。

なぜでしょうか。それは、悲しみに会うときに、人は、心から神の前に、悔い改めることができるからです。

しかし、悲しみの受け止めかたによっては、その人を駄目にしていまいます。

 

新約聖書に、

2コリント7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

とあります。

悲しみには、救いにいたる悲しみと、死に至る悲しみがあるのです。

救いに至る悲しみは、悲しむ時に、神を見上げるチャンスとする人です。その人には悲しみが、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ、救われるのです。

 

しかし、悲しみの中にいても、人を恨んだり、社会を恨んだりして、神を見上げない人もいます。その人は、悔い改めに至らない、「この世の悲しみ」に中にいます。そして、その結末は、残念なことに、その人に、死をもたらすのです。

 

しかし、悲しみを通して、神を見上げ、自分の罪深さを悔い改める人は、「神のみこころにそった悲しみ」となり、その悲しみを通して、キリストを信じる救いに導かれ、喜びへと変えられるのです。新しい人生へと変えられるのです。

さて、今、天国にいる人々、天国の市民には、共通していることがあります。それは、天国には、自分を誇る人は誰もいないということです。また、自分の育ちや、学歴や、社会での地位を、誇る人は、誰一人いなのです。みな、心の貧しい人であり、悲しみを通って来た人たちなのです。

 

人は、時として、苦しい思い、悲しい思い、痛い思い、困難な経験、逆境と呼ばれるような中に、置かれることがあります。しかし、この時は、恵みの時なのです。この時に、人は、心が貧しくなり、悲しみにあずかり、そして、悔いない、悔い改めに至るのです。

 

RG.ビビアン氏の証し

もう随分昔の事ですが、今から百数十年前に、英国の鉱業家に、グリーン.G.ビビアンさんという人がいました。彼は時代の波に乗って成功し、鉱山王と呼ばれるようになりました。彼は財産にものを言わせ、豪華な世界旅行をし、各地の鉱山や炭坑を視察しました。

 

ところがある日、霧のロンドンの西部街を歩いていると突然、視力の異常を感じました。そして、治療の甲斐もなく彼は失明し、盲人になってしまったのです。

国内はもとより、ドイツ、スイスと名医を尋ねましたが、回復の道はなく、彼は失意のあまり、身体の健康をも害してしまいました。そして、医師の勧めで転地療養することになりました。

 

彼は自分に絶望しました。そして、その時、心が貧しくなったのです。

この時、彼は悔い改めキリストを信じました。

 

キリストを信じたビビアン氏は、教会堂建築の費用を全額、献金したり、自分が経営する会社の工場には、社員のための伝道館を建て、牧師を招きました。

 

さらに、彼は世界旅行の時に見た、フランス、ドイツ、スペイン、ロシア、日本、カナダ、南アフリカ、南アメリカの各地で、鉱山労働者とその家族の悲惨、心と生活が荒れている、霊的な暗黒状態(その日その日を唯暮らしている)を思い起こしました。

 

そして、彼はそこに重荷を感じて、全財産を投じて、1906年(明治39年)、「グリーン・ビビアン・マイナーズ・ミッション」(ビビアン鉱山労働者伝道団)を設立したのです。

これは国際的なもので、今でも数か国の鉱山労働者と金属労働者とその家族のためにその働きは、続けられているそうです。

 

そして、このグリーン・ビビアン氏の創設した「マイナーズ・ミッション」の働きが、1907年に、日本の栃木県の足尾にもたらされたのです。当時足尾は、銅を産出する鉱山として、活気があり、沢山の労働者が集まっていました。鉱毒事件もありましたが、このマイナーズ・ミッションの足尾のおける伝道の働きは進展しました。

1908年に鉱山伝道団・足尾教会の会堂が建設されました。

これが、今も足尾町にある、福音伝道教団の足尾キリスト教会です。

 

そして、日本の宣教のために来日していた、一人の婦人室教師が、この働きを足尾に見に来たです。この婦人宣教師がイギリス人宣教師MA.バーネット宣教委です(福音伝道教団の創設者)。バーネット師は、足尾に来て、重荷が与えられました。このマイナーズ・ミッションの、足尾の働きを引き継ぐ決心をしたのです。

 

そしてさらに、バーネット師は、足尾町、群馬の大間々町、境町、太田などに伝道の重荷が与えられたのです。そして、バーネット宣教師は当時日本伝道隊におりました、舟喜麟一牧師(故・舟喜順一先生、故・舟喜信先生のお父さん)らとともに、群馬、埼玉、栃木県の、日本の内陸部3県の田舎町の開拓伝道のために、「セントラル・ジャパン・パイオニア・ミッション」を設立し、これが今の群馬、栃木、埼玉、東京、神奈川に教会のある、福音伝道教団となりました。

 

つまり、福音伝道教団は、グリーン・ビビアン・マイナーズ・ミッションの働きと伝道があったからこそ、生まれたと言っても良いのです。そして、足尾鉱山でのマイナーズ・ミッションの働きとがあったからこそ、イギリス人のバーネット師は群馬に伝道を開始したのです。

 

福音伝道教団の教会は、バーネット宣教師が、創設者には違いないのですが、実は、さかのぼれば、イギリスの一人の実業家が盲目になり、その心が貧しくなったことによって、すなわち、グリーン・ビビアン氏の心が貧しくなったことによって生まれたと言っても過言ではないでしょう。

このグリーン・ビビアン・マイナーズ・ミッション(ビビアン鉱山労働者伝道団)が設立されてから、4年目に彼は天に召されました。しかし、彼の日本の足尾での働きは、バーネット師に引き継がれ、福音伝道教団が生み出され、そして、多くの人々の救いにつながったのです。

マタイ5: 3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

 

イエス・キリストは神の御子であったのに、その天の御座を捨てて、私たちの所に来て下さいました。しかも、私たちのかたくな心、罪の身代わりとして、十字架について死んでくださいました。

2コリント89 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

 

心の貧しい者、悲しむ者こそ、主イエスを心に信じ迎え入れることができ、そして、その人は、天国を手に入れることができる、神と共に神の国に入ることができる、真に富む人、喜びの人となるのです。

心の貧しい者、悲しむ者こそが、新しい、前向きな、建設的な人生を、生き抜くことができるのです。真の幸福を手に入れることができるのです。

マタイ5: 3 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

マタイ 5: 4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。

 

アーメン。