2006年10月29日

動物愛護に熱心な方は、「人の命も犬猫の命も同じ命」という風におっしゃる方がいます。

それを欺瞞だ、矛盾だ、という意見も見ます。

同じ命だから、みんなが救われればいいけれど、そうはいかないから、せめて無駄に命を落とす生き物が少ない方がいい。せめて自分の身の回りで、自分の影響力が及びやすい範囲だけでも不必要な死がないようにしたい。せめて命を落とす生き物には苦痛がないようにしたい。面倒で虫を殺したりすることもあるけれど、それを積極的に肯定・奨励することはしたくない。

というあたりでは落としどころになるでしょうか。

でも、一匹の犬の健康のために多数のノミを殺したりすることは、そういう考え方とは矛盾するような気もします。農作物を育てるために雑草を刈ったり。

もう少し実利的に、人間の命は一番大切だけど、犬や猫のように身近で、感情表現もわかりやすい動物の感情も思いやって生きられる社会だったらいい、という程度ならどうでしょうか。

食の話などでは、卵や鶏肉の生産がいかに鶏にとって過酷な環境・生死をもたらしているかを以前話したことがありましたが、「もうそれは食べない」「減らす」「感謝を忘れないようにする」「残酷な生産方法を採用していない食品に切り替えるようにする」など反応はいろいろでした。(複数選択も部分的に可)

利己主義と利他主義という風にこの問題を見るとしたら、tmはどちらかというと、利他主義では筋の通っていてかつ現実的な立場はできないと思います。ですが、利己主義も徹底することは難しいと思います。

例えば、安くて便利な食べ物が欲しいからそういう現実は直視したくない、という立場をどう考えたらいいでしょうか。あるいは、他の人間が虐殺されても自分に影響がなければいいし、自分に特になるなら賛成する、特に自分が虐殺について知らなくて済むなら大いに賛成する、という立場とか。あるいは、動物だろうが人間だろうが、虐殺されても何とも思わないし、人間はそういうものだ、という立場とか。

こういう立場に立っている人もまた少ないと思います。部分的には、本音は利己的であってもそれでは生きづらいからお互いの権利を尊重しようという暗黙の協定の上に社会を成り立たせているため、というせいもあるので、こういう立場に立つ人が少ないことイコール人間が完全に利己主義的ではないこと、とは言えません。でも、人間は半端で矛盾している存在なので、利己主義的なところもあるし、利他主義的なところもあるので、そのせいで震災被害などを見るとつい心が動いてしまって義捐金を送ろうと思ったりするのだと思います。

でも、子どもを間引いたりする風習も日本にはあったようですし、時代によってどういうところで他人を思いやるかは違うし、あまりにも思いやりを実行するのが大変ならその気持ちは持たないようにしてしまうのかなとも思います。



このエントリーは以下のブログのトラックバック募金に参加しています。
なんたらかんたら(募金の説明はこちら


















(03:05)

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔