2018年11月19日

320[1] 二日前に公開されたばかりの映画『人魚の眠る家』を見た。
私は見たい映画は朝一番、買い物ついでにふらっと立ち寄って一人で見る。これは東野圭吾氏ベストセラー小説を映画化した作品。 
離婚寸前の夫婦に、小学校入学間近の娘が、ある日突然プールで溺れる事故が発生。脳死と判定されたが、心臓はまだ動いている。
医師は臓器提供を勧めるが、母親は頑固として受け入れられない。
結局脳死状態の娘に、AIを活用して脳に刺激を与えて生き返らせる道を選んだ。
回復の見込みがないと焦り悩みながらも、かすかな望みを託す。次第に家族の運命の歯車は狂っていく。

この映画は、「脳死は人の死か否か」や「脳死状態の人からの臓器提供をすべきかどうか」等の難しい問題を問うている。
私の周囲にも恢復の見込みがなくても、長年闘病生活を送る人がいる。家族にとっては深刻な問題。一日たりとも気の休まる日はないだろう。
観客の中にもハンカチで目頭を押さえる人がいたから、きっと身近な人がこの問題に直面しているのだろうか?

私は「脳死や臓器提供」とは違った側面で、この映画を鑑賞した。
それは2500年前のお釈迦様の時代の逸話。
キサー・ゴータマという母親が、大切な息子を亡くした。彼女は遺体を抱えたまま「何とか息子を生き返らす薬を下さい」と行き交う人々に懇願した。しかし誰も相手にしてくれなかった。とうとう最後にお釈迦様の元を訪ねた。
「これから町へ行ってケシの実をひとつかみもらって来なさい。但しどんなケシでもいいのではない。今までに死人を出したことのない家のケシの実でなければいけない」と、お釈迦様は念を押された。
キサー・ゴータマは一軒、一軒しらみつぶしに訪ね歩いたが、どの家も「老親が死んだ」とか「去年子供を亡くした」・・など死者が出ていない家は一軒も見つからなかった。
トボトボと戻って来たキサー・ゴータマはお釈迦様の前で告白した。
「私が本当に愚かでした。生きている者は必ずいつかは死ぬということが分かりました」
それ以後キサー・ゴータマはお釈迦様の教えを真剣に聞くようになった。
最愛の子供を亡くしたことが縁で《仏法》に出会い、喜びを持って人生を生き直す母親となった。

映画の母親も最後は、AIで生き続けているように見える脳死状態の娘の心臓を、ヨソの子供に移植する道を選んだ。人間誰しも、大切な人といつかは別れていかなければならない。しかし自分の心の中で、「仏様」として生き続ける道もある。
作家の東野圭吾氏がキサー・ゴータマの逸話を意識していたかどうかはわからないが、脳死や臓器移植という生命の尊厳に関わる問題にスポットを当てた見ごたえのある映画だった。(充子)


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昨日、元門徒総代を勤め、大変寺のために尽力された方の33回忌をお勤めさせて頂いた。32年前、その人の枕経に父がお勤め中に、我が母親が逝去(数え年75歳)。お勤め中の父のもとに母の死を知らせる電話が入ったそうで、その時父の肩が大きく揺れたと、息子さんが話してくれた。
中年までは実に元気な働き者で、寺の細かな用事を何でも頼める有難い番頭さんのような方であった。そんな病気知らずの方が、なぜ難病を患い早々に亡くなられたのか?今の医学ならば難病も克服できるのではないか、と思われる。

そんな昔話を法話の中で取り入れて話したら、外孫に当たる方(女性)が「おじいさんの懐かしいお話を聞かせてもらって有難うございます」と帰り際にご挨拶して下さった。

さてその医療技術の進歩で、最近は「人生百年時代」などと喧伝される。現在百歳以上の方が7万人近くになっているが、2050年には100万人に達するという。しかし、その7万人の中で自立的に在宅で過ごせる人の割合は1割程度に過ぎない。老母を最近施設入居させることになったある人が「無理やり生かされているような状態で、一体どんな意味があるのか?、と思ってしまいます」と重い言葉を投げかけられた。「お年寄りだけでなく、全ての人が今問われている課題ですね」と共感の気持ちをお伝えさせて頂いた。人生の時間は伸びたが、その質や意味がいよいよ問われる長寿の時代。

今年90歳以上で亡くなったIさん(元拙寺門徒総代)は米寿祝いをしてもらった時、「喜寿米寿白寿百寿も何のその 我は無量寿南無阿弥陀仏」と詠まれた。つまり、「人間の命は有限、限りなき無量寿の仏の命に生まれ変わることが信じられているからこそ本当にめでたいのです」と詠まれたのを思い出す。
単なる長寿だけでは行き止まりで、いつか終わる。仏の命に生まれ変わる現生正定聚の仲間に入らせて頂く事こそが空しく終わることのない人生なのだ。そんな話ができる間柄こそが望まれる。

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2018年11月18日

02c882c0-s[1] 昨日、広島県呉市の善正寺だより愛読者から、自分の畑で採れた土付里芋を宅急便で送って下さった。
私はお会いしたことがないが、住職が7年前に広島へ出講した時に初めてお会いした。
旧知の法友に誘われて一緒に聞きにみえた。講師控室で一緒に記念撮影。普通ならば、それで終わってしまう関係だが、それ以来毎月善正寺だよりを送り続けている。
遠方のご門徒さんでさえ、寺報の郵送は当たり前で感激がない。しかしその方は一年に一度、お礼代わりに里芋を送って下さる。おかげで私も、土付里芋を調理することになった。

 土付里芋は、洗ってある里芋よりは保存が効いてずっと美味しい。それは分かっているが、土を落すのが実に面倒な作業。
しかし我が家には最近秘密の土落し器がある。以前にも紹介したバケツ型小型洗濯器!!私が若嫁に赤ん坊のオムツ用洗濯器としてプレゼントしたが、紙オムツを使用するので不要とのこと。返却してもらい、土落し里芋洗い器として活用。
使いだすと便利なこと、この上ない。タイマーをセットして、数回水を替えるだけ。
それでも洗い残しがある部分は、包丁か皮むき器で丁寧に剥く。

 一度さっと湯がいて水道水で洗い、表面のぬめり気を取ってから調理にかかる。大きな魔法鍋で出汁の効いた薄味で調理すると、ホクホクの里芋が1時間後に完成した。それをやはり頂きものの『甘い味噌だれ』をかけて食べると、秋の味覚が口いっぱいに広がり、最高に幸せ!
出来上がると誰かにお裾分けしたくなるのが、私の性分。
丁度昼食前だっので、キュウリ漬けの一人暮らしの女性(92)宅に届けに行った。帰宅直後に、再び私のスマホにお礼の電話が入った。彼女との会話は、用件よりも世間話の方がずっと長い。
昨日は昔の里芋の土落しの様子まで話が弾んだ。子だくさんの彼女の家庭では、女の子が専らその役目。井戸水をバケツに汲んで、その中に土付の里芋を入れ、洗濯板のような里芋こぎで左右にこじて土を落したそうだ。昔と今の違いは手動か電気でするかの違いだけ。理屈は同じだなあと妙に感心した。出来たての温かいホカホカ里芋を持参したら、大変喜んで下さった。独り暮らしならば、こんな面倒な作業はおそらくするまい。私も食べてくれる家族がいて、お裾分けする人がいるからこそできること。

今年の夏台風の被害が甚大だった呉市の会ったことがない法友からの里芋が、三重の地で大歓迎される。
善正寺だよりが取り持つご縁とはいえ、お念仏で結ばれた間柄は、不思議な力を持っていると感心した。(充子)


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