戸田真琴official blog - まこりん日和 -

戸田真琴の公式ブログ

2017年09月

部屋の中に落ち着く作業スペースができるように模様替えをしよう、しよう、としばらく考えてはいるのだけれど、結局ぶらぶらと歩き回ることがあまりにも好きで、そうしているあいだに遠くに過ぎ去っていった友達や、これから出会えるかもしれない色んな人々のことを暖かく想い、その小さな灯だけが行動するための元気をくれるので、いつまでも模様替えが進まない。
そうしてまた歩いては入ったカフェで、近くの席の男性二人のうちの一人はなにかの勧誘を熱心にしていて、その声があまりに大きいので、少し困ったあとで、アイスティーを飲み込みながらやっぱりお家に作業場を作ろうと思う。ずっとそんな繰り返し。

ミスiDというオーディションに参加していて、気づけばしばらくの時が経ちました。私はプレエントリーという、一般応募より一歩早い段階の時に応募したので、かれこれ半年以上「候補者」をしている。
どうして応募したのか、どんなオーディションなのか、というところは全部始めのこの記事http://blog.livedoor.jp/toda_makoto/archives/19268068.htmlに書いていて、それはずっと変わっていない。
色々な女の子がいる。18歳以下の子もいるし、きっとアイドルをしていくうえでAV女優と接することがデメリットになりえる子もいるかもしれないので、ほとんどの女の子とは会話を交わしたことはないけれど、実はけっこう見ている。あんまり話さないけど、私はけっこうミスiDが好きで、けっこう希望だと思っているところがある。どう頑張っても効率化されない、大きな利益や個人のみみっちい得のために動くにはあまりにも優しく、人間として誇りの高い人たちが、大人らしさを忘れるほどに駆けずり回ってこの世界の中から宝物を探している。それも、この世にとって宝物でない女の子など一人だっているはずないという夢物語を地で行きながら。きれいごとを言いたいわけでも、媚を売りたいわけでもないけれど、「そんなに丁寧に生きたら死んでしまうよ。」と注意したくなるような人の仕事を見ることは、いつも勇気になるから。力になりたいと思う、力になれるような人になりたいと思う。そのための方法を探して、結局応募した自分がいる。誰視点なんだよと思われるかもしれないけれど、私視点だし、私はこの世界の力になりたいと思う。バカだから。

感動するところも戸惑うところも山ほどあるけれど、多様性を認めること、それを理屈だけでなくひとりひとりの違う人生を、表情を、言葉を、思想を、美学を、まぬけさを、意地悪さを、純粋さを、弱さを、怒りを、優しさを、諦めを、祈りを、見て、そして愛すべきところに出会うこと。それ自体が、人が自分で鞣していける確かな希望だと思う。
昨日は雨のお台場を歩きながら、今、どんな悩みを持つ人の手も引いていこう、とできっこないことを本気で思う。遠くのレインボーブリッジ、観覧車。90年代J-POPのスモーキイな電子ドラム。悲しかったら笑っちゃいけないとか誰も言っていないから。

昨日更新された、いつもの映画とお悩み相談のコラムは、「容姿」そしてもっと広い意味での、手垢のつかない「美」を探していくお話でした。


ミスiDの候補者の女の子の中にも、同じように悩んでいる女の子がたくさんいるのも知っていたし、もっとつよくそれについて悩んでいる人たちは応募すらしていなかったと思う。私だってずっと悩んでいて、きっと伝わらないけど悩んでいて。いつも、この連載は、一緒に悩んでいる。だから、お悩みを選ぶときも今すぐに答えの出せない問いを選ぶ。だから毎回苦労するんだけど(先月の文章なんかはずっとぼろぼろと泣きながら組んだ。最後のおとぎ話を書くように。大げさじゃなくて。)一緒に悩めてよかったな、と思う。画面の向こうに誰かいると思うと、投げ出さないでいい。腐らなくていい。足を止められないことを恐れなくていい。君と行ける地図上に答えがなくても、ちょっと待ってて、持ってくるよ。と言える。だからどこにでも行くんだよ。

なんだかんだで、毎回理詰めなところがあるのは私がそういう人間だからで、いつも自分の中に方程式があって、その繰り返しで何かを探しているからで。
だけど今回は、はじめて答えが出なかった。なんの公式も使い物にならない。どうしても、「まあいいじゃん。そんなこと。楽しいことをしようよ、たとえば綺麗な景色を見よう。」って、投げやりみたいに聞こえそうなそんな心の中の言葉が、ほんとうの光だと思ったから。

愛し尽くすことのコツは、無責任であることだと今、思う。違うかもしれないけど。愛は契約じゃなくて、約束でもなくて、もっと水みたいなものでいい。世界をもっと遠くまで、ぐるぐると飛んで行って形を変えてまたいつかここまで帰ってきた時にもちゃんとすぐに見送ってやれるような、軽やかなものがいい。

だから、今私は最高に無責任な気分です。ブスだから死にたいとか思うなら、私が君のこときれいだってぜったい本気で言うよ。そんな気持ちです。なんじゃそりゃ。私もね、本当にね、いやになるけど、いやになりきらない。なりきらないから、君もね。こんなところを読んでくれているだけでも、君の優しさと心と瞳の美しさを証明するよ、なんの足しにもならなくても。

ほんとうは、このお悩みを選んだ背景には、ミスiDの現ファイナリストの橋本ルルちゃんのデザイナーをした女の子のTwitterを偶然見たから、というのもありました。たぶんもう消してしまったツイートだけど。泣いてしまって、彼女にそんなふうに思わせた世界に途方もない、悲しい憎しみが湧きました。胸が張り裂けるように。
それでも、ルルちゃんはまぎれもない希望としてこの世に存在し、オリジナルの最強の美を、可憐さを、あたらしい愛嬌を、ふりまいています。ほかにも、ひとつとして同じ星がないように、ひとりひとりがこの世界のファム・ファタールであるように、そんな夢物語を地で信じたくなるように。だからあらためて、ここに点在しているのは、漂白することのできない希望だなと思います。ここに書いていいのかわからないけれど、そんな光と、リスペクトも込めて。

今回も、お写真を飯田エリカさん、編集をKAIYOU長谷川さんに担当していただいています。お二人とも本当に素晴らしい仕事をされる方で、純粋にものすごく尊敬しているのですが、そういう気持ちとは別に、なんだか素直に「仲良しになれて嬉しいな。」という気持ちでお二人を愛しく思います。これからも、泣いたり笑ったりしながら、いつも、答えを探して共に歩く道が本当の財産であるように、匂いも色も光も全部覚えていよう。

好きな女の子へのお誕生日プレゼントがちゃんと届いていたこととか、ビートルズのIn My Lifeが好きだったのを思い出してノートに歌詞を書いてみたこと、応援してくれている人たちが素敵な映画のブルーレイディスクをたくさんくれるのでいい加減ブルーレイのプレイヤーを買わなきゃいけないなと思ったこと、雨だからずっと眠かったこと。そんな今日のことも大好きでした。明日もがんばろうね。


みなさん、こんばんは。
連休は、幕張でやっていた某ライブに行ったのと、その足で実家に帰っていました。あんまりこういうところで話しませんが、家族はにぎやかな人たちです。私はよっぽど気が合う人でないと、一人でいる方が頭の回転が速くなるタイプなので、実家にいるときなんかはもうまったく頭が機能しなくなります。IQとか、2くらいになっていると思う。美味しいご飯が美味しいとか、ねこがふわふわして可愛いとか、そういうことだけを共有できる相手で、思想や感性の面ではまるで他の宇宙の人というくらい不可解で、おいしいとか可愛いとかもはやどんな人でも共有できるじゃん。とツッコミが入りそうなものですが、血が繋がっている家族です。ふつうに好きです。
いろいろと諦めてゴロゴロとしていたら、だんだんだめになる気がして、だけど一分一秒も無駄にしないで生きていたいと感じている方がちょっと異常なんだということもわかっていて、ああもう、東京に帰ったらもうずうっと本気でいよう。今は眠ろう。と結論を出してねこを撫でたりお団子を食べたりしていました。お団子といえば体型もちょっと気をつけなきゃ。食いしん坊だし食いしん坊のお友達も多いから永遠に失敗し続けてる減量も、いつまでたっても満足にできないってことは多分私はそこまで自分の体型や容姿に執着がないんだろうな。と今更気付いたりもします。いや、お仕事の内容的にもっと執着しなきゃだめなんだけど。誰か、私の食事量と運動量を管理しておくれ、と思うけれど、だいたい時間があるときはどこかをふらふらしているか映画や展示を見に行っているかカフェに入って文章を書いているかで、もう根っからの気分屋で好きなことにしか興味がないので結局難しいかなとも思います。でも、写真集があるのでさすがに、本気を出そう。と、夜食のキュウリをかじりながら。

ということで、おかげさまで、メンフィスで2冊目の写真集を撮影することが決まり、それに伴う写真展の開催も決まり、心地の良いプレッシャーの中思考を巡らせているところです。

メンフィスはブルースの街。昔、ブラックミュージックに興味を持った時に調べていて心に刻まれていたのが、「ブルースはどうしようもない悲しみを歌うために生まれた」というような一説でした。
音楽ってなんだろう、という論争に、まったくもって音楽のできない私は何も言う権利はないと思うのだけれど、ただのそのへんの、歩きながら音楽を聴くことを幸福だと思ういち人間としての音楽に対する気持ちは、ブルースの在り方を心の底から美しいと思う気持ちとまるで同じです。
私は追い詰められた時や打開策を探すとき、理論武装で立ち向かってしまうことが多く、そういうとき勝利の法則を導き出した頃にはかなりの確率で疲れ果てています。たぶん誰にも伝わらないし死ぬまで伝わらなくていい苦労です。
だけれど、やるせない気持ちや理不尽にさらされた時の悲しみ、嘆きの気持ちをほろりほろりと溶かして、現実逃避でないただの光の言葉としての「まあ、いいか。」まで運んでくれるのは、いつも音楽です。熱いコーヒーの中に角砂糖を落としたように。粒子になって無くなるように。

神様や、見えない大きなものの歌をみんなで揃って歌った時代から、自由のもとに産み落とされたひとりひとりが個人的な苦悩を歌う時代になった。それがブルースの誕生だと言われています。これも本で読みました。

私たちも、神様のお話じゃなくて、自分の話をしよう。と、思う時があります。
もっと言うと、肌の色や国籍や職業や性別の話じゃなくて、個人個人の話をしようよ。と。
女の子ってこうなんでしょ?日本人ってこうなんでしょ?AV女優ってこうなんでしょ?いろいろな質問の中、「そういう人もいるし、そうでない人もいます。」と答えるときの、そのくらいわかってよ。という気持ちは、もはやわがままではないと思う。だって私は総意にはなり得ないし、総意もわたしにはなり得ない。
君が私を不可解に思っても、それは別にいいし、こういうことです、わかりにくくてごめんね。と謝る癖も、そろそろやめようと思った。
なるべく嫌われたくないな。と願って気を使っても、信じられないような角度から命ごと全否定されるときもあるし、どんな気遣いにも目を通していない無責任なヘイトを浴びることもある。(こういうことを書いていつも思うのは、ぜんぜん、思っていたよりも平気だってこと。悲劇のヒロインになる暇がなさすぎるのと、守るべきものがちゃんとあるので。)それなら、なるべく私でいよう、と願う。いらない癖は捨てていこう。やましい未練も捨てていこう。誰かがいつか魔法を使ってお城に招待してくれるなんて、淡い妄想もとっくに消えて、それでも生きてきた身体に、私の心にだけ使える無敵の魔法を私自身が持っていると教えてもらった。「ごめんね」を繰り返してしぼんでいく愛情はもう見たくないし、いつも凛々しく次の一歩を歩む時の微笑みで、愛していると同じ意味の想いを渡せたらいいんだと思う。強く、強くなろう。

だれにでも一目で愛される才能がもし貰えるとしても、わたし天邪鬼だからつい「いらないよ」と答えてしまいそう。差別と貧困と嘆きの中で生まれたブルース。苦しんだ方が得だなんてひっくり返っても言えないくらい、そりゃ何不自由ない幸福な人生がよかったよ。と思ってしまうけれど、泥水をひとくちでも啜ったなら、もうそれをいつかほんとうの美しさの糧にするように生きるしかない。僕はブルース。今あなたと「まあ、いいか。」と言いたくて。
そうそう、そんな気持ちをすこし詰めたコラムが今週末アップされます。いつものKAI-YOUさんでのお悩み相談コラムです。ただの透明な涙で浄化してくれる美しい映画音楽と一緒に。

誰かの嘆きが形を変えて浄化される時、浄化されたことよりもその嘆きが生まれた瞬間のために祝福を送りたい。その瞬間を生きていたあなたまで、時を超えてありがとうと言いたい。


遠く、遠く、行きたいと願うなら、心の一番奥の方まで行ってみたい。そんな気持ちと一緒に、アメリカに行きます。
その第一回編集会議が今週末。ご参加のみなさん、どうぞよろしくお願いします。どんなまこりんが見たいとか、そういうのが素直に聞きたいです。どんな私でも見せたいよ。



みなさん、こんにちは。
お久しぶりのブログです。今日は久々に丸一日おやすみで、朝から美容院に行ったり秋のお洋服を探り探り買って回っていたところです。
美容院に行くだけできれいなお姉さんにシャンプーしてもらえるなんてこの世は最高だな。なんて半ば本気で思いながら、先日見た「パターソン」のブルドッグが友達に少し似ていたこととか、さっき読んだViViの表紙の水原希子ちゃんが小悪魔的で可愛かったこと、水原といえば「この世界の片隅に」の水原さんがほんとうに格好良くて惜しかったこと、しりとりみたいに好きなことばかり思い浮かべては堂々とうとうとしていました。

ジム・ジャームッシュの映画はいつも本当に愛すべき映画で、詩を読まずとも詩にあふれ、生を確かめずとも生がきらめき、愛という言葉をつかわないで在り得るほんとうのみずみずしい謙虚な心の中に愛があるのだと教えてくれます。
ロマンスがなくても生きていける私たちの、すこし残念がりながら無視していった大げさなラブストーリーたちが、流れていった川の向こうで海になって光り始めたころのように、いつか全てが好きだったと思い返すように。いつも大切なことは胸のずっと奥、明け方に目が覚めた布団の体温。熱すぎたハチミツ入りミルク。斜めに傾いた街路樹。三ヶ月せっかちにクリスマスソングを聴く午後。あの子がきれいと言ってくれた薄いピンクのマニキュアと、歩道橋の上から見た国道なんかに紛れている。愛する人よ、あなたを心から誇らしく思うこと。そんな当たり前の幸福が、日常として在りますように。
だから私は、恋人が病気になる映画より、家族が引き裂かれる映画より、心優しい犬が死んでしまう映画よりずっと、ずっと、ただ人々が愛おしい日々を生きていて、お互いをチャーミングに想い誇りに思い、少しの憂鬱が訪れたりそのきりがまた晴れたりするような、そんな映画を見るときの方がぽろぽろと涙が溢れるんです。
ああ、きっとずっと解っていよう。今履いている銀色のスカートがどこかの誰かのまぶたに乗ったアイシャドウと繋がっているかもしれないこと。雨でたわんだキラキラの景色のどこかに隠れている誰かのこと。聴こえてきた歌声が本当は泣いていたのかもしれなかったこと。光を透かして目を細めただけで消えた憂いが確かにあること。どんなに照らしても消えない真っ黒いしみがあること。その全部がいつか「まあいいか。」と言えてしまうかもしれないこと。友達に似ている犬が鼻水をたらしたこと。

日常ってなんなのかしら。
私はAV女優になるというある意味極端な今を生きているはずだけれど、私AV女優になってやっと平穏な日常を手にいれたような気もする。
いつも大切なのは、ふとしたときに空を見上げること、美味しいお蕎麦やさんを探すこと、君が笑ったら私も笑うこと。
最近、AV女優の人へのインタビューをずいぶん大げさに脚色して、不幸に書いて本や映画にした人がいるという話をよく聞く。前にもそういう傾向についてわたしはいらいらとしていて、人の幸も不幸も他人がお金儲けのために歪めるなんてあまりにみっともない、と怒っていたものだけど、そのとき誰かがこう言った。
「男ってのは、女をみて《女は馬鹿だな、愚かだな》と言いたい生き物なんだよ。」
どうしてそんな、自分の魂の価値を下げるような願望をぶら下げて平気でいられるんだろう、と驚愕したけれど、まあ腹がたつのは置いておいて、みんな大げさな不幸が見たいのだろうな、と思った。サスペンス、戦争映画、スプラッタ。
胸が痛むものは、なかなかお腹がいたくなるので見れなかったけれど、最近は頑張れるようになった。映画の中で傷ついた人のぶんまで、私も傷つけばいいし、映画の中で死んだ人のぶんまで私も死ねばいい。だからこそ煌めくものがあるのもわかった。平坦な日常に耐えられない人たちがきっと救われることも。頭の中は自由だからね。
それでも、大きな地震が起こらなくても、ミサイルが飛んでこなくても、好きだった芸能人が亡くならなくても、今あなたとともにいる人たちのこと、その人に感じる愛の最大値までいつも、いつも解っていてほしいと願います。
日常を戦場と呼ばなきゃいけないくらいに、傷ついている人たちも。戦場じゃないよ、日常なのに君を傷つけるやつらが日常はずれで異常なだけだよ、たぶん。

私の日常はいつからか戦場じゃなくなって、盾も銃も自由すらもいらなくなってきた気がします。どこにいても夢を見られるから、いつだって夢を見続けようね。
なにかのせいにして無理だなんて言うよりも、やってみて、失敗したって私だけが格好悪いならそれでもいい。一生無双モードで頑張るね。君もできるだけ夢を見てね。

大好きな女の子と二日間、一緒にお仕事をした日の夜、久しぶりに優しくて温かい夢を見ました。すごくたまに、自分を好きでいられた時に見る夢はいつも、赤ちゃんになった時みたいでとても幸せで、みんな、ほんとうにだめなときはいつでもここに逃げて来られたらいいのにとさえ思う。
ずっと守られてきた人の輝きも、この世界にきっと必要な太陽みたいなものだけど、自分で自分を守ってきた人の光は一人一人色も形も違ってもっとうんと好きになる。集めたらとびきりの空になる。

日々を、重ねていくことに最後には圧倒的に意味があるけれど、重ねてきたことだけに価値があるわけではない。誰にも見せなかった日記帳がびりびりに破られたって、いま、それが散っていったことにうなだれる、君自身がもう日記であり、詩になり得ているのだと思う。
だから、立派なことをしなければいけないとか、誰かに褒められないといけないとか、愛されていないと価値がないとか、そういう気持ちがとっくにどこかへいなくなってしまった。頭にはどんどん無駄がなくなっていくから、無駄なことをどんどんしようね。


↑このページのトップヘ