戸田真琴official blog - まこりん日和 -

戸田真琴の公式ブログ

2017年11月

完璧な日も不完全な日もあって当たり前の毎日だけれど、完璧な日になる予感がする朝が好きなのは、愛する誰かを想いながら歩く道のあの軽やかな流れ方、階段のステップのまぬけなジャンプ、雨でも晴れでもいいような煌めく街に、歩道橋だってステージライトに照らされているように佇むから。あの階段を登りきったらいつか、僕らが欲しがった愛や夢や希望なんかがダイヤモンドみたいに固まってころんとこの手に授与されるんじゃないかと思う、そんな散歩道があるから。
まあそんなのは羽ばたくばかりの妄想だとして、今日の目覚めは素晴らしく。相変わらずお洗濯もお片づけももそもそと歯切れ悪くなんとかこなすけれど、いつか誰かのためならもっとご機嫌にやってあげられるような、あるいはだれか軽やかにやってくれる日が来ないかしらなんて想いながら、こんなだめなやり方も嫌いじゃない。今年もクリスマスは友達とラーメンでもすすっているかしら、とさんざんみんなに笑ってもらったあとで、ほんとうはそんな過ごし方が好きだし、 愛はいつも心に宿るもので、言葉も形もいらないわけで。
 私の今年のひそやかな目標、そして予感は、あの素晴らしい愛をもう一度。という言葉に秘めてありました。それは誰かに恋をするとか、恋愛的な意味や色っぽい意味でもなんでもなくて、ただ、日々がなんとなく美しいな、愛すべき人たちが暮らしている街だな、いつもなるべく優しくいたいな、というような、当たり前でささやかな愛を心に取り戻すということでした。
 表参道も発光ダイオードを行儀よく巻かれて、年の暮れに突入する準備も整ったころに、ほんとうにすてきな一年になったな、それはほんとうに全部があなた、あなた、あなた、少しでもそばにいてくれた全てのみなさんのおかげだな、としみじみ嬉しくなるのです。

 今日見たアニメ映画のゴジラも「もう一度」、というお話で、私たちはいつでも現実と切り離されたSFの世界に自分の内面世界を重ねます。
余裕がないと人を愛せないよね、とはよく言ったものですが、きっと一生かけても本当の余裕なんてなく、余裕がなくたって人を愛したいと願うのがかなしい人間の有り様です。そして、それがきれいだなんて思うのです。
誇りや優しさから順にやせ細っていくからこそ、誇りと優しさ以外の何が一体大切なのかを問うていたい。いつも言葉は自分自身にいちばん鋭くなにかを教えて指先から溢れるほどに過ぎ去っていくので、私はこうして忘れないように日記を書きます。人生は、何も愛さず何も為さないのならあまりに長く。何かを愛するのであれば、あまりに短いのだと日々思い知ります。一瞬の流星みたいに。
そんな中で、たとえば目の前のあなたと共に在る時間などひときわ短く、瞬きの隙間にいなくなってしまうかもしれないと覚えながら、それならここで今何を見せられるだろう、一緒に何を見ていよう、と、考えているうちに休日などは終わります。ほら短い。本当に短いから、退屈なんて忘れてしまったな、と、この一年でもずいぶん変わった居場所を具象として見ながら思うのです。

 これを打っているノートパソコンの、ちょうど右手と左手が乗る部分に1匹ずつドラえもんのシールを貼りました。左手のほうに「LOVE」と書かれたドラえもん。右手の方には「FUTURE」と書かれたドラえもん。もう一枚セットになっていたシールには「PEACE」と書かれたのがいました。愛と平和と未来を同時に背負ってきたなんて本当に大変なものだな。と思いながら、やっぱり何かに頼っていたいのもわかる気がして。
六本木の森アーツセンターギャラリーでは「THEドラえもん展」がやっています。月も卵子もドラちゃんと同じまんまるだったな、と思わせられてちょっとエロいと感じてしまった。
 ドラちゃんなんて、あらゆる人の、「君がそばにいてくれたらなあ。」という感情をたぶん日本で一番浴びてきた存在で。まあ実際は架空の猫型ロボットだしそばにいてくれるはずないのだけれど、ああだめかも、と思う時にふと空の青と雲の白なんかを見て「君がそばにいてくれたらなあ。」と呟くだけで本当はよかった。星に手が届かずとも一粒の豆球が私には同じようにまぶしく、もしもその電球が星になりたいなら私の眼(まなこ)のなかでだけ星にしましょうと思うのです。懲りずに。
君がそばにいてくれたらなあ。なんて、ふと思うくらいその誰かに対して安堵しているなら、それはもうとっくに、心の方がそばにいるんだよ、ということです。

 なのでなぜか心は全く寒くないおなじみ独り身の冬が来まして。友達は「寒くなると寂しくなる。」と繰り返す。すごくわかるけど。
電飾をぐるぐる巻いて写真を撮影したから、とりあえず私が光になる。誰かにとっては滑稽なまがい物でも、ねえ恥ずかしいからうろ覚えにしていたいけど鮮明に覚えている、誰かが君は誰かの光になれると言うから、そんな気もしないけどなんとか頑張ろうと思う。
 たぶん、明日更新のKAIYOU映画コラムは静かな告白で。愛の告白ではなくて、生き方の。人生に意味があるのかなんて、また来月にでも話すけれど、探さなくていい、意味なんてなくていい、意味がないなら生きていたくないなんて言わないで。って、どんなに言葉を尽くしても伝わらなかった想いだけ、今も背負って生きている。

 アニメのゴジラとの戦い方を見ていて、「ワンダと巨像」というゲームを思い出した。私はあのゲームを自分でプレイする勇気がいつまでもなかったけれど、プレイしているところを見るのは好きだった。何かが悪で何かが正義、という二極論にはいつもいまいち賛同しきれず、相反するものの両方から物事を見ないとなにか一番見逃してはいけないものを見逃す気がしている。だから大地と一体化した巨大な像と、そのうちのわずかな弱点を探し勇敢に立ち向かうワンダの両方にどこか共感し、両方を友達のように愛しく思ったので、いつも泣きながらゲーム画面を見た。
ほんとうの最後に何よりも賞賛されるべくは心の綺麗さのみだと私は信じきっているけれど、人生の時間の許す限りはなるべく多くを肯定したい。わたしの肯定なんかなんの足しにもならないなら、一瞬の腹の足しにでもなれるよう今自分を生きることを頑張るしかない、いつもそういうことで。


 こんな気持ちの良い休日に、やっぱり一人でいるときがどんな時よりも素直で、なんでいつでも素直な自分でいられないものかなと思う。
 来年の目標は、「いつも素直に笑っていること」にしたいと思います。まだあと1ヶ月あるけれど。



映画「it」を見て、そのままアニメのゴジラを見ようと思っていたのだけれど、そもそも驚かし系のホラーが途方もなく苦手だったことを実体験で思い出させられてしまい、ノミの心臓が疲弊しきってしまったので諦めた。スティーブン・キングは子供の死体というものにいったいなにを見ているんだろう。少年たちは、自分にとっての「死」や「恐怖」の対象に打ち勝ってすこしたくましくなるのだけれど、私はとっくに大人のはずなのになんだかそれが切なくて。好きな人がたくさんいる。わたしがきみのこと好きなんて、きみは一生知らなくていいよ。と素直に笑えるくらい、いろんな種類の諦めを超えた先でも好きと言えるほど、好きな人たちが。できればずっとルーザーズ・クラブでいたいんだ。私は負け犬だけれど、きみは私のことそう見えないって言う。だから、一緒にいてよ、と思う。そんな日々を生きている。

あなたには怖いものはありますか?私は今でも怖いものだらけで、大人になりそこなったまま、強くなることを未だ恥ずかしいことだとどこかで思ったまま、仕事で何度身体を重ねても未経験の子供みたいなのがずっと胸のうちにいて、仕事以外では大人みたいなことぜんぜん言えないままでいる。
怖いものの正体を暴いて、得体の知れたものに書き換える作業を続けていったら、いつか何もこわくなくなるのかな。だけど、私は弟の死がどうしても受け入れられなかった痛々しいビルのことをとても親しく感じていた。これは自分の人生からなくなってはいけないものだ、と信じていたものが消えてなくなることだって、あるのが現実というもので。あなたにもし、そんな受け入れられない恐怖があるのなら、その恐怖がなくなってしまうことすら怖いのなら、一緒にいつまでも震えていてあげるよ、と思う。まあ、誰に対してもなるべく安らかでいてほしいとは思うけど、何かを怖がるのも何かが悲しいのも、忘れたいと願うのも忘れたくないと祈るのも、全部あなたの心がまだやわらかい部分を残していて、素直で純粋だからです。なにも怖くなくなって、一人で生きていけるようになるよりも、一緒ならぎりぎり超えられるくらいの恐怖にたまには出会おうね。そのときは心の中で呼んでくださいと思う。私にも、困った時に心で呼べるような優しい記憶が増えていて、それをとても嬉しいと思う。

先週はなんだか、気圧のせいか誰かに何か言われたのか忘れたけれど少し落ち込み気味の月曜日から始まった。あんまり優しい時間が日常に増えすぎると、本当の自分の立ち位置や、等身大の自分の姿を見失う。だから、少し自分に幻滅しているくらいでちょうど良かったりもするわけで。そのためとは言えないけれど、自尊心みたいなものがなぜかみじん切りにされたような目覚めだった。焦燥と自己嫌悪の中ぎりぎり生春巻きを食べて、夜にすこし2nd写真集の剪定をしに福島さんの事務所に行き、メンフィスでの写真を見たらそんな気分がぜんぜん元気に治ってしまって、拍子抜けして笑ってしまった。大げさだって、自意識過剰だって、べつに笑われてもいいし、調子に乗ってるとか、身の程知らずとか、きっと見えないところでどれだけこき下ろされているのか意外とちゃんと想像していて、何をしても嫌いになる人がいるのもわかっていて、それでも写真には愛が写っているので、こういうものを信じるのがわたしの人生で唯一意味のあることだと心から思うので、いろいろ、まあいいか。と思う。

翌日は東スポ裏通りでのインタビュー連載の特別回ということで、としまえんへ。わたしがデビューしたときに広報として担当してくれただいすきなお姉さんがゲストで来てくれて、一緒に空中ブランコやカルーセルに乗った。髪の色がちょうど同じくらいの赤色で、きょうだいみたいで嬉しかった。雨の遊園地はいくら子供がいてもどこか廃墟感があって、夢を見終わった後みたいな危うさがあって好きだと思った。
そのまた翌日は写真展の会場の下見をして(こぎれいで居心地のいい場所だった)夜は里咲りさちゃん、姫乃たまちゃん、安田理央さんを迎えてトークイベント。りっちゃんは明るくおちゃめで愛くるしいのにとてもしっかりしていて、いつ会っても飾ることないすてきな女の子。サービス精神が旺盛なひとって結局誰よりも優しいんだと思う。私も、デビューから1年半、もはやなにも嘘なんかつけなくなってしまった自分で、本当の気持ちをばらし続けるようにここにいられて嬉しい。やさしいあなたが懲りないでいてくれるなら、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

Japan Adult Expoは二年目の参加。たくさんの、第一線で活躍するAV女優さんが一堂に会する場で、集団行動にいつまでも慣れない私は終始びびりながら、それでももっとガチガチだった去年よりはずっと居心地がいいことに安堵する。二日とも、ヘアメイクさんがお祭りらしい可愛くてふざけた髪型にしてくれたのが嬉しかった。個人的にもとてもとても素晴らしい出来事があり(色恋沙汰とかではないです)ちょっと、夢見たいな時間だった。心につよくつよく光り続けるお守りをいただくような。
光り続ける、といえば、ミスiD2018を受賞して、審査員の方々にいただいたコメントの数々があまりに光の言葉でした。思いやりにもそれ相応の尊さがあるのだけれど、全肯定のために探し出された言葉にはそれだけで本人の意思とも関係なく永遠に光り続けるような性質があります。私も死ぬまでに一つでも多く、自分の魂のなかから光の言葉を探し出したい。
応援してくれているみなさんからいただいた中にも私はいくつも見つけてきたから、きみも私を照らすストロボのようです。思うよりも暗い道を来たんだよ、でもきみがいるからもう平気なんだよ。

阿部遥さんという女性がつくった「あおみのゆいごん」という舞台を、友達の中尾有伽ちゃんが出演しているので鑑賞。忘れられていくということ、忘れていくということ、「忘れないよ」と願うこと事態が永遠というものの不在を知ってしまっていること、「忘れるはずがないだろう」と思ってしまった一瞬のことを本当は「永遠」と呼ぶこと。
赤子のように泣く鈴ちゃんと、それを見守る美しい心の友人たち、そして終演後に泣き顔のままご挨拶をされた主催の遥さんがほんとうにきれいで。舞台というよりは、遠く遠くの愛しい時間をうつした写真を、スライドで一枚一枚水色の窓に投影していくようで、とても好きだった。通路を通っていく人たちの中であなたは過去になってしまうのかもしれないけれど、私も通路だから、すずちゃんのこと生まれる前から愛してるし時間の概念もない世界で一緒に生きているよ、これからも、ずっと寂しいままでいてね。

そのあと祖師谷から東中野に移動して、閉館後のポレポレでKAI-YOUコラムの写真撮影。飯田えりかさんと、編集の長谷川さんと、マネージャーさんと、ポレポレの小原さんと、そして縷縷夢兎のかなえちゃん。好きな人たちと内緒話をして、映画館を秘密基地にして、たぶんちゃんと光も影もあって、話が初めにもどるけど「ルーザーズ・クラブ」のようだった。そう思っているのが私だけでもいいな。ミスiDフェスで着させてもらった、大森靖子ちゃんも着ていた黒い縷縷夢兎。



オフショットを見ていると、なんかシン・ゴジラのようだな。と思う。そして、とても好きなメイクさんがわたしのシン・ゴジラの感想ブログを読んだあと、「ゴジラのほうに共感しちゃってるじゃん。」と言ったのを同時に思い出す。そうなんだよ、実は、そうなんだけど、そんなへんなこと誰にも気付かれなくていいと思っていたから、「そうだよ。」と言えることが嬉しかった。
あのブログ、あらためてどなたかが広めてくださったようで、たくさんの方に見ていただけてよかったです。

JKシンガーソングライターのシバノソウさんの定期イベントにお呼ばれして、ゲスト出演。AV女優がJKのイベントに出ていいのか…?という疑問は私も抱いているのだけど、もちろん内容的にR18な要素はないのでご安心を。シバノさん、人間何回目だろう、と思うほどしっかりしていて、強さと可憐さとユーモアを併せ持ち、そしてソングライティングも歌もしゃべりまでもが才能に溢れてる。神様に、何事かを為すべく祝福された子なんだろうな、と思い、釘付けになる。
へたくそながら、思いを込めて「マジックミラー(大森靖子)」と「丸の内サディスティック(椎名林檎)」を歌わせていただいた。シバノさんのギターは当たり前にうまく、声はセクシーでとことん敵わない。いい歌だなと思う歌を歌うと泣きそうになっていつもしかめ面になってしまう。マジックミラーはそういう歌。

話したいことがたくさんたくさんあった気がするけれど、日々のこまめなメモをのがすとこんなふうになってしまう。映画はあまり見れていないけど、たくさんの好きな人たちに会えた幸福な一週間でした。昨日はSODstarの撮影で、やっと本業。楽しい。
ちゃんとチューニングを合わせて、ぜんぶわかってそれから笑っていよう、それから君と出会おう、と思う。トークイベントでも言ったけど、いらいらだかムラムラだかしているところの、下半身まるだしの格好つかないきみに、わたしもかっこうつかない姿で、画面越しに会えるのが嬉しいです。本当にそう思う。えへへ。

思ったよりしんどいことも、思ったより素敵なことも、思った通り難しいことも、思っても見ないほどの驚きも、毎日いろいろあるけれど、今日までおつかれさまです。明日からもまたよろしくね。毎日を祝福していたい。さて、コラムの続きに戻ります。



おやすみなさい。

みなさん、こんばんまこりん🌸

先日、SODの大先輩で言わずもがなだいすきなまなてぃさん(紗倉まなさん)原作の映画、「最低。」(瀬々敬久監督)の試写に行かせていただきました。

東京国際映画祭での上映もみなさんの記憶に新しいと思います。(きらびやかにドレスアップした主演女優のみなさんと、控えめな黒のロングドレスに身を包んだ紗倉まなさん、みなさん本当に美しかった…!)

各地で絶賛されているのも納得の、本当に素晴らしい作品で、私も拝見したときほろほろと涙が出ました。

原作小説の感想は、一年以上前にもこのブログでお話しましたが、映画の感想をあらためて。

ネタバレもやんわり含むので、OKだよという方のみお進みください。







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「最低。」

 どういうふうに在れば、「生きている」ことになるのかしら。
私たちはいつも考えている。いつか考えなくて済むような、穏やかに赦された日が来ればいいと願いながら、目の前には今すべきお仕事があり、それがなんの役に立つのかも実のところ解らない。「それで?」それでも、生きて行くほかないなんて。

 大げさな理由もないままで、この道が登っているのか降りているのかわからなくても、もう、どうでもいいかなと少し、わらって。
 
 紗倉まなさんのデビュー作「最低。」を読んだ時、どろりとした生ぬるさが残った。人生を俯瞰するつめたい眼差しを極限まで薄くのばした日々の一枚一枚を、重ねて、重ねて、重ね尽くしたらリアルな体温になるのか、と。すました顔の内側にはこの温度の、透き通りもしない名付けようもない色をした液体が詰まっているのだと。
 そして、この秋それが映画になった。4つの短編のオムニバス小説だったものが、それぞれの人生が交錯し合うひとつの長編として、もう一度生まれた。
 AV女優の話、と聞いて、どろどろとした悲劇や転落劇を想像する人も少なくないと思う。インタビューを大げさに脚色するライターも、勝手な想像で不幸な人間だけが入る世界だと思っている一般の人もたくさんいるものだし、まあ、人前で裸になってセックスをしてそれをビデオにして販売するなんてどうあっても非日常なわけで、誤解も、いろいろ、仕方ない。
 だけど、どんな職業においてもただ普通に、「それに就くに至る理由がそれぞれ違う」というだけのことでもあって。そんな、AVに関わった人々の「それぞれの人生」を、肌に触れそうな近さで、不安を指でなぞっていくような速度の手持ちカメラで、撮影器具の無機物としての冷たさで、この映画は繊細に切り取っている。
 
 家族に内緒でAV女優として働く彩乃、平坦な日常に耐えられずAV出演を決める主婦・美穂、かつてAV女優だった母親の奔放さに振り回され居心地の悪さを感じ続ける女子高生・あやこ。AVに出るという、ある意味それだけでドラマになってしまいそうな事柄が、あくまで私たちの生きている日常の延長線上にあって、誰かはそこに救いを見出し、誰かはそれによって絶望し、誰かにとってはいつか「ふつう」のことになってしまう。その「異常さ」と「ふつうさ」が、「良いことであること」と「良いはずがないこと」が、きちんと同軸に当たり前の顔をして存在しているというだけで、この映画はとても信頼できると思った。

 わたしもAV女優をしているけれど、出演した理由も生活の温度も抱える悩みもこの中の誰とも違っている。それは、原作者の紗倉さんも、彼女が小説を書き上げるまでに見てきた無数のAV女優さんたちも皆それぞれそうだと思う。
 それでも、生きているとわかってくるのだ。人生における選択に、「良いだけのことも悪いだけのこともない」ということが。ただ生まれてきたというだけで、無数の選択をしていく権利がもらえてしまうことは、とても苦しく、贅沢だ。そして、結局どれほど周りと密接につながりあっているように見えても、その人の人生はその人の自己責任で、騙されたとしても間違えたとしてもその人だけに嘆く権利があり、困り果てる権利がある。
 ここに描かれている彼女たちだけでなく、誰もが、生まれた時からきっと悩んでいて。居場所も自己肯定感もなくて当たり前の世界で、幸福へのわずかな可能性をかけて、彼女たちは見えない博打をうつ。気楽なつもりになってみると、人生なんて全部博打みたいなものだから、と笑えるような気もするけれど、生きて行くうちに家族や伴侶や友人など、博打に巻き込んだらいけないような人たちが増えていくほどに、臆病になったりもする。それでもちょうど、「博打を打ってみた側」のひとたちのことが、この映画が存在することによって覗き見れるようになったのだ。
 
 あそこにいるのは、別の世界のひとじゃない。ただのフィクションでもない。実際にその選択をして飛び込んだ世界で見てきたものを描いた本を、さらさらと深くまで潜り新たなエンディングに結び直したことで可視化された、生身の鼓動の音なのだ。極端な悲劇でも喜劇でもない、日々を生きているすべてのひとたちにほど近い、薄ぼんやりとした現在の話なのだ。
 
 テレビも週刊誌も極論を煽り、絶望か希望かの二択でシーソーゲームに興じる昨今、私たちはこの「どちらでもないこと」を忘れてしまいそうになる。「平凡」と「非凡」を切り分ける。「あちら側」と「こちら側」を切り分ける。この映画の中で、まるで私たち皆のように不器用に生きる彼女らの、「どちらでもない」叫びが聞こえただろうか。これで良かったのでもなく、こうするべきでなかったとも思えない、それでも、生きていくほかないなんて。そんなうなだれる姿すら、どうしてか、光に見えた。
 
 瀬々敬久監督が原作の続きとして新たに織り上げたラストシーンは、まさにそんなどっちつかずのただの光がどうにも目映く、心の奥深くからの涙を誘いだすようだった。
 美穂、あやこ、そして彩乃の日々は、めでたしめでたしのエンディングには収まらない。収まるはずがない。割り切れない選択をして、割り切れない反応を受け、割り切れない今を生きて、この映画が終わった後にもずっとずっと続いていくのだから。としっかりと言われているようで、それがとても良かった。
 愛をもらったり、もらえなかったり、捨ててしまったり、つい落としてしまったりもするけれど、また探して、思わぬ場所で見つけてしまうような明日が来たらいいな。と、彼女らに対して、そして彼女らとともに悩める日々を生きる全てのひとに対して願わずにはいられない。自分自身にもそう願ってあげられるような気がした、優しくてたおやかな温度を保った映画だった。

 キャスティングもすばらしく冴えていて、特に佐々木心音さん演じる彩乃の焦燥感と肉感のある魅力が胸に刺さった。笑顔を作るのが苦手な女の子みたいな、笑い方をするのだな、と。今作で本格的な演技に初挑戦したという山田愛奈さん演じるあやこも、ほんとうに記憶の中で教室の隅にいたかと思うような、思春期の痛みと切なさを人の形にくりぬいて持っていた。
 美穂を演じた森口彩乃さんを含め、主演をつとめた女優さんみんながどこか頼りなく、誰か守ってあげてほしいと願わざるを得ない不安定さを持っていた。そんな胸を苦しくさせるような彼女らの存在感も、この映画が私たちの割り切れない心の隙間に染み渡る傑作となった大きな大きな所以だと思う。

 なによりも、今この時代に、こんなにも壁を作られやすいある世界と「ふつう」の世界の境目を、ぼかしてくれる映画が生まれたことに対する祝福がこの胸を満たしている。同じ世界に生きていて、誰もの悩みや葛藤が、またほかの誰もの心を救う可能性があるのだと、私たちは知ったわけで。
 それがこんな、思い出すと光として思い起こされるような美しい映画でよかったな。と、心から思う。
 そうね、"ああ、割り切れないな。"と思うたび、「生きているな」と知るものね。







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劇場公開は11/25〜。

公式HPはこちらです。(http://saitei-movie.jp )

通りかかった角川シネマにも、大きな看板が出ていました。



確かな温度で人を救う映画なので、どうか、必要としている人に一人でも多く届きますように…!






🌸まこりん🌸

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