完璧な日も不完全な日もあって当たり前の毎日だけれど、完璧な日になる予感がする朝が好きなのは、愛する誰かを想いながら歩く道のあの軽やかな流れ方、階段のステップのまぬけなジャンプ、雨でも晴れでもいいような煌めく街に、歩道橋だってステージライトに照らされているように佇むから。あの階段を登りきったらいつか、僕らが欲しがった愛や夢や希望なんかがダイヤモンドみたいに固まってころんとこの手に授与されるんじゃないかと思う、そんな散歩道があるから。
まあそんなのは羽ばたくばかりの妄想だとして、今日の目覚めは素晴らしく。相変わらずお洗濯もお片づけももそもそと歯切れ悪くなんとかこなすけれど、いつか誰かのためならもっとご機嫌にやってあげられるような、あるいはだれか軽やかにやってくれる日が来ないかしらなんて想いながら、こんなだめなやり方も嫌いじゃない。今年もクリスマスは友達とラーメンでもすすっているかしら、とさんざんみんなに笑ってもらったあとで、ほんとうはそんな過ごし方が好きだし、 愛はいつも心に宿るもので、言葉も形もいらないわけで。
 私の今年のひそやかな目標、そして予感は、あの素晴らしい愛をもう一度。という言葉に秘めてありました。それは誰かに恋をするとか、恋愛的な意味や色っぽい意味でもなんでもなくて、ただ、日々がなんとなく美しいな、愛すべき人たちが暮らしている街だな、いつもなるべく優しくいたいな、というような、当たり前でささやかな愛を心に取り戻すということでした。
 表参道も発光ダイオードを行儀よく巻かれて、年の暮れに突入する準備も整ったころに、ほんとうにすてきな一年になったな、それはほんとうに全部があなた、あなた、あなた、少しでもそばにいてくれた全てのみなさんのおかげだな、としみじみ嬉しくなるのです。

 今日見たアニメ映画のゴジラも「もう一度」、というお話で、私たちはいつでも現実と切り離されたSFの世界に自分の内面世界を重ねます。
余裕がないと人を愛せないよね、とはよく言ったものですが、きっと一生かけても本当の余裕なんてなく、余裕がなくたって人を愛したいと願うのがかなしい人間の有り様です。そして、それがきれいだなんて思うのです。
誇りや優しさから順にやせ細っていくからこそ、誇りと優しさ以外の何が一体大切なのかを問うていたい。いつも言葉は自分自身にいちばん鋭くなにかを教えて指先から溢れるほどに過ぎ去っていくので、私はこうして忘れないように日記を書きます。人生は、何も愛さず何も為さないのならあまりに長く。何かを愛するのであれば、あまりに短いのだと日々思い知ります。一瞬の流星みたいに。
そんな中で、たとえば目の前のあなたと共に在る時間などひときわ短く、瞬きの隙間にいなくなってしまうかもしれないと覚えながら、それならここで今何を見せられるだろう、一緒に何を見ていよう、と、考えているうちに休日などは終わります。ほら短い。本当に短いから、退屈なんて忘れてしまったな、と、この一年でもずいぶん変わった居場所を具象として見ながら思うのです。

 これを打っているノートパソコンの、ちょうど右手と左手が乗る部分に1匹ずつドラえもんのシールを貼りました。左手のほうに「LOVE」と書かれたドラえもん。右手の方には「FUTURE」と書かれたドラえもん。もう一枚セットになっていたシールには「PEACE」と書かれたのがいました。愛と平和と未来を同時に背負ってきたなんて本当に大変なものだな。と思いながら、やっぱり何かに頼っていたいのもわかる気がして。
六本木の森アーツセンターギャラリーでは「THEドラえもん展」がやっています。月も卵子もドラちゃんと同じまんまるだったな、と思わせられてちょっとエロいと感じてしまった。
 ドラちゃんなんて、あらゆる人の、「君がそばにいてくれたらなあ。」という感情をたぶん日本で一番浴びてきた存在で。まあ実際は架空の猫型ロボットだしそばにいてくれるはずないのだけれど、ああだめかも、と思う時にふと空の青と雲の白なんかを見て「君がそばにいてくれたらなあ。」と呟くだけで本当はよかった。星に手が届かずとも一粒の豆球が私には同じようにまぶしく、もしもその電球が星になりたいなら私の眼(まなこ)のなかでだけ星にしましょうと思うのです。懲りずに。
君がそばにいてくれたらなあ。なんて、ふと思うくらいその誰かに対して安堵しているなら、それはもうとっくに、心の方がそばにいるんだよ、ということです。

 なのでなぜか心は全く寒くないおなじみ独り身の冬が来まして。友達は「寒くなると寂しくなる。」と繰り返す。すごくわかるけど。
電飾をぐるぐる巻いて写真を撮影したから、とりあえず私が光になる。誰かにとっては滑稽なまがい物でも、ねえ恥ずかしいからうろ覚えにしていたいけど鮮明に覚えている、誰かが君は誰かの光になれると言うから、そんな気もしないけどなんとか頑張ろうと思う。
 たぶん、明日更新のKAIYOU映画コラムは静かな告白で。愛の告白ではなくて、生き方の。人生に意味があるのかなんて、また来月にでも話すけれど、探さなくていい、意味なんてなくていい、意味がないなら生きていたくないなんて言わないで。って、どんなに言葉を尽くしても伝わらなかった想いだけ、今も背負って生きている。

 アニメのゴジラとの戦い方を見ていて、「ワンダと巨像」というゲームを思い出した。私はあのゲームを自分でプレイする勇気がいつまでもなかったけれど、プレイしているところを見るのは好きだった。何かが悪で何かが正義、という二極論にはいつもいまいち賛同しきれず、相反するものの両方から物事を見ないとなにか一番見逃してはいけないものを見逃す気がしている。だから大地と一体化した巨大な像と、そのうちのわずかな弱点を探し勇敢に立ち向かうワンダの両方にどこか共感し、両方を友達のように愛しく思ったので、いつも泣きながらゲーム画面を見た。
ほんとうの最後に何よりも賞賛されるべくは心の綺麗さのみだと私は信じきっているけれど、人生の時間の許す限りはなるべく多くを肯定したい。わたしの肯定なんかなんの足しにもならないなら、一瞬の腹の足しにでもなれるよう今自分を生きることを頑張るしかない、いつもそういうことで。


 こんな気持ちの良い休日に、やっぱり一人でいるときがどんな時よりも素直で、なんでいつでも素直な自分でいられないものかなと思う。
 来年の目標は、「いつも素直に笑っていること」にしたいと思います。まだあと1ヶ月あるけれど。