August 16, 2017

平成29年8月15日終戦の日(下)酉年は荒れる年

2017.8.15【終戦の日】一家6人、満州から日本目指し引き揚げ 略奪や虐殺…止まらぬ涙 群馬・下仁田の佐藤和江さん(久保まりな、風間正人)

http://www.sankei.com/life/news/170815/lif1708150012-n1.html

長い戦いの終幕は苦しい新生活の始まりで当時、満州国(現・中国東北部)にいた推定155万人の民間邦人は生活が一変、命を失い、全財産をなくし、追われるように日本を目指した。満州の首都・新京(現・長春市)で生まれ昭和21年秋、家族と引き揚げてきた群馬県下仁田町の佐藤和江さん(81)が−、あまり公にしてこなかった体験を語った。

 

■押し寄せる朝鮮人

昭和20年8月15日、9歳だった佐藤さんは、満州と朝鮮国境の町、大栗子玉音放送を聞いた。「日本が負けるなんて」2週間ほど前、新京から逃れてきた日本人たちは全員が涙した。だが放送が終わった途端に状況は一変。棍棒やナタを手にした朝鮮人が押し寄せ時計や指輪、財布から屋根裏に隠していた荷物をさらっていった。朝鮮人だけでなく、日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦したソ連軍、中国人などに若い女性や所持品を狙われる逃避行が始まった

 

−佐藤さんの父が宮内府職員(馬事技官)だったため情報入手も早く、敗戦前に皇帝一族や宮内府職員らと新京を離れたのだった。新京駅南満州鉄道自慢の特急列車「あじあ号」に乗り込むときの光景を、佐藤さんは鮮明に覚えている。「‐新京駅へ行くと、大勢の人でごった返していて『乗せてくれ』と頼んでいた。動き出す車窓から残された日本人を見て、子供ながらに心が痛んだ。あの人たちはどうなったのかなって」佐藤さんが長年、満州での体験について口を閉ざしてきたのも、このときの後ろめたさからだった。

 

■女をさらうソ連兵

あじあ号で大栗子まで来たものの線路が破壊されて先に進めず、終戦を迎えた。あとは歩くしかない。同胞と関東軍司令部のあった通化を目指した。6人だった佐藤さん一家は父がリュックの上に当時4歳の弟を背負い、母が3歳の妹を背負って7歳の弟の手を引いた。佐藤さんはリュックを背に、父の手を握った。途中、満州国の紋章をつけた朱塗りの車や馬車の装飾品を戦利品のように積んで通り過ぎるソ連軍に遭遇した。宮内府職員は泣きながら見送った。長い行程、重さに耐えかね荷を捨てる人も相次いだが、周囲には常に現地人が取り巻き、全部持ち去っていった日本人のいた宿舎に落ち着いた際は連日、ソ連兵が空砲を鳴らして女性をさらいに来た若い女性は男装のうえ地下に隠れ、大柄だった佐藤さんの顔を母は真っ黒に汚した。徒歩や無蓋列車で動く道中、亡くなった3歳の男児を離さない母親がいた。死臭が漂い説得して埋葬したが、母親は狂ったように泣き続けた。

 

■通化事件で父も拘束

ようやく通化に着くと、蒋介石の国民党軍と共産党の八路軍との市街戦が起きていて、室内にいても飛び交う銃弾の「ヒュン」という音が聞こえた。身を縮めて過ごしていた21年2月、通化事件が発生し、父が八路軍に連れ去られた。通化を占領した中国共産党の横暴に対する日本人の蜂起、そして鎮圧、その後拘束された日本人らへの虐殺事件16歳以上の男性は拘束され、佐藤さんの父は民家にぎゅうぎゅう詰めに押し込まれ、騒ぐ者は容赦なく銃弾を浴びた。父は3日後に解放されたが、防空壕に収容された人々は窒息死した遺体の服は中国人に持ち去られカチカチの遺体は川に山積にされた犠牲者の総数は2千人とも3千人ともいわれる

 

そんな中、妹が病死する。突然、発熱し父が必死に探した日本の薬を飲ませたが、1時間後に息をひきとった。21年5月24日午後9時、まだ4歳だった。「小学2年の弟と一緒に土葬しに行き、日本に引き揚げるときに遺体を掘り返し、燃やして残った遺骨を持って帰ってきました。遺骨は本当に小さかった」

 

■もっと大変な人々も

ようやく大陸を後にするのは同年10月。葫盧島(現・中国遼寧省南西部)から長崎の佐世保へ貨物船で約2週間見えてきたのはソ連兵に狙われることもなく、ナタを持った朝鮮人や中国人に追われることもない日本人だけの国だった。「貨物船からポンポン船に移って見えた日本の山、海は本当にきれいだった。こんないい国はないです」9歳まで過ごした満州は水洗トイレなども完備された先進的な大地だった。「良い思いもしたけど、とても怖い思いもした」今も外国に行くと夜、外出することができない。

 

戦中の日本は各地で大空襲があり、広島と長崎には原爆が投下された。満州でも混乱の中、男たちをシベリアなどに奪われ、命からがら逃げてきた満蒙開拓団や残留孤児たちもいる。「その人たちは、もっともっと大変だったんです」毎年8月になると、6日と9日、そして15日はテレビの前にくぎ付けになる。「夫には、また泣いているとからかわれる」と言いつつ、涙が止まらない。

 

【満州】日本の3倍、民間邦人155万人が生活

満州国は旧日本陸軍の関東軍による満州事変から半年後の昭和7(1932)年3月、建国された。現在の日本の約3倍にあたる広大な地に新しい国を作るという壮大な試みで、順調な経済発展を遂げ、中国人や朝鮮人らをひきつけるフロンティアともなった。しかし20年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破って日本に宣戦布告し満州などに侵攻、日本が敗れ13年5カ月で消滅した。終戦当時、満州在住の民間邦人は推定約155万人。うち引き揚げたのは127万人で、軍民合わせて約24万5千人が命を落とした。

 

戦後ソ連に強制連行された日本の将兵らは、約60万人。強制労働を課され、1割近い6万人以上が栄養失調や重労働により、極寒の地で死亡した。満蒙開拓団の総数は約27万人。多くがソ満国境に近い辺地にいた上、情報伝達も遅れたためソ連軍や匪賊に襲われた。伝染病や集団自決などを含め約8万人が亡くなった。

 

このような話のさわりを私も聞いたことがあります。

何度も酒を酌み交わしていた方が、ある酒の席でポロッと満蒙開拓へ家族で向かったこと、そして引き揚げ時に幼い兄弟を亡くして我が手で埋めたこと。

その方が亡くなった時、機会を以て近現代のその生身の歴史を詳しく教えていただいておけばよかったと悔やみました。

 

戦争は綺麗ごとでは済まされないからこそ、平和と言い換えられる様となる、世界の均衡秩序と不戦の契りが重要です。

戦争には軍人同士が戦うという不文律がありながら、どうしても国民が不幸に見舞われます。

そうであっても、従軍慰安婦問題の嘘どころの話ではなく、敗戦国民への支那朝鮮の横暴とソ連の暴挙こそが許されることではなく、してや今も北方領土不法占拠にせよ在日問題にせよ続いていること、その事実を知り、今という時代に挑まなくては(今という時代を生き抜かなくては)なりません。

全てを法で裁くことが出来ずとも、この世にそういった事実があることは見過ごしてはならず、日本の本当の姿が照らされてこそ、日本国民は凛として(古来日本人として)世界に立ち向かわなくてはならないのです。

これこそが、日本を守るため先の大戦で尊い命を捧げ、靖国に祭られた英霊に示さなくてはならない誠意となるのです。

 

2017.8.15【終戦の日】靖国神社周辺では多くの団体が集結 警視庁が警戒強める

http://www.sankei.com/affairs/news/170815/afr1708150013-n1.html

72回目の「終戦の日」を迎えた15日、靖国神社(東京都千代田区)周辺には朝から多くの市民団体が集まり、警視庁の機動隊員らがバリケードを設置するなどして警戒に当たった。路上には警備車両が並び、一部の道路では交通規制も実施された。

 

東京メトロ九段下駅から靖国神社に続く坂道には、自衛隊を憲法に明記することを求める団体や、台湾の独立運動の支援団体などがのぼり旗を掲示。‐参拝者にチラシを配ったり、署名を求めたりしていた。

 

靖国神社周辺では例年、終戦の日に合わせて複数のデモが行われる。過去には靖国神社を批判する活動家らのグループがデモ行進し、右翼団体や保守系市民団体と衝突するトラブルもあり、警視庁は警戒を強めている。

 



815 終戦の日】英霊に感謝し、靖國神社を敬う国民行進

チャンネル負けるな安倍総理

 

2017.8.14【正論・戦後72年に思う】戦後初めて日本は、米国追随でなく自らの意思で将来を構想しなければならない岐路に立たされた 京都大学名誉教授・佐伯啓思

http://www.sankei.com/column/news/170814/clm1708140004-n1.html

≪平和・従米・繁栄がワンセット≫

戦後72年である。ただ1945年の8月15日には戦闘は終結したものの、その後、日本は連合国の占領下におかれるので、主権国家としての「戦後」は52年4月28日に始まる。戦後65年が正確なところであろう。従って、占領下という、戦時中でもなく戦争終了後でもない、いかにも中途半端な「戦後」に生まれた者も、おおよそ高齢者というカテゴリーになだれ込み、年金やら介護やらで、社会と財政のお荷物になりつつある。本人たちは、戦後日本を支え、平和国家を実現し、経済成長を達成したのは、この中途半端な戦後世代の努力の賜物だ、というかもしれない。これまでの貢献とこれからの負荷と、どちらが大きいかは不明であるとしても、「戦後」を象徴する一つの世代が徐々に退場することに間違いはない。実は、私もこの中途半端な戦後世代に属するので、この年になると、改めて戦後とはどういう時代だったのか、と考えたりもする。

 

戦後をかりに52年から始めるとすれば(沖縄ならば72年からということになるだろうが)、ひとまず大きくまとめると、それは、憲法上の平和主義と安全保障上の対米従属と経済上の物的繁栄がワンセットとなった時代であった52年の講和条約締結にさいして米国による憲法改正の打診を拒否して、平和憲法の維持と対米従属と経済第一主義を採用した吉田茂首相の選択から戦後は始まった。いわゆる吉田ドクトリンと呼ばれる軽武装・経済中心路線である。

 

≪われわれは何かを選択したか≫

もっとも戦後にもいくつかの段階があり、それぞれの時点での選択肢があった。

 

第1段階は、高度成長とその終焉である。70年代の初頭はまた、ベトナム戦争やブレトンウッズ体制の崩壊にみられる米国の凋落、世界的に石油ショックもあり環境や希少資源が問題とされた時代でもあった。日本でも高度成長は終わりをつげ、その象徴である田中角栄氏が失脚した。

 

第2段階は、混乱の70年代を経て、日米間の緊密な経済協力へと行きつき、バブルに踊った80年代である。この虚飾の宴は90年代の初頭に終わる。それはまた、世界的にみて冷戦の終結であり、グローバリズムの始まりでもあった。

 

第3段階は、米国主導のグローバリズムとIT革命、それに金融中心経済に翻弄された90年代から2000年代にかけてである。その結果が、08年のリーマンショックであったが、さらに日本の場合には、11年の東日本の大震災に見舞われる。とりわけこの大震災は極めて重要な意味をもっていた。それは、例外的な1回限りの事態ではなく、1995年の阪神大震災も含めて「巨大災害の時代」の始まりというべきであった。

 

「戦後」という時間をざっと眺めても、これぐらいの区切りは容易にできるだろう。ではその時々で、われわれは何かを明確に選択してきたのだろうか。憲法改正もようやく論じられるようになったし、日米安保体制に関する議論も提起されたものの、大きくいえば平和憲法、対米従属、経済成長主義、という3点セットはほぼそのままであるこのサンフランシスコ体制とでもいうべき事態を、第1次安倍内閣の言葉を借りて「戦後レジーム」というならば、それは65年たっても継続している

 

≪全てを問い直さねばならない≫

だが、今日、その全てがもはや自明のものではなくなっている中国との軋轢北朝鮮問題、「イスラム国」などによるテロの拡散平和憲法への重大な挑戦であり、米国のトランプ大統領の登場は、米国の政治そのものの信頼失墜を意味し日本の人口減少や高齢化によって、経済成長をもはや自明の価値とはできなくなった。振り返れば、われわれは戦後のいくつかの節目で、自らの進路を自らで決定するという意思を示すことなく、ほとんど状況追随であり、とりわけ米国追随的にことを済ませてきた。70年代の高度成長終焉後も、その後、多少の混乱と日米経済摩擦はあったものの、結局、80年代後半の米国への政策協力へと至り、90年代のポスト冷戦とグローバル化の時代もまた、構造改革などを経て米国経済への追従となった

 

しかし、今回はそういうわけにはいかない。米国が切り開いたグローバル競争はあまりに問題を孕み、国際情勢は不安定に流動化している。しかも先進国の先頭をきる人口減少と巨大災害という日本独特の事情を考慮すれば、われわれは、憲法、日米関係、グローバル競争による経済成長主義の全てを一度、問い直さねばならない世界の状況に追従するだけではうまくいかない答えは容易ではないにせよまずはそれらを論議の土俵に乗せる必要はある戦後初めて日本は、自らの意思で将来を構想しなければならない岐路に立たされているようにみえる。その論議を若い世代に手渡すのも、退場しつつある中途半端な戦後世代の責任というべきであろう。

 

今年は酉年です。相場の諺に「申酉騒ぐ」とありますが、酉年は荒れる年だそうです。

私の身は今年荒れましたが、皆様の身の回りはいかがでしょうか。

一昨年、平成27年(2015)、戦後70年として安倍談話が発せられました。

昨年、平成28年(2016)、参議院選挙により憲法改正案が発せられる3分の2議席を安倍政権下で獲得しました。

どちらも元年の兆しを放ち、今年は何の元年となるのか。

今年、平成29年(2017)、まず53日憲法記念日に安倍首相が自由民主党総裁として憲法改正を国民に向けて発議しました。

憲法改正には国民投票、つまり国民の理解が必要だからです。

その後、偶然といえるのか、マスコミは一斉に打倒安倍政権の報道を視聴者に送り続けています。

例えばテレ朝の「しくじり先生」というタレントが失敗を面白可笑しくプレゼンするバラエティー番組で、女子プロレスラー・神取忍さんが準備不足でありながらタレント議員になった話があり、その時の候補面談をしたのが幹事長時代の安倍首相だったのです。

活舌を悪くした物まねを交え、時の総理の足を引っ張る仕掛けにマスメディアの厭らしさを感じたのは私だけでしょうか。

私が感じる今年の元年は、前出の憲法改正国民投票のきっかけではなく、既存のマスメディアの凋落です。

これはある意味、文春砲をはじめとしたタレントの不倫報道も含めて既存のマスメディアが国民を愚劣化し、その線上で安倍政権を叩く仕掛けに表れています。

そしてインターネット放送をはじめとした新しいマスメディアの形こそが、平成29年の元年に当たるのではないでしょうか。



togyo2009 at 22:09|PermalinkComments(0)今が旬の企画もの 

平成29年8月15日終戦の日(中)「敗戦の日」という鍵

2017.8.15【終戦の日】超党派議連が靖国神社参拝 尾辻秀久会長が首相の参拝見送りに「ご英霊、理解なさる」 稲田朋美元防衛相らも参拝

http://www.sankei.com/politics/news/170815/plt1708150034-n1.html

超党派の議員連盟「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(会長・尾辻秀久元参院副議長)は15日午前、終戦の日に合わせて東京・九段北の靖国神社に63人が集団参拝した。内訳は自民党55人、民進党3人、日本維新の会2人、日本のこころ1人、諸派・無所属2人。自民党の高市早苗前総務相や山東昭子元参院副議長、政府側から水落敏栄文部科学副大臣や佐藤正久外務副大臣らが参拝した。尾辻氏は記者会見し、安倍晋三首相が平成25年12月以降参拝を見送っている経緯について「お参りしたい気持ちは強いが、国際的な影響から(見送りを)判断したのだろう。ご英霊も理解なさると思う」と語った。

 

自民党の保守系グループ「伝統と創造の会」も、稲田朋美元防衛相や木原稔財務副大臣らメンバーが集団で参拝した。このほか、自民党の萩生田光一幹事長代行、小泉進次郎筆頭副幹事長らも個別に参拝した。

 

2017.8.16【終戦の日】靖国参拝した閣僚はゼロ 安倍晋三内閣で初 背景に支持率下落や中韓への配慮か

http://www.sankei.com/politics/news/170816/plt1708160003-n1.html

72回目の「終戦の日」となった15日、東京・九段北の靖国神社を参拝した閣僚はいなかった終戦の日に閣僚の参拝がゼロだったのは、旧民主党の菅直人内閣当時の平成23年以来、6年ぶり安倍晋三内閣では第1次の19年と第2次の25年以降を通じて初めて背景には、‐内閣支持率の下落で、政権が勢いをそがれていることがある。また、核・ミサイル開発を強行する北朝鮮への圧力強化に向け、緊密な連携が求められる中韓両国に配慮したことがあるとみられる。

 

この日は安倍首相も参拝を見送り、柴山昌彦・自民党総裁特別補佐を通じ、党総裁として私費で玉串料を納めた。首相は柴山氏に「参拝に行けず申し訳ないが、しっかりお参りしてほしい」と託したという。

 

総理は「敗戦の日」にわざわざ靖国参拝すべきではない 青山繁晴(参議院議員、作家)

http://ironna.jp/article/7394?p=1

8月15日は敗戦の日ですね。終戦の日では、ないのではありませんか。これは、本稿のために考えた言葉ではない。小学生の時に胸の中で大人に問いかけていた言葉である。夏恒例のNHKをはじめテレビ定番の「もう二度と戦わない」という番組でも一斉に「終戦」と繰り返すから、口には出さなかった。何でも、相手も選ばずに、そのまま言う気の強い子供だったとは思うが、これだけは言わなかった。いや、言わなかった胸の裡の疑問はもう一つある。「もう二度と戦わない? じゃ、日本の大人は奥さんとかお母さんとかが酷い目に遭わされそうでも戦わないのかな。ぼくは戦うよ。母さんでもお姉さんでも家族に何かあれば、ぼくが子供で相手が大人でも戦うよ」長じて、安全保障の専門家の端くれになったことと、この幼い素朴な疑問とは案外に直接的な繋がりがあると思う。たまさか国会議員となり、2度目の8月15日を迎える今、それに気づいた。

 

さらに仕事上、海外の諸国を歩き回るようになると、もっと生々しい現実に向かい合わざるを得なかった。すなわち敗戦を終戦と言い、それを契機にして友だち、恋人、家族が辱められ殺されても自らは戦わないという国となった例は世界にないという現実だ。そして諸国はみな、実は敗戦国である。いつの戦争で負けたかという違いだけだ。第二次大戦で圧倒的な勝者となったアメリカも30年後の1975年には小国ベトナムに無残に負けたしかし「家族を殺されかけていても二度と戦わないという国に成り果てたのは、この祖国だけである

 

子供時代のふたつの疑問で言えば「敗戦をなぜ、終戦と呼ぶのか」ということについては、やがて「勝った、負けたという以前に、戦争という惨劇がようやく終わったという庶民、国民の気持ちも込められているのだろう」と考えるようになった。

 

例えば、北朝鮮という小なる破綻国家に同胞を奪われたまま、ふつうに日常生活を送っていく、わたし自身を含めた日本国民とは一体、どこの誰だろうか。これが本当の日本人なのだろうか。小なる破綻国家というのは、まったく侮蔑ではない。人口は日本の6分の1前後のおよそ2千万人にすぎず、GDPは日本の約3百分の1、年間の国家予算は実に約1万分の1、そして独裁者の一族がどれほど潤っていても国民生活は天候次第で餓死者も出すほどに破綻しているその隣国に有本恵子さん、横田めぐみさんをはじめ何人を奪われているかすら分からず、しかし15年も前に金正日総書記が小泉純一郎総理(いずれも当時)に公然と拉致を認めていながら、依然として誰も取り返しに行かない、いや行けないと思い込んでいるのが、ありのままの日本である。それどころか、不肖わたしが参議院の予算委員会で拉致被害者の帰還をめぐって質問すると、足音高く委員会室を出ていく野党議員、それも有名な女性議員が複数いるのが傍聴席の国民に目撃されるのが日本国である。

 

北朝鮮この日本をあからさまに侮蔑し、たった今、日本海の好漁場の大和堆に粗末な漁船で現れ、稚魚をも根こそぎ奪い尽くす網で魚もイカも勝手に取り、日本の漁船どころか水産庁の違法操業取締船もまったく無視をしている。‐この小舟、マストに北朝鮮の国旗を掲げ、お尻には軍に所属することを朝鮮語で記している。つまり日本国憲法第9条の致命的な最後の一行、「国の交戦権は、これを認めないの意味を、学校で教わらない日本国民よりも、はるかに良く理解している。敗戦後の日本は相手が国(外国)であり、軍をはじめ国の機関であれば、まさしく何をされても戦わないことを良く知っているのだ。だから海上自衛隊は何も対応していない。できない海上保安庁は奮闘して800隻以上を追い払ったが、追い払うだけであり、再び同じ小舟も平然と押し寄せてくる。日本海の水産資源は生態系ごと破壊され続け、漁家の生活は根本的に脅かされている。

 

わたしたちの日本は言霊の国である。敗戦を終戦と言い換え、「二度と戦わない」と言って済ませているために、どれほどの深刻、無残な現実を生んでいるのか。この最新の事例と同じことが繰り返し、起きている。太平洋側の東京都小笠原諸島では、漁家がおよそ40年を費やして育て上げた赤珊瑚が、これは五星紅旗を掲げた中国漁船団のやはり粗悪な網で奪い尽くされた。‐かつて島根県隠岐郡のこれも好漁場、竹島とその周辺の領海を韓国に奪わるとき、不当にして一方的な発砲で日本国民の漁家が殺害されているのに、これまでは学校で教えられることすらなかった

 

これを考えれば、8月15日にいつも決まって話題にされる「総理や閣僚の靖国参拝」も、マスメディアや学者、評論家がこれも決まって騒擾を掻き立てるほど複雑な問題ではないことが分かる。まず靖国神社は、先の大戦を含めて国のために戦った死者を祀る場所である。そこには兵士ならざる国民、例えば沖縄の学徒看護隊の少女たちも祀られているおのれのためではなく人のため、国のために死した人を政府が尊び、祈らない国はこの地球上に、日本を除いては、存在しない

 

なぜ日本だけが違うのか。それもなぜ、中国や韓国、北朝鮮、あるいはアメリカという外国から論難されねばならないのか。これも子供がまともに考えれば不可思議な話であるから、「いや、靖国参拝は駄目だ」とする根拠を補強してある。ひとつは「天皇陛下もA級戦犯が合祀されてから参拝をされていないではないか」という声高な主張である。

 

この天皇陛下をめぐって、先の通常国会では今上陛下のご譲位を実現する法を成立させるとき、野田佳彦前総理をはじめ野党の要求に自由民主党が間違って膝を屈し、付帯決議の中に「女性宮家の創設」の検討が盛り込まれてしまった。‐これに反対するために、わたしは山田宏参議院議員、鬼木誠、長尾敬両衆議院議員らと「勉強会」を連続して開いた。その講師に招いた一人が、靖国神社の神官、松本聖吾総務課長である。‐遊就館の展示課長も務めた歴史家でもある松本さんの解説は明快だった。陛下が直々に参拝されるのは基本的に多くの戦死者が出たときであり、日本は長期にわたって戦争をしていないから参拝がないのはむしろ当然です。一方で陛下の勅使が、靖国神社の主たるお祭りである春と秋の例大祭に欠かさずお出ましになっているので、陛下と靖国との関わりはまったく変わっていない」つまりは、A級戦犯云々というのは、無知を利用した言いがかりに過ぎない。

 

この解説は、安倍総理の参拝をどうするかにも繋がる。8月15日は靖国神社にとって、本当の主たる刻ではない。日本の内閣総理大臣は誰であれ、8月15日の、作られた異常な騒擾にかかわらずに例大祭にこそ淡々と、粛々と参拝し、諸国と同じように、人のため、公のために死した人を国家の永遠の責任として弔い、日本を世界標準、国際法にきちんと沿う国にする大切な一歩とすべきである。

 

 



Front Japan 桜−8.15特別版】桜創立13周年・靖國神社レポート〜小堀桂一郎氏 / 「チャンネル桜・名作選」開始 / 視聴者の問いに答える[H29/8/15]

 

SakuraSoTV

2017/08/15 に公開

72回目の「815日」を迎えた中、当日の靖国神社の様子などもお伝えしながら、先の大戦を戦った先人達に思いを致すとともに、これからの国の在り方について考える「Front Japan 桜」特別版をお送りします。

 

キャスター:水島総・眄郷緲子

■ 「チャンネル桜・名作選」有料オンデマンド配信開始のお知らせ(816日より)

■ 視聴者の問いに答える 

815日を迎えて

 ゲスト:小堀桂一郎(東京大学名誉教授)

VTR8.15 靖國神社開門レポート [平成29815]

 

※チャンネル桜では、自由且つ独立不羈の放送を守るため、『日本文化チャンネル桜二千人委員会』の会員を募集しております。以下のページでご案内申し上げておりますので、全国草莽の皆様のご理解、ご協力を、何卒宜しくお願い申し上げます。

http://www.ch-sakura.jp/579.html

 

◆チャンネル桜公式HP

http://www.ch-sakura.jp/

 

2017.8.10【正論・戦後72年に思う】昭和20年8月15日が、どうして「敗戦」ではなく「終戦」なのか 防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛

http://www.sankei.com/column/news/170810/clm1708100004-n1.html

そもそも昭和20年8月15日が、どうして「終戦」なのか。「敗戦」ではないのか。当時「国民学校」5年生の私にとって、それは紛れもなく敗戦であった。

 

≪第三者的で痛みを伴わない≫

当時、わが一家が住んでいた奈良は米軍の空襲こそ受けなかったものの、代用食と称してサツマイモを食べ、それどころか苗床のイモヅルまで食べた。米兵にはチューインガムをせがんだ。「欲シガリマセン、勝ツマデハ」の戦時スローガンは雲散霧消していた。後年調べた経済協力開発機構(OECD)の統計によると、「大東亜戦争」開戦時の昭和16年、日本の国内総生産(GDP)は2045億ドル強、米国のそれは1兆1002億ドル強。実に5倍の大差だった。しかも敗戦時の昭和20年には日本のGDPは987億ドル強、つまり大戦による疲弊のゆえに開戦時の半分以下に落ちたこれで勝てるはずはなかった

 

いったい「敗戦」がどうして「終戦」になったのか。「終戦」には価値判断が欠けており、第三者的で痛みを伴わない他方「敗戦」には屈辱感が漂う。それを教えてくれるものに、外務省編『終戰史●(●=録の旧字体)』(昭和27年5月、新聞月鑑社刊)がある。それはさながら終戦オンパレードの文献である。

 

≪鈴木貫太郎の本心は何だったか≫

まず「序」を書いた文書課長の三宅喜二郎は「…『終戰』の經緯は開戰の經緯とともに、太平洋戰爭史の重要な一環であることは勿論、…現代日本史のクライマックスであつたと言える」と書く。また、‐玉音放送当日の首相・鈴木貫太郎海軍大将の「終戰の表情」も収録されて、「…余としては今次の戰爭は全然勝目のないことを豫斷していたので、余に大命が降つた以上、機を見て終戰に導く、そうして殺されるということ」とある。

 

私見では、これでは辻褄が合わない。鈴木貫太郎は本心では「終戦」ではなく「敗戦」と書きたかったのではないか。「全然勝目のない」戦いとは「敗戦」である。その鈴木首相について当時の内閣書記官長・迫水久常は「降伏時の眞相」(自由国民、昭和21年2月号)にこう書いた。「鈴木總理大臣が組閣當初から終戰の計畫をもつておられたかどうかは自分にはわからない。しかし、…總理は單純に戰爭遂行の一本槍ではなく深い決意を持つておられたに相違ない」その「深い決意」とは何だったのか。わが国の「敗戦」を決意することではなかったか。終戰史●(●=録の旧字体)』には同じ迫水の手記「降伏時の眞相」も収録されていて、ポツダム宣言受諾前後の経緯が詳述されている。表題の「降伏」とは「敗北」、従って「敗戦」に他なるまい。ところがなんとしたことか、右の文中には「終戦」がたびたび登場している。

 

≪私にとっては悲しみである≫

法的に「終戦」が定着したのは昭和42年「引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律」制定時のことで、同法により8月15日が「終戦日」と呼ばれることになった。さほど古いことではない。問題は昭和20年、21年という戦後初期にある。それは共同無責任体制時代であった。あるいは先掲の鈴木貫太郎、迫水久常の例にみるように、「物言えば唇寒し」という心理の時代であった。

 

第二次大戦のもう一つの敗戦国ドイツではどうだろうか。ドイツ語では「終戦」はさしあたり「クリークスエンデ」と訳せられるが、これは戦争終結の時点を指すのであり、「戦いを終える」といった動的含意はない。つまり「終戦」は独訳不能である。他方、「敗戦」は「ニーダーラーゲ」と独訳可能である。そこで「敗戦」がどう理解されているかなのだが、パリに在るドイツ史研究所のハンス・マイアーは『敗戦と解放・1945年5月8日とドイツ人』(1996年)を書いている。つまり日本では「敗戦」が悲しみと捉えられるのとは逆に、ドイツでは「解放」「喜び」と受け止められている。また85年5月8日に当時のフォン・ヴァイツゼッカー大統領はドイツ連邦議会で有名な「5月8日は解放の日だった」と題する有名な演説を行い、この日がドイツ人にとっては「ドイツ史の歩みを反省する日」だと語った。

 

「敗戦」について日独の受け止め方は、ほぼ正反対といえるだろう。悲しみと喜び。昭和20年8月15日の「敗戦の日」は私にとっては悲しみである。私の世代は「国民学校」に学び「小学校」を知らない。そこで行われたのは、文字通り軍国主義教育。二度とそういうことがあってはならない。だから日本は戦争に「敗れた」のであり、戦争が「終わった」のだという気はない。

 

815日を、「終戦の日」ではなく、「敗戦の日」と語りたい。

しかしまだまだ「8月15日は終戦記念日」だねと世間の皆さんと話しながら、日本の姿を伝えざる得ないのです。

大東亜戦争は太平洋戦争、支那事変は日中戦争、こうやって言葉を砕いて(咀嚼して)話さなくては周りに響かない場合が多いのです。

日本の戦いは終わっていない、欧米列強そして中共との攻めぎ合いは幕末維新以来続いています。

日本と最も近い朝鮮半島は38度線で冷戦の状態であり、これが韓国と北朝鮮からの挑発を招いています。

片や従軍慰安婦問題をはじめとする歴史戦と我が領土・竹島占拠、片や国民の拉致という国を挙げてのテロ行為と核弾道ミサイル発射の挑発行為。

これを終戦の姿というよりも、まさしく戦時です

日米安全保障による国内の米軍基地は、日本の現状をみてもやむを得ない状況であって、クラウゼヴィッツの「戦争論」にあるように、「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」であるならば、この軍事バランスが今の沖縄の姿を映すのであれば、その抗争でさえ戦時を顕わします。

 

815日は先の大戦で礎となった英霊を奉ると共に、日本の今の姿を肝に命じ、そして英霊に恥じないように未来永劫この国を守るよう、国民としての務めをあらためて誓いたいと思います。



togyo2009 at 18:13|PermalinkComments(0)世界の中の日本の今 

〈【インパール作戦70年】〉

【インパール作戦70年(1)】遺体の山、絶望の敗走「地獄だった」…最も悲惨な戦場「インパール」、生還者が証言する真実

http://www.sankei.com/west/news/140815/wst1408150037-n1.html

和歌山・高野山の奥の院。7月20日朝、ビルマ(現ミャンマー)のパゴダ(仏塔)を模した「ビルマ方面戦没英霊納骨塔」の前で、竹中直樹(95)‐は約80人の参列者とともに、静かに手を合わせた。塔には、第二次大戦中にビルマで戦没した日本将兵の遺骨が分骨されている。‐「みんなあそこで死んでしもうた」。ちょうど70年前、陸軍第15師団(通称・祭兵団)歩兵60連隊の兵士だった竹中は、ビルマの山地を歩いていた。「(中国大陸では)負けること知らんかったから喜んで行ったら、とんでもない所やった。地獄やった」。竹中は、大戦で最も無謀といわれたインパール作戦からの数少ない生還者の一人だ。

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昭和19(1944)年3月15日、竹中らはインド東部の都市、インパール攻略のため、チンドウィン川を渡ったその先に、2千メートル級のアラカン山系がそびえていた連合軍の補給路遮断が目的だったビルマ戦線戦局打開を狙ったインパール作戦では英領インドへの進攻を図っが、当初から弾薬や食料の補給が困難だと反対する声が多かった。1日に必要な糧の10分の1程度の補給能力しかなく、道なき道が続く山岳地帯で地形的にも補給は難しかった。結局、インパールを占領後に現地で糧を得るという方針が取られた。作戦を立案し、熱心に必要性を説いた第15軍司令官、牟田口廉也は、作戦中止を具申したり、独断で退却を始めたりした各師団長を次々と更迭して攻撃を続けた。しかし19年7月、行き詰まりの果てに作戦は失敗に終わる。退却した竹中は、2カ月ぶりに後方部隊から食料をもらった。「みんな『飯や、飯や』ってね。後ろにいた兵隊が『(戦死した)あいつに一口食わしてやりたかったな』とつぶやいたんです」。補給がない日本軍にとって、戦闘だけでなく飢えと病も深刻だった。

 

ビルマへの敗走路には力尽きた多くの将兵の屍が積もり「靖国街道」と呼ばれた。180人いた竹中の中隊は、50人を切った。朝になると隣で寝ていた兵士が死んでいる。「人が死に、しばらくすると染み出た脂で軍服が真っ黒になる。ハエがたかり、目玉にウジが盛り上がってな。遺族には、そんな死に方をしたなんて言われへん…」

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竹中も、激しい戦闘で2回にわたり肩などを負傷した。紙に「病院」と記しただけの野戦病院に入院し、草の上に横たわった。幸い足をやられなかったため、再び隊に追いつけた。そのまま居続けていたら命はなかったと確信している。「『患者を優先的に運ぶから心配するな』と言われても、気休めや。結局はおいてけぼりにされる」進軍途中、英軍の陣地で逃亡を防ぐため鎖につながれたままの傭兵らが死んでいるのを見た。「勝てばどんなことをしても官軍、負ければ最後まで賊軍や」。今も強い憤りを感じる。

 

作戦自体を無謀だったと考える。周囲の反対を押し切った牟田口に対する批判は大きい。「弾も食料も送らずにやれと言うばかり。わしらは『ムチャグチ』って言うてたんです」戦場では生死は紙一重だった。だからこそ、竹中は死んだ戦友を思う。「みんな国のために死んでいった大事にすべきやし、首相には靖国神社に参ってほしい。わしは、当たり前やと思います」

 

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【用語解説】インパール作戦

第二次大戦時、英軍の反攻拠点のインド・インパール占領を目的に、日本軍が昭和19年3月8日に始めた作戦。太平洋戦線などで劣勢に立たされる中、窮余の一策という政治的側面もあった。陸軍第15師団(祭兵団)、31師団(烈兵団)、33師団(弓兵団)の計10万人を投入。全軍壊滅状態に陥り、司令部は作戦続行に固執したが、31師団の独断退却を契機に同年7月、作戦を中止した。戦闘のほか、飢えやマラリア、赤痢で死者は3万人、戦傷病者は4万5千人に上り、無謀な作戦の代名詞とされる

 

2014.8.16【インパール作戦70年(2)】敗走、血が出る腹を押えていたあいつはどうしただろう、飯さえ食えばおぶれたのに…補給なき戦い、絶望の飢え

http://www.sankei.com/west/news/140816/wst1408160005-n1.html

「そりゃ、ひどうおました。命は一つしかないのに、ひたすら突撃だけやった」。祭兵団の歩兵60連隊機関銃中隊員としてインパール作戦に臨んだ西川慶三(93)‐。胸中に、あの戦闘の凄惨さは「行った者にしか分からない」という思いがあり、だからこそ「なんぼ説明しても分からへんやろうし、想像できひんやろう」と口を閉ざしがちだった。

 

天長節(昭和天皇の誕生日、4月29日)までにインパールを攻略せよとの命令を受け、西川らもアラカン山系に踏み入った。山を越えても、また次の山が立ちはだかる。馬の背に武器を積んだが、険しすぎて馬が上がれない。結局、人間が荷を担いで山を越えた。

 

行軍中、敵はすぐに退散し、順調かと思えた。だが、それはインパールに日本軍をおびき寄せる作戦だった。眼下にようやくインパールの街の灯が見えたころ、圧倒的な敵軍が待ち構えていた。兵器の違いは一目瞭然だった。戦車がそり立つように丘陵の傾斜に迫る。「こんなもん、機関銃の弾でどうして止めるねん」。険しい山々を越えてきた日本軍は大砲を持参していなかった。戦車に肉薄して下部に爆弾を入れ、爆発させてもびくともしない。一瞬止まるが、すぐに進んでくる。敵の猛攻に前進も後退もできないまま、死傷者だけが増えていった。弾薬が尽きかけ、何度も無線で後方部隊に応援を頼んだが、返事はない。「お前らはそこで死ねというこっちゃ」と感じた。

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そんな中「勝ち目はないが、俺が戦車を食い止める」と中隊長が告げた。無謀だと止めたが、中隊長は重機関銃を撃ち続け、果敢に敵に向かって進み、戦車砲の直撃を受けた。「砂ぼこりが上がって、中隊長を探したけど何もなかった。横から弾を入れていた同年兵も一緒に死にました」中隊長は陸軍大将の子息で、陸軍幼年学校から士官学校に進んだエリートだった。「死ぬことをいとわないほんまの軍人や」と今でも思う。中隊長が戦死し、西川は「何もかもがいやになった」という。

 

人間の所業とは思えないようなむごい光景も目にした。西川が退却して川を渡った際、対岸には歩けない負傷者が残されていた。そこに敵の車両が現れ、敵兵が液体をまき、ライターで着火すると、一気に炎に包まれた。液体はガソリンだった。「まだ生きている兵隊さんが焼かれるのを、息を潜めてじっと見ているだけでした」

敗走する西川らに、雨期が追い打ちをかけた。作戦開始時に水がなかった川は濁流となり、川幅は数百メートルに及んだ。食料はとうに尽き果て、飢えで体力を消耗し、軍刀も重さに耐え切れず半分に折った。腰に手榴弾を1個つるし、戦闘で負傷した左足を引きずりながらつえにすがって歩いた。道端には多くの兵隊が座り込んだり、倒れたりしていたが、どうにもできなかった。作戦開始時に渡ったチンドウィン川を渡り終えたところで意識を失った。「血が出る腹を手で押さえていたあいつはどうしたやろうと、今でも思います。飯さえ食えていたら、おぶっていったが…」。70年の時を経ても悔しさが消えない。

 

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第二次大戦での日本の戦没者数は300万人余り。うち8割が、戦況が悪化した昭和19年以降に亡くなったとされる中国大陸での戦いでは、重機関銃も突撃も有効だったが、米英など連合軍との戦闘では通用しなかった。「兵器が違いすぎて戦にならない。なんでもっと早く戦争をやめると決断しなかったのか」西川は毎朝、庭に出て、ビルマに向けて経を唱える。年に数回は−京都・東山の慰霊碑を詣でる。今月15日の終戦の日にも、慰霊碑に手を合わせる。「みんな、帰りたくて帰りたくて、たまらんはずや」。西川の悲痛なつぶやきに、ビルマ戦線から生還した兵士たちの思いが重なり合っている。

 

2014.8.17【インパール作戦70年(3)】幽霊のような敗残兵の姿、人間はここまでなるのかと息を呑んだ…極限の戦闘「しまいには人の心はなくなった」

http://www.sankei.com/premium/news/140817/prm1408170011-n1.html

ビルマ(現ミャンマー)での戦闘で、歩兵168連隊分隊長を務めた今里淑郎(92)‐には、忘れられない光景がある。1人の兵士が、木にもたれて手に持った写真を見つめていた。声をかけ、肩に触れると、そのまま横に倒れ込んだ。兵士はすでに死亡し、写真には幼子が写っていた。「気持ちを思えば哀れでね。彼の胸ポケットにしまいました」

 

インパール作戦を含むビルマ戦線は、もともと日本と戦う蒋介石の国民党政府に米英など連合軍が軍需品を支援する「援蒋ルート」の遮断が目的だった日本軍は昭和16(1941)年の開戦後、間もなく英領ビルマに進攻し、17年5月に全域を制圧した。しかし、圧倒的な兵力をもつ連合軍の激烈な反攻に遭い、終戦まで続いた戦いで、投入した30万人の6割にあたる18万人が戦死したとされる。

 

極限の戦闘は、兵士たちに無力感と耐え難い記憶をとどめさせた。昭和19年夏、ビルマ北部を目指していた今里は、裸同然で飯盒だけを持った人間がふらふらと現れ、次々と倒れて息絶える様子を目にした。インパール作戦の敗残兵だった。「幽霊のような姿で、ここまでなるのかと衝撃を受けた」。日本が勝っているとばかり思っていた中で、現実を突きつけられた。「いっそ殺してくれ」という悲壮な懇願を聞くこともあった。「水筒の水を飲ませるので精いっぱいだった」。上官から「自決用に手榴弾を渡すな」と命じられたが、武器が少ないからというのが理由だった。

 

今里の連隊も20年3月、敵の大戦車団に包囲されて全滅した。補給もない中で「前進を」と精神論が振りかざされた戦地。死線をさまよった末に生還すると、戦後には「なぜ負け戦に行ったのか」と批判めいた声を聞くこともあった。今里は悔しさを込めて語った。「国の定めに従う、そういう時代だった」

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インパール作戦に参加した黒部邦夫(93)‐は、羽をばたつかせながら将兵の死を待つハゲタカの姿が頭から離れない。「木の上にいて、兵隊が死ぬと、さーっと降りてくるんや」当初から補給が問題視されたインパール作戦で、黒部は弾薬や食料の輸送を担当する連隊の一員だったが、弾薬を運んだのは一度きりだった。「上の人たちは『日本人は草食動物だから。山には草がなんぼでもある』と言うたらしいが、そんなばかな話があるか」。憤りは今も消えない。

 

インパールから敗走する日本兵は現地の雨期にも苦しめられた。山の斜面を滝のように雨が流れる。黒部らは、撤退当初は脱落兵を迎えに行ったが、力尽き、徐々にできなくなった。「しまいには、地獄というか、人の心はなくなった」と黒部はつぶやく。

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過酷なビルマ戦線を体験した兵士たちは、胸中に喪失感と深い傷を負ったまま、70年の歳月と向き合ってきた。

 

九州出身者で編成された精鋭部隊の第18師団(菊兵団。皇室の紋章である菊の名が与えられていることが、砲兵の石橋金丸(93)‐には大きな誇りだった。「死は突然襲ってくる。それでも職務を全うしなければならなかった」。強力な部隊だったが、昭和18年秋、敵の進撃を阻止する目的で、地元でも「死の谷」と恐れられたビルマ北部のフーコン谷地へ入り、兵団の8割が命を落とした

 

石橋は戦後、運送会社を営むなどして一家4人を支えてきたが、戦地での生々しい記憶については家族にも口を閉ざしてきた。一方で、生死の境をともにした戦友の存在は特別だった。戦後、生還者が集まり戦友会を結成。石橋は長らく事務局長として運営に携わり、毎年慰霊祭を営んだ。「死んだ戦友を忘れたことはない」。石橋は、戦死した兵士らとともに激動の昭和、平成を生きてきた。戦友会の活動は約半世紀続いたが、高齢化で先立つメンバーが相次ぎ、解散した。その後も生還者同士の交流は続いたが、次第に連絡が取れなくなった。今は自宅で一人、手を合わせて亡き戦友を弔っている。

 

2014.8.19【インパール作戦70年(4)】ミャンマーに取り残される戦没者4.5万人の遺骨、魂を放置することは許されるのか…収容へ確固たる信念の米国の対応に遠く及ばぬ日本

http://www.sankei.com/west/news/140819/wst1408190016-n1.html

「優しくて力持ちで、年寄りを大事にする、ほんまに立派な人やった」。7月に和歌山・高野山で営まれたビルマ(現ミャンマー)方面戦没者慰霊法要に参列した川北千代子(87)‐は、たった20日間の結婚生活の末にビルマで亡くなった9歳上の夫、偉夫を今でも慕う。

 

結婚したのは昭和18(1943)年11月‐。川北はまだ17歳だった。そのわずか2週間後に召集令状が届いた。戦争に勝ち、夫は元気で帰って来ると信じていたが、終戦後の22年末に戦死公報が届いた。夫は19年10月、ビルマ北部で戦病死したとされるが、遺骨は戻ってこなかった。「かわいい妻と暮らしたことは忘れない。川北家に踏みとどまって両親に仕えてくれ」。出征前に夫がしたためた遺書を読んだ川北は、老いた夫の両親に代わって田畑を耕し、家を守った。終戦から20年が経過した頃から出版された生還者の手記で、ビルマ戦線の凄惨さを知った。初めてビルマの地を踏んだのは51年。以来、慰霊の旅は15回以上を数えるが、ミャンマーでは立ち入れない地域が多く、夫が眠る地は遠い。


□   □

戦後英国から独立し、長らく軍事政権による支配が続いたミャンマー日本軍の戦闘地域の多くは少数民族の武装勢力の支配地で立ち入りが難しく、戦没者の遺骨収容は進まなかった。

 

2011(平成23)年以降に民主化が進み、一筋の光が見えた。ミャンマー政府と武装勢力の和平交渉が進む中、昨年から日本の民間団体による遺骨調査が本格化した戦没者の遺骨収容をめぐっては、安倍晋三首相が「国の責務」として強化する方針を表明。3月には、岸田文雄外相がミャンマー外相らに協力を要請した。だが、厚生労働省によると、ミャンマーには推定4万5千人分の遺骨が残されているが、最近では平成23年度に7人分が収容されただけだ。同省は「ミャンマー政府が日本政府の遺骨収容団について受け入れを検討中であり、内外の調整が整い次第、収容団を派遣したい」としているが、現時点で具体的な動きはない。

 

戦死者を戦場に置き去りにした日本軍に対し、米軍は戦時下でも可能な限り遺体を収容した。さらに、米国はミャンマーの民主化を受け、素早く動いた。米兵の遺骨捜索再開をミャンマー政府に働き掛け、昨年、調査隊が現地入りした。行方不明となった米兵は推定約730人。日本兵と比べて格段に少ないが、情報提供を呼び掛け、200件以上が寄せられた。米国には、国外で戦死した兵士の遺骨を「国との約束」として積極的に収容する確固たるポリシーがある。国のために赴き、望郷の念を抱きながら命を落とした戦没者。遺骨収容をめぐり、国家としての対応の違いが如実に表れている。

 

□   □

「なぜ日本はもっと遺骨収容や慰霊に積極的に取り組まないのか」。高野山での慰霊祭に参列した寺川幸瑛(47)‐は、各地で300万もの日本人が戦死した事実をもっと重く受け止めるべきだと歯がゆさを感じる。寺川はビルマ戦線の遺族ではないが、大病を患い、生死の境をさまよった末に訪れた高野山で偶然慰霊祭に出合った。以来‐、毎年参列している。今では実行委員を務めているが、生還者や遺族が高齢になり、参列者が年々減っていることに焦燥感を覚えている。「当時を知る人がいなくなる中で、後世にどうつないでいくのかは大きな課題だ。慰霊や遺骨収容は、私たちの心の問題だと思う」戦争は理不尽なものだが異国で亡くなった兵士は、歓呼の声で送られたきり、遺骨が野ざらしのままになっている。かの地に魂を放置することは、許されるのだろうか。寺川は言う。「私たちは都合が悪いことは忘れがちだが、あの時代があって今があるということは、忘れてはいけないと思うんです」




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