May 17, 2018

【国際派日本人養成講座】義に生きる〜台湾を救った根本博・元中将(7)林保源将軍こと密航者根本博

No.689 義に生きる 台湾を救った根本博・元中将(下)<国際派日本人養成講座 2011/03/06

http://blog.jog-net.jp/201103/article_1.html

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■2.蒋介石との再会

 

根本ら一行は8月1日に台北に連れて行かれ、湯恩伯(とうおんぱく)将軍の歓待を受けた。湯は根本と会うのは初めてだったが、その名前と実力のほどはかねてから聞き知っていた。湯自身、日本に留学し、明治大学と陸軍士官学校を出た知日派で、流暢な日本語で根本と語り合い、すぐに打ち解けた。

 

根本が来たと知らされた蒋介石は、即座に会見を求めた。根本らが応接室に入ると、満面の笑みを浮かべた蒋介石が「好(ハオ)、好、好」と固く手を握った。根本の胸中に万感の思いがこみあげた。天皇制を守ってくれ、また終戦時に在留邦人と日本軍将兵の帰国を助けてくれた恩人に、3年前の別れの時に「私でお役に立つことがあればいつでも馳せ参じます」と約束していた。その約束をついに果たせたのである。

 

しばらく話が弾んだ後で、蒋介石は真剣な表情で、こう切り出した。「近日中に、湯恩伯が福建方面に行きます。差し支えなければ湯と同行して福建方面の状況を見ていただきたい」蒋介石は長かった日中戦争で、日本軍の実力を良く知っていた。蒋介石はその力をどうしても借りたかったのである。「私は、福建でもどこでもまいります」と即座に快諾した根本に、蒋介石は感激した面持ちで「ありがとう、ありがとう」と繰り返した。

 

■3.大陸での最後の足場

 

その2ヶ月前、国府軍は上海を失っていた上海防衛を指揮していた湯は、殺到する共産軍を前に、市民を巻き込む市街戦を回避するため、上海から撤退したのである上海を失った事で、国共内戦の行方はもう誰の目にも明らかに見えた5日ほど前にはアメリカ国務省も「中国は、もはや共産主義者の手の中にある。国民党政府はすでに大衆の支持を失っている」として、「軍事援助打ち切り」を発表していた

 

大陸での最後の足場が福建だったここも失えば、一気に台湾まで存亡の危機に直面する。湯は「最後の御奉公」に福建に赴く覚悟だった。根本に一緒に福建に行って貰いたい、というのは、湯自身の希望だった。福建行きを承諾してくれた根本を、湯は「顧問閣下」と呼び、食事の際には一番の上席に座らせた。根本が恐縮して辞退しても、湯はそれを許さなかった。

 

1949(昭和24)年8月18日、根本一行は、福建に向けて出発したこれが自分の「死地」になるかもしれない。恩義を返すべき蒋介石にも自分の気持ちを伝える事ができた。もう何も思い残すことはない。晴れ晴れとした爽やかな気持ちだった根本らは、国府軍の軍服を与えられ、また蒋介石から贈られた中国名を名乗ることとした。根本は「林保源」と名乗った。湯に仕える兵団長らは根本の素性などは知らされなかったが、湯の「顧問閣下」と礼を尽くした態度から、極めて重要な人物であることを感じとっていた。

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門田隆将氏著作「この命、義に捧ぐ〜台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」

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指定の時間に指定の場所に到着すると、湯将軍自ら玄関まで出迎えた。茶菓や煙草で雑談をしている間に、根本は将軍の部下である将領たちを紹介された。ほとんどが、談話に不自由がないほど日本語が堪能だった。湯恩伯は日本の明治大学と陸軍上官学校を出た知日派であり、部下には日本留学組や日本語が堪能なものが集まっていた。

 

湯の幕僚たちは、根本たちが「命をかけて」東シナ海を渡ってきたことに同じ軍人として感動を覚えていた。敗走を重ねる国府軍の士気は、著しく衰えている。すでに内戦の大勢が決していることは誰の目にも明らかだった。わざわざ負け馬に乗る人間など中国にはいないしかし、この日本人たちは、かつての敵である自分たちを助けるために、わざわざ海を越えてやって来てくれたのである彼らは、そのことに心を動かされていた。かつて刃を交えたことなど、忘却の彼方に置き去ったかのように、皆が腹の底から笑い合った。

 

根本は、そのようすを見て、無性に嬉しかった。「ここまでやって来た甲斐があった」という思いが胸に広がる。根本は、台湾まで彼らと「一緒に死ぬ」ために来たのである終戦時の日本同胞に対する蒋介石の恩義。それは、北支那方面軍司令官として、内地への引き揚げを一手に引き受けた自分が一番知っている。敗戦に際し、自決を決意していた自分が今、生きているのは、あの時、内蒙古にいた四万人の在留邦人と三十五万人の北支那方面軍の部下を内地に送還してくれた寛大な蒋介石の方針によるものであったことは確かだった。国民政府の要人と折衝を繰り返しながら、わずか一年という短期聞の内に日本への帰還を完遂できたことは、奇跡というほかない。それは、多くの日本人をシベリアに連れ去ったソ連の独裁者・スターリンとあまりに違っていたその恩義を日本人は忘れていない。そのことを、身をもって示すために、自分はわざわざここまでやって来たのだ

 

「乾杯、乾杯」と、中国式の乾杯がつづいた。日本の旧軍人に対して敬意を忘れない宴会は、午後十時が過ぎてもつづいた。やがて宴会が終わり、根本らが帰る時、湯恩伯は一行を玄関まで見送った。その時、湯が根本に近づき、こうささやいた。「大総統が明日お会いすると仰っています。私が、宿舎に迎えに参ります」その瞬間、根本の表情が引き締まった。それは、今か今かと根本が待ちわびた会見だった。「ありがとうこざいます。お待ちしております」背筋をすっと伸ぱすと、根本はそう答えた。

 

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−「好、好、好」と、蒋介石は再び満面に笑みをたたえた。おもむろにうしろを振り返った蒋は、そこに直立している湯恩伯に向かってこう言った。「福建行きの話はしてあるのか
?」「いやまだです」と、湯将軍。根本は初めて”福建行き”という言葉を聞く。蒋介石は、根本の方に向きなおった。そして真剣な表情でこう言った。「近日中に湯恩伯が福建方面に行きます。差し支えなければ湯と同行して福建方面の状況を観ていただきたい」根本らの意思を確認した以上、蒋介石は、その力をどうしても貸してもらいたかったのだ。

 

長かった日中戦争で、蒋介石は日本軍の実力はいやというほど思い知らされている。なにより日本軍の規律と闘志は、国府軍を遥かに凌駕していた。そして、陸士、陸大を出た日本陸軍のエリートたちが立案する作戦に苦汁を嘗めつづけた経験は、蒋介石にとって忘れようとしても忘れられるものではなかった

 

その中でも先頭を走りつづけた日本の将軍が、命を捨ててわざわざやって来てくれたのである。これに「力を貸してもらう」ことに、誰に異存があろうか。蒋介石は、風雲急を告げる福建攻防戦に、根本らの力をどうしても借りたかったのである。根本は、蒋介石の要請に対して即座に、「私は、福建でもどこでもまいります」と、快諾した。同席した吉川大佐も、大きく頷いている。蒋介石は感激した面持ちで、「ありがとう、ありがとう」と繰り返した。

 

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 湯は、以後、根本を「顧問閣下」と呼ぶようになる。根本を蒋介石から「借り受けた」という意識で常に根本と接するのである。作戦立案をはじめ、湯は、根本の考えをどの幕僚のものより尊重するようになる。日常の生活においても、食事の際には一番の上席に根本を座らせ、風呂ですら根本が先に入らなければ、自分が入ることはなかった。根本が恐縮して辞退しても、湯はそれを許さなかった。そこまで湯は「根本中将」を尊重したのである。それは、秀才と謳われ、日本の明治大学と陸軍士官学校に学んだ親日家湯恩伯の面目躍如たるものだった。

 

およそ一時間の「蒋・根本会談」は終わった。根本らが辞去する際、蒋介石は、来た時以上の堅い握手を交わした。「くれぐれも暑さに気をつけてください」蒋介石は、そう労うのを忘れなかった。‐蒋介石にとっても、劣勢の国府軍がまさか根本が加わっただけで「勝利を得る」とは思っていない。だが、「何かが起こるかもしれない」という祈るような気持ちであったことは間違いないだろう。こうして、根本らは、八月下旬、湯恩伯に従い、廈門(アモイ)に同行することになったのである。

 

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心配りはそれだけにとどまらなかった。一か月の小遣いとして根本には銀百元、吉川(民間人で、根本中将配下の対中国情報部員)には銀八十元、吉村と浅田哲大尉には銀五十元ずつ、さらに、まだ若い岡本秀俊少尉と中尾一行曹長、そして民間人の照屋林蔚(沖縄の女傑として有名な実業家 照屋敏子の夫)には銀三十元ずつが渡された。これは湯恩伯の指示によるものだった。

 

二十一日には、湯恩伯総司令が着任した。さっそく湯は根本らに軍服を新調することを命じた。彼らを幹部たちに紹介するためである。根本らは、劉少将の案内で洋服屋、靴屋に行き軍服、帽子、靴などを注文した。将校用の茶色の国府軍の軍服に袖を通した一行は、身も心も引き締まった。

 

湯は、蒋介石の意向として、それぞれに中国名を賦与した。名前は、蒋介石自らが考えた、とのことだった根本博は「林保源」、吉村是二は「林良材」、吉川源三は「周志淑」、浅田哲は「宋義哲」、岡本秀俊は「陳萬全」、中尾一行は「劉台源」、照屋林蔚は「劉徳全」であったもはや「日本人」ではない。国府軍の「軍人」としての地位が彼らには与えられたのである

 

新軍装に身を包んだ根本は、湯恩伯総司令と共に前線の各兵団を巡視するために出発した。湯総司令は、各兵団長と会見する際、必要に応じて林保源こと根本博を幹部たちに紹介していった。もちろん、紹介された名は、「林保源」である。だが、根本に語りかける時、湯は「顧問閣下」と呼び、敬意を払うのを忘れなかった。

 

兵団長たちは林保源将軍こと、根本博に最敬礼した。もちろんこの人物が、終戦時に北支那方面軍司令官として、降伏文書にまで調印した日本側の要人であったことなど、誰も知らない。しかし、総司令・湯恩伯の態度から、極めて重要な人物であることだけは明らかだった。‐総司令と、その総司令さえ一目置く顧問閣下。二人の巡視を受ける兵団長たちは、いよいよ戦闘が迫っていることを肌で感じとっていた。

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【国際派日本人養成講座】義に生きる〜台湾を救った根本博・元中将(6)明石元長の軌跡

No.688 義に生きる 台湾を救った根本博・元中将(上)国際派日本人養成講座 2011/02/27

http://blog.jog-net.jp/201102/article_4.html

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■7.根本を台湾に送り込んだ明石元長

 

根本を台湾に送り込むための金策と渡航工作に奔走したのが、明石元長(もとなが)だった元長は、第7代台湾総督を務めた明石元二郎の息子で、本人も小学校を卒業するまで台湾で育った

 

明石元二郎は総督として、水力発電所建設、金融・教育・司法制度の整備、道路・鉄道の拡充、森林保護など、きわめて大きな業績を上げたが、赴任後、1年余にして惜しくも病死した。その遺言により遺体は台湾に埋められ、また明石を慕う多くの人々の寄付によって、200坪もある壮大な墓が作られた

 

その息子、元長も台湾への思いは強く、戦後も台湾からの留学生や青年を援助していた。その縁で、李源青年とも知り合っていた。国府軍が敗走を続け、台湾までが危うくなった時に、元長も何かしなければならない、と考えた。そこで、根本を蒋介石のもとに送り込むための資金作りと渡航の工作を始めたのである。‐その甲斐あって、昭和24(1949)年6月26日、根本は延岡港から小さな釣り船に乗り、台湾に向かって出港した

 

元二郎は台湾総督まで務めたが、金銭面はきれいな人物で、何の財産も残さずに死んだ。元長の学費すらおぼつかない状況だったが、政府の要人や友人たちが工面してくれたのである。だから元長自身にも財産はなく、あちこちのつてを辿って頭を下げ、資金提供を求めた。‐根本を送り出した元長は、疲労困憊して東京の自宅に戻ったが、わずか4日後、突然の死を迎えたまだ42歳だったが、根本を送り込む工作で、精も根も尽き果てたのだろう。

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明石元長の経歴 Wiki.参照

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1906年:明治39年)東京府で陸軍将校・明石元二郎の長男として生まれる。1918年、父が台湾総督に就任すると、家族の中でただ一人台湾に渡ったが、191910月父が病のため死去し、同年1129日、男爵を襲爵、小学校卒業まで台湾に留まった。

 

明石家に資産がなく遺族の今後のため下村宏総督府総務長官ら有志が「明石財団」を設立した。また、当時の台湾総督府専売局長・賀来佐賀太郎が元長の教育を援助し、賀来の子息たちとともに学習院で学んだ。1931年、東北帝国大学法文学部を卒業した。大学卒業後、三井信託 ()に入社。その後、外務省嘱託、満州国金廠鉱業 () 取締役などを務めた。また、台湾留学生などの援助団体「東亜修好会」を設立した。1939714日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し194752日の貴族院廃止まで在任。内閣委員、外国為替管理委員会委員などを歴任。

 

終戦後、数度衆議院議員総選挙に福岡県から出馬したが落選した。1949年、中国共産党の攻勢で苦境に立った台湾の国民党を支援するため、元陸軍中将・根本博らの台湾密航計画を進め、九州を拠点に資金の調達などに奔走し、同年626日に根本らを延岡から送り出し帰京したが、過労のため急死した。

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No.688 義に生きる 台湾を救った根本博・元中将(上)国際派日本人養成講座 2011/02/27

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■8.「着いた。本当にやってきた」

 

根本は元長の手引きで、警察や占領軍司令部に見つからないよう、転々としながら延岡まで行き、手配された釣り船に乗船した6人の日本人が同志として付き従っていた

 

夜11時に出港した釣り船は、次第に激しくなる風雨の中で、木の葉のように揺れた。高波をかぶって、船室まで海水がどっと入ってくる有様だった。「こんな船で台湾まで本当に辿りつけるのか」と皆が思った。出航から4日目、時速5ノット(9キロ)しか出ない釣り船は、まだ種子島の西方を航行中だった。その夜、左舷船腹のあたりから、ガリガリと音がした。浅瀬の岩に船底をこすったのである。船底に穴が開き、海水が入ってきた。一同、手押しポンプとバケツなどで海水の汲み出し作業をしながら、なんとか近くの島にたどり着いた。‐ついには食糧もなくなり、水も残り少なくなった頃、「山が見えた!」という声が聞こえた。根本が船首の方を見ると、鋸(のこぎり)のような連山の頂が薄く見えていた。

 

防波堤の入り口に入ると、電灯がまばゆく輝く台湾北端の港湾都市・基隆(キールン)の市街が広がっていた。「着いた。本当にやってきた」腹の底から、喜びが湧き起こってきた。「これで、日本人として蒋総統に恩義を返すことができる」 延岡港を出航して14日目のことだった。(文責:伊勢雅臣)

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No.689 義に生きる 台湾を救った根本博・元中将(下)国際派日本人養成講座 2011/03/06

http://blog.jog-net.jp/201103/article_1.html

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国府軍に迎えられた根本は、共産軍を迎え撃つ戦略を立てた。

 

■1.「根本先生!」

 

−ようやく台湾にたどり着いた根本・元中将の一行だったが、密航者として逮捕され、基隆港近くの監獄にぶち込まれた。根本は必死に「国府軍を助けに来た日本の軍人である」と訴えたが、獄吏は「何を寝ぼけたことを言っているのか」とまったく相手にしない。

 

しかし2週間も訴え続けていると、「台湾を助けにきたという日本人がいる」という話は次第に広がり、国府軍幹部・鈕先銘(にゅうせんめい)中将の耳に入った。鈕中将は、根本が北支那方面軍司令官だった時に、よく交流していた人物だった。「根本博」というその日本人の名前を聞いた時、鈕中将は反射的に立ち上がった。根本の人格と信念を知る鈕中将は、「あの根本中将なら、台湾に来ることもあり得る」と直感したのである。その場で、車を基隆に走らせた。

 

鈕中将が来ると知らされた獄吏はあわてて根本たち一行を風呂に入れ、食事をさせた。根本たちは急に待遇が変わったので、「いよいよ処刑か」と勘違いをして覚悟を決めていた。そこに現れた鈕中将は「根本先生!」と駆け寄って、その手をしっかり握って話さなかった。その姿は鈕中将の感激の大きさを物語っていた。

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togyo2009 at 05:52|PermalinkComments(0) 明治維新150年 

May 16, 2018

【国際派日本人養成講座】義に生きる〜台湾を救った根本博・元中将(5)わが屍を野に曝さん

門田隆将氏著作「この命、義に捧ぐ〜台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」5

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元日本陸軍北支那方面軍司令官・根本博中将。

 

終戦後の昭和二十年八月二十日内蒙古の在留邦人四万の命を助けるために敢然と武装解除を拒絶し、ソ連軍と激戦を展開、そしてその後、支那派遣軍の将兵や在留邦人を内地に帰国させるために奔走した人物である。

 

在留邦人や日本の将兵が国府軍の庇護の下、無事、帰国を果たした時、根本はそのことにかぎりない「恩義」を感じながら最後の船で日本へ帰っていった。 しかし、今度は国府軍が共産軍との戦いに敗れ、絶体絶命の存亡の危機に陥った時、まさかその日本の元司令官が「自分たちを助けに来てくれる」と、台湾の誰が予想しただろうか。

 

「義には義をもって返す」軍人でありながらヒューマニズムの思想に抱かれ、生涯、その生き方を貫いた戦略家。 戦後、大転換を遂げた価値観によって混乱の波間を漂いつづけた日本で、なぜ彼のような軍人が存在しえたのか。 「命」を守り、「義」を守った陸軍中将。彼のしたことは、その偉業から六十年を経た今も、決して色槌せることはない。だが、同時にそのために多くの命が喪われたのも、また事実である。 六十年前の出来事は、現代に何を問いかけているのだろうか。

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No.688 義に生きる 台湾を救った根本博・元中将(上)<国際派日本人養成講座 2011/02/27

http://blog.jog-net.jp/201102/article_4.html

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■4.蒋介石への感謝

 

その年1945(昭和20)年12月18日、根本は中華民国主席・蒋介石の求めに応じて面会した蒋介石と最初に会ったのは、陸軍参謀本部の支那研究員として南京に駐在していた1926(大正15)年、南京においてであった。二人は共に「東亜の平和のためには、日中が手をつないでいかなければならない」との理想を同じくしていた。

 

蒋介石が北京に乗り込んできて、根本中将に会いたいと使者をよこした時、根本中将には蒋介石に対して、言葉では尽くせない感謝の気持ちがあった一つには、在留邦人、将兵の帰国は、国府軍の庇護と協力によって無事に行われているのであり、それは満洲を略奪し、数十万と言われる日本人捕虜をシベリアに連れ去ったソ連とは対照的であったもう一つは、1943(昭和18)年11月に行われた「カイロ会談」で、蒋介石がアメリカ・ルーズベルト大統領、イギリス・チャーチル首相に対して、日本の戦後の国体に関して、「我々は日本国民が自由な意思で自分たちの政府の形を選ぶのを尊重すべきである」と主張し、賛同を得たことである。ここから天皇制存続の道が開けていった。

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門田隆将氏著作「この命、義に捧ぐ〜台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」8183

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根本にはこの時、敵の総帥である蒋介石に対して、言葉では言い表せない感謝の気持ちがあった。それは、日本の国体、すなわち天皇制の存続に関する問題である。

 

二年前の一九四三年十一月にエジプトのカイロでおこなわれた「カイロ会談」は、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相と中華民国主席の蒋介石の三者によるものであるここで連合国側の「日本の無条件降伏を目指す」という大方針や「北海道、本州、四国、九州の四島のみを日本の領土とする」ことなど、連合国の対日基本方針が定められている

 

この会談のなかで、蒋介石は天皇制度について意見を述べ、それが「天皇制の存続につながった」ことを根本は知る。カイロ会談に随行した蒋介石の部下の海軍武官から根本は直接、会談の内情を聞かされたのである。事実、蒋介石は、一九四三年十一月二十三日午後七時半からの晩餐会の席上、ルーズベルトから日本の将来の国体問題について意見を求められ、「日本の軍閥がまた立ち上がり、日本の政治に二度と関与することのないよう徹底的に取り除かねばならないが、日本の国体をどうするかについては、日本の新進のしっかりとした考えを持つ人々に自ら解決させるのが望ましい。我々は日本国民が自由な意志で自分たちの政府の形を選ぶのを尊重すべきである」と述べ、戦後になってから「日本国民が自ら決める」ことを主張し、ルーズベルトの賛同を得たという(「中華民國三十三年元旦告全國軍民同胞書」より)

 

これは根本にとって大きな意味を持つことだった。無条件降伏でありながら天皇制、すなわち「国体」を存続できたことは、大元帥のもとでひたすら軍務に励んだ軍人としてはかり知れない喜びだったのである。そして、前月から在留邦人の故国日本への帰国も始まっていた。部下将兵たちが命に代えて守り抜いた人たちが続々、日本への帰還を果たしていくことに対しても、根本は深い喜びを感じていた。

 

根本は、敗軍の将としてこの時、死を覚悟して蒋介石の宿舎を訪ねている。だが、それ以上に感謝の思いが強かったのである。根本は、椅子が二脚しかない書斎で蒋介石と対面した。根本が部屋に入っていくと、蒋介石は、武官長官の商震上将、戦区司令長官の孫連仲上将など高官を立たせたまま、根本の手を取り、椅子に座らせた。恐縮する根本に蒋介石は、にっこりと微笑みかけた。「今でも私は東亜の平和は日本と手を握って行く以外にはないと思うんだよ」蒋介石は、そう口を開いた。「今まで日本は少々、思いあがっていたのではないだろうか。しかし、今度はこれで私たちと日本は対等に手を組めるだろう。あなたは至急、帰国して、日本再建のために努力をして欲しい」ねぎらいの言葉と共に、蒋は、諭すように根本に語りかけた。その態度には、戦勝国代表の騎りは微塵も感じられなかった、と根本はのちに回想している。

 

根本は感謝の言葉を蒋介石に述べた後、こう答えた。「しかし閣下、私は三十五万の兵を残して先に帰国することはできません。北支那方面軍の司令官として、私は戦争の責任を問われなければなりません」自ら北支那方面軍のトップとしての戦争責任を取ろうとする根本に、蒋介石は首をゆっくりと横に振った。「戦争犯罪人の処罰は連合国の申し合わせだから仕方がない。しかし、いたずらに多数の戦犯を摘発し、日本の恨みは買いたくない」そう言うと、蒋介石はさらにこう続けた。「戦争である以上、罪は双方ともが犯している。だが、連合国からの強い要請もあるので、戦争以外のことで最も悪質なことをやった者だけにしぼって、戦犯として処理したい。中国側の責任者についても、その点、十分の注意を与えているつもりだが、もし日本側に不満があれば、遠慮なく申し出てください」蒋介石の"日本の恨みは買いたくない。という言葉は、ある意味、リアルな表現である。この時、世界中が固唾を呑んで中国での「国共内戦」の行方を見守っていた。

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No.688 義に生きる 台湾を救った根本博・元中将(上)<国際派日本人養成講座 2011/02/27

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■5.根本の約束

 

その態度には、戦勝国代表の驕りは少しも感じられなかった。この時点で、国府軍と共産軍の衝突が中国各地で始まっており、蒋介石には、早く日本が復興して、自分たちを支援して欲しい、という気持ちがあったのだろう。「東亜の平和のため、そして閣下のために、私でお役に立つことがあればいつでも馳せ参じます」と、根本中将は約束した。 

 

■6.「わが屍(しかばね)を野に曝(さら)さん」

 

在留邦人と将兵の帰国は約1年で無事完了し、根本中将は1945(昭和21)年7月に最後の船で帰国の途についた。‐根本が東京南多摩郡の自宅に戻ったのが、昭和21(1946)年8月。敗戦からちょうど1年経っていたそれから3年、国共内戦は共産党の圧倒的な勝利に終わろうとしていた。「自分が行かねば」と根本は思った。蒋介石への恩義を返すために、日本人として「何か」をしたい。押し寄せる共産軍に対して、自分が行って、たとえ役に立たなかったとしても、一緒に死ぬことぐらいはできる。「わが屍(しかばね)を野に曝(さら)さん」と根本は決心した。‐当時の日本はいまだ米軍の占領下にあり、海外渡航は自由ではなかったしたがって台湾には密航しなければならない。なによりも、そのための資金もなかった。‐家計は困窮していたが、旅費を作るために、大切にしてきた書画骨董を売り払った。しかし戦後の混乱期ではたいした値段では売れなかった。

 

「李源」と名乗る台湾人青年が現れたのは、そんな時だった。台湾訛りの日本語を話すその青年は、「閣下、私は傳作義将軍の依頼によってまかり越しました」と語った。傳作義将軍は、根本が在留邦人や部下将兵の帰還の業務に当たっていた時に、面倒を見てくれた恩人であり、その人柄に深い感銘を受けていた人物である。武装解除命令に従わなかった根本が戦争犯罪人として訴えられなかったのも、傳作義将軍のお陰だった。なんとか蒋介石を助けたい、と思っていた矢先に、深い縁のある傳作義将軍を通じて、先方から難局の打開を頼み込んできたのである。その依頼に、根本はただ嬉しく、ありがたい、と思った。「私でできることであれば、何とか助力したい」とその場で答えた。

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この命、義に捧ぐ
   台湾を救った陸軍中将 根本博の奇跡

http://www.comnaika.com/docs/pdf/この命、義に捧ぐ%E3%80%80根本博陸軍中将の奇跡.pdf

 

台湾の独立に関する話である日本が戦争に敗れたあと、蒋介石がほぼ中国全土を手中 にしていたのだが、延安の毛沢東政権は一時 3 万人にまで減少したのだが、共産軍が盛り返し、いわゆる国共内戦で国民党軍は連戦連敗。北京から上海まで追いやられ、さらには上海まで占領されてしまった。厦門を死守せよと部下の湯恩伯将軍に命令するが、これも心もとない。なぜなら、湯恩伯将軍は上海を死守せよと命令されたが、市民に迷惑をかけることから、ほとんど抵抗せずに退却した。その頃のことである。

 

つまりは、蒋介石が追い詰められて大陸に居られるかどうかの瀬戸際である。事実彼は台湾に逃避するのだが、根本ひとりが加わったからといって逆転の秘策があるわけでもない。どちらかといえば、根本中将は、死に場所をさがしていたのかもしれないこの逃避に際して、蒋介石は、現在故宮博物館に展示されている宝物を最優先で移動させ兵士はあとまわしになり、中には、取り残されて捕虜になり、厦門や金門島を攻撃せざるを得なかった兵士もいる

 

蒋介石という人物は、毀誉褒貶の激しい人で、夫婦そろって欲が深く、品性下劣であるし、兵士よりも宝物を大事にしたりするような人である黄河を決壊させ何十万もの被害者をだした。しかし、大陸的な鷹揚さを示すこともあり、「怨みに報ゆるに徳をもってせよ」とも言った人で、根本とも直接に会って会談をしている。このとき、全員無事に帰国できたことから、根本は蒋介石に深い恩義を感じていた。何かの時には、かならず、この借りを返そうと考えていた。もうひとつ、カイロ会談で、日本に天皇制を残すことを強く提唱 し、ルーズベルトらを納得させている。これにも恩義がある

 

 

産経ニュース 2010.4.23(安藤慶太)

日中戦争後、蒋介石率いる中国国民党と中国共産党との間で中国の覇権を争って繰り広げた「国共内戦」の事実上の最終戦「金門戦争」に参戦し、国民党軍を勝利に導きながら、長年にわたって存在や関与が認められていなかった根本博・元陸軍中将(1891−1966年)について、台湾当局がその功績を公式に認めたことが分かった。終戦直後、邦人保護のために蒋介石が手をさしのべてくれた恩義に報いるべく、密航までして身を投じた日本人将軍の秘話が戦役後60年を経て明らかになった。

 

関係者によると、根本元中将は福島県出身駐蒙軍司令官だった根本元中将は、終戦を過ぎても満州や中国での侵攻を止めず、日本軍や在留邦人を苦しめるソ連軍に武装解除を拒否。日本軍守備隊に戦闘を命じて、ソ連軍の攻撃を食い止めながら、居留邦人4万人を乗せた列車と線路を守り抜いた

 

その際、邦人救済を手助けしてくれた蒋介石と国民党軍に恩義を感じ、国共内戦で敗走を続ける国民党軍に報いようと密航を決意昭和24年、第7代台湾総督、明石元二郎の長男、元長氏(故人)や台湾の共産化に危機感を抱いた「東亜修好会」メンバーの手引きによって秘密裏に台湾入りを敢行した

 

密航によって約2週間投獄された根本元中将は、大陸を逃れた国民党軍幹部との劇的な再会を経て、「林保源」を名乗り、中国共産党の人民解放軍との最終決戦となった金門戦争(古寧頭戦役)に参戦。作戦立案が奏功し、二昼夜にわたる戦闘の末、人民解放軍は全滅したこれが、共産化を防ぐことにつながった

 

しかし、台湾でも根本元中将の存在はもちろん、功績が認められることはなかった。金門戦争勝利への日本人の関与が明らかになることは大陸から渡ってきた蒋介石ら「外省人」が、「本省人」を支配するうえで邪魔だったためとみられる。しかし、戦役後60年目の昨年10月、「古(こ)寧(ねい)頭(とう)戦役六十周年記念式典」へ根本元中将の関係者らの出席が認められ、台湾の国防部が公式に謝意を表明、初めて功績がたたえられた。

 

一連の事実をノンフィクション「この命、義に捧ぐ」(集英社刊)にまとめ、近く出版を予定しているジャーナリスト、門田隆将氏は「台湾・国軍の日本人軍事顧問団『白団』は1990年代になってやっと存在が認められた。根本氏の渡台は白団よりも前。今の台湾の存立の戦いに“義”のために生きた日本人の奇跡的な活躍があり、それが歳月を経て正当に評価を受けたのは感慨深い」と話す



 

花瓶に込められた友情…蒋介石と根本元中将 2010.4.23

蒋介石の恩義に報いるべく台湾存立の戦い「金門戦争」に身を投じ、その貢献が戦役から60年を経て公式に認められた根本博・元陸軍中将。蒋介石ゆかりの文書や遺品の数々を掘り起こすと、根本元中将との間に築かれた信頼関係や友情を読み取ることができる。「わが国が一番苦しい時に日本の友人、根本さまたちにしていただいたことは永遠に忘れません。わが国には『雪中に炭を送る』という言葉があります一番困ったときに根本さまたちはそれをやってくれたのです」。昨年10月、「金門戦争」から60年の記念式典で台湾国防部の黄奕炳常務次長(陸軍中将)は根本元中将の関係者にこう語り功績をたたえた。当時の根本元中将の行動に、日本ではバッシング報道が目立った。国会でも問題視され、台湾でもその存在や活躍ぶりは秘され続けた。

 

米国・スタンフォード大学フーバー研究所に保管されている「蒋介石日記」をみると、蒋介石の根本元中将への信頼が読み取れる。「與日人根本博談話、討論組織反共義勇軍事」(日本人根本博と話し反共義勇軍の組織について討論した)=1949年9月2日付

 

台北市にある蒋介石の顕彰施設「中正紀念堂」には蒋介石が大切にしていた花瓶が飾られている。通常花瓶は2個で1セットだが、展示された花瓶は1個だけしかない。蒋介石は47年、3セットを作らせ、1セットを英国エリザベス王女のご成婚の慶事の祝いに贈り、もう1セットを日本の皇室へ贈った。そして手元に置いた最後の1セットのうちの1個を「これはあなたと私がいつも一緒ということ。常にそばにいてお互いに忘れないという意味で贈ります」といって帰国する根本元中将に贈ったのだった



togyo2009 at 06:13|PermalinkComments(0) 中共との戦い