September 25, 2022

アート・ブレイキーとチャック・マンジョーネ「フィール・ソー・グッド」

アート・ブレイキー

 

アメリカ合衆国のジャズドラマー・アート・ブレイキー(1919 - 1990年)は、ペンシルベニア州ピッツバーグに生まれ育ち、10代からジャズバンドで活動しニューヨークへ進出しまず。一説では、ピアニストからドラマーになったと言われています。「ナイアガラ・ロール」(Niagara Roll)と呼ばれる特徴的なドラミング奏法により、ジャズ界を世界に浸透させる多大な影響を与えました。〔Wikipedia 参照〕

 

1944年からビリー・エクスタインの楽団へ入り、1940年代後半からマイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカーらと共演後、1954年から1955年にかけてホレス・シルヴァーと初代のジャズ・メッセンジャーズを結成し、ニューヨーク州マンハッタンの名門ジャズ・クラブ・バードランドに出演して人気を博しました。

 

ジャズ・メッセンジャーズは、1956年のシルヴァー脱退以降に不遇の時代を迎えますが、1958年にブルーノート・レコードより発売されたアルバム「モーニン」が大ヒットとなります。ブルーノート・レコード(Blue Note Records)は、1939年にニューヨークで創設されたジャズ専門のレコード会社、ジャズ界屈指の名門レーベルです。

 

『モーニン』

Moanin' (Remastered)

https://www.youtube.com/watch?v=-tHNISdk_9w

 


また、1959年公開のヌーヴェルヴァーグ映画作品『危険な関係 Les Liaisons dangereuses』(監督:ロジェ・ヴァディム)、『殺られる Des Femmes Disparaissent』(監督:エドゥアール・モリナロ)への音楽参加を契機として、日本でもこれらの曲が知られ大ヒットし、空前のファンキー・ブームが起きました。因みに、マイルス・デイヴィスも前年公開の『死刑台のエレベーター Ascenseur pour l'echafaud』(監督:ルイ・マル)での音楽を担当しています。

 

さらに、1960年に発売されたアルバム「チュニジアの夜」では、。同曲のブレイキーの長いドラムソロの象徴的な曲として親しまれることとなりました。

 


『チュニジアの夜』

A Night In Tunisia (Rudy Van Gelder Edition / 2003 Remaster)

https://www.youtube.com/watch?v=1jccsHMOdZo

 


アート・ブレイキーは
多くの新人を発掘し、多くの著名なミュージシャンがメッセンジャーズから巣立ちます。50年代後半からはリー・モーガン、ウェイン・ショーター等が、60年代にはフレディ・ハバード、キース・ジャレット、チャック・マンジョーネ、シダー・ウォルトン、レジー・ワークマン等がメッセンジャーズ在籍をきっかけにスターになりました。80年代にはメッセンジャーズ出身のウィントン・マルサリス、ブランフォード・マルサリス、テレンス・ブランチャード、ロニー・プラキシコ、ケニー・ギャレットらがモダン・ジャズムーヴメントを世界的に大流行させます。モダン・ジャズ (Modern Jazz) とは、1940年代後半に確立されたビバップからハード・バップ、モード・ジャズ、クール・ジャズ、ソウル・ジャズ、ファンキー・ジャズなどが含まれ、それ以前のジャズは、「アーリー・ジャズ」「クラシック・ジャズ」「オールド・ジャズ」などと呼ばれます。

 

アート・ブレイキーは親日家として知られ、「俺は今まで世界を旅してきたが、日本ほど俺の心に強い印象を残してくれた国はない。それは演奏を聴く態度は勿論、何よりも嬉しいのは、アフリカを除いて、世界中で日本だけが我々を人間として歓迎してくれたことだ。人間として! ヒューマンビーイングとして!」とも述べています。

 

1990年に肺がんのためマンハッタンにて死去します。71歳没。生涯で四度結婚し、10人の子供に恵まれ、そして多くのジャズの名曲とアーティストを生みました。

 

 

チャック・マンジョーネ

 

アメリカ合衆国のジャズ奏者・チャック・マンジョーネ(1940 - )は、1960年代後半にトランペットからフリューゲルホルンに楽器を持ち替えフュージョン方面に音楽性を転向し、メッセンジャーズに参加して名を上げました。

 

ラテン・テイストをふんだんに取り入れたメロディアスで心地よいナンバーを次々と全米で大ヒットさせ、1976年アルバム『哀しみのベラヴィア』でグラミー賞受賞、1978年にはアルバム『サンチェスの子供たち』で2度目のグラミー賞受賞を果たしました。代表曲「フィール・ソー・グッド」は全米のヒットチャートでトップ5入りし、同タイトルアルバムはBillboard 200のトップ2を獲得、ジャズでは異例の大ブレイクを記録しています。チャック・マンジョーネは特にフュージョンファンに愛されたミュージシャンです。

 


『フィール・ソー・グッド』

Feels So Good

https://www.youtube.com/watch?v=FExBwfQHXlE



togyo2009 at 18:39|PermalinkComments(0) That's 芸能界 

お笑いビッグ3

FNS27時間テレビ(1987 - 1996年、2008 - 2009年、2011 - 2014年、フジテレビ系列)の第1回放送『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』に於いて、フライデー襲撃事件で逮捕・起訴され、長らく謹慎をしていたビートたけしが、判決確定・謹慎明け後に初めてテレビに復帰し、総合司会のタモリ・さんまと共演したことで大きな話題を呼んだ。これをきっかけに1988年から1999年まで毎年放送されていた、新春・特別番組『タモリ・たけし・さんまBIG3 世紀のゴルフマッチ』(フジテレビ系列)が始まることとなります。〔Wikipedia 参照〕

 

芸歴では、ビートたけし(1972 - 明石家さんま(1974 - タモリ(1975 - )の順番ですが、基本的に3人を並べて表記したり紹介する時には年齢順となり、タモリ(1945年生まれ)たけし(1947年生まれ)さんま(1955年生まれ)の順番となります。

 

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ちくま新書 すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった 太田省一【著】

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目次


序章 笑いは世界の中心に―なぜいま、タモリ、たけし、さんまなのか?

第1章 「お笑いビッグ3」、それぞれの軌跡―80年代まで

第2章 「お笑いビッグ3」とダウンタウンの台頭

第3章 『M‐1グランプリ』と「お笑いビッグ3」

第4章 笑いの新たな潮流

最終章 「笑う社会」の行方―「お笑いビッグ3」が残したもの

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タモリの司会起用に周囲は「猛反対の嵐」…それでも『笑っていいとも!』が大成功した“決定的理由”とは

https://bunshun.jp/articles/-/47467

 

学費未納で抹席処分となり、叔父に連れ戻される形で地元・福岡へと戻っていたタモリが二度目の上京を果たすのは1975年のことだった。『笑っていいとも!』の初回放送は1982年。この間の7年強、タモリはどのように過ごし、どのようにお昼の帯番組の司会者という名誉ある仕事を勝ち取ったのだろうか。

 

遅れてきた大学生

 

一度目の上京と二度目の上京の間に、日本社会は大きく変わっていた。一度目に上京した時の日本は、高度経済成長の真っただ中だった。二度目に上京した1975年は、高度経済成長の終わりがはっきりした年だった。前年の74年に戦後初のマイナス成長を記録したことが、翌75年に発表されたのである。奇跡とも呼ばれた高度経済成長によって、国民の生活は全体に豊かになった。だが、その一方で経済成長という国民共通の目標は失われ、この時期から、豊かさを背景に個人の生き方を優先する価値観が強まっていく。

 

1975年に大学へ現役で入学したのは、1956(昭和31)年生まれの人々である。この年の大学・短期大学進学率は38.4%で、高度経済成長期に始まった進学率の上昇がピークに達した年でもあった。4割弱の人たちが大学に進学する高学歴社会の誕生である。1950年代後半(昭和30年代前半)生まれの若者は、「しらけ世代」と呼ばれた。60年代末の学生運動の熱気が去った後に入学してきたこの世代は、政治・社会の情勢に無関心で、私生活のことにしか関心がないとみられていた。同じようなニュアンスは、この世代のもう一つの呼び名となった「モラトリアム世代」にもこめられている。心理学者・小此木啓吾の『モラトリアム人間の時代』(1978)がベストセラーになったことで広まったー。「モラトリアム」とは本来、「支払い猶予」を意味する経済用語である。それが心理学の用語に転用され、大人への「猶予期間」、つまり、社会に出ることを先延ばしして一時の自由に浸ることのできる期間という意味になった。そのような若者にとって、大学は勉学の場というよりも、遊びの場となる。そしてその象徴が、同好の仲間が集うサークルであった。

 

タモリが二度目の上京を果たしたのは、そのような時代だった。もちろん今度は、大学生になるためではなかった。しかしそこには、途中でやめた大学生生活のやり直しという側面が少なからずあったように思われる。例えば赤塚不二夫宅での居候生活は、大学生の下宿生活のようなものであり、スナック「ジャックの豆の木」での密室芸の披露は、サークル活動のようなものだったと言えるだろう。モダンジャズ研究会のように、楽器を持ってのセッションではなかったが、そこでは即興芸によるセッションが連日のように繰り広げられた。こうしてタモリは、かつて中途でやめたサークル活動をやり直すかたちとなった。タモリはいわば「遅れてきた大学生」であった。しかもこのとき、多くの若者は、勤勉さではなく遊び心を重視するようになっていた。つまり、タモリの生き方がすんなりと受け入れられる時代が来ていたのである。

 

1958年生まれで、「しらけ世代」に属する評論家の坪内祐三は、こう述べる。「私たちシラケ世代は実は、本当はシラケていなかった(シラケたふりをしていたのだ)。だからそのシラケが攻撃に転じることもあった」(坪内『昭和の子供だ君たちも』)。この同世代評は、タモリによる密室芸の評にそのまま当てはまる。でたらめ外国語にせよハナモゲラ語にせよ、タモリの芸は、多くの人が指摘するように、冷静な観察眼から発している。それは、当事者ではなく傍観者の立ち位置にいるということである。その意味ではタモリは「シラケて」いる。しかし、坪内が指摘するように、シラケが攻撃に転じることもある。例えば、四カ国語麻雀のネタで、チョンボから大ゲンカになるという場面では、当初そこに仲裁に入るのは田中角栄や昭和天皇という設定になっていた。権威をパロディ化するというかたちで「シラケが攻撃に転じた」のである。いわばタモリは、早すぎた「しらけ世代」でもあった。

 

「恐怖の密室芸人」

 

上京後まもないタモリの密室芸を見た芸能関係者の間では、「やりたいことはわかる。だが、これをどう展開させるかというと非常に厳しい」という意見が強かったという。―しかし、先ほども述べたように、かつての時代と違って、タモリが若者に支持される条件は整いつつあった。70年代後半、タモリはテレビやラジオに進出し始める。印象の薄い容姿をカバーするために、レイバンのサングラスに髪は真ん中分けというスタイルになったのも、この頃である。764月には東京12チャンネル(現・テレビ東京)『空飛ぶモンティ・パイソン』で初レギュラー、同年10月からはニッポン放送『オールナイトニッポン』のパーソナリティとなった。この頃からタモリの密室芸は各所で話題になり始めた。「恐怖の密室芸人」という異名も生まれ、雑誌などマスコミでも盛んに取り上げられるようになった。

 

変わらぬ趣味人

 

そこに一大転機がやってくる。フジテレビ『笑っていいとも!』のメイン司会に起用されたのである。1982年のことだった。タモリは「恐怖の密室芸人」として、大学生など若者を中心に絶大な人気を博していた。だが、お昼の12時からの番組となると、視聴者は主婦層が中心である。その時間帯の番組では、各局とも品行方正で建前的なことしか言わないタレントやアナウンサーが司会を務めていた。タモリはそれと正反対の存在だったわけで、その起用は、危ぶむような驚きの声で迎えられた。番組プロデューサーだった横澤彪は、「ワースト・タレントの大本命だった」タモリの起用に対して、「猛反対の嵐」が周囲から巻き起こったと述懐している(横澤『犬も歩けばプロデューサー 私的なメディア進化論』)。しかし案に相違し、『笑っていいとも!』は結局、32年も続く長寿番組となり、日本のお昼を代表するテレビ番組になった。司会を務めたタモリの存在は、この番組を通じて一躍、全国的に知られるようになった。『笑っていいとも!』でタモリは、それまでの毒のある芸風を抑えてうまくお昼という時間帯に適応したとされる。実際、作家の小林信彦もこう指摘する。「タモリは、発想の根本にある〈差別〉を薄め、(中略)「笑っていいとも!」の〈無害な〉司会者として〈成功〉した」(小林『現代〈死語〉ノート供戞法

 

確かにそういう面はあるだろう。しかし、私たちが想像する以上にタモリはずっと変わらなかったと見るべきではないだろうか。言い換えれば、タモリにとって「差別」や「毒」といった要素は、実はそれほど本質的ではなかったのではないか?ここまで述べてきたように、タモリという人間の根底にあるのは、社会のルールや常識とは無関係に面白がりたいという姿勢だ。そこには、ルールや常識を押し付けてくる権力や権威への嫌悪感もあるだろう。その嫌悪感が、「しらけ世代」のように攻撃に転じる場合もあるだろう。だがそれは、権力や権威の理不尽さを告発することがベースにある社会風刺と似ているようで異なる。むしろそこにあるのは、わかる人とだけ一緒に楽しむセッション的な関係性への純粋な非社会的欲望だ。『いいとも』の初期に「名古屋ネタ」というものがあった。日本有数の大都市であるものの、田舎っぽさが見え隠れする名古屋の風土を「エビフリャー」などと誇張した方言でタモリがネタにして話題になった。これなども本来はマニアックなネタである。今でこそ地域ネタはバラエティ番組の定番だが、当時はそれほどメジャーなものではなかった。にもかかわらず、タモリのマニアックな視点は世間に受け入れられた。―要するに、変わったのはタモリではなく社会のほうだった。タモリ自身は、ずっと変わらぬ趣味人だった。ここで「趣味」という言葉には説明が必要だろう。一般的な趣味のイメージは、仕事や家事を済ませた余暇にやる遊びのことだろう。だがタモリの場合は、趣味が人生のすべて、つまり生き方そのものである。主従の関係でいえば、趣味は従ではなく、主。タモリにおいては両者の関係が逆転している。

 

タモリに憧れるモラトリアム世代の若者たち

 

それは、「しらけ世代」であり「モラトリアム世代」でもあった当時の若者にとって、憧れを強くかきたてられる生き方だった。1980年代には、大学生が勉学や修養よりもサークルやコンパなど遊興に明け暮れる大学のレジャーランド化が批判されもした。しかし、一生モラトリアムは、当時の大学生やその世代の若者たちにとって、偽らざる生き方の理想でもあったはずだ。「遅れてきた大学生」としてすでに大人の年齢になっていたタモリは、まさにそれを体現する存在に見えたのである。1980年頃、『タモリのオールナイトニッポン』で企画されたイベント「中洲産業大学夏期講座」などは、その意味で象徴的だ。講師陣にはタモリをはじめ、赤塚不二夫や山下洋輔らが顔をそろえ、入試に合格した者だけに受講資格が与えられる。期間は1週間だったが、5060人の定員のところに25000人もの応募があった。いわば大学ごっこだが、それはレジャーランド化した大学そのものとも言える。その盛り上がりからは、大学生世代の若者のタモリという存在への憧れが伝わってくる。

 

 

「オレたちは最初から社会をはみ出しちゃった」芸人・ビートたけしが支持されるきっかけとなった“悪ガキ的感性”の秘密

https://bunshun.jp/articles/-/47468

 

芸人として、コメンテーターとして、俳優として、映画監督として……。さまざまな分野で活躍を続けるビートたけし。しかし、デビュー当初はなかなか評価されず、テレビに出ても賑やかしの添え物的な扱いに甘んじていたという。そんな男が絶大な人気を得るようになったきっかけとは。

 

「ひとり団塊世代」たけし

 

タモリには即興芸を一緒に作り上げ楽しむ仲間がいた。その仲間たちは、タモリにとって観客でもあった。一方、たけしの即興芸にはいつも劇場の観客がいた。この違いはもちろん、アマとプロの違いでもある。だからこそ、たけしは修業というかたちで、ひたすら自分の芸を磨くしかなかった。その点では、新宿時代からたけしが抱えていた孤独は、根本的に解消されることはなかったのではないだろうか。

 

ただ浅草という街そのものには、孤独であったたけしが足を向ける理由があった。たけしが語る浅草時代のエピソードには、たくさんの変わった人びとが登場する。映画館で上映中の映画の主役がやられそうになると、日本刀を持って敵役に切りかかり、スクリーンを破ってしまうヤクザのセイちゃん。真冬でも絶対に服を着ないホームレスの浅草ターザン。指名手配中で、実演中に刑事がいることに気づいて下着のまま逃げ出したストリッパー。こうした人たちを、たけしは「高度成長に取り残されたヘンテコリンな連中」と呼ぶ(『コマネチ!』)。つまり、当時の浅草自体が「時代から取り残された街」でもあった。そんな浅草も、近年では東京スカイツリーが開業したり訪日外国人が増加したりして、往年の賑わいを取り戻しつつある。だが1970年代の浅草は、かつて東京一の繁華街として栄えた面影が消えかかっていた。明治時代から、演劇やオペラ、映画など娯楽の中心地として隆盛を誇った浅草は、戦後も浅草六区を中心に軽演劇、ストリップ、映画の街として賑わっていた。ところが高度経済成長期になると、その賑わいに陰りが見え始めた。テレビが普及し、映画の観客人口が激減したからである。それは、明治時代に初の映画専門館が生まれ、映画館の街としての歴史を持つ浅草にとって大きな打撃だった。1960年代半ばから、東京の繁華街の中心は、浅草から池袋、新宿、渋谷へと移っていった。皮肉な話だが、このように寂れかかった浅草だからこそ、高度経済成長から取り残された人々は、他の街では見つけられなかった自分の居場所を見つけることができた。たけしもまた、同じような境遇の一人だった。新宿を離れて浅草に向かったたけしは、まさに時代の流れに逆行していたことになる。

 

フランス座で同僚だった井上雅義によれば、当時飲むと口癖のように「オレ、人生切ってきたから」と言っていたという。たけしがそこで言おうとしていたのは、「学歴もコネもない人間が出世しようとしても無理だ。オレは大学には一週間しか行かず、あとはバイト、バイトのフーテン生活。なりたいと思ったものになれないで挫折するのは社会の落ちこぼれだが、オレたちは最初から社会をはみ出しちゃったドロップアウトの組だ。オレはそれでいいと思っている」(井上『幸せだったかなビートたけし伝』)ということだった。そんなたけしにとって、「過去の生活も出身や生い立ちもいっさい問うことなく、ふらりと立ち寄った人間を黙って受け入れてくれる」浅草は、居場所として最適の土地だった(同書)。しかし井上は、そうしたたけしの言葉の裏側に、「ドロップアウトのどん底からスタートしたからには社会の間隙を狙ってどんな形ででもいいから抜け出てやろうという野心の炎」(同書)を見てとっていた。そこには、体制に組み入れられることに反発し続ける一方で、成功や出世への強い欲望も抱いているという、矛盾した二つの顔が見える。だがそれは、たけしだけでなく、団塊の世代自体が抱えていた矛盾でもあったのではないか。他の世代と比べて人数の多いかれらが、高度経済成長期の競争原理の中に置かれたとき、成功への願望と失敗への不安は、同じくらいの重みがあっただろう。むろん、団塊の世代のほとんどの人間は、本気でドロップアウトすることはなかった。そんな中にあってたけしは、団塊の世代が抱え込んだ矛盾を、誰に頼まれたわけでもないのに忠実に生きていた。いわばたけしは、「ひとり団塊世代」だったのである。

 

コントから漫才へ

 

そうして数年が経った頃、フランス座の出し物に異変が起こった。コントが幕間のメインではなくなったのである。そこに持ち込まれたのが、兼子二郎との漫才コンビ結成の話である。コントにこだわりを持っていたたけしは当初乗り気ではなかったが、フランス座での出番が減っていたこともあり、漫才師への転身を図っていくことになった。そこからまた紆余曲折があった。他の芸人とコンビを組んだこともあったが、結局、兼子とコンビを組むことになった。兼子との三度目のコンビ結成でついた名前が「ツービート」だった。その間にたけしがネタを書くようになり、それが次第に評判を呼び始めた。破天荒だったのは、ネタだけではない。他の芸人の衣装を勝手に着て舞台に出たり、自分たちのネタがウケないと、客のセンスが悪いと悪態をついてさっさと舞台を降りたりするのは日常茶飯事だった。―つまり、ツービートは、浅草芸人の伝統的なスタイルを打ち破ろうとしていた。当時のたけしについて、ある先輩芸人は次のように振り返っている。「たけしは浅草の芸人気質じゃないからね。浅草芸人のふりをしてるけど、会った当初からやつには新宿の匂いがして、ああ、浅草じゃないなって俺は感じたもの。新宿でデモなんかやってた学生運動あがりだろうってね」(同書)。たけしは実際には学生運動に入れ込んではいなかった。しかしそこに、「ひとり団塊世代」であるたけしの反体制的な精神を感じ取っていた人がいたことを示す証言だと言えるだろう。

 

それもあって、ツービートの漫才は、なかなか評価されなかった。たけしが自信をもって臨んだNHK新人漫才コンクールでも三年続けて最優秀賞を逃し、テレビに出ても賑やかしの添え物的な扱いに甘んじていた。そこに突然、降って湧いたように巻き起こったのが、1980年代初頭の漫才ブームだった。その中で漫才は、旧来のそれと比べて遥かにスピーディなものとなっただけでなく、建前ではなく本音を前面に押し出すことで、若い世代に熱狂的に支持された。そこにツービートの過激な「毒ガスギャグ」はフィットした。ここから、芸人・ビートたけしの快進撃は始まることになる。

 

理想の悪ガキ

 

大学に入ったものの、当時は学生運動が真っ盛り。ほどなく授業に出なくなり、新宿でアルバイト生活の日々。フーテン生活を決め込んでみたものの、周囲になじめず新宿を離れ、浅草で芸人を志す。こう書くと、確かに紆余曲折の半生、流転の日々ではある。しかし、その根底に一貫してあったのは、生まれ育った下町で培われた「悪ガキ」的感性だったのではないか。「ガキの頃から家の中で、親父やお袋に散々鍛えられて、自分の好みを通すには、口で相手を言い負かす以外ない」ことを悟ったたけしは、唯々諾々と親の言うことを聞く「いい子」ではなく「悪ガキ」であるしか選択肢がなかった。そしてそれは、全共闘世代でもあった団塊の世代の世代的立ち位置でもあっただろう。もちろん学生運動には、資本主義を打倒するという名目も、そのための理論武装もあった。しかし一方で、それは「いい子」のままでいたくないという親世代への反抗、世代間闘争でもあった。大人の理屈に言い負けたりせず、簡単には権威に屈しないこと。何よりそれが重要だったのであり、その意味で「悪ガキ」であることは、団塊の世代にとって理想のあり方だった。だから、漫才ブームにおいてビートたけしが絶大な人気を得た理由を聞かれたなら、それはたけしが“理想の悪ガキ”を体現していたからだ、と答えたい。たけしは、マルクスやサルトルといった哲学的議論にはまったくなじめなかった。だが、大人の痛いところを言葉で衝く鍛錬は、誰よりも幼いころから積んでいた。

 

「赤信号みんなで渡ればこわくない」を笑う社会

 

別の角度から言えば、団塊の世代が反抗した相手は、自立した個人同士が言論を戦わせる西欧近代的な市民社会というよりは、暗黙の了解で既存のルールや価値観に従わせようとする日本的な世間であった、ということになるだろう。興味深いことに、「赤信号みんなで渡ればこわくない」というギャグで批判の対象となっているのも、やはり世間である。個人が能動的に判断して行動するのではなく、「右にならえ」的な感覚のほうが勝ってしまう世の中を、たけしは批判した。それでも世間はそれを笑い、支持した。ここには、「笑う社会」が有する一種の柔構造がうかがえる。「笑う社会」の正体は、自らへの批判を吸収してしまうような柔構造を備えた世間である。

 

ところで、浅草出身のツービートは、漫才ブームの中核を担った若手漫才コンビの中で異端であった。先述したように、ザ・ぼんち、紳助・竜介、西川のりお・上方よしおなど、ほとんどが吉本興業所属の芸人だったからである。東京を活動の拠点にしていたBBの二人も、もとはやはり吉本の所属だった。つまり、漫才ブームには「吉本ブーム」という側面があった。「みんなはMANZAI ブーム、マンザイブームって騒いでましたけど、テレビでブームになってるのは関西系の漫才師がほとんどで、ボクらは吉本ブームだといってましたよ」(井上、前掲書)。これは当時の浅草の漫才師の言葉だが、彼らの目にはこう映っていたのである。そしてビッグ3においてその吉本的な部分を担ったのが、明石家さんまであった。

 

 

「本番中にこいつには負けたと…」明石家さんまの“アドリブ力”はなぜビートたけしを唸らせることができたのか

https://bunshun.jp/articles/-/47469

 

『オレたちひょうきん族』で全国区の存在に

 

さんまは、漫才ブームの中で虎視眈々と出番をうかがっていた節がある。「世の中が漫才一色になって、「今は漫才ブームの後ろを走らなしゃあない、背中が見えるようについていこう」」というのが、当時の本人の気持ちだった(『本人』11号)。だが、関西で火がついたさんまの人気は、確実に全国へと広がっていた。きっかけとなったのは『ヤングおー!おー!』だったが、その後、関西圏に限らずさまざまな番組に出演するようになっていく。1979年にはラジオの深夜放送の老舗であるニッポン放送『オールナイトニッポン』のパーソナリティに就任した―。そんなさんまが、漫才ブームの流れに直接乗るきっかけとなったのが、フジテレビ『笑ってる場合ですよ!』(1980年放送開始)への出演であった。最初は月一回ネタを披露するかたちでの出演だったが、半年後にレギュラー入りを果たす。そして、この番組と同じ横澤彪らのスタッフによる『オレたちひょうきん族』(1981年放送開始)への出演につながっていく。

 

『ひょうきん族』にも、ツービート、紳助・竜介、ザ・ぼんちといった、漫才ブームを牽引した若手コンビが大挙して出演した。だが、そこには思い切った改革もあった。出演の基本をコンビ単位ではなく、個人単位にしたのである。「何年もかけて練り上げた芸でも、テレビでは一度見たら飽きられる。ブームが生んだ芸人たちを長持ちさせるためには、持ちネタでない部分、特有のキャラクターに着地点を求める必要があると考えた。そのために、漫才のコンビを解体し、舞台での笑いとは違うテレビ的な笑いを組み立てようとした」と、横澤は言う(横澤、前掲書)。この決断によって『ひょうきん族』の笑いは、ネタ中心からアドリブ中心へと大きく舵を切ることになった。番組の制作スタイルにもその変化は表れた。従来であれば、放送までに綿密な打ち合わせやリハーサルがあった。台本の読み合わせ、ドライリハーサル(簡単な動きをつけたリハーサル)、カメラリハーサル(衣装姿でのリハーサル)、ランスルー(通し稽古)というように。それに対して『ひょうきん族』では、そうしたやり方をやめた。ドライリハーサルもやらず、段取りだけ決めて、いきなり本番ということすらあった(こうした手法は、裏番組のTBS8時だョ!全員集合』が、リハーサルの積み重ねによる練り込まれたコントを売りにしていたのを意識して独自色を出すために採用されたという側面もあった)。この方針転換は、さんまにとって二重の意味で好都合だった。ひとつはコンビの解体によって、さんまは他の出演者と対等の立場で出演できたこと、もうひとつは、アドリブ中心の笑いになることで、誰とでも当意即妙に絡むことができるさんまの特長を最も生かす場ができたことである。

 

たけしに「こいつには負けた」と言わしめた、さんまの笑い

 

そのことを端的に物語るのが、番組の目玉コーナーである「タケちゃんマン」でのたけしとの絡みである。これにより、さんまの名前は広く知れ渡った。「タケちゃんマン」は、ヒーローもののパロディで、たけし扮する正義の味方タケちゃんマンと、さんま扮する悪役・ブラックデビルの対決が基本構図である。だが実際は、そうした構図に基づいた物語の展開よりも、最後の対決場面で延々と繰り広げられるアドリブ合戦が大きな見どころだった。例えばタケちゃんマンが、スタジオに用意されたプールにブラックデビルを突き落とすシーンがあったとする。すると、一度だけでいいはずなのに、ブラックデビルは何度も突き落とされ、その都度、リアクションを変えて笑いを取ることを求められる。もちろん最後にはタケちゃんマンも突き落とされて、びしょ濡れになるというオチである。アドリブに関しては、たけしも得意とするところだった。たけしが修業を積んだ浅草でのコントも、基本はアドリブだったからである。しかし、「タケちゃんマン」でのアドリブ合戦は、最初からたけしに不利なものであった。繰り返しになるが、漫才ブームは、吉本ブームでもあったからである。吉本の笑いとは、ボケに対して必ずツッコむとか、お決まりのギャグに反応して必ず派手にこけるとか、演者間のコンビネーションを基本に決まったパターンを繰り返す「コテコテの笑い」である。そして、しらけ世代のさんまは、そうした理屈抜きの笑いを延々と続けることを全く苦にしなかった。それに比べるとたけしは、むしろ言葉のひとであり、論理のひとであった。著の中でたけしは、女性用のかつらを被り、おどけた表情をしているさんまの写真に次のようなキャプションを付けた。「TVをやっていて本番中に何人かこいつには負けたと思う奴がいる。その何人かのだいひょうはこいつです」(『コマネチ!』)

 

「笑いの教育者」としてのさんま

 

こうしたなかで、『ひょうきん族』のさんまは演者として活躍するだけでなく、笑いの教育者としての片鱗を見せ始めた。コンビを解体したことに加えて、この番組のもうひとつの特徴は、芸人だけでなくスタッフが演者の列に加わったことだった。今でこそバラエティ番組でスタッフが画面に映るのは日常茶飯事であり、ひとつの演出手法でさえある。だが、かつてのテレビでは、スタッフが画面に映り込むことはタブー視されていた。それを大きく打ち破るきっかけとなったのが、ほかならぬ『ひょうきん族』であった。しかもそこでは、番組担当のディレクターが扮装をしてコントに登場したり、「ひょうきんディレクターズ」として歌手デビューしたりするなど、素人のスタッフとプロの芸人との境界が曖昧になり始めた。その中でさんまは、ディレクターがクラブのホステスにご執心であることを暴露したり、カメラマンに突然、「いい画、撮れてる?」とレンズ越しに話しかけたりするなど、積極的にスタッフに絡んでいった。その一方で、自らの無名時代の恋愛エピソードをネタにしたコントにさんま本人役で登場したりもした。要するにさんまは、自ら素人の代表となってお手本を示しつつ、スタッフを笑いの現場に巻き込むという仲介者的な役割を果たした。とはいえ、バラエティ番組のスタッフは、素人といっても、普段から芸人たちと身近に接し、笑いの呼吸やツボをある程度は心得ている。その点、プロの芸人と一般の視聴者の中間にいるような存在であり、笑いの現場に引き込むのはさほど難しくはない。しかしさんまは、スタッフだけでなく一般の視聴者に対しても、笑いの教育者として振る舞うようになっていく。『笑っていいとも!』は、その格好の場となった。

 

さんまの『いいとも』初登場は、19842月の「テレフォンショッキング」へのゲスト出演である。それからわずか2カ月後にレギュラー入りし、その時からタモリとの「雑談コーナー」が始まった。単なる雑談をそのまま放送するという企画は、前例がなかった。『徹子の部屋』(テレビ朝日系)のようなトーク番組はあったが、それらは、生放送で何の決め事もなくただ2人で気の向くままにしゃべるというスタイルではなかった。そのため当初スタッフは大反対だったという(『本人』11号)。だが、上岡龍太郎による指摘に従うならば、雑談こそがテレビ的な話芸であるはずだ。整然とした、よどみのない話し方ではなく、無駄な言葉や回り道にあふれたスタイルこそが、テレビというメディアにおいてはリアルなのである。

 

『笑っていいとも!』で観客が会話に参加して…

 

しかもその雑談が、『いいとも』という公開生放送の場で繰り広げられることで、「笑いの共有関係」が実現される側面もあった。例えば、対談形式のトーク番組で公開放送をしたとしても、ホストとゲストの会話に観客が割り込むことは普通あり得ない。ところが、タモリとさんまの雑談はいわばジャズ的な意味での“セッション”なので、観客が二人の会話に参加できてしまう。その例として、1986124日の雑談コーナーの一部を再現してみよう。−さんまは、観客の女性に対して会話に勝手に入ってこないように釘を刺す。だがその注意は守られず、むしろ女性の言葉をさらに誘発する結果になっている。さんま自身が素人の代表、プロと素人の仲介役でもあるので、プロと素人の違いを強調する言葉は、文字通りの意味ではなく、笑いのコミュニケーションにおける誘い水、いわゆる「フリ」として受け取られている。そもそも観客の参加意識は、横澤彪が考える「笑いの共有関係」が生まれるための必要条件であった。その意味では、会話に割り込んだ観客は間違ってはいない。漫才ブームの洗礼を受けた観客は、笑いのコミュニケーションに自由に参加させてくれないことを、冗談混じりではあるにせよ、「差別」とすら考えてしまうようになっている。そのような一般人の誕生は、ある意味においてさんまの教育の“成果”であった。



togyo2009 at 01:56|PermalinkComments(0) That's 芸能界 

September 24, 2022

出口治明氏「宗教と哲学全史」(4)〈日本人が知らないプラトンのほんとうの正体〉

【出口学長・哲学と宗教特別講義】なぜ、プラトンは「哲人政治」を理想と考えたのか? 出口治明:立命館アジア太平洋大学(APU)学長
https://diamond.jp/articles/-/294933

プラトンがアカデメイアで教えたこと

BC387年に、アカデメイアの地に学園を創設したプラトンは、それから20年ほど学園の経営に従事しました。アカデメイアで教えた学問は天文学、生物学、数学、政治学、哲学などでした。教授方法としては対話が重んじられ、教師と生徒の問答が中心であったようです。

40代から50代の頃、アカデメイアを活動の中心においたプラトンは、その代表作の一つである大作『国家』を執筆しています。彼は若い頃から、政治や国家、さらに法律に関して強い関心を示していました。このことは、彼の生きた時代がペロポネソス戦争に敗北した後の、スパルタの勢力下に置かれたアテナイの衰退期であったことと、無関係ではなかったように思われます。

『国家』や『法律』などの著作でプラトンが述べた政治形態は、次のようなものでした。

まず支配者が一人である政治形態を、王政と僭主政に分けます。王政はAという君主が存在したら、Aの血を引く者が後継者となります。すなわち血統という法制度(ルール)に則って支配するのが王政です。僭主政とは、王家の血を引かない者(僭主)が実力だけで政治を取り仕切る場合を指します。この場合、法制度は無視されます。

次に支配者が少数の場合。これは貴族政と寡頭政に分類されます。まず、貴族政は法制度に準じています。誰でも貴族にはなれませんから。寡頭政は限られた少数の集団が政治権力を握っている状態です。たとえば、ペロポネソス戦争に敗れた後のアテナイでは、スパルタが選んだ代弁者たちが一方的にアテナイを支配しました。ここではルールは皆無でした。

プラトンが「哲人政治」を目指した理由

政治形態の5つ目に民主政が出てきます。「多数の人で決めていく制度」がルールとなりますから、個人や少数の集団による専横は、原則的には起こりにくい政治形態です。

プラトンが政治形態について語るとき特徴的なことは、民主政にとどまらず、哲人政治を加えていることです彼が「哲人王」と呼ぶような賢い君主や、複数の賢い人たち(哲人であり実務者であるような)によって形成される「夜の会議」によってこそ、善い政治が実行されるとプラトンは述べています。プラトンが哲人政治が一番いいと考えた原因は、彼が生きたアテナイの政治状況に起因していたのでしょう。スパルタの息がかかった連中が、寡頭政をやっても民主政をやっても、アテナイにとっていいことは何もない。当時のアテナイにとって必要な政治形態を考えたとき、プラトンは哲人政治に思いが至ったのではないでしょうか。もしもプラトンがペリクレスの全盛時代に生きていたら、民主政のよさをより高く評価していたかもしれません。しかし、プラトンが当時のアテナイに抱いていた政治的危機意識は強烈なものでした。

彼はアテナイを救うべき哲人政治を、実践できる機会をシチリアで得ました。その機会は1回目のシチリア紀行のときに、プラトンの愛弟子となった若い哲学者の縁から生まれました。機会は2度訪れました。しかし2度ともシチリアの政争に巻き込まれて、中途半端(失敗)に終わりました。結局、ほんの短期間、シチリアの政治指導者たちに、哲人政治について語り、指導しただけだったのです。しかしそれでも、同じ哲学者であり、やはり自らの理想とする政治を具体的に実践したいと念じていた孔子が、結局、実現の機会が一度もないまま中国の各地を遍歴したことに比較すれば、幸運であったのかもしれません。シチリアから戻った後、プラトンは著述とアカデメイアにおける教育に専念し、BC347年に80歳で没しました


【出口学長・哲学と宗教特別講義】日本人が知らないプラトンのほんとうの正体 出口治明:立命館アジア太平洋大学(APU)学長 2022.2.11
https://diamond.jp/articles/-/293545

西洋哲学におけるプラトンの位置づけ

プラトン(BC427-BC347)が生まれたのは、アテナイの黄金時代を築いたペリクレスが亡くなった2年後でしたプラトンは、アテナイがペロポネソス戦争に苦戦し、シチリア遠征に敗れるという波瀾の時代に多感な青春時代を送りました。アテナイが、繁栄の時代から坂道を転げ落ちていく時代を生きた哲学者です。28歳の頃に、師と仰いだソクラテスが刑死しています

プラトンはアテナイの由緒ある名門の生まれでした本名はアリストクレスですが、彼のレスリングの先生から、体格も立派で肩幅も広かったので「プラトン(広い)」と呼ばれ、そのあだ名が通称となったと伝えられています。当時のギリシャの上流階級では、文武両道に秀でていることが重んじられ、体育が奨励されたのです。プラトンもレスリング大会で優勝した記録を残しています。

プラトンの著作はほとんどすべてが今日まで残りました。それは、プラトンがアカデメイアという学園(大学)を創設(BC387)し、それが約900年も続いたからです。学園が創設者の著作を大事に保管し続けることは誰でもわかりますね。その作品数は35篇以上、中には10巻を超える大作もあります。テーマも多岐に及び、その中心とされるイデア論や政治学・法学に始まり、問答法、数学・幾何学、天文学・自然科学、神学、倫理学そして魂(プシュケー)についてなど、多くの分野を網羅しています

「西洋のすべての哲学は、プラトン哲学への脚注にすぎない」の意味

このような業績に対して、連合王国の哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861-1947)が、有名な言葉を残しました。「西洋のすべての哲学は、プラトン哲学への脚注にすぎない」この言葉は、プラトンが書き残した文献の中には数多くの哲学的なテーマがほとんどすべて存在していることを表現しています。西洋哲学を学び始める人にとって、まず眼前にはプラトンの大きな文献の山が存在しているのですが、見方を変えると、プラトンの著作が残っていたからです。当たり前の話なのですが、プラトンは幸運だったなと思ったりもします。

大学者が、ある時代に生きていたとしても、業績が残っていなければ後世に影響を与えることは難しい。中国で孔子より少し遅れて登場した大思想家がいました。墨子です。孔子に対して批判的な論理を展開し、名を残しました。しかし彼の教団は、その死後にしばらくの時間を置いて消え去り、その著書も多くが失われました。ホワイトヘッドの言葉を考えるとき、墨子の不運を想い浮かべることがあります。

プラトンの師、ソクラテスは、ギリシャ人としては見栄えのしない風貌の男だったと、伝えられています。一方、プラトンは体格も顔立ちも立派でした。イタリア・ルネサンスの画家ラファエッロが描いた『アテナイの学堂』には、多くのギリシャの哲学者たちが描かれていますが、絵の中央にプラトンとアリストテレスが立っています。このプラトンのモデルになったのは、ラファエッロと同時代の巨人レオナルド・ダ・ヴィンチでした。プラトンは威風堂々たる人物であり、『ギリシア哲学者列伝』にも、負けず嫌いの自信家としてのエピソードが数多く語られています


【出口学長・哲学と宗教特別講義】80歳まで生きたプラトンがピュタゴラス教団から受けたトテツモナイ影響 出口治明:立命館アジア太平洋大学(APU)学長 2022.2.12

プラトンの二元論

プラトンは80歳まで生きた長命の人でした。そのために、さまざまに意見が変化していきます。もっとも長く生きれば、誰でも考え方や思想はいろいろと変化しがちなものです。そのこともあって、何がプラトン哲学の本質であるかを考えることは難しいのですが、一般には「イデア論」であると考えられています。ーその本質は二元論です。2つの異なった原理を立て、それによってさまざまな理論を成立させる論法です。代表的な例が、精神と肉体(物質)という2つの実在を認める考え方です

二元論について、プラトンはピュタゴラス教団の影響を受けていたようですピュタゴラス(BC582-BC496)についてはー、イタリア半島の南端のクロトーン(クロトーネ)に自らの教団を創設した哲学者です。そこには数学や幾何学の俊才が数多く集まっていました。ただ、ピュタゴラスの教団は暴徒によって破壊され、彼も惨殺されて解散しています。このとき教団内部の記録もピュタゴラス自身の著作も、すべて焼却されたらしく何一つ残っていません。ただ彼の教えを引き継いだピュタゴラス派の人々が南イタリアに残存し、彼の教えを守り広めていたようです

プラトンがピュタゴラスから学んだもの

このピュタゴラス教団の哲学を学ぶために、プラトンが初めてイタリアの地を訪れたのはBC388年でした。プラトンは39歳前後、ピュタゴラスの死後100年以上が経過しています。そこでプラトンは何を学んだのか。ピュタゴラスは、アルケー(万物の根源)は数であると喝破した哲学者でしたから、おそらく数学や幾何学について学んだらしいのですが、もう一つプラトンが学び取った思想がありました。輪廻転生です。時間は円環のように回っており、霊魂は不滅で何度も生まれ変わるというインド伝来の思想です

プラトンは1年後、イタリアから戻ります。そしてBC387年、彼はアテナイ郊外の北西、アカデメイアに所有していた土地に自分の学園をつくりました。この地に自分の哲学や学説を信奉する若者を集め、自らの哲学を発展させ継承させたいと考えたのでしょう。それはピュタゴラスが100年以上も昔に開いた教団で教えた哲学が、脈々と南イタリアで受け継がれていたことに影響を受けた結果だったと思われますアカデメイアはプラトンの死後も、ギリシャ古典を学習できる最高学府として発展しますが、大学と呼ぶよりも、むしろ、一つの思想や宗教を信じる人々が結集して学ぶ教団と考えてもいいのではないかと思います


【出口学長・哲学と宗教特別講義】「イデアって何?」と訊かれたら即答できますか? 出口治明:立命館アジア太平洋大学(APU)学長 2022.2.13
https://diamond.jp/articles/-/293547

イデアとは何か?

次のような状況を想像してみてください。人間がものごころついてから大人になるまで、首や手足を固定され、地下の洞窟の壁面に向かって椅子に腰かけているとします。彼の後方、はるか上部に当たる場所で、明るい火が燃えさかっています。そして燃えさかる火の前には一本の道があり、そこをさまざまな動物や人間や馬車が通るのです。すると、椅子に固定された人間は、眼前の壁面に、ウサギやロバや人間などの影絵を見ることになります。そのため、ずっと壁面だけを見て生きてきた人間は、そこに映る影が真実の姿であると考えてしまいます。しかもその状態のままでいる限り、自分が誤認していることに気づくこともありません。ー仮にその人が自由の身になって、明るい火に眼を向けたとします。影を見慣れた人は、じかに火を見た瞬間に目がくらみ、しばらくは影の本体を見ることもできないでしょう。そしてようやくまぶしさに慣れて、影の本体(ものごとの真実の姿)を見ることができた後、彼が元の暗い壁面に向き合うと、どうなるでしょう。今度は暗闇に当惑し、影絵がおぼろげにしか見えない、という状況に陥ります。そこで明るい火のもとに存在する実体(ものごとの真実の姿)を知った人が、ずっと暗闇の影絵を見ている人に自分が見た真実を語っても、実体を見たことがない人は到底信じられず、かえって火を見た人を疑うことになります。

プラトンは光をイデア界の太陽と見立て、最高のイデア「善なるイデア」の表象としました。それがあるから、さまざまなイデア(ものごとの真実)が見えてくるのであると。けれども人は、ともすれば洞窟内の状況に安住しがちで、壁に映る影を真実と考えてしまうのである、とプラトンは説きました。以上に述べてきたことが、プラトンの有名な「洞窟の比喩」と呼ばれる、イデアについてのたとえ話です。僕たち人間は、いつも洞窟の中の人間と同様の誤ちを犯しているのだと、プラトンは語ります。ではどうすれば、人は影を真実と見誤らなくなるのでしょうか。僕たちが思考の視線を外界から魂の内面に向け直すことだとプラトンは説きました

プラトンは、イデアを想起することについて、次のような論理を展開します。人間の魂はかつて天上の世界にあってイデアだけを見て暮らしてきた。しかし、人間は汚れたので地上に追放された。その途上、忘却の河を渡ってしまった。そのときに、かつて魂が見ていたイデアを、ほとんど忘れてしまった。しかし地上の世界で、イデアを真似てつくられたものに接するときに、忘れていたイデアを思い起こすのだと。たとえば、ここに普通の机がある。これをみんなが机と共通して認めるのはなぜか。それはみんなの魂の中に「机」というイデアがあるからなのだ。「板があって、それを3、4本の足で平行に支えているもの」という理想型、そのイデアを雛形にして誰かがその机をつくったので、見る人も「机」のイデアを想起するのだと、プラトンは説きました。

天上のイデアと地上の実在の二元論

イデア論も難解で、考えれば考えるほどややこしくなります。「ものごとには本質がある。それがイデアである。我々が現世で見ているのは本質の模造品である」それではイデアはどこにあるのか。「イデアはいわば魂の眼によって洞察される純粋な形象である」とプラトンは教えてくれます。天上のイデアと地上の実在の二元論です

おそらく、ピュタゴラス教団の輪廻転生思想(魂は不滅で人は何度も生まれ変わる)の影響を受けたのでしょう。パルメニデスの影響を見る学者もいます。なお、ギリシャ語の「イデア」(形という意味)には、英語のideaにある「観念」の意味はありません。英語ではギリシャ語の「イデア」の訳語に、ideaではなくformを当てるのが通例です


togyo2009 at 18:29|PermalinkComments(0) 歴史に挑む