September 23, 2021

高市早苗議員が自民党総裁選に挑む(3)高市陣営出陣

高市陣営「必ず勝つ」 出陣式に93人 2021/9/17 
https://www.sankei.com/article/20210917-YSU2VYTSCFP3FPLBCI6RT4RQRA/

自民党総裁選(29日投開票)に立候補した高市早苗前総務相の陣営は17日午前、国会内で出陣式を開いた。オンライン参加など含め93人が集結し、総裁選勝利に向けて気勢を上げた。

選挙対策本部長を務める古屋圭司元拉致問題担当相は高市氏について「当初はタカ派じゃないか、右寄りじゃないかという議論があったが、高市氏が持つ政策の幅の広さが分かってきた。政策立案能力の素晴らしさと真っすぐな信念を国民、党員、国会議員に見ていただきたい」と語り、支援を呼び掛けた。高市氏は「私がこけてしもうたら、その後冷や飯が待っているかもしれない」と会場の笑いを誘いつつ、「皆さんとともに、美しく、強く成長する国日本を作っていく。必ず勝ちにいく」と必勝を誓った。最後は、小林鷹之衆院議員の掛け声で「頑張ろう」コールで締めくくった。

高市早苗氏推薦人名簿 2021/9/17
https://www.iza.ne.jp/article/20210917-E2ATTSCDONOLDI2BUBW35XFOPA/?obtp_src=www.iza.ne.jp

高市早苗前総務相の推薦人名簿は次の通り。(敬称略、かっこ内は派閥と選挙区)

【衆院】西村康稔(細田派、兵庫9)、古屋圭司(無派閥、岐阜5)、馳浩(細田派、石川1)、山口壮(二階派、兵庫12)、江藤拓(無派閥、宮崎2)、城内実(無派閥、静岡7)、高鳥修一(細田派、新潟6)、木原稔(竹下派、熊本1)、黄川田仁志(無派閥、埼玉3)、石川昭政(無派閥、茨城5)、小林鷹之(二階派、千葉2)、佐々木紀(細田派、石川2)、小林茂樹(二階派、奈良1)


【参院】衛藤晟一(二階派、比例)、山谷えり子(細田派、比例)、片山さつき(二階派、比例)、青山繁晴(無派閥、比例)、山田宏(細田派、比例)、佐藤啓(細田派、奈良)、小野田紀美(竹下派、岡山)


 

特番『山田宏議員に訊く!高市早苗議員への応援メッセージ』(字幕付き) 


高市早苗候補 Special talk 1【期間限定サムネ】◎高市早苗候補が国政への志は24才の春…【渡邉哲也show】246 Vol.1 20210604〉

高市早苗候補 Special talk 2【期間限定サムネ】◎重要土地等調査法案への思いと、法案を書く切っ掛けは中国の国防動員法施行だった…【渡邉哲也show】246 Vol.2 20210604〉

高市早苗候補 Special talk 3【期間限定サムネ】◎市場投入前のIOT機器の脆弱性を調べる仕組みや、NHK大改革に強い意欲を示す…【渡邉哲也show】246 Vol.3 20210604〉

高市早苗候補 Special talk 4【期間限定サムネ】◎総理大臣は政を行う為の手段で、日本国として究極の使命を果たせる政府を作る…【渡邉哲也show】272 Vol.1 20210903〉

高市早苗候補 Special talk 5【期間限定サムネ】◎サナエノミクスを詳しく、防衛予算の増加と国内防衛産業の増強は喫緊の課題…【渡邉哲也show】272 Vol.2 20210903〉

高市早苗候補 Special talk 6【期間限定サムネ】◎元気だった頃の日本の価値観を省みて、若い世代へ投資や強い産業を強くする支援を…【渡邉哲也show】272 Vol.3 20210903〉
https://www.youtube.com/watch?v=lZZfD_4fV5g 


togyo2009 at 17:21|PermalinkComments(0) たちあがれ保守政党 

菊池寛著〈二千六百年史抄〉(2)皇威の海外発展と支那文化の伝来

皇威の海外発展と支那文化の伝来

 神武天皇より開化天皇に至る迄の御九代の間は、大和やまと地方御経営の時代で、東は皇室に御縁故深き伊勢地方、西は播磨はりまあたり迄、北は敦賀つるが地方あたりまでが、追々皇化に浴して来たが、他の地方にはなほ多くの土豪が割拠してゐたのである。
 然るに、第十代崇神すじん天皇は、御肇国天皇はつくにしらすすめらみことと称せられ給ふ聖主で、神武御創業後の偉業を達成せられてゐる。日本書紀に依れば、此の御代に四道将軍を派遣せられたとあるが、当時初めて東海、北陸、吉備、丹波地方への交通が開け、皇化がこの交通線に沿うて、辺鄙の地に及んだことが察せられる。
 この時代には、内政も漸く整ひ、人民に対し、初めて弓弭ゆはずの調みつぎ、手末たなすゑの調みつぎを課せられてゐる。
 
 第十二代景行けいかう天皇の御代になると、朝廷の稜威りようゐは国内に於ける群小の土豪どもを悉く平定せしめて、たゞ西に熊襲くまそ、東に蝦夷えぞの二族を残すだけになつた*。
 この二族の平定者として、日本武尊やまとたけるのみことの御名が美しく輝いてゐる。日本武と云ふ御名は、大和朝廷の武威が、日本全国を圧したことを意味するのではないかと思はれる。
 が、熊襲や蝦夷は一、二度の御征討に依つて、屈服するものでなく、仲哀ちゆうあい天皇の御世に又叛いて、神功皇后の三韓征伐の遠因をなしてゐるし、蝦夷えぞは勢力強大で、東海東山とうさんより奥羽地方にかけて蟠踞ばんきよし、長く化外の民として、平安時代に至る迄、わが朝廷に背いてゐるのである。

 皇威が、中国より九州に遍あまねく及ぶに至つて、朝鮮から大加羅国おほからこくの使が入朝し来つた。日本書紀では、崇神すじん天皇の御代の末、朝貢の使が穴門あなと(今の長門)に来つたが、天皇崩御後なので、垂仁すゐにん天皇が父天皇の御名を取つて、任那みまなの国号を賜うたとある。大加羅国は、現在の慶尚けいしやう南道に在つた国であるが、日本が接触した最初の外国であるから、日本人はカラと云ふ名をその後外国の総称に使ひ、支那大陸まで唐からと云つたのであらう。

 神功皇后の新羅しらぎ征伐は、熊襲の背後を成す新羅を伐うつと共に、この任那を新羅の圧迫より救援されるための出師すゐしであつたとも云はれる。その後、百済くだらもわが国の保護を依頼して、入朝して来たので、わが国威は南朝鮮を掩おほひ、任那に日本府を置いて国司を任じ、事あれば将軍を派遣されたのである。
 神功皇后の新羅征伐は、わが国威を海外に知らしめたばかりでなく、以来彼我の交通が開けて、彼地の文物がわが国に輸入され、わが国の文物制度は一大飛躍を遂げたのである。
 当時、先進の文明国たる支那は、動乱の絶間がなく、有能有識の士の朝鮮に避難するものが多かつた。朝鮮も、高麗こま、新羅しらぎ、百済くだら、任那みまななど互に攻略して、其処も安住の地でないので、彼等の中には、交通のやうやく開けたのに乗じ、山紫水明にして、気候温和なるわが国に移住帰化したものが多かつた。そして、彼等の移住の手土産みやげが、支那の文化であつた。
 彼等に依つて、わが国の建築、造船、裁縫、鍛冶かぢ、機織、製陶などの技術は、全く革命的な進歩を遂げたのである。
 しかも、彼等は、もつと大切なる精神的進物を持つて来たのである。それは、漢字と、それに盛られた儒教と、やゝ遅れて伝来した仏教とである。これらは、わが国民の後代に於ける精神生活の方向を決定したと云つてもよい。
 支那の文字が、わが国に伝はつたのは、何時であるか明確でない。九州地方の豪族は、古くから漢土と交通してゐた様子であるから、漢字も知つてゐたかも知れない。しかし支那の書物が、正式にわが国に伝来したのは、応神おうじん天皇の十六年二月(皇紀九四五 西暦二八五)博士王仁わにが百済から、「論語」と「千字文」とを持参して、朝廷へ献上したのが最初である。
* 景行天皇の御即位後も、九州南部の熊襲が、屡々、不穏な形勢を示したので、天皇は、御即位十二年七月、熊襲御親征の途に上り給うた。斯様かやうな大々的御親征は、神武天皇の御東征以来、実に、八百年目である。
 天皇は、八年の長きにわたり、九州地方全部を巡られ、熊襲を平げ、民を撫順し給うた。ところが、熊襲は、天皇が、大和へお帰りになると、また忽ち、蠢動し始め、横暴愈々いよ/\つのつたので、二十七年八月、天皇は、御子日本武尊をお遣はしになつて、これを征伐させ給うた。日本武尊は、その後、東北地方の蝦夷が叛いた時にも、御自ら進んで出征を志願された。
 天皇は、いたく喜び給ひ、
「今、朕われ汝の人と為なりをみるに、身体むくろ長大たかく、容貌かほ端正きらきらし、力能く鼎かなへを扛あぐ、猛きこと雷電いかづちの如く、向ふ所かたきなく、攻むる所必ず勝つ。即ち知る、形は則ち我が子にて、実は即ち神人かみなり。是れまことに天、朕が不叡をさなく、且つ国の不平みだれたるを愍あはれみたまひて、天業あまつひつぎを経綸をさめ宗廟くにいへを絶たざらしめたまふか」
 とまでに仰せられた。尊の無双の御武勇の程が、拝察されるではないか。


togyo2009 at 16:19|PermalinkComments(0) ニッポンの心 

菊池寛著〈二千六百年史抄〉(1)神武天皇の御創業


 今年の初はじめ、内閣情報部から発行してゐる「週報」から、最も簡単な日本歴史を書いてくれとの註文を受けた。多くの史学者に頼まず、僕を選んだのは、なるべく大衆に読ませようとの意図からであらう。
 僕は、史学者でもない、歴史研究者でもない。しかし、歴史を愛し、歴史上の諸人物に親しみを持つ点に於ては、多く人後に落ちないつもりである。殊に、僕個人として、二千六百年を記念する意味で、「新日本外史」といふ小著を執筆中であつたので、「週報」からの依頼も、喜んで引き受けたのである。
 悠々たる二千六百年間の出来事を原稿紙にして、わづか百五六十枚で、まとめることは至難中の至難である。しかし、僕が素人しろうとであればこそ、さう云ふ大胆な仕事も、出来るのではないかと思つてゐる。
 この「二千六百年史抄」の本願とするところも、勿論国体を明徴にし、日本精神を発揚するところにありと思つたから、その点に微力を尽くしたつもりである。
 が、何にせよ、片々たる小冊子である。説いて尽さゞる所が、甚だ多いのである。読者の中、不満を感ずる方があつたならば、どうかこれを機会として、他の史書を広く渉猟して下さらば、欣懐この上もないのである。日本歴史の智識を充分に持つことは、日本人としての自覚を持つ上に、最も大切なことではないかと思つてゐる。
昭和十五年七月廿八日


神武天皇の御創業

 皇孫彦火瓊瓊杵尊ひこほのににぎのみことが、天照大神あまてらすおほみかみの神勅を奉じ、日向ひうがの高千穂たかちほの触くしふるノ峰たけに降臨されてから御三代の間は、九州の南方に在つて、国土を経営し、民力の涵養かんやうを図はかると共に、周囲の者どもを帰服せしめ、之これを化育することに依つて、いよ/\興隆の基礎を築かれたのである。
 神武天皇の御世には、その皇化は九州一円に及んで、皇祖の神勅のまに/\大八洲おほやしまを経営すべき自信と力とを獲得されたのであらう。
 天皇は、御年十五歳にして、皇太子となられたが、御年四十五歳の時に、
「遼之地とほくはるかなるくに、猶なほ未だ王沢うつくしびに霑うるほはず、遂に邑むらに君有り、村あれに長ひとこのかみ有り、各自おの/\彊さかひを分ちて、用もつて相凌しのぎきしろふ。抑又はたまた塩土老翁しほつちのをぢに聞きしに曰く、東に美地よきくに有り、青山四周よもにめぐれり、……余われ謂おもふに、彼地そのくには必ず当まさに以て天業あまつひつぎのわざを恢弘ひろめのべて天下あめのしたに光宅みちをるに足りぬべし、蓋けだし六合くにの中心もなかか。……何ぞ就ゆきて都みやこつくらざらむや。」
 と、諸皇兄及び諸皇子に計り給うた。
 諸皇族諸臣達、悉く賛同し奉つた。即ち、舟師しうしを率ゐて、東方へ御進発になつた。
 これは、御東征と云ふよりも、東方への御発展とも云ふべきで、わが大和やまと民族が、理想の大業へと未知の国土へと、敢然たる大行進を為したことを意味するのだと思ふ。
 日向を出発して、大和に達せられる迄、古事記に依れば十数年、日本書紀に依れば、六年の歳月が経つてゐる。これは、古事記の方が実際に近いのではあるまいか。当時は完全なる船があるわけでないから、沿岸づたひに徐々に東進せられたのであらう。九州、瀬戸内海、大和地方にかけて、既に御稜威みいつの下に、欣んで帰順する者も多かつたが、事理を解せぬ蛮民も多く、途中に於ても、それらに対する警戒平定に、多くの日時を費されたことと思ふ。吉備高島には、古事記に依れば、八年御滞在になつたとの事であるが、此の地方に、古墳等の遺跡の多いのを考へても、此処を仮の都として、山陽四国地方の経営に当られ、武器を整備し、鋭気を養ふと同時に、大和地方の情勢を偵察されたのではあるまいか。大和の長髄彦ながすねひことの御対戦は、古事記に依つても、その御苦戦が察せられる。最初の正面攻撃に、成功せられず、皇兄五瀬命いつせのみことは、敵の矢に当つて戦死遊ばされた。皇兄が戦死された程だから、日向以来従軍してゐる多くの武士を、失はれたことであらう。
 天皇は、これに屈くつし給ふことなく、紀州の南端を迂廻して、南方より大和へ入る作戦を敢行遊ばしたが、時利あらず、潮岬の颶風ぐふうに遭つて、皇兄稲飯命いなひのみことと三毛入野命みけいりぬのみことを失ひ給うた。
 稲飯命は「あゝ、わが父祖は天神あまつかみ、わが母は海神わたつみのかみであるのに、何故にかくも我を陸でも苦しめ、海でも苦しめるのであるか。」と仰せられて、剣を抜き持ちて海中に入り給うたとあるが、このお歎きは、天皇のお歎きであつたであらう。
 此の海上でも、我々の先祖の多くは、皇兄に殉じた事であらう。
 が、天皇は、此のおん悲しみに堪へ給うて、皇子手研耳命たきしみみのみことと軍を率ゐて上陸し給ひ、或ひは敵の毒気に中あたり給ひ、或ひは熊野の原始林中に迷ひ給ふなどあらゆる辛苦を嘗なめさせられたのだ。
 軍隊を率ゐて群敵の中を、山塊累々たる熊野から大和に入られることなどは、奇蹟的な難事業であると云つてもよいだらう。
 しかも、漸く辿り着かれた大和も、群敵の巣窟であつた。
 頑敵たる長髄彦ながすねひこを初め、八十梟帥やそたける、磯城しき賊、猾うかし賊、土蜘蛛つちぐもなど、兇悪な蛮賊が到る処に、皇軍を待つてゐた。
 神武天皇は、御天性の勇武とあらゆる智略とを以て、これ等を次ぎ/\に征服して行かれた。
 しかしながら、寛宏なる皇師は、これらの者どもに対して、決して殲滅的攻略に出ることはなかつた。
 帰服まつろはぬ者こそ、平定したが、天つ神の子孫が、この中つ国を支配すべき名分を信じて帰順したものには、最大の仁慈を垂たれたまうたやうである。
 たとへば、天皇は帰順した弟猾をとうかしの献策を用ゐさせ給ふばかりでなく、股肱の臣たる椎根津彦しひねつひこと一しよに、香具山かぐやまに潜行して、その土を取ると云ふ大役を命じ給うて居られるのである。
 論功行賞に際しても、さうした降臣をも、日向以来の重臣と同様に、県主あがたぬしなどに為したまうてゐるのである。
 大和地方を悉く平定せられた後、
「夫れ大人ひじりの制のりを立つる、義ことわり必ず時に随ふ。苟いやしくも民に利くぼさ有らば、何ぞ聖造ひじりのわざに妨たがはむ。且また当まさに山林やまを披払ひらきはらひ宮室おほみやを経営をさめつくりて、恭つゝしみて宝位たかみくらゐに臨み、以て元元おほみたからを鎮むべし。上は則ち乾霊あまつかみの国を授けたまふ徳うつくしびに答へ、下は則ち皇孫すめみまの正たゞしきを養ひたまひし心みこゝろを弘めむ。然して後に六合くにのうちを兼ねて以て都を開き、八紘あめのしたを掩おほひて宇いへと為せむこと、亦可よからずや。夫かの畝傍山うねびやまの東南たつみのすみ橿原かしはらの地ところを観れば、蓋し国の墺区もなかならむ、可治之みやこつくるべし。」
 と詔を下された。
 辛酉かのととり春正月朔日、橿原宮に即位し給ふ。此の年を日本の紀元とするのである。
 橿原宮の御即位の式には、大伴おほとも氏、久米くめ氏、物部もののべ氏の祖は、矛ほこを執つて、儀衛に任じ、斎部いむべ氏、中臣なかとみ氏の祖は、恭々しく御前に進み出て、祝詞を言上し奉つてゐる。いづれも、日向以来歴戦の艱苦を顔に刻みつけた戦場生き残りの士であり、その盛儀に列した感慨は、どんなであつたであらうか。
 日向を進発した時の男女で、生き残つたものは、果して幾人であつたであらうか。
 わが大和民族は、神武天皇の御創業当時、かくも大なる試煉を経たのである。その間に養はれた如何なる困苦にも屈せぬ精神的骨格こつかく、民族としての強い団結力、宗教的にまで高められた天皇尊崇の信仰は、二千六百年を通じて、日本国民性の中核を成してゐるのである。

* 大伴氏の祖は、道臣命みちのおみのみこと。久米氏は、大久米命。物部氏は、可美真手命うましまでのみこと。斎部氏は、天富命あまのとみのみこと。中臣氏は、天種子命あまのたねこのみこと。


togyo2009 at 16:14|PermalinkComments(0) ニッポンの心