April 2015

April 30, 2015

〈【巨星・虚勢の中国】■河添恵子〉上

★(1)“経済領土”拡大へ満を持してのAIIB設立 20年間着々と駆け上がる準備 2015.04.14

http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20150414/frn1504141550002-n1.htm


ー数年前は、米国主導のTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)ーに乗るか否かだったが、ここ1カ月ほどは、中国主導のAIIB(アジアインフラ投資銀行)ーが、にわかに注目されている。AIIB設立の了解覚書(MOU)は、中国が議長国を務めた昨年11月の北京でのAPEC(アジア太平洋経済協力会議)に先立ち、21カ国の代表者が10月下旬、北京で署名していた。そして、創設メンバーの申請期限だった3月末までに、英国やドイツ、フランス、イタリア、オーストラリアなどが加わり、米国の同盟国を含む、約50カ国・地域が参加を表明した。ーこの現象を別の角度から総括すれば、世界は「同盟国か、否か」「資本主義・民主的な国家か、社会主義や独裁政権か」などは二の次で、「甘い果実−金や利権の匂い」へ群がる時代に変容していることだ。少なからぬ識者は「多国籍機関を束ねるのは簡単ではない」と、AIIBの運営に懐疑的だが、私は、中国は「満を持した」と自信を深めていると推測する。


というのも、江沢民元国家主席の時代に、ソ連崩壊後のロシアと中央アジア諸国をメンバー国とする「上海ファイブ」(=1996年に発足した、中国とロシア、カザフスタン、キルギス、タジキスタンによる協力体制)を立ち上げた。2001年にウズベキスタンを加えて「上海協力機構」(SCO)へ昇格させ、オブザーバー国を増やしながら毎年、首脳会議を重ねてきた。そして、副主席時代の胡錦濤前国家主席が中心となり、01年にアジア版・ダボス会議の「ボアオ・アジア・フォーラム」を設立し、規模を拡大させてきた。北京五輪(08年)や上海万博(10年)など、世界的イベントでのホスト国としての経験も積んでいる。世界金融機関へ人材を送り込み、専門家を育成し、関係強化にも努めてきた。つまり、AIIB構想が、習近平国家主席の思いつきとは考えがたい。中国は約20年、能天気な日本からの資本や技術を呼び込みつつ、アジア・太平洋の宗主国へと駆け上がる準備を、着々と進めてきたのだ


謙虚な優等生のフリも上達した中国は「AIIB設立に隠された利己的な動機はない。既存の国際経済秩序を補完するもの」(史耀斌財政次官)などと発言している。参加国がその言葉を額面通りに受け取っているかどうかは疑問だが…。明らかなことは、中国共産党が、高速鉄道の売り込みをはじめ、周辺諸国のインフラ整備や資源開発など、実質的に“経済領土”の拡大を掲げ、AIIBを発車させようとしていることだ



★(2)中国×ロシアで“資源戦争”勃発 石油、天然ガス“宝庫”カザフめぐり 2015.04.15

http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20150415/frn1504151550001-n1.htm


中国が十数年、関係強化に心血を注いできた国の1つが、「上海協力機構」(SCO)のメンバーで、中国やロシアなどと長い国境を接する中央アジアのカザフスタン共和国だ。カザフスタンの国土面積はオーストラリアに次いで世界第9位(日本の約7倍)、内陸国では世界最大で、人口は1700万人ほどだが、石油や天然ガスなどエネルギー資源や鉱物資源が豊富な資源大国だ「新シルクロード構想」を掲げる習近平体制で、ユーラシア大陸の要となるのがカザフスタンであることは間違いなく、両国の経済関係はますます活発化する気配がある。


昨年12月には、中国とカザフスタンが高速道路や鉄道整備など、総額100億ドル(約1兆2050億円)に達する約30のインフラ整備プロジェクトにも調印した。今年2月には、中国沿海部の江蘇省連雲港市と、カザフスタンを結ぶ定期貨物鉄道の運行も始まった。そのほか、重慶を起点にカザフスタンとロシア、ベラルーシ、ポーランドを経由してドイツ・デュースブルクに2週間で到着する列車も近く、10日に時短される予定らしい。両国の国境をまたぎ、共同運営という稀有な方針からも注目度が高いホルゴス国際辺境合作センターも、倉庫や輸送など規模を拡大させている


このように、旧ソ連圏で資源大国のカザフスタンに、猛烈なアプローチを仕掛けてきた中国に対し、ロシアのプーチン大統領が傍観しているだけのはずもない。昨年8月下旬、プーチン大統領はモスクワ郊外で行った若者との対話で、「広範なロシア経済圏に加わった方が、産業、技術の発展の上でも、カザフスタンにとってプラスだ」などと発言したとされる。とはいえ、昨年3月のウクライナ南部クリミア半島併合と、ウクライナ東部での親露派支援は、カザフスタン国内でも少なからず警戒心を高めた。なぜなら、北部のロシアとの国境地域は、「ロシア系住民の割合が多い」ためだ。ナザルバエフ大統領は昨年、「北部地域へのカザフ人の入植を奨励する」政策を決め、分離活動や国境変更に絡む活動を禁止する新法も制定した。それでも、ソ連末期からカザフスタンの指導者として君臨するナザルバエフ大統領にとって、外交パートナーの筆頭はロシアらしい。「旧知のロシアの出方は分かるが、中国には戦々恐々としている」と語る識者もいる。関税同盟を結ぶロシアとカザフスタン、ベラルーシ3国は昨年6月、ロシアが主導する「ユーラシア経済同盟」(EAEU)の創設に関する条約に調印し、アルメニアも加わり1月より発足している。ー中国は当面、カザフスタンの「元伴侶国」ロシアと、その広大な領土と資源をめぐり、火花を散らすことになりそうだ。


では、「日本とカザフスタンの関係は?」といえば、意外に知られていないが良好だ。新首都アスタナの基本設計を、建築家の黒川紀章氏(故人)が担当したり、エリート養成機関として10年に開学したナザルバエフ大学の初代学長に、勝茂夫・世界銀行前副総裁が就任している。ただ、カザフスタンが期待するほどの経済関係に両国が進展しない、ということか。



★(3)AIIB、英国参加の背景 英中関係は“タブー”だらけだが… 2015.04.16

http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20150416/frn1504161550002-n1.htm

アジアインフラ投資銀行(AIIB)への参加を、欧州の中で英国がいち早く表明したー。ーこの数年の中国と英国の急接近ぶりを鑑みれば、さほど驚く話でもなさそうだ。英中関係が長期にわたりギクシャクしてきた背景の1つに、英国とチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世との親密な関係があった。人権問題を重視するチャールズ皇太子は、ダライ・ラマ法王を支援し続けており「法王との面会」に中国は猛反発を繰り返してきたのだ。キャメロン首相も2012年5月、法王と会談したことで、同年秋の訪中予定は延期となった。議会で首相が「チベットは中国の一部。独立は支持しない」と答弁し、「今後、ダライ・ラマと会わない」と明言したことで改善に向かったと英メディアなどが報じている。そして13年12月、訪中に至った。


リーマン・ショック以降、経済破綻の危機にあえいでいた英国は「中国マネー頼み」へと方針を大転換し、投資の呼び込みと貿易規模の拡大を早急の課題に挙げていた。金融街シティーでは「ロンドンを人民元取引の西洋のハブにする」という動きも活発化している。そのため昨年6月、総額2兆円以上の商談をぶら下げ訪英した「国家元首ではない」李克強首相に対し、エリザベス女王との面会要求をのんだ。香港で民主化を訴えるデモ「雨傘革命」が長引いても、キャメロン首相は曖昧な発言に終始したのだ。


今年3月には、ウィリアム王子が英国の期待を背負って中国を訪問した。英王室の訪中は、エリザベス女王夫妻以来、実に29年ぶりのことだ「嫌中」で知られる父、チャールズ皇太子をはじめ、タブーだらけの英中関係だが、ウィリアム王子は「笑顔」で出迎えた習近平国家主席に対し、エリザベス女王の訪英を要請する親書を手渡した。人権と動物愛護の活動家でもあるウィリアム王子ら一行は、3日間の滞在中、雲南省の自然保護区を訪問した。中国は野生のアジア象をお披露目することで、動物愛護に積極的に取り組む姿勢を英王室にアピールし、「象牙製品の輸入の1年間禁止令」まで出してみせた。パンダではなく“象外交”を演出したのには、理由がある。ロンドンを拠点とする国際環境保護団体が昨年11月、「中国の犯罪集団が、13年の習主席のタンザニア公式訪問を利用して、専用機で象牙を大量に持ち出した」(=中国当局は否定)と報告した。この赤っ恥なニュースが、世界を駆けめぐったことと無関係ではなさそうだ。英国が世界に誇るウィリアム王子はこれまで、「中国の象牙ブームが密猟を支え、アフリカ象が絶滅の危機に直面している」と批判をしてきた。狡猾な中国による、口封じの意図が見え隠れする。



togyo2009 at 17:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 政治経済NEWS 

April 25, 2015

アーカイブ〈真珠湾への道 日米開戦65年〉下

真珠湾への道 日米開戦65年(6)評論家・鳥居民 12月6日 産経新聞

永野修身の本心
昭和16年10月の時点で、アメリカとの戦争を回避し、シナ事変をも解決する道筋を定めることができたのだと私は考えている。いうまでもなく、アメリカとの戦争は太平洋の大きな海図に敵味方の艦隊の艦艇の位置を記入して、連合艦隊司令長官、さらには軍令部総長がそれを睨んでの戦いとなるものだった。そこで海軍統帥部の首脳、軍令部総長がアメリカとの戦いはさきを読むことができない、戦争は避けたいとはっきり言ったならば、対米戦争は起こりえなかったのである。

昭和16年、日本がその重大な選択を迫られたとき、軍令部総長は永野修身だった。戦後60年、今日まで永野修身は主戦論者だったと説かれてきた。昭和16年7月末のかれの天皇への上奏、つづく9月6日の御前会議でのかれの陳述を読めばよい。永野は即刻、アメリカと戦えと主張したのだとだれもが言ってきた。戦後の研究者が見逃しているのは、永野を束縛した規範、部下たちの勝利への意志力を維持していかねばならず、いかなる形であれ、弱音ととられるような言葉を海軍統帥部責任者が吐いてはならないということだった。

のちの研究者が考えようとしないことがもうひとつある。永野がなによりも恐れたのは、政府がアメリカと一時凌ぎの誤魔化しの協定を結んでしまうことだった。日本側が玉虫色の約束をするのと引き換えに、アメリカが日本に対して石油を輸入する資金の凍結を6カ月間、解除しようと言い、なんのことはない、アメリカの立ち遅れている戦争準備に協力してしまうことだった。「平和を得て翌年の夏には手も足も出ぬような不利なる情勢のもとに再び戦わなければならぬ事態になる」ことを恐れると、9月6日の御前会議で永野が大坂夏の陣の故事を取り上げたのは、こういう意味だったのである。

永野修身が了知し、もちろんほかの海軍首脳も承知していたのは、中国からの撤兵を約束しないかぎり、経済封鎖を解除させ、アメリカとのあいだに安定した、長期にわたる平和を構築できないということだった。

近衛文麿の悩み
中国撤兵の問題を政府と統帥部の会議の主題とするためには、軍令部総長と海軍大臣がアメリカとの戦争に自信がないのだと正直に語り、アメリカとの戦争を回避したいのだと本心を明かさねばならなかった。もちろん、それを口にしたら陸軍大臣と参謀総長は間違いなく中国から撤兵すると言明したであろう。だが、陸軍の幹部はしばらくは殊勝な顔をしてはいても、やがてはすべて海軍のせいでこのような羽目になってしまったのだと言いだし、海軍は国民の血税を浪費し、大言壮語を吐きつづけてきたが、いざというときになれば、尻尾を巻いてこそこそ逃げてしまったのだとしゃべって回るようになる。さらには海軍の予算を削減すべきだ、資源の配分は陸軍に多くすべきだと言いだすようになるのは必定だったということだ。

首相、近衛文麿は軍令部総長と海軍大臣が対米戦争を避けたいと願っていながら、それを口にだせない理由を察知していた。そこで近衛は陸軍大臣に対して、中国からの撤兵に賛成するようにと説得を繰り返した。陸軍大臣、東条英機は反対をつづけた。近衛はその反対意見を翻させようと努力を重ねた。明治憲法は閣僚平等主義を採用していた。首相とひとりひとりの閣僚は同格同等である。そこで閣議の取り決めは多数決をもってすることはできない。首相は内閣における形式上の首班にすぎず、閣僚たちを指揮命令する法的機能を持たない。陸軍大臣が中国からの撤兵はできないと頑張りつづければ、近衛は閣内不統一の責めを負って、首相を辞めるほかはない。首相の辞任は内閣総辞職となる。国家の存亡が懸かる大きな危機に直面していた。このような争いが起きれば、最終的に天皇の裁定が必要となる。天皇に助言できるのは内大臣ただひとりだ。

木戸幸一の私心
内大臣の木戸幸一は日本が敗北する恐れのある軍事的冒険を絶対にさけることを第一に考えるのが責務のはずであった。戦争をしろと叫び立てる徳富蘇峰流の主張に惑わされることなく、2年さきの予測が立てられない戦争に踏み出すことなく、大国日本への確実な道を進まねばならなかった。そこで木戸はつぎのような方策を採らねばならなかった。閣内不統一に直面した近衛の求めに応じ、木戸は天皇に向かって、中国からの撤兵はいまや不可避でありますと奏上し、陸軍大臣に中国撤兵反対をやめよとの御諚をいただきたいと言上しなければならなかった。なぜ、木戸にそれができなかったのか。大きな出来事がまことに小さな原因から起きることがあるという事実をだれも認めたがらないし、私もつぎのように書くのは抵抗がある。だが、すべては木戸幸一の小さな私心にあったのだ。

中国からの撤兵となれば、その戦いを拡大してしまった陸軍首脳の責任が追及されよう。かれらは昭和11年に起きた二・二六事件後の粛軍の実行者でもあった。かれらが行った粛軍の基本方針を定めたのが、当時の内大臣秘書官長、木戸だった。かれは、その責を追及されるのを恐れて、中国撤兵の決意ができなかった。そこで、のちの多くの研究者が永野修身の真意と誤解するようになるかれの「主戦論」を、木戸も信じようとしたのである。



真珠湾への道 日米開戦65年(7)ノンフィクション作家・上坂冬子 12月7日

つかみどころなく
あの朝のことは、よく覚えている。臨時ニュースの音楽のあと「西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」とアナウンスが流れるや、父と母が顔を見合わせた。そのときの何ともいいようのない表情は、両親が世を去って20年たったいまも忘れられない。ショックに耐えているというのでもない、困ったというのでもない。いわばつかみどころのない逡巡の表情とでもいおうか。当時、父は40歳、母は34歳、私は小学5年生でわが家は8人きょうだいのほかに母の体内に1人やどっていた。両親は国家を信じきっていたはずだから、やるぞっと決意をあらわしたかったのであろうが、シナ事変の終わらぬうちに、もう1つ戦争が加わって子育てを案じつつ、すぐには決意表明ができなかったのかもしれない。

福田恆存氏は私の尊敬する数少ない著述家だが真珠湾攻撃のニュースを聞いたとき、「大手柄だ、これでうまくいくぞと思った」と、のちに語っていた(『憲法のすべて』)。当時、福田氏は30歳のはずで、こういう正直な記事を読むと私はホッとする。戦争を知らない人たちの中には、特定の誰かがあのおぞましき開戦に踏み切ったかのようにいい、いまこそ日本人の手でその愚かな人間を罰する必要があるかのようにいいつのる向きがあるが、福田氏でさえ一時的には日本の決断を支持していた時代ではあった。

引き下がれようか
開戦の日もさることながら、私には開戦の決断の下地つくりを着々と進めていた前年の印象が強い。そのころわが家は奈良で生活していたから、神武天皇以来2600年に当たるとして橿原神宮で盛大な祭典を行ったのを私は目の当たりにしている。ブラジルに移民した人々までが、はるばる「万世一系の皇国」を祝賀するために集まってきていた。

いまになってヒトラーは人道の敵のごとくいわれているが、昭和15年9月27日に日本はベルリンのヒトラー総統官邸で日独伊三国同盟に調印し、私たちはその2年前にドイツから来日したヒトラー・ユーゲント歓迎の歌を歌いまくった。「ヒトラー・ユーゲント、万歳!ナチス」というメロディーを私はいまでも口ずさめる。当時の新聞には婦選獲得同盟の市川房枝さんが、街頭でムダさがしに当たって「家庭経済戦の勝利」をおさめたとあった。やがてアメリカは「石油の一滴は血の一滴」といわれた日本への石油輸出をやめ、その上でシナから撤退せよというハル・ノートをつきつけた。日本として引き下がれようか。

真珠湾で戦死した岩佐直治中佐以下9人が軍神といわれたころ、私たち一家は群馬県に移り、女学生の私は勤労奉仕で岩佐家の実家のある村の稲刈りを手伝った。そのあとスパイ防止のために敵性外国人は軽井沢に集められ、父がその管理に当たったので、わが家は長野県に引っ越した。私は学徒動員で中島飛行機や日本無線の工場に通っている。

戦時の聖なる姿
物資の極端に逼迫したなかで日本人は決してみじめな気持ちで暮らしていたわけではない。国家が国民を叱咤激励、あるいは鼓舞し、その一丸となった姿を聖なるものとするのが戦時体制である。「欲しがりません勝つまでは」「撃ちてし、止まむ」と音頭をとりながら、国家も国民も、もちろん10代の私たちも精神主義が原子爆弾という近代科学に敗れるまで、勝利を夢見て神風に期待をかけていた。それは一種の快感であった。その快感に酔いしれた日本が状況判断を誤って敗れたことはまちがいない。だが、人間の弱さをくすぐるあの快感あるかぎり、この世から戦争はなくなるまい。

敗戦の思い出として、まず私の頭に浮かぶのは正調「木曾節」である。そのころ私たち一家は木曽の藪原に住んでいた。山の中だから電波が十分届かず、玉音放送を知ったのは夕方である。そして数日後に、正調「木曾節」とともに祭りの山車が村の中をゆっくりと通っていくのを見た。いわゆる木曾節とちがって正調はもの悲しいまでに低い響きで、敗戦日本の葬送曲にふさわしいものであった。誰いうともなく戦争が終わったなら祭りだ、となったのであろう。たしか文化人類学者の梅棹忠夫氏が、引き揚げ船に赤ん坊のおむつが翻っていたのを見て日本の復興を信じたと書いていたが、戦後の日本で真っ先に立ち直ったのは庶民の生活感覚であったと私も思っている。

逡巡認める平静さ
日本の失敗は、そのあと占領政策にひれ伏したことではないか。日本の再軍備をもちかけられた吉田茂首相が、経済的に立ち直ることが先決だとしてこれを拒んだあたりまでは、占領下にあっても日本は自立していたと私は思っている。だが、サンフランシスコ平和条約締結を前にして、東大の南原繁総長がソ連が同意するまで締結すべきではないと、平和に逆らうかのような全面講和にこだわったあたりから日本の足並みが乱れてきた。結果として、いわれなき機会均等や運動会で1等、2等を決めるのさえならぬとする悪平等が日本を覆い、その教育精神が次世代を毒して今日に至っている。今年は靖国問題にからんで「死んだら靖国で会おう」といった時代が盛んに取り沙汰されたのは収穫であった。近現代史について手薄だった日本にとって、見落とした時代を論じ直すいいきっかけである。

とはいえ開戦から65年も過ぎて、手垢にまみれた固定観念を前提に論じ直すのは無駄な努力というべきだ。たとえば悪名高き戦陣訓を打ち出したのは東条英機陸相だというけれど、当時の教育総本部長は人格者といわれた今村均中将なのだ。日本は独裁国家だったはずはない。一人を責めまくるのは酷だ。戦争の最大責任は時の趨勢だ。時の趨勢に度を超した全体主義の快感が加わったとき、抜きさしならぬ状況となって多大な犠牲者がでる。65年前の、両親の何とも名状すべからざるあの表情を思い出しながら、私はあらためて素朴な逡巡をけっ飛ばした全体主義の罪を感じている。その意味で、憲法の見直しや非核三原則を論じ直すことの必要が、堂々と口に出せる趨勢は好ましい。65年かかって、日本は逡巡を認める平静さを取り戻したのであろうか。



togyo2009 at 05:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 世界の中の日本の今 

アーカイブ〈真珠湾への道 日米開戦65年〉中

【正論】真珠湾への道 日米開戦65年三国同盟の熱狂と罪 防衛大学校名誉教授・ 拓殖大学海外事情研究所客員教授 佐瀬昌盛(2006/12/03 )

ナチスの強力な磁場
日本軍の真珠湾攻撃の5年と少し前、昭和11年11月、ある東大法学部学生が外交官試験合格者面接を受けた。1週間ほど前には日独防共協定が調印されていたので、「日独防共協定をどう思うか」と質問された。独裁を嫌悪し、ヒトラーも嫌いだったこの学生は「これで日本は潰れます」と答え、すぐに「しまった」と思った。落とされるのではないか、と直感したからだ。杞憂だった。この学生は外国語試験にドイツ語を選び、外務省入省後はソ連を任国として希望、1年後にモスクワ勤務となった。かなり変わっている。のちに左翼から反共、反ソと罵られ、「正論」執筆陣にも加わった故・曽野明氏の若き日の姿だ。同氏の回顧を待つまでもなく、当時の外務省には日独防共協定に批判的な空気が強かった。だから曽野氏は合格したのだろう。

防共協定の3年10カ月後、日独伊三国同盟条約が結ばれた。前者はソ連という国家とは別個の「コミンテルン」つまり共産主義インターナショナルに対する防衛条約。後者はどの国が対象かで三国間の一致はなかったものの、仮想敵国に対する同盟条約だった。だから両者の性格は理屈上は違った。ただ前者なしでは後者は生まれなかったであろう。この時期、日本はナチス・ドイツという前代未聞の磁場にはまってしまった。

もっとも、防共協定から三国同盟への道程は一直線ではなかった。防共を約したはずのヒトラーが2年9カ月後、コミンテルンを操ったスターリンとの間で突如、独ソ不可侵条約を締結したからだ。有りていには日本に対するドイツの違約である。平沼騏一郎内閣は「欧州情勢複雑怪奇」の言葉を残し、倒れた。だのに、日本はナチス・ドイツの磁場外へ出なかった。いや出られなかった。外交路線をめぐり五相会議があきれるほど混迷の議論を続け、揚げ句の果て、強気一本槍の松岡洋右外相が15年9月27日、三国同盟条約に調印したのである。

道を誤った責任
戦前の日本外交はどこで道を誤ったか。今日に至るも議論百出である。満州事変にも一枚嚼み、国際連盟脱退も主導した松岡がそのキーパーソンであるのは疑いないが、その松岡は真珠湾攻撃の報に接して「三国同盟は僕の一生の不覚だった」と懺悔(ざんげ)の涙を流したと伝えられる。その三国同盟への曲がりくねった道を開いたのは、繰り返すが日独防共協定だった。

その日本側推進者は当時の駐独陸軍武官・大島浩だった。軍人あがりながら日米開戦時には2度目の駐独大使を務めたこともあり、防共協定は大島の横暴の産物との説もあったが、これは必ずしも正しくない。大島はむしろ実直人間、ただ、信じがたいドイツ好きで、陸軍の意向で動くうちに、ドイツ外務省ならざるナチス外交のリッベントロープ機関の蜘蛛の巣にかかってしまったのだ。

ならば、道を誤らせたのは帝国陸軍か。陸軍の責任は重い。同時に外務省のひ弱さ、政治の連帯無責任も大いに問題ではあった。強面の陸軍に逆らえなかった報道機関も重罪である。では、一般国民はそのツケを払わされただけの存在だったのか。「そうだ」と言えるのなら、むしろ気は楽だ。私見では、とてもそうはいえない。

新聞、白秋も共鳴
防共協定から2年足らずの13年8月、ヒトラー・ユーゲントの30人が訪日、3カ月の滞在で「大日本少年団」などと交流した。日本側は熱烈歓迎した。同じころ、日米学生会議も日本で開かれ、それも報道されたが、熱意には雲泥の差があった。張り切ったのは『朝日新聞』で、紙面以外でも、一行到着直後の『アサヒグラフ』は「盟邦の青春部隊ヒットラー・ユーゲント−上陸第一日」を特集、「ハイル・ヒトラー」を叫ぶ団員をたっぷり紹介。日比谷公会堂で「ヒトラー・ユーゲント歓迎講演会」も主催した(文部省後援)。陸軍は喜んだ。だが、『朝日』も楽しんだ。

北原白秋と聞けば、人は「からたちの花」を思い出すだろう。白秋は「大日本聯合青年團」の委嘱で『萬歳ヒットラー・ユーゲント』を作詞した。全体で4番まであるその2番はこうだ。「聴けわが歡呼を/ハーケン・クロイツ/響けよその旗、この風、この夏/防共ひとたび君我誓はば/正大為すあり世紀の進展/萬歳、ヒットラー・ユーゲント/萬歳、ナチス」。初演歌手は藤原義江。当時の白秋はすでに日本国家主義に傾斜していた。その立場から白秋は政治色濃厚な両国青少年組織の交流に心底から共鳴、「快然」として右の作詞を残したのである。陸軍は喜んだだろう。だが、それは白秋の意に介するところではなかった。

国民完全無罪論
一行の滞日中、銀座・数寄屋橋にあった「日劇」ホールに日劇ダンシング・チームの『ハイル・ヒットラア』がかかった。当時の「日劇」は秦豊吉の下にあった。秦はかつてレマルクの『西部戦線異状なし』を訳し大いに当てた。が、レマルクの方はナチスのゲッベルス宣伝相による焚書の憂き目に遭った。秦に寸毫の日和見もなかったとはいわないが、それよりも、彼は滅茶苦茶にドイツが好きで、かつ人々の喜ぶナチス流大衆芸能にも熱中したのだ。ノーベル文学賞のトーマス・マンの国外亡命なぞ、眼中になかった。『朝日』の主筆を務めた緒方竹虎は後年、三国同盟締結時に「日本の新聞の幹部の大多数はこれに反対であったろうと思う」と書き、軍部を恐れて一紙たりとも「筆で反対を唱えなかったのは、いかなる悲惨事であったか」と襟を正した。

その反省は必要だし、新聞が国民の意識を歪めたことも確かだ。が、それが全部ではない。国民はただ受難者だったわけではなく、かなりの程度、時代思潮の共鳴盤の役割も演じた。私は日米開戦時は「国民学校」1年生、敗戦時は5年生の「少国民」だった。それが嬉しかった。後年、ベルリン留学時にドイツ人学友から「集団責罪否定論」を聴かされた。罪があるのはナチス指導者たちで、国民は基本的には受難者だというその論理には、なじめなかった。いまだにそうだ。地位により責任の軽重には差があろう。だが、一般国民完全無罪論は私見ではおかしい。国民のナチス熱狂は不問でよいのか。数年前、「先の大戦」についての寄稿を、私は「僕たちの、私たちの戦争だった」と題した。今も変わりない。戦争に共感した「少国民」の苦い記憶を消せないものだから。

【用語解説】日独防共協定
昭和11年11月、世界の共産主義政党の統一体であるコミンテルンとソ連に対抗するため、情報交換や対抗措置を定めた協定。日本には国際連盟脱退後の国際的孤立を防ぐ意味もあった。のちイタリアなどが加わり枢軸国が結集、日独伊三国同盟につながった。



「 日米衝突への道 」 4 衝突不可避へ7つの契機 ( 増訂版 ) 帝塚山大学名誉教授  伊原吉之助

「 あの戦争 」 は私の生涯最大の出来事である。旧制中学四年生で敗戦を迎え、価値観が大転換した。爾来、あの戦争への考察を忘れたことがない。相手が悪かった。若い帝国である米国が、日本に向けて西進してきたのである。米国は米洲を聖域にして中国の権益を日本と争い、自国の都合を押付けた。開戦までの契機が七つあって、後ほど衝突が避け難くなる。

第一の契機=ペリーによる日本開国。平和に暮していた日本を力づくで開国させた。これを 「 ペリーの日本強姦 」 と称したのは岸田秀である ( 『 日本がアメリカを赦す日 』 毎日新聞社、2001年 ) 。深層心理に怨念が宿った。 「 日米百年戦 」が始まる。

第二の契機=李朝朝鮮とその宗主国清朝の李鴻章による 「 夷を以て夷を制する 」対日政策。これが日本に日清・日露両戦争を戦わせ、 「 外征型 」 国づくりを強いた。近所迷惑甚だしい対応だった。

第三の契機=米国の太平洋国家化。1840年代に 「 明白なる天命 」 をふりかざしてインディアンとメキシコから土地を奪い、太平洋岸に達した米国は、1898年の米西戦争で海洋帝国化し、ハワイ・グアム・フィリピンを得て東アジアに進出する。ヘイ国務長官の門戸開放宣言は、モンロー・ドクトリンからウィルソン大統領の国務長官ブライアン、ランシングの二十一箇条不承認声明、フーヴァー大統領の国務長官スティムソンの満洲国不承認主義を経て、日米交渉のハル国務長官まで一貫する米帝国の西進宣言である。

第四の契機=西海岸における排日移民運動とワシントン条約体制。1915年の二十一箇条問題から数えて、日本対米華三十年戦争の始まりである。在華基督教宣教師が伝える「 親中反日 」 感情が米紙を通じて全米に拡がり、日米衝突の底流となる。

第五の契機=世界大不況とブロック経済化。英米とも関税障壁を高めて日本の輸出を締め出した。このとき日本が英米から受けた理不尽な扱いについては、池田美智子『 対日経済封鎖──日本を追いつめた12年 』 ( 日経新聞社、1992年 ) に詳しい。ABCDラインによる日本締めつけの前哨戦だったといえるかも知れない。

第六の契機=反日親中大統領フランクリン・デラノ・ローズヴェルト ( FDR )の登場。彼は母方の祖父が対清阿片貿易で儲けたことに罪悪感を抱き、大統領当選後、「 私はシナに深く同情している。何が何でもスティムソンと共に日本を叩くの 」 と言放ってブレーンの学者を呆れさせた。

第七の契機=中ソの謀略。蒋介石・国民政府は米英に日本を牽制させようとした。毛沢東・延安赤色軍閥政権は日本に?介石を叩かせようとした。スターリンは日中衝突を望んだ。三者の思惑が第二次上海事変で実り、日本は支那事変の泥沼にはまった。


第五の契機まではまだ日米衝突は必然ではなかったが、FDRの登場と中ソの画策とにより不可避となった。

「 日米は戦うべきでなかった 」 という反省がある。日本が石油・屑鉄など重要資源を米国に依存し、日米の生産力格差が巨大だったことからして尤もな反省だが、米国の日本軽視の甚だしさや中ソの策謀を考えると、日本の「 反省 」だけでは片付かない。ジョージ・ケナンはいう、 「 我々は十年一日の如く……日本に嫌がらせをした 」( 『 アメリカ外交50年 』 岩波書店、同時代ライブラリー、76)。日本の在華権益を尊重しなかった米国が相手では日本の努力は限られ、結局は敢然、戦うほかなかったろう。

「 負け戦は断じてすべきではなかった 」 という反省もある。三国干渉時のように臥薪嘗胆すればよかったというのである。でも、昭和十六年に満洲を含め、中国全土から撤兵できただろうか? 日清戦争当時の日本の実力では引っ込むほかなかったにしても、昭和に米国の言いなりになって臥薪嘗胆するのは無理だった。

なぜ無理か?軍部を含めて日本の各界が官僚制化し、指導者不在のまま 「 誰も責任をとらぬ 」 世の中になったからである。進出は指導者なしでもやれるが、撤退はそうは行かない。江戸時代に各藩は藩校で指導者教育をしたから指導者に事欠かなかったものの、近代化を担う専門家・技術者が払底していた。そこで開国後は指導者教育をやめ、技術者・専門家教育に専念した。帝国大学も陸海軍の大学校も、官僚・参謀教育であって指導者教育ではない。そこで日本は、帝大卒業生が政治家になる頃から、国家指導に問題が出てくる。第一次大戦に不用意な参戦をして「 中国に返却するため青島を攻撃する 」 と言わざるを得なくなり、二十一箇条問題でも不用意な追加要求をして五四反日運動の原因を作った加藤高明がその代表である。

大正デモクラシーが、国家運営弛緩の転機を示す。帝大や陸大・海大を卒業した官僚・参謀群は、自分らの思いのまま国家を運営すべく、天皇を祭り上げて輔弼者の進言をそのまま認可するよう誘導した。昭和天皇は、それが立憲君主の道と信じ込まされ、三回の例外を除き、終始「 指導 」 を控えられたのである。これを嘆いた徳富蘇峰は戦後日記に書いている。明治天皇は要所々々でちゃんと御指導なされたのに、昭和天皇は御指導を控えられた。かくて中枢が空洞化し、官僚群がてんでばらばら国家運営に参画したから統一的戦争指導ができず、負けたのだと( 『 徳富蘇峰終戦後日記──頑蘇夢物語 』 講談社、二〇〇六年 ) 。明治天皇は重要問題は納得するまで臣下を問い詰められた。だから臣下は周到な準備を心がけた。

「 あの戦争 」 で反省すべきは、正にこの 「 指導者不在 」 「 中枢空洞化 」「統制官僚の無責任な専制 」 に尽きる。指導者教育の不在は、戦前より戦後に著しい。各組織の官僚制化・無責任化も戦後に著しい。国家百年の大計など、誰も考えていない。これでは集団は壊滅し、国家は亡びる。乃木凡將論が出て偉人を踏みにじり、平等思想が横行して下衆がのさばる世の中になった。これが「 人民主権 」 の産物なら、 「 人民主権 」 とは下衆の政治である。追記:乃木將軍が凡將でないことを論じた簡にして要を得た論考は以下の通り。 重松正彦 「 乃木大將と昭和の將軍 」 ( ドゴール『 剣の刃 』 葦書房, 平成5年,所収 )

日本は、辛勝だった日露戦争の問題点の反省を棚上げし、 「 彼を知り己を知 」 ことを怠って昭和の敗戦を迎え、昭和の敗戦の反省 ( 指導者不在と組織の官僚化) を怠って経済成長に突っ走った。現在、国家運営が迷走しているのは、反省不足の当然の報いである。


【正論】真珠湾への道 日米開戦65年
色眼鏡越しの冷たい眼差し 防衛大学校長・五百旗頭(2006/12/05 05:01)

要約

展望より経緯重視
何が太平洋を「戦争の海」としたのか。「勝ち目のない戦はしない」と健全な割り切りさえあれば、亡国の愚行は避けえた。日本は戦争へ突進した。なぜか。一つには、日本政府は重大決定に際して、将来への展望よりも過去の経緯の蓄積を重視していた。満州事変以来の軍主導の対外進出の実績を成功と認識し、その継続と進展こそが発展の道であるとの時代精神に支配されていた。第二に、戦う相手国への認識が著しく貧弱であった。対米戦争推進者たちは、驚くほどにアメリカを研究しなかった。東条英機首相兼陸相も、米国には疎かった。

海上権力の対決
さて、米国は「真珠湾への道」をどう歩んだか。ローズベルト大統領がキーであろう。第一次世界大戦期、日本が対華二十一カ条要求を行う中で、親中反日的な立場を強めていた。ところが、海軍軍縮とワシントン体制が樹立されると、ローズベルトは日本を再評価し、日米協力の立場を明言するに至る。しかし、満州事変がローズベルトを原初の立場へと回帰させる。「不承認政策」を、ローズベルトは継承すると声明した。対日経済制裁は、日本が北部仏印進駐を行い、三国同盟を結んだ40年9月に発動された。くず鉄の禁輸である。以後、ヒトラーと組んだ日本に対し、一段と冷たい眼差しを向けるようになる。

頂上会談開かず
41年7月の日本の南仏印進駐にからんでは、米国政府は石油全面禁輸と在米資産凍結という激烈な措置をとった。これで日本は屈服すると、対日強硬派は読んだ。だが、日本は戦わずして屈するのか、あるいは開戦を選ぶのか。戦争か平和か・・・懸命の平和へのあがきが試みられた。8月に近衛首相がローズベルト大統領との頂上会談を呼びかけ、大統領も乗り気であった。しかし、ハル国務長官が反対し流れてしまった。

10月に東条内閣の外相となった東郷茂徳が、「乙案」を提案した。南仏印から日本軍を撤退して、石油輸入の再開を求める日米合意案である。東条内閣はこれを容れた。米国政府も、これに暫定協定案をもって応じる動きを示した。米国政府は軍備増強まで3カ月の時間が欲しかったのである。それまで日本を「あやして」おきたかったのである。

開戦を予知して
もし暫定協定が成立していれば、日米は結局戦わずにすむことになったであろう。ところが、非妥協的なハル・ノートが11月26日に発せられた・・・。ローズベルトが真珠湾攻撃を知りつつ、やらせたとの主張が何度も現れてきた。が、それを実証したものはいない。大統領は日本の開戦を予知していた。たぶん、それを歓迎していたであろう。だが日本軍の南進を予期し、真珠湾攻撃を想定できなかった。彼は日本海軍の能力を過小評価し、大きな打撃を被る過ちを犯したのである。もちろん、それ以上に大きな過ちを犯したのが、300万人を超える犠牲を出したうえ敗戦を招く日本政府であることはいうまでもない。

【用語解説】ハル・ノート
開戦直前の昭和16年11月26日、日米交渉で提示された米国側最終案。中国と仏印からの日本軍無条件撤退、蒋介石政権以外の中国政権否認など、事態を満州事変前の状態へ戻すよう要求。
事実上の最後通告となった。



togyo2009 at 05:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 歴史に挑む