August 2015

August 27, 2015

加瀬英明氏のコラムより(10)日露戦争開戦百周年

今年は、日露戦争開戦百周年 Date : 2004/07/09 (Fri)

今年は日露戦争開戦から、百周年に当たる。日露戦争というと、私は夏目漱石の『三四郎』の一節を思い出す。この作品は、主人公の三四郎が東京帝国大学に合格して、上京する車内の場面から始まっている水蜜桃を好む中年男に出会うが、「いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね」というので、三四郎が「しかしこれから日本もだんだん発展するでしよう」と答える。すると、男がすまして「滅びるね」といった。漱石は直感力に富んでいた。『三四郎』のなかでは、それ以上説明していないが、日露戦争に勝ったものの、日本の将来に暗いものを見たのだった。三四郎はこの男と東京で再会するが、学校教師である漱石自身をモデルにしていたと思われる。『こころ』のなかにも、明治天皇が崩御されたことを報せる号砲を聞いて、明治の偉大な精神が永久に過去のものとなったという思いにうたれた、という記述がある明治は「近代化」と呼ばれた西洋化の高波が奔流のような勢いをもって、日本人の心をつくり変えた時代でもあった大帝がお隠れになったのは、国運を賭けた日露戦争に勝った六年後のことだった。 


私が明治の精神について教えられた本のなかに、旅順攻囲戦と奉天会戦に従軍した外国人記者の『乃木』(東京、文興院、大正十三年)がある。スタンレー・ウォッシバーンは、『シカゴ・ニュース』紙特派員だった。乃木希典大将は征戦中に、外国の従軍記者としばしば会った。「乃木将軍の此頃(注・旅順攻囲戦)の住居は、泥と石とで建てられた侘しい小舎の、支那人や豚や鶏や、(略)逃げ去った跡なのであった。(略)深く露軍の着弾距離内に入って居た為めに、若し萬一敵の知るところになったならば、何時盡滅させらるゝか知れぬのだった。(略)吾々に言葉を懸ける時は、将軍は常に柔和な、慇懃な、そして圓満な微笑を両眼に浮べた。しかし一旦幕僚や傅令士官に命令を交附するとなると、双の瞳孔は収縮して、鋼鐵色の二點と化してしまひ、其顔色亦た一見して何の個性も感情も無き、単なる戦争の機関として相貌を現ずる。復た飜って吾々に對すると、(略)全然別個の人物となって来る」(目黒野鳥訳)「鮮血を注げよ、惜まずに注げよと要求せられた将校士卒が、喜んで其使命を受理した其ストイック精神も、彼等を死地に就かしめた将軍のそれに、少しも譲らなかったのだ。自己の本務と国家との祭壇に生命を獻げよと命じた、其言沈默寡の司令官の命令を、舌端にも念頭にも、曾て問題とした者は一人も無かった」また、ウォッシュバーンは乃木大将をつぎのように描いている。「将軍は、士卒に對しても、常に親切温和であつたが、しかし如何なる場合にも狎れることは無かつた。彼等に對する将軍の言葉は、常に簡潔であつた。彼等は言下に将軍の命を實行した。部下に一瞬の猶豫でもあると、くん燻えん煙の閃きのやうに鋭い眼が光る。部下は血潮を波立たせて、突つ立ち上るのであつた。今し死を宣する時、まなじり眦が裂けたかと思ふと、忽ち平静にかえって、泰平の逸民たるの外、何の考も無いといふやうな眼を持つた人は、他に見たことも聞いたことも無い」旅順が、ついに陥落した。「幕僚が皆祝賀會に耽っていると、いつの間にか将軍の姿が見えない。もう退席されたのであった。行って見ると、小舎の中の薄暗いランプの前に、獨り顔を覆って腰かけて居られた。将軍の双頬に涙が見えた。私を見られるとかう言われた。今は喜んでいる時ではない、あの様に大きな犠牲を拂ったではないか」明治の日本人は、精神性が高かったウォッシュバーン記者は旅順攻囲戦中に、東京の乃木邸に静子夫人をたずねた。すると、夫人が「主人が出發の別れに、戦争が首尾よく終わるまでは、自分は死んだものと思へ。其時まではたより音信をす爲るな、音信も爲まい」といったという。昨今、公務で妻を残して海外に出かける時に、「後髪を引かれる思い」というのと、何と大きな違いがあるだろうか。


『乃木』の序文は、幣原喜重郎男爵が書いているが、「近年、本邦に於て、妄りに外来の新思想に惑溺する者あるに方り」と警告している大正は日本が第一次世界大戦に本格的に参戦することがなかったから、日本にとって国際環境が穏やかなものだった。日本は日露戦争によって疲弊したが、大戦によって交戦国から軍需品や、ヨーロッパから輸入が途絶えたアジア・アフリカから注文が殺到したために、未曾有の景気に涌いた大正時代に、今日の経済大国となる基礎が築かれた。大正の日本は、今日の日本社会の雛型となった。日本で大衆文化が誕生した。大正時代を表わす言葉といえば、株ブーム、野球熱、宝塚歌劇、大学の増設と受験戦争、美容院、映画、女権、私鉄と住宅地の開発、輕便な文化住宅、文化包丁、文化人といったものだ。


西洋化によって日本人の精神が、蝕まれた時代となった『三四郎』は、「うとうとして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。このじいさんはたしか前の前の駅から乗ったいなか者である。発車まぎわに頓狂な声を出して駆け込んで来て、いきなり肌をぬいだと思ったら背中にお灸のあとがいっぱいあった」というところから、始まっている。私は四谷で育って、日米開戦の二年後に小学校にあがったが、戦後二,三十年までは男たちがステテコ姿で近所を歩いていたし、若い母親が電車のなかで胸をはだけて赤児に乳を飲ませていた。―今ではこのような日本らしい光景がみられなくなった。江戸時代末期に日本を訪れた西洋人たちは、男たちが街中をふんどし褌だけで闊歩しているのや、若い女が全裸でたらい盥を使って行水しているのを見て驚いたことを、記している西洋人を真似た羞恥心を、持っていなかった


しばらく前に、私は桜の季節に山口県岩国市の錦帯橋から、花見をしたことがあった。その日は、四月十四日だった。偶然のことだったが、佐久間勉艇長が十三人の乗員の部下とともに、明治四十三年のこの日に花見を楽しんでいた。その翌日に、佐久間艇長と乗組員は六号潜水艇に乗って、潜航訓練中に全員が殉職した。その時に、私は十四人の先人たちのことを思って、錦帯橋は当時の姿のままたっているが、日本人が変わったという感慨にとらわれた。六号潜水艇は明治四十年に初めて、国産によって建造された潜航艇だった漱石が『三四郎』を発表した前の年であった


幕末から明治にかけて、日本はきらぼし綺羅星のように無数の逸材を生んだ日本で初めて国勢調査が行われたのは明治五年だったが、人口は三千万人だった。人口は徳川期中期から、ほぼ変わらなかった。今日、日本の人口は一億二千万人を超えて、四倍になっている。それだったら四倍の逸材がいなければならないが、百分の一も、千分の一もいまい。『三四郎』を読み返してみて、「滅びるね」という一言によって胸が締めつけられるような思いがする


新約聖書の『ヨハネの福音書』のなかに、ある学者がイエスに質問する場面がある。「もう一度新しく生まれなさいっていっても、いったいよいトシをした私が、もう一度おふくろの腹のなかに入って、出てくるわけにゆかんでしょう」すると、イエスが「水と聖霊によって洗礼を受けなければ、新しく生まれることはできない」と答える。私たちももう一度、母なる日本文化の胎内に入って、その内壁を見きわめ、再び躍り出ることが必要である。


日露戦争とヤコブ・シフ Date : 2005/10/20 (Thu)

今年は、日露戦争に日本が勝ってから、百周年に当たる。もし、日本が日露戦争に敗れていたとしたら、日本はロシアによって支配されていたから、今日の日本はありえなかった

 

他界されてしまったが、私はイスラエルのモシェ・バルトゥール駐日大使と親しかった。大使は昭和41年から5年にわたって、東京に在勤された。私は大使からきいたが、着任してすぐに、皇居において信任状の奉呈式が行われた。その時に、昭和天皇から「日本民族はユダヤ民族に対して、感謝の念を忘れません。かつて、わが国はヤコブ・シフ氏にたいへんにお世話になりました。この恩を忘れることはありません」という、お言葉をいただいた。大使は陛下の思いがけないお言葉に、驚いた。ところが、ヤコブ・シフという人物について、知識がなかった。そのために大使館に戻ってから、急いで調べた。


私は前大戦中と占領下における昭和天皇の御苦労について、週刊誌にノンフィクションを連載した。入江相政侍従長に何回にもわたってインタビューをした縁から、実懇になった。そこで、バルトゥール大使からきいた話について、たずねた。すると、昭和天皇はどのイスラエル大使に対しても、信任状の奉呈が行われるたびに、シフとユダヤ民族への感謝の念を伝えられた、とのことだった昭和天皇は日本国民のほとんど全員が、日露戦争について関心を失っていたというのに、日本の運命を決定した日露戦争を、昨日のことのように、覚えていられた私は深く感動した


ヤコブ・シフは日本が国運を賭けて戦った日露戦争に当たって、大きな役割を果たした。日露戦争が始まったのは、1904(明治37)年2月だった。日本は極東の小国に、すぎなかった。ロシアは圧倒的な軍事力をもっていた。世界の誰もが、日本がロシアと戦うことがあれば、とうてい勝ち目がないとみていた。開戦が避けられない状況になると、日本は急いで戦費を調達しなければならなかった。開戦の前年の12月には、日本銀行には円も含めて、正貨が1億6796万円(1170万英ポンド)しかなかった。日本は何とかして、海外で戦費を募らなければならなかった。日露戦争が始まるとすぐに、当時、日本銀行の副総裁だった高橋是清が、日本の国債を売り込む使命を帯びて、まずアメリカに乗り込んだ。高橋の訪米は、徒労に終わった。当時のアメリカ人は日本が勝つことが万に一つもありえないと、判断していた。高橋は深い失意を味わって、次の目的地であったイギリスへ向かった。高橋はロンドンに一ヶ月以上も滞在して、精力的に走りまわった。日本の第一回目の戦時国債として、1000万ポンドを調達する任務を、帯びていた。日英同盟の誼から、ようやくイギリスの銀行団から、500万ポンドの日本国債を引き受けてもらう約束をとりつけた。だが、それではとうてい足りなかった。高橋は途方に暮れて、懊悩した。高橋はイギリスの銀行家の友人が催した晩餐会に、招かれた。その席上で、隣に座ったアメリカ人の銀行家から、日本について多くの質問を受けた。高橋は一つ一つ丁寧に答えた。高橋はその後に自伝のなかでこの時のことを、いきいきと描いている。すると、翌朝、晩餐会を催してくれたイギリスの銀行家が、高橋をホテルに訪ねてきて、「昨夜、あなたの隣に座ったアメリカの銀行家が、日本の国債を引き受けようといっている」と、告げた。隣席の人物が、ヤコブ・ヘンリー・シフだった

 

ヤコブ・シフを、私が所蔵している『エンサイクロペディア・ジュデイカ』(ユダヤ大百科事典)で調べると、「著名な金融家で、慈善家」として、細く説明されている。この百科事典は全十六巻におよぶが、イスラエルで発刊されている。シフは残りの500万ポンドを、引き受けてくれた。高橋は愁眉を開いた。その後、シフは全世界に散ったユダヤ人に、日本の戦時国債を買うように呼びかけた。シフの力によって、ユダヤ人が日本が日露戦争の戦費を賄うために、戦争中に海外で発行した戦時国債のおよそ半分を引き受けてくれたもし、この時に、ユダヤ民族の援助がなかったとすれば、いくら日本将兵の精神力がロシア兵に優っていたといっても、日本は勝つことができなかったといえよう。高橋は自伝のなかで、こう述べている。「シフ氏が何故に自ら進んで、残りの5000万円を引き受けやうと申出てきたのであるか?当時、私にはそれが疑問で、どうしてもその真相を解くことができなかった。しかるに、その後シフ氏とは非常に別懇となり、家人同様に待遇されるやうになつてから、その理由があきらかになつて来た。ロシヤ帝政時代ことに日露戦争前には、ロシヤにおけるユダヤ人は、甚だしき虐待を受け、(略)故に、他国にあるユダヤ人の有志は、自分らの同族たるロシヤのユダヤ人を、その苦境から救はねばならぬと、種々物質的に助力するとともに(略)いろいろと運動を試みた」


シフは日露戦争が日本の勝利によって終わった翌年に、日本政府によって招待されて、日本を訪れた。明治天皇から宮中において親しく陪食を賜り、最高勲章を贈られた。昭和天皇は明治大帝を、慕っていられた。そこで、日本がシフとユダヤ民族によって救われたことを、よく知っていられたのだった。


1/29 Date : 2004/01/29 (Thu)

平成十六年が明けた時に、同じ十六年ということから、昭和十六年を想い起した。日本がアメリカの強い圧迫を蒙って、「自存自衛ノ為、蹶然」ー開戦の御言宣(みことのり)ーと、立ち上った年だった。もっとも、私は強大なアメリカを相手に戦争に突入したのは愚かなことで、三国干渉を蒙った時のように、臥薪嘗胆すべきだったという想いと、歴史の大きな流れのなかで仕方がないことだったという想いが、交錯する。それでも、日本国民が勇戦したために、アジア・アフリカ諸民族が白人による数世紀にわたった醜い支配から、解き放たれた。自存自衛のために已(や)むなく戦ったのだったが、多くの日本の若者が有色人種を解放する理想を信じて、戦場に殉じた。今日の人種平等の美しい世界は、日本が創ったものである


今年は、日露開戦の百周年に当たる。大帝国だったロシアを相手にして、辛じて勝った幕末から日露戦争にわたった時期が、日本の二千年に近い歴史のなかで、もっとも輝かしい時代だった、と思う日露戦争が戦われた明治時代は、江戸時代の延長だった江戸時代の日本は、精神性がきわめて高い国だった明治が始まった時の日本の総人口といえば、三千万人だったそれなのに幕末から日露戦争にかけて、綺羅星のように煌めく多くの偉材が、日本に現われた。新年に当たって、私はどうして日本の人口が一億二千万人に、四倍にまで増えたというのに、あの時代のように優れた人々が生まれないのか、と訝った。あきらかに、今日の日本人はあのころの先人たちと較べて、あらゆる面で劣っている。先人の後塵を拝しようとする、気概すらない。もっとも、アメリカだって同じことだ。アメリカが独立した時の人口は、僅か三百万人だった。それなのに、ジェファーソン、フランクリン、ハミルトンをはじめとする多くの逸材を生んだ。今日、アメリカの人口は二億五千万人を超えるが、日本と似たような状況になっている。ひたすら快楽を求める、大衆民主主義のせいなのだろうか。それだけでは、あるまい。


ー日本人は誰もが粒が小さく、輕くなった。ー時代だといえば、それまでのことだが、生活環境が物的に豊かになり、テレビをはじめとする娯楽が横溢して、いつも気が散るために、人々がつまらないことに追われて、忙しすぎる生活を送るようになったからにちがいない。幕末はもちろんのこと、戦前まで貧しかった時代には、人は独りでゆっくりと考え、落ち着いて読書する時間が、ふんだんにあった。だから自分の手で、しっかりとした自分を創ることができた。今日では、人がパソコンや、携帯電話、ビデオや、デジタルカメラなどのつまらない道具によって四六時中、振り回されているために、人が主役の座から追われた人間の歴史で不必要なものが、これほど支配的な力を持ったことはなかった外から操られて生きているために、人の自主性が失われた物質的な豊かさが増大するにつれて、世界のどこへ行っても、人が小粒になった。人が薄っぺらになっている


豊かさが増えるにしたがって、人が利己的になったー。貧しかった時代には扶け合わねばならなかったので、人は利他的にならざるをえなかった。長が屋の情が失われた。人と人とのあいだの絆は、多分に経済的な環境によってつくられるのだろう。主婦が隣家に味噌、醤油を借りにゆくこともなくなった。都会では隣近所という言葉が死語になった。ほどなく隣人という言葉も、日本語から消えることになろう。


家族といえば身を寄せ合って生きていたのに、家族が団欒することがなくなった。このごろでは家族の触れ合いを妨げるために、孤立した子供部屋をつくるのが当たり前のことになっている。子供が部屋から出てこないから、座敷牢をつくるようなものだ。子供の心が歪んでしまうのも、仕方あるまい。ひとりで食事を摂る子供が多いために、「個食」という言葉があるという。個食とか、個人主義は、「孤」の字を使うべきだろう。文部科学省は子供の個性を伸ばす教育に力を入れているが、競争社会を生き抜くことができる、器量が狭い人間を育成しようとしている。それだったら孤性と書くべきだ。それよりも、人に恋する、人懐っこい子をつくるべきだ。


老人は粗末にされるから、古老に敬意が払われることがなくなった。古いものは役に立たないという進歩的な考えが、横行している。だったら「孤老」と、呼ぶべきだ。進歩に反対したい。病んだ親の面倒をみなければならないというと、「何と不幸せか」と、同情される。まるで妖怪の会話のようだ。公的機関が世話をするのが、高度福祉社会ということらしいが、「福」の字を使うことをやめてほしい。親を粗末にする者が、国や、人類を愛することができるはずがなかろう日本はこのままゆけば、かならず滅びる



togyo2009 at 18:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 教育の心をまもる 

August 25, 2015

加瀬英明氏のコラムより(9)日本のルネサンスを!

日本のルネサンスを!Date : 2003/12/26 (Fri)

日本はなぜか、世界に類例ない、優れた文化を持っている平成十六年は聖徳太子が憲法十七條を制定してから、千四百周年を迎える。十七條憲法が人の和を重んじることを説いたことは、有名である。第十七條目は、「重要なものごとを、一人だけで決定してはならない。かならず多数で議論を尽くせ。多数による合意は正しい」(現代語訳は筆者による)と定めている。この時代の世界はどこへ行っても、専制王が権力を振っていたから、これは驚くべきものだ。だが、多数による決定が正しいというのは、太子の発想ではあるまい。それまで長い間規範となっていたことを、書いたものと思われる。


その四百年後の平安時代に、紫式部、清少納言、和泉式部、菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)をはじめとする作家が筆を競り合って、絢爛たる女性文化の花が開いた。この時代の世界では、アジアにおいても、ヨーロッパにおいても女性たちは男に隷属し、文盲だった。『源氏物語』は世界で女性がはじめて書いた小説だが、アジアで女性がはじめて小説を書くのは十九世紀末であり、ヨーロッパでは十八世紀である。


江戸時代の日本は、世界のなかで庶民がもっとも恵まれていた国を形成していた演劇をとれば、世界のどこにおいても支配階級に属していたが、世界でもっとも絢爛豪華な舞台芸術である歌舞伎は、民衆のものだった絵画も同じことだが、庶民の浮世絵版画芸術は、十九世紀のヨーロッパ画壇が一派を構成するほど、深奥な影響を及した庶民の教育水準も、世界のどこよりも高かった江戸時代末期に、寺子屋は全国で三万校を上回った。多種大量の教科書が出版された。そのために明治に入ると、日本はアメリカよりも早く、小学校教育を義務化することができた


団体旅行、服飾、外食、出版産業、郵便、流通機構が世界に先駆けて発達し、庶民生活を潤した。西洋で団体旅行がはじめて行われたのは、十九世紀末のことである。出版といえば、数万部売れる本も珍しくなかった。 農村生活も、豊かだった。飢饉によって悩まされることがあったが、農民も教育からはじまって、高い庶民文化の恩恵を享受した商人は商道徳を、倫理にまで高かめた。これも世界に他に例がない。暖簾はまさにその象徴であって、神聖な商いの場を区切る結界の役割を果した。商いは実意ある取引きを行う、修業の場とみなされた。江戸時代の日本国民は崇敬心が篤く、精神性がきわめて高かった。質実剛健を旨とした武士道は、武家階級だけに限られなかった。これほど精神性が高い社会は、世界において日本しかみられなかったろう


平成十七年は、日本海海戦の百周年を迎える今年は日露開戦の百周年に当たる。日本は明治に開国すると、目覚ましい発展を遂げ、たちまちのうちに世界の一流国に伍するようになった。明治は江戸時代の延長であった指導者、個人、帝国主義、軍国主義、独裁者をはじめとする夥しい言葉は、西洋語を訳するために造られた明治訳語である。日本は明治以後に日本を世界の一流国とした優れた文化を失うことなく、その輝かしい歴史に誇りをいだくかぎり、力を衰えさせることはない。日本に必要なのは、かつてのよき時代の「ルネサンス」・・復興である。過去を尊ぶことにこそ、日本の未来がある


江戸時代に醸成された独特な日本文化 Date : 2007/03/12 (Mon)

私は国際政治を専門としてきたことから、日本文化が諸外国と較べて、どのように独特なのか、関心をいだいてきた。江戸時代の日本は同じ時代の諸外国とまったく異なっていた二百七十年も平和が続いた国が、他になかっただけではない。江戸期には、町人が武家を経済力で圧倒した。農工商の庶民が被支配階級だった

 

被支配階級の方が豊かな生活

被支配階級が支配階級よりも豊かな生活を享受していた国は、日本の他に例を求めることができない。日本では永く平和が続いたために、庶民が豊かな生活を営むことを促した。三世紀近くも平和が保たれたのは、幕藩体制による支配が緩やかなものであって、庶民が経済や学問の分野において、幅広い自由を享受していたことが、社会を安定させたからだった。江戸時代の日本の庶民は世界のなかで、もっとも恵まれていた。江戸中期後になると、豪商はどの藩よりも豊かだった。多くの庶民が下級の武士より、高い収入をえていた。江戸末期には武家が、人口の八%強を占めていた江戸期の特色の一つといえば、歌舞伎、浄瑠璃、浮世絵など、庶民芸術が爛熟した。これほど贅沢な庶民文化が栄えた国は、他にない。他の諸国では、舞台芸術、絵画や音楽は、支配階級のものだった。徳川時代は経済活動だけではなく、学問についても、禁制を破らないかぎり、干渉しなかった。江戸期の日本は経済的な活力や、知的な活力が漲っていた。そのために、全国が大きく発展した。


江戸は百万人の人口を、擁していた。ロンドンや、パリを凌ぐ、世界最大の都市だった。武家も庶民も、豊かな都市生活を謳歌した。江戸後期の文人の太田南畝は江戸の食堂について、「五歩に一楼、十歩に一閣」と、記している。今日の東京か、ニューヨークを描いているようである。徳川期の日本はレジャーをとっても、世界の先端にあった。ヨーロッパでは十九世紀に入って団体旅行(パッケージ・ツアー)が始まったが、日本では御師(おし)という、今様にいえば旅行業者が全国に散って、伊勢参り旅行を手配した。二、三十人が団体をつくって旅した。伊勢だけでなく、四国の金比羅参り、四国遍路、秩父巡礼、善光寺参りなど、多くの団体旅行が行われた郵便も九州から北海道まで、届いた。宿駅制度が整備され、継飛脚がリレーした。飛脚は夜に入ると、高張提燈をもって走った。『東海道中膝栗毛』に、飛脚が「エイさっさ」と掛け声を発して、弥次喜多の二人を追い越してゆく情景が、描かれている

 

実意(まこと)をこめた商い

江戸をとれば、治安が驚くほどよかった江戸には四十五万人の武家と、五十五万人の町民が住んでいた。南北の町奉行所が、町民を治めていた。両奉行所に二百七十人の役人がいたが、そのなかで六十四人が司法と警察に当たる業務を担当していた。警察官に当たる奉行所付同心定廻(じょうまわ)りは、両奉行所を合わせて、なんと十二人しかいなかった。定廻りはそれぞれ自分の収入のなかから、五人あまりの岡引(おかっぴ)きを抱え、さらに岡引きがそれぞれ五人あまりの助手を雇っていた。三百人あまりの警官によって、五十五万人の治安を維持していた町民が高い自治能力をもち、公徳心がきわめて強かったことを、物語っている


江戸期の日本人は、精神性がじつに高かった商いが神聖な行為にまで昇華したが、世界で日本だけにみられたことだった。暖簾はその象徴だった暖簾は神社の鳥居と同じように結界を示すものであり、その内側が商いの修行の神聖な場となっていた。結界は修行のために、一定の区域を区切ることである。表暖簾は紺色ときまっており、毎年、新調された。新しい暖簾は元日に神棚に供えて、大願成就を祈ったうえで切り火をして、店頭に掛けた商人は「暖簾を汚さない」とか、「暖簾の手前、ヤクザな品は売れない」というように、「実意(まこと)」をこめて商った今日の日本では実意という言葉が、死語になっている暖簾は生命にかえて、守るべき信用を表していた。出入り半纏や、職半纏も、同じように神聖なものだった。


欧州にはなかった高い識字率

江戸期の日本は女性も含めて、世界で識字率がもっとも高かった江戸末期には全国にわたって、数万軒の寺子屋があった。そのために、明治に入るとアメリカよりも早く、小学教育を義務化することができた。もっとも、日本では江戸以前から識字率が高かった。安土桃山時代に日本に来たキリシタンの宣教師のザビエルは、「日本人は男女問わず、みな読み書きができる。庶民に、文盲がほとんどいない」と、イエズス会本部に報告している。この報告にはやや誇張があったろうが、ザビエルの実感だったにちがいない。このころのヨーロッパの庶民のほとんど全員が、文盲だった。ザビエルは、中国も知っていた。「ヨーロッパの外で、日本人ほど優れた民族はいない」と、賞讃している同じ時期にイエズス会士として、安土にセミナリオを開いたオルガンティーノは、「私は世界のなかでかくも聡明で、明敏な人々はいないと考えるに至った」と、記している


幕末の日本を訪れた西洋人は、下積みの庶民まで明るく、礼儀正しいことに、目を剥いて驚いているヨーロッパでは江戸後期に、産業革命が進んだ。マルクス、エンゲルスの著述や、ディケンズの小説を読むと、資本家による搾取が悲惨な状況をつくりだしていた。ヨーロッパの下層階級は、いつも暗い表情をして、粗暴だった。隣国の朝鮮では、李朝が民衆を徹底的に収奪した。朝鮮語には、火災、水災と並んで、「官災(クワンジエ)」という、日本語にない言葉がある。中国も、同じことだった

 

徳の蓄積が明治の発展をもたらした

江戸期の日本人は、徳を重んじた。誰もが、自制心を働かせた。日本文化の特徴は自らを抑えることにあるが、武道、茶道、舞踊から、和装、起居振る舞いまで、自制する美しさによって、律せられている。あらゆる階層の日本人が教育を重んじて、研究熱心だった。身分差別があったとしても、平等性が高かった。町人の伊藤仁斎や、農民出身の石田梅岩をはじめとして、庶民から数多くの優れた学者が輩出した。他国と較べて、階級間の流動性が高かった。二宮尊徳や、私は伊能忠敬の玄孫に当たるが、二宮尊徳も忠敬も農民から武士に取りたてられている。このような例は、珍しくない。朝鮮では日本のように庶民が支配階級の一員に取りたてられたり、養子縁組をすることはありえなかった。南北朝時代から、身分を超えて酒を酌むという無礼講が行われた宮中の歌会始をとれば、明治七年から誰であっても入選すれば、天皇と同じ席に連なることができた。無礼講や、歌会始のようなことは、ヨーロッパや、中国や、朝鮮では階級差別が厳しかったから、考えられなかった。


江戸期の日本はエコロジーの分野において、無駄がない、完全な循環社会をつくっていた。今日の日本にとって、よい手本となるものである。幕府は同じ時代の諸国と較べて、善政を施いた西洋が生んだ機械を欠いていたが、経済、農業、教育、工芸、余暇活動をとってみても、世界の先端をいっていた日本が明治に入ってから目覚しい発展を遂げたのは、江戸期に蓄えられた徳の蓄積によるものだった


「教育勅語」に記された日本道徳律と近代化の鍵 Date : 2006/01/19 (Thu)

明治231890)年1030日に、明治天皇によって『教育勅語』が発せられた。正式には、『教育に関する勅語』と呼ばれる


 「朕惟(ちんおも)フ(考える)ニ我()カ皇祖皇宗國(こうそこうそうくに)ヲ肇(はじ)ムルコト宏(こう)(えん)ニ徳(とく)ヲ樹()ツルコト深厚(しんこう)ナリ我()カ臣(しん)(みん)(国民)克()ク忠(ちゅう)ニ克()ヲ孝(こう)ニ億兆(おくちょう)(全国民)心(こころ)ヲ一(いつ)ニシテ世()()()ノ美()ヲ濟()セルハ此()レ我()カ國體(こくたい)ノ精華(せいか)ニシテ教(きょう)(いく)ノ淵源(えんげん)(根源)亦實(またじつ)ニ此(ここ)ニ存(そん)ス爾(なんじ)(しん)(みん)()()ニ孝(こう)ニ兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ夫婦(ふうふ)相和(あいわ)シ朋友(ほうゆう)相信(あいしん)シ恭儉(きょうけん)(自己を抑制して人を敬うこと)己(おの)レヲ持()シ博愛衆(はくあいしゅう)ニ及(およ)ホシ學(がく)ヲ修(おさ)メ業(ぎょう)ヲ習(なら)ヒ以(もっ)テ智能(ちのう)ヲ啓發(けいはつ)シ徳器(とくき)(優れた人格)ヲ成就(じょうじゅ)シ進(すすん)テ公益(こうえき)ヲ廣(ひろ)メ世務(せいむ)(世のためのつとめ)ヲ開(ひら)キ常(つね)ニ國憲(こっけん)ヲ重(おもん)シ國法(こくほう)ニ遵(したが)ヒ一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレハ義勇公(ぎゆうこう)ニ奉(ほう)シ以(もっ)テ天壤(てんじょう)無窮(むきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)(助け守る)スヘシ是(かく)ノ如(ごと)キハ獨(ひと)リ朕(ちん)カ忠良(ちゅうりょう)ノ臣(しん)(みん)タルノミナラス又以(またもって)テ爾(なんじ)祖先(そせん)ノ遺風(いふう)ヲ顯彰(けんしょう)スルニ足()ラン

()ノ道(みち)ハ實(じつ)ニ我()カ皇祖皇宗(こうそこうそう)ノ遺訓(いくん)ニシテ子()(そん)臣民(しんみん)ノ倶(とも)ニ遵守(じゅんしゅ)スヘキ所(ところ)(これ)ヲ古今(ここん)ニ通(つう)シテ謬(あやま)ラス之(これ)ヲ中外(ちゅうがい)ニ施(ほどこ)シテ悖(もと)(道理にそむく)ラス朕(ちん)(なんじ)臣民(しんみん)ト倶(とも)ニ拳拳服膺(けんけんふくよう)(謹んでよく守る)シテ咸(みな)(あまねく)其(その)(とく)ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ」(カッコ内は現代語訳)


この年の5月には府県郡制が公布され、7月には前年発布された大日本帝国憲法のもとで、第1回衆議院選挙が行われている『教育勅語』が発せられた翌月に、第1回通常議会が召集された。日本は国をあげて近代国家制度を整備することを、急いでいた。教育勅語は2次大戦後の昭和23年にアメリカ占領軍の指示によって、衆参両院が「廃止決議」を行うまで、半世紀以上にわたって、日本国民の精神的な柱となった。明治前期は日本が全力を注いで、西洋を模倣して、欧化をはかった時代だった。ところが、「和魂洋才」(日本の精神を保ちながら、西洋の技術を習得する)が唱えられたものの、西洋的な思潮が高波となって、日本を洗った。『教育勅語』が発せられた8ヶ月前に東京で全国地方官会議が催され、多くの知事が教育の場で「智育」が偏重されるかたわら、「徳育」が疎かにされていると批判した。明治天皇はこの声を聞かれ、御心配になられて、徳育の基本となる短い文書を起案するように、榎本武揚文部大臣に命じられた。明治天皇は明治の御代をひらいた群臣とともに、新しい日本の国づくりをすすめられた。この時、天皇は37歳だった


明治天皇は国民教育に強い関心をいだかれ、明治5年に後の東京帝国大学(現在の東京大学)となった大学東校へ行幸されたのをはじめとして、師範(教員養成)学校、小学校、中学校などの学校を、しばしば視察されたそして明治12年に児童の徳育のために、元田永孚(もとだながざね)に『幼学要綱』を編纂するように命じられた明治天皇は数万首の御製をよまれたが、このころの御製に 「いつはりの世をまだ知らぬ幼な子が こころや清きかぎりなるらむ」 という御歌がある元田は漢学者で、天皇に学問を講じる侍読だった『幼学綱要』は日本と中国の古典から、孝行や、忠節、立志、仁愛、倹素などの20の和漢の道徳的な教えを取り出して、挿絵とともに刊行され、全国の小学校において用いられた


『教育勅語』は、全国民が守るべき教えとなるものだった法制局長官だった井上毅(こわし)が元田の協力をえて、草案をまとめた。井上は45歳だったが、明治憲法の制定に中核的な役割を果たしていた。井上は国民の精神のありかたを、法的な拘束力がある勅令によって縛るべきではないと考えた。井上は山県有朋首相に勅令によらず、天皇の私的な言葉である勅語とするべきだと、進言した。『教育勅語』が発せられると、全国の学校において節目となる式典で、校長が礼装に身を正して、壇上から奉読することが行われた。


どうして19世紀に入ってから、西洋諸国が圧倒的な力を背景にして、中国、朝鮮、日本の三ヶ国に迫った時に、日本だけが近代化を見事に成し遂げて、短期間で世界の主要国に伍することができたのだろうか? 『教育勅語』のなかに、その答の鍵がある。日本は中国と朝鮮を、長いあいだ先進国として憧れた。日本は中国を模倣し、朝鮮から学んだ天皇が「朕」と自分を呼ぶのも、中国に模している。「朕」は秦以後、天子が自分を指す言葉として用いられ、発音が「予、余」と同じだからといわれる日韓併合に当たって大韓帝国皇帝が発した勅語も「朕」で始まり、「爾臣民其()レ克()ク朕ガ意ヲ体(たい)セヨ」といって終わっている。日本の多くの詔書も、そのように結ばれている。しかし、日本と中国とは国柄が、まったく違った李朝の朝鮮は5世紀にわたって中国の属国であり、自ら「小中華」と称していた


明治の「御一新」(後に明治維新と呼ばれた)は欧化をはかるとともに、日本化が積極的に進められた時代だった全国の社寺において神仏を分離して国家神道を創り、廃仏毀釈を行うかたわら、宮中行事から唐風を排した。それまでは歴代の天皇は龍の刺繍が施されたシナ服を着て即位礼を挙行したが、衣冠束帯に改められた。『教育勅語』はその7年前に全国に配布された『幼学綱要』と違って、中国色が払拭されている。井上は『教育勅語』を起草するのに当たって、山県首相に宛てて「漢学の口吻(こうふん)(言いぶり)と洋風の気習」を除外したいと、書いている。


日本と中国、朝鮮とのあいだの決定的な違いは、中国と朝鮮では、皇帝、国王が専制を行い、放蕩な生活を送ったのに対して、日本の天皇が徳の源泉であって君民が一体となってきたことである。日本で御一新が進められていた時に、中国では西太后、朝鮮では高宗王と閔妃が国が衰えるのをよそに、贅をきわめていた。閔妃は朝鮮の西太后だった。中国と、朝鮮では王朝がしばしば交替したが、簒奪(さんだつ)者であり、人民を徹底的に搾取した。それに対して、日本は和を尊ぶ、やさしい国であってきた儒教も日本にくると、日本化された中国文化圏では儒教のもっとも大切な価値が「孝」ーー一族ーーであったのが日本では「忠」ーー公(おおやけ)ーーを「孝」の上に置いて、「忠孝」に変えた今日でも、大陸には公の概念がない


『教育勅語』は、天皇が「朕爾臣民(なんじしんみん)ト倶(とも)ニ拳拳(けんけん)服膺(かくよう)シテ咸(みな)其徳(そのとく)ヲ一(いつ)ニセン」と誓っている。天皇が国民とともになって、そのなかで説かれた徳目を守ろうと約束している。

明治15年に発せられた『軍人勅諭』にも、「朕と一心になりて力を国家の保護に尽さは我国の蒼生(そうせい)(国民)は永く太平の福を受け我国の威烈(いれつ)(威光)は大に世界の光華となりぬへし」という一節がある。明治憲法は「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ、コノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」(第四条)と、定めているこれは天皇も憲法の規定に従うことを、意味している


日本の歴史において明治の御一新は、皇極天皇のもとで皇極4645)年(この年に大化元年に改元)に断行された大化改新と並ぶものだった大化改新は中国大陸において唐と、朝鮮半島において新羅が興隆し、その脅威に対抗するために、国家体制を刷新する必要に迫られて行われた。それまで多くの豪族が、日本を分割して支配していた私領私民を廃して、中国に模して、天皇が全国を直接に統治する中央集権体制に改められたこれは、明治の廃藩置県に相当した皇極天皇は大化改新に当たって「今始(はじ)めて万国(くにぐに)を治めんとす」という詔勅を発している。そうすることによって、天皇は中国流の天子となった。しかし、大化2年に詔(みことのり)を発して、「万民宰(おさ)むるは独り制(おさ)むべからず、要(かなら)ず民の翼(たすけ)を須()つ」と諭している。これは聖徳太子がその41年前に「和ヲ以テ貴シトナス」という『十七条憲法』を発布し、第十七条で大事なことは全員でよく協議して決めなさい、全員で合意したことは正しいと定めたのと、同じことである。あるいは、明治天皇が慶応41868)年(同年、明治元年に改元)に『五箇条の御誓文』のなかで、「万機(すべて)公論ニ決スヘシ」「上下心ヲ一ニシテ」と誓われたのも、そうだった日本は神話時代から、万世一系の天皇が宗教的な威力をもって、国を精神的に統(すべ)てきた大陸と違ってつねに君民が一体であり、天皇が専制を行うことがなかったのである



togyo2009 at 14:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 教育の心をまもる 

【戦後70年】渡部昇一氏著「合邦と植民地は大ちがい!大人の国・英国の歴史認識」

ピサロの侵略と「コロニー」

明治四十三年(一九一〇年)、日本と韓国は合邦しました。これを日本による韓国の「植民地化」ととらえる考え方があり、むしろ、それが一般的な風潮となっています。−しかし、それは日本と朝鮮半島という、地域的にも思想的にも限定的な、狭い見かたにすぎません。アジアに対する欧米の帝国主義、植民地主義が当然とされていた時代の、世界史的な視野で見るべきだと思います。


たとえば、英語の文献では、日韓合邦のことを「アネクセイション」(annexation)と表現しています。これは「植民地化」を意味する「コロナイゼーション」(colonization)とはイメージがまったく違う
。歴史を公平に客観的に見るには、言葉が当時どのように使われていたかを知ることも重要です。まずコロナイゼーションの語源を考えてみましょう。“colonization”の“colo”は「耕す」とか「居住する」という意味です。このラテン語の動詞の過去分詞“cultum”は「耕された」「洗練された」の意で、「耕作」「教養」の意味の英語「カルチャー」(culture)も、そこからきています。“cultum”の派生語である“colonia”(コロニア)は、「農場」「領地」という意味でした。元来はローマ帝国の拡大にともなって新たな征服地へ移り住んだローマ市民、とくに「ベテラン」(veteran)と呼ばれる除隊した兵士たちが住んだ土地のことです。彼らはローマ市民権を持ち、駐屯兵として帝国防衛の役割も担いました。「屯田兵」のようなものと言えばわかりやすいでしょうか。イギリスをみてみると、ブリテン島にはローマのコロニアが九つありました。よく知られている地域では、ロンドン、バース(Bath)、チェスター、リンカーンなどがあげられます。いずれも当時はローマのコロニアでした。さて、ローマ時代には「農場」「領地」という意味だった「コロニア」が、やがてギリシャ語の「アポイキア」(apoikia)の意味にも使われるようになりました。ギリシャはシュラキウスやイタリアの島に入植し、独立・自治の・植民地を建設した。それが「アポイキア」で、メトロポリス(母なるポリス)から独立して住むところという意味でしたが、それもラテン語ではコロニアというようになったのです。


では現代英語で「植民地」をさす「コロニー」(colony)という言葉はいつから使われるようになったのか。最初にコロニーという言葉を英語で使ったのは、リチャード・イーデンという十六世紀イギリスの翻訳家です。ペルーのインカ帝国を滅ぼし、文明を破壊した例のスペイン人、フランシスコ・ピサロの行状を書いた本の翻訳のなかで彼が初めて「コロニー」という言葉を使いました。一五五五年に出版した“The Decades of the New Worlde, or West India”(「新世界あるいは西インドの数十年」)という本に出てきます。


植民地に犯罪者を送り込んだ英国

現代語の「コロニー」、つまり「植民地」という言葉は、大航海時代、ペルーの先住民族を絶滅にまで追い込んだピサロの非道な侵略・掠奪を連想させる言葉として英語に入ったわけです。一五五五年といえば、毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢を破って中国地方を支配する基礎を固めた年。織田信長が桶狭間の戦いで今川義元に勝利する五年前です。


「植民地をつくる」という動詞コロナイズ(colonize)、そして「植民地化」という名詞コロナイゼーション(colonization)は、一七七〇年、エドマンド・バークが最初に使いました。著書“The Thoughts on the Present Discontents”(「現代の不平家についての考え」)のなかで彼は、“Our growth by colonization and by conquest”(イギリスのコロナイゼーションと征服による成長は……)という言い方をしています。


その六年後の一七七六年に刊行された、アダム・スミスの『国富論』には“The discovery and colonization of America”(アメリカの発見と植民地化)という用例が見られます。インディアンを蹴散らして強引に土地を奪うというニュアンスです。日本でいえば田沼時代にあたります。


イギリスの詩人・作家であるロバート・サウジーは、晩年には『ネルソン提督伝』を書き、小説家のウォルター・スコットの推薦で桂冠詩人にもなっていますが、若いころは、いまでは忘れられている「パンティソクラシー」(pantisocracy)、日本語にすれば「万民同権社会」なるものを夢見た人で、ドン・マヌエル・アルバレース・エスプリエーラというスペインの旅行者が書いたという設定の“Letters from England”(「ロンドン通信」一八〇七年)に、次のように書いています。「犯罪者をもって植民させる(colonize)ことはイギリスのシステムの一つである」つまり、イギリスが植民地に犯罪者を送り込んでいることを批判しているのです。彼はまた、英国人の生活は、とくにその産業的・商業的な拡大(industrial  and commercial expansion)という面で非常な危険にさらされているとも言っています。この頃から、英語の「コロナイズ」には侵略・掠奪というイメージがあり、イギリスの心ある人たちはみな悪い意味で使っていたのです。


日韓合邦は「アネクセイション」

一八三〇年代になると、アメリカでは、「コロナイゼーショニズム」(colonizationism)=植民地主義とか、「コロナイゼーショニスト」(colonizationist)=植民地主義者という言葉も用いられるようになりました。これなどはまったく批判的な意味合いを持っています。もともと悪い意味ではなかった「コロニア」という言葉が、大航海時代に白人が有色人種の国を征服していくにしたがって「コロナイズ」という言葉を生み、「掠奪」「侵略」というイメージを持つようになったのです


その「コロナイゼーション」という言葉は、日韓合邦については私の知る限り、イギリスの文献にはまったく現れませんすべて「アネクセイション」(annexation)と書かれています。「アネクセイション」という言葉は、イギリスの哲学者フランシス・ベーコンが一六二六年より以前に書いたといわれる“Union England and Scotland”(イングランドとスコットランドのユニオンについて)のなかで、「二つの国(民族)の土地から、一つのコンパウンデッド・アネクセイション(複合した合併)をなす……」と、平等というニュアンスで使っています。


一八七五年には、ジェームズ・ブライスという法学者・歴史学者が、“The Holy Roman Empire”(神聖ローマ帝国)のなかにこう書いています。「フランスは、ピーモントをアネクセイション(合併)することによって、アルプス山脈を越えた」。ここにも「掠奪」という意味合いはまったくありません。動詞の「アネックス」(annex)は、subordination(従属関係)なしに、という意味を元来含んでいて、もともとどちらが上というニュアンスはなかったのです。


一八四六年に出た『英国史』、元来はラテン語の本で、それ以前に出版されているのですが、そのなかには「ジュリアス・シーザーはブリテンをローマ帝国にアネックスした」という記述があります。この場合も、ローマの文明をブリテン島におよぼしたというニュアンスが強く、掠奪したという感じはない。

 


略奪、征服の意味はない

さらに「アネクセイショニスト」(annexationist)という言葉は、アメリカにおけるテキサス併合論者の意味です。一八四五年に実現したアメリカの「テキサス併合(アネクセイション)」という言葉にも、「掠奪」や「征服」という意味はありません。


このことをふまえて、『ブリタニカ百科事典(Ency−clopdia Britannica)』一九二二年の十二版を見てみましょう。日韓合邦の翌年、一九一一年の十一版にはまだ記載がなく、十二年後に発行された十二版の「KOREA」(コリア)の項目のなかに、初めて日韓合邦のことが出てくるのです。一七七一年にグレートブリテンのエディンバラで第一版が出たブリタニカは、イギリスのみで発行されていた時代には『ロンドン・タイムズ』と並び情報の公平さで世界的に評価され、世界中の知識人に読まれた信頼度の高い事典です。


そこには、こう書かれています。「一九一〇年八月二十二日、コリアは大日本帝国(Japanese Empire)の欠くべからざる部分(integral part)になった」ここで「欠くべからざる部分(インテグラル・パート)」という書き方をしていることからも、・植民地・とは見なしていないことがわかります。「国名はおよそ五百年前に使われていた朝鮮(Chosen)に戻った。(略)日本が外交権を持った一九〇六年以来、日本によって秩序ある体系的な進歩がはじまっていたが、これ(合邦)によってその進捗はさらに確かなものになった」。ただ、「コリアン・ナショナリズムの抑圧を批判する人もいる」ということも書かれ、以下、およそ次のような趣旨の記述が続きます。「警察制度を整備して内治をすすめたことによって泥棒や強盗団が跋扈していた辺鄙な地方の治安もよくなった。朝鮮の平穏さは、併合(アネクセイション)以来、曇ることなく続いていたが、一九一九年三月に突如、騒乱が起こった(渡部注 三・一運動)。これはウィルソン米大統領の唱えた民族自決主義(セルフ・ディタミネーション)の影響であったが、ただちに鎮圧された。日本は慎重に改革を進めていたが、これを見て計画を急ぐことになった。注目すべきことに、軍人だけでなく民間人でも朝鮮総督に就任できることになり、総督は天皇のみに責任を負う立場から、首相に従うこととなった。


朴正熙が日本から受けた恩恵
原(敬)首相は、教育・産業・公務員制度について日本人と朝鮮人との差別を取り除く政策を進めていると声明し、こうして朝鮮に再び平穏が戻った。その後も不満分子はときどき騒いだが、みごとに押さえられていた」。朝鮮人が暴動を起こすのは日本統治時代に限ったことではありません。独立後も済州島事件(一九四八)や光州事件(一九八〇)など、ずいぶん反乱が起こっている。日本時代よりむしろ多いくらいです。それはともかく、この一九二二年版ブリタニカの記述にも、すべて「アネクセイション」という言葉が使われているのです


それから四年後の一九二六年に発行された第十三版には「アネクセイション・オブ・コリア」という項目がたてられ、「日清・日露戦争は、朝鮮が日本の心臓に向けられた短刀となることを防ぐための戦いであった」と記し、「朝鮮の宮廷人たちの気まぐれで自殺的な外交をやめさせるためには日本が合併するより方法がなかったが、とどのつまり、伊藤博文の暗殺によってクライマックスを迎えた」と、日本に対して非常に同情的に書かれています。


日本との合邦後、朝鮮半島ではいかに経済が発展し、安定した
というようなことも縷々述べられています。「朝鮮を治めるのは日本の責任であると東京の政府は考え、朝鮮王家は、高い名誉と潤沢な経済支援を受けることになった」と記されているのは、朝鮮の李王家に対する日本の丁重な遇し方のことです。日本の皇族に準ずる待遇をし、李垠皇太子のもとには梨本宮家の方子女王が嫁いでいます。侵略によって征服された「植民地」の王家であれば、本国の王家と婚姻を結ぶなど、ありえない話です。朝鮮王でシナの皇族の娘を妻とした例はありません。


それまでの朝鮮半島は清国に支配されていました。朝鮮は明に建ててもらった国ですから、明が清に滅ぼされたとき、義理立てして抵抗したものだから、清に徹底的にやられてしまった。
清の属国だった時代が記憶に残っている人の話を聞かないと、そのひどさはなかなかピンときません。私は、たまたま元北朝鮮の脱走兵だった人を一年ほど家に住まわせていたことがあります。旧制の平壌中学を出た教養のある人でしたが、彼の話によれば、清末の朝鮮がなぜあれほど汚かったかといえば、清潔にしておくと清の兵隊がやって来るからで、だから彼らさえ近寄れないほど汚くしたのだというのです。おいしい食べ物があるとすべて持っていかれるから料理も発達せず、口にするのはおこげくらいのもの。倭寇が怖くて昔から海にも出られないから海の魚の料理の発達もなかったのだそうです。だから、日清・日露戦争のときも朝鮮の民衆は日本に協力的でした。合邦についても、ブリタニカにもフェアに記載されていたように、たしかに反対派もいたしテロリストもいたけれど、大方の民衆は大喜びだったわけです。


合邦のおかげで朝鮮人がいかに救われたかは、一九六三年から七九年まで五期にわたって韓国大統領をつとめた朴正熙の伝記を読めばわかります。朴正熙は極貧の家で七人目の子供として生まれています。日韓合邦以前の貧しかった朝鮮はいまの北朝鮮のようなもので、多くの人が春窮で餓死していました。だから、七人目の子など育つわけがありませんでした。それが日韓合邦のために生き延びることができただけでなく、日本の教育政策によって学校にも行けた。小学校で成績優秀だったために、日本人の先生のすすめで学費が免除される師範学校に進み、さらに満洲・新京の陸軍軍官学校に進学して首席で卒業したため、とくに選ばれて日本の陸軍士官学校に入りました。日本と合邦していなければ考えられないコースをたどって、結果的には韓国大統領として「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を故国にもたらしたのです。これは日韓合邦によって韓国が受けた恩恵のめざましい一例と言えるでしょう。この種の例は無数にあったのです。


「われわれは日本を見習うべし」

日韓合邦時代における朝鮮人の暴動や反乱は、満洲事変以来すっかりなくなりました。それは、かつての朝鮮の支配民族だった清の満洲人に対して、朝鮮人が平等になったからです。満洲人に限らず、漢族のシナ人も、それまでずっと朝鮮民族を見下していて、朝鮮人はいじめられっぱなしでした。ところが、日韓合邦によって「自分たちは日本人だ」と言えるようになった。創始改名運動が起こり、日本人名になると、数千年間つねに頭を押さえつけられていた満洲人やシナ人に対して大いばりできたのです。それからは、いっさい朝鮮人の反乱がなくなりました。日韓同祖論」が流行り、朝鮮の中学は修学旅行で伊勢神宮に参拝するようにもなった。戦争のときは志願兵も多かったし、朝鮮人の特攻隊員も数多くいました


明治政府には、「コロナイゼーションはやらない」という覚悟が強くあった
と思います。台湾は日清戦争後の明治二十八年(一八九五)に日本に併合されましが、その約十年後に、『ロンドン・タイムズ』は以下のような主旨のことを書いています。「わずか十年の間に台湾の人口は数十万人ふえた。イギリス、フランス、オランダも台湾を植民地にしようと思えばできたが、あえてそうしなかったのは、彼の地が風土病と伝染病が蔓延する瘴癘の地だったからである。しかも、山奥の原住民はともかく、住民の大部分はシナから逃げてきた盗賊だ。台湾譲渡を決めた下関条約の全権大使、李鴻章は、「日本に大変なお荷物を押しつけてやった。いまにひどい目に会うから見ていろ」と内心ほくそえんでいた。ところが日本は大変な努力をして風土病を克服し、人口を飛躍的に伸ばした。西洋の植民地帝国は日本の成功を見習うべきである」ロンドン・タイムズ』が評価した日本統治は、朝鮮でも同じように行われていました


台湾合併は五十年、日韓合邦は三十五年続きました
。戦後、韓国に戻って初代大統領になった李承晩の反日運動がなければ、そして半島が南北に分かれないままだったら、そうしてあと十五年、台湾と同じく、五十年間日本との合併が続いていれば、日本も台湾に近い感情で韓国に対してつき合うことができていたのではないか……。これは空想にすぎませんが、そんな気がしています。


渡部昇一氏「合邦と植民地は大ちがい!大人の国・英国の歴史認識」歴史通20131月号



togyo2009 at 04:21|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 捏造の慰安婦問題