November 2015

November 30, 2015

藤井厳喜氏AJER(03)第一次世界大戦から100年



2011/08/11 にアップロード《超無秩序化する世界−英国騒乱:先進国におけるカオス》藤井厳喜(政治学者) 2011811日収録

 

86日から始まったイギリスの暴動を日本のマスコミは正確に伝えてこなかった。−社会的「無秩序化」がイギリス全土を覆っている。この暴動は、略奪と暴力自体を目的とした、騒乱状態であり、いかなる社会的・経済的な­抗議行動でもない。若年層の高失業率が潜在的現在の一つであるのは明らかだが、それだけですべてを説明で­きるわけでもない。

 

日本のマスコミが殆ど口を閉ざしている重要な原因の一つは「非ヨーロッパ地域」からイ­ギリスに移民してきた人々の2世、3世が抱えている問題である。彼らはイギリス社会に同化することはできず、かといって両親や祖父母の故国に帰ること­もできない。イギリス人としてのアイデンティティを持てない貧困層の若者の多くが失業状態にある。­彼らが異常な暴動を引き起こしている勢力の1つであることは確かである。

 

誤解しないでほしいのは、移民が暴徒と化したことではないということだ。真面目に働く新規移民たちは、暴徒から自らを守る為に自警団を組織して抵抗している。­彼らの中からも犠牲者が出ている。移民の中の悪質な層が今回の暴動の原因の一つである。イギリスの中産階級からすれば、高い税金を払い、こういった問題ある階層の人々に福祉­と教育を与えているにも関わらず、彼らは一向に自力更生しようとしない。その結果がこの暴動である。

 

暴動を起こす側からいえば、どんなに福祉や教育制度が整えられていても、それが彼らの­アイデンティティーの問題を解決するものではないここに絶望的な社会の断絶が存在する。イギリス暴動は、ヨーロッパが長い間、進めてきた多文化主義の失敗を物語っている。北­欧でもドイツでもフランスでも、第二次大戦後のヨーロッパ諸国は多文化主義を鼓吹し、­国内に新規移民を受け入れた上での多文化の共生を実現しようと努力してきた。しかしこの多文化共生の実験は完全に失敗に終わったのである。その1つの結果が、先日ノルウェーで起きたテロ事件であり、そのもう一つの結論が、このイギリス暴動である。日本は自ら実験をする必要はない。ヨーロッパの実験の失敗から多くを学ぶ必要がある。

 

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014.3.14
【正論】大戦百年、世界は正気を保てるか 京都大学教授・中西寛

http://www.sankei.com/world/news/140314/wor1403140041-n1.html

第一次世界大戦の勃発から100年を迎える今年、世界のあちこちで不気味な地鳴りが聞こえ始めた。

 

≪オーストリアとウクライナ≫

ウクライナの政治情勢は、その第一次大戦の発端となったオーストリアの皇太子夫妻暗殺事件のように、誰の予想をも超えて急激に進行した。親ロシア派のヤヌコビッチ大統領が昨年11月、欧州連合(EU)との貿易協定調印を棚上げしたことに端を発した首都キエフでの抗議デモは、欧州とロシアが後押しした早期総選挙による沈静化策を超えてヤヌコビッチ政権の失陥をもたらした。欧州派が政治の主導権を握ったものの、統率力のあるリーダーは今のところ存在しない。−今後成立する新政権が強固な基盤を持つとは考えにくい。加えて、ロシアからの支援で成り立っていた対外債務問題が一気に表面化する可能性がある。ウクライナの内政安定へのハードルは高い。

 

それ以上に問題なのは、ウクライナをめぐる複雑な国際環境である。欧州とロシアの境界に位置するウクライナはそれ自体、勢力圏争いの対象であるだけでなく、国内に親露派対欧州派という断層を抱えている。さらに、南部のクリミア自治共和国はもともとロシアの一部であり、ソ連時代にウクライナに移管されたものの、ロシア人人口が多く、ロシアの黒海艦隊が軍港を租借している。ロシアのプーチン大統領は軍事介入を否定しているが、ロシア人部隊が既にクリミアに浸透して現地を掌握しつつあるとみられる。さらに、ロシアはヤヌコビッチ氏を受け入れ、キエフの暫定政権の正統性を認めていない。今後、米欧とロシアがウクライナの政治的安定と安全保障のために協議する枠組みを設けることすら、今のところ難しそうである。

 

≪国際協調崩す露のG8追放≫

6月に予定されるソチでの主要8カ国(G8)首脳会議(サミット)−。もしそれがG8からのロシアの追放に至れば、冷戦終焉後の大きな国際協調の枠組みが失われることになる。そもそも先進7カ国(G7)にロシアを加えたのは、米国やドイツの意向であり、日本は消極的であった−。しかし、一度できた国際枠組みを分裂させることは、それ自体マイナスが大きい。日本が米欧とロシアの対立回避のため外交努力を行うことは国益に適うだけでなく、国際秩序を守るうえでも意義が大きい。

 

もちろん、状況が悪い方に転がれば、ロシアとウクライナとの軍事紛争、米欧による強力な対露制裁といったシナリオも考えられないわけではない。しかし、米欧露には第一次大戦の悪夢の記憶なお強く、−そうした軍事紛争を回避しようという強い圧力がかかるのではないか。

 

翻って東アジアは状況が違う。1月のダボス会議で、安倍晋三首相が日中関係を第一次大戦前の英独関係になぞらえて物議をかもした。通訳の問題ともいわれるが、日中関係について問われて英独関係を持ち出したのは首相である。第一次大戦100年にあたり、欧州の聴衆に分かりやすいように英独関係の歴史を引いたのだろうが、日本と欧米とでは第一次大戦のイメージが大きく異なる。

 

≪指導者は冷静な大局観持て≫

日本は、英国の同盟国として参戦したものの、第一次大戦が大戦争だったというイメージは弱い。他方、欧米では第二次世界大戦は第一次大戦の延長という感覚があり、第一次大戦がもたらした惨禍の印象は今も強い。世界が不安定になりつつある今日、安倍首相の比喩は刺激が強すぎた。そのアジアでは、中国の習近平政権が対日強硬姿勢をとり続け、過激な言葉が飛び交っている。−軍事紛争が起きた場合に生じる経済的損失を冷静に計算すれば、指導者が強硬な言辞を弄して、緊張を高め合う構造が、どれほど危険なことかは明白なはずだ−。−第一次世界大戦から1世紀の年に、各国指導者は自らの歴史的な責任を顧み、冷静な大局観に立って行動すべきである。



togyo2009 at 05:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 政治経済NEWS 

November 29, 2015

三島由紀夫氏(享年45歳)没後45年(結)遺書

2015.11.24【三島由紀夫没後45年(下)】三島に斬られ瀕死の元自衛官「潮吹くように血が噴き出した(重松明子、編集委員 宮本雅史)

http://www.sankei.com/premium/news/151124/prm1511240006-n1.html

11月中旬のある日、−東京・市谷の防衛省内の急坂を上る元自衛官の姿があった。寺尾克美(86)。45年前のあの日、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地の東部方面総監室で益田兼利総監の身柄を拘束した三島由紀夫=当時(45)=ら5人と自衛官との間で格闘になり9人が負傷、うち6人が入院した。寺尾もその一人だ。三島に銘刀「関の孫六」で腕を一太刀、背中を三太刀斬られ、瀕死の重傷を負った。事件現場となった総監室は今、「市ケ谷記念館」として残されている。その総監室のドアに今も残る刀傷を指さしながら、「最初に踏み込んだ自衛官が斬られたときのものだ。総監の机がこのあたりにあった。窓の外のバルコニーで三島さんが演説した」。寺尾は当時の凄惨な記憶が蘇ってくるように話した。

 

■  ■

寺尾は当時、会計課予算班長の3佐で41歳。総監室近くの会議室で9人の幹部自衛官と次年度予算の編成中だった。「総監が拘束されている」。急変を告げる声に、全員が「なぜ!」と飛び出した。体当たりして総監室ドアのバリケードを破った。縛られた総監の胸元に短刀を押しつける森田必勝=当時(25)=の姿が目に飛び込んできた。「鍛えた体で目が鋭く光っていた」。隙を見て飛びかかり、押さえ込んで短刀を踏み付けると、すかさず三島が刀を構えて迫ってきた。「木刀だと思っていたから、かっこいいなと思う余裕がまだあった」 背中を斬られた。「『出ないと殺すぞ』と脅す程度で傷も浅かった。でも出ようとしなかったから、三島さんもだんだん力が入って…」。四太刀目の傷は背骨に平行して23センチ、5センチの幅に達した。短刀を奪い、医務室へ向かう途中、背中から「クジラが潮を吹くように血が吹き出した」という。

 

搬送先の自衛隊中央病院で、三島と森田が割腹自決したことを知らされた。「組み合ったとき、間近で見た森田君の顔は今も忘れない。まだ、あどけなさが残っていた。後にテレビ番組に出演した森田君のお兄さんが『信奉する三島由紀夫と最後まで行動を共にしたのだから、本望、立派だったと思いたい』とおっしゃっていたが、まさにそれが全てだと思う」森田を懐かしむように話すと、こう続けた。「三島さんの邪魔をしたという思いがあるが、三島さんには私を殺す意思はなかったと思った。ただ、負傷したぼくらを隊員たちは見ている。そんな状況で演説したって、聞いてもらえるはずがなかった」

 

■  ■

陸将補で定年を迎えた寺尾は現在、講演活動を行っている。寺尾は平成23年5月3日には愛媛県で「独立国にふさわしい憲法の制定を!三島由紀夫義挙に立ち会った者として」の演題で講演。講演会では「日本国にとり、最も重要なことは平和ボケから目覚めて独立国としての憲法を制定すること。それが三島由紀夫氏と森田必勝氏の『魂の叫び』でもある!」と書かれた文章を配布した。総監が捕縛された上、寺尾自身も斬りつけられて瀕死の重傷を負っただけに思いは複雑だ。だが、「三島さんは戦後憲法によって日本人から大和魂が失われ、平和ボケ、経済大国ボケして、このままだと潰れてしまうと予言したが、まさに、20年後にバブルが崩壊し、心の荒廃は今も進んでいる。私は事件に立ち会った一人として、命を引き換えにした三島さんらの魂の叫びを伝えたい」と話す。そして「憲法改正が成立したとき、やっと無念が晴れて成仏できる。それまで三島さんは生きてますよ。安保法制で憲法への関心が高まっている今こそ、檄文を多くの国民に読んでほしい」と続けた。

 

世界的な作家と学生の割腹自決という衝撃的な事件は国内外で大きな波紋を呼んだ。ただ、その衝撃の大きさだけが先行し、三島由紀夫や森田必勝の思いがどこまで、国民に理解されたかは疑問だが、寺尾克美のように、三島らが決起の対象として選んだ自衛隊員には大きな影響を与えた。元会員、村田春樹(64)の著書「三島由紀夫が生きた時代」によると、決起後、自衛隊が1千人の隊員に無差別抽出でアンケートを取ったところ、7割以上の隊員が檄文に共鳴すると答えたという。自衛隊員の思いを象徴するように、三島らが体験入隊した滝ケ原駐屯地内には、三島の揮毫を彫り込んだ歌碑が建っている

 

〈深き夜に 暁告ぐる くたかけの 若きを率てぞ 越ゆる峯々  公威〉

 

「くたかけ」は暁を告げる鶏の雅語。「公威」は三島の本名、平岡公威だ元自衛官の佐藤和夫(69)によると、三島の自決後、三島が楯の会の会員と体験入隊した際に残した和歌を彫りつけたものだという。村田の著書によると、篤志自衛官が建立したもので、陸上自衛隊幹部だった楯の会の元会員は、三島が再三再四体験入隊し、その人格識見、自衛隊を愛する心を多くの隊員が知っていたからではないか、と建立理由を分析している。

 

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佐藤も三島らの決起に影響を受けた一人だ。慶大法学部を卒業し、商社に勤務していた佐藤は当時24歳。就職して2年目だった。事件当日は激務が原因で肺炎にかかり入院していた。「頭をガーンと殴られたような衝撃を受けた。それまで『おもちゃの兵隊』と揶揄されていた楯の会を冷めた目で見ていたが、三島さんらに武士道と男の生きざまを見て、オレも何かせねばと目覚めた。檄文も全くその通りだと思った」その後、商社を辞め翌春、2等陸士として自衛隊に入隊する。三島らの決起に触発され、国防に燃えて入隊してきた若者は何人もいたという。最初の配属先は、滝ケ原駐屯地だった。何かの縁を感じた。「先輩方から40歳を過ぎている三島さんが、最後尾であえぎながら走っていたと聞き、あの高名な作家がみじめな姿をあえてさらして、と感銘を受けた」昭和47年4月、幹部候補生学校に入校し、同年9月に会計担当として北海道南恵庭駐屯地に赴任。北部方面会計隊長となっていた寺尾に出会う。「ここでも三島さんの縁を感じました」30代でイラン・イラク戦争が勃発。緊張感を求めて邦人保護にあたる警備官に志願し、アラブ首長国連邦へ。「国を支える喜びを実感できた」。1佐で定年退職するまで三島を批判する隊員には出会わなかった。

 

■  ■

事件から45年がたち、この間、三島と森田の思いを後世に伝えようと活動している組織がある。三島森田事務所(東京都足立区)だ。楯の会2期生で初代事務局長の堀田典郷(70)は「楯の会の解散に反対だったが、解散は先生の命令だったから同意した。でも、事件を風化させないために、三島先生のために何かをしたいという気持ちから、連絡網として事務所を立ち上げた」と話す。

 

2代目事務局長の原田強士(56)は三島とも森田とも面識はない。事件が起きたのは小学生の時だった。20代で楯の会1期生の阿部勉(故人)と知り合い、三島の御霊のそばで、考え方を学びたいと考えるようになったという。三島森田事務所と関わって12年、事務局長になって10年になる。20年余り、三島の月命日には、三島が眠る多磨霊園の墓前で掃除を続けている。「最近、月命日にお参りに来る20代、30代の若者が少しずつ増えている。多いときで、15、16人。タバコを1本ささげる人もいる」

 

「恢弘せよ、という命令は永遠に続くと思う」といい、毎年11月25日には、三島の墓前で慰霊祭を行っている。事件後に生まれた自営業、折本龍則(31)にとって、三島と森田は「もはや歴史上の人物」だ。檄文は「全くその通りだと思うし、三島先生や森田さんの考えには共感している」というが、「その通りのことが70年以上も続いて、既成事実化してしまっているのも事実で、受け入れざるを得なくなっている」と話す。その一方で「三島先生や森田さんのように、自分で納得できる生き方をしたい」という。高校時代に三島の文章と行動力に魅せられたという女性会社員(32)は「今、楯の会があればぜひ入りたい。先生は日本の真の姿の実現を目指していた。自決は自衛隊の決起を喚起しただけではない。もちろん、あきらめの境地でもない。メッセージだ。自分たちが口火を切ることに意味があった。それだけの影響力があると分かっていた」と話した。少しずつではあるが、三島や森田の思いが広がりつつある。  =敬称略


 

2015.11.22【三島由紀夫事件】三島由紀夫の遺書全文 「夢は、楯の会全員が一丸となつて、義のために起ち、会の思想を実現すること」(原文のママ。三島森田事務所刊の『「楯の会」のこと』より)

http://www.sankei.com/premium/news/151122/prm1511220034-n1.html

 

 楯の会会員たりし諸君へ

 

 諸君の中には創立当初から終始一貫行動を共にしてくれた者も、僅々九ケ月の附合の若い五期生もゐる。しかし私の気持としては、経歴の深浅にかかはらず、一身同体の同志として、年齢の差を超えて、同じ理想に邁進してきたつもりである。たびたび、諸君の志をきびしい言葉でためしたやうに、小生の脳裡にある夢は、楯の会全員が一丸となつて、義のために起ち、会の思想を実現することであつた。それこそ小生の人生最大の夢であつた。日本を日本の真姿に返すために、楯の会はその總力を結集して事に当るべきであつた。

 このために、諸君はよく激しい訓練に文句も言はずに耐へてくれた。今時の青年で、諸君のやうに、純粋な目標を据ゑて、肉体的辛苦に耐へ抜いた者が、他にあらうとは思はれない。革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行を旨として、武の道にはげんできた。時いたらば、楯の会の真價は全国民の目前に証明される筈であつた。

 しかるに、時利あらず、われわれが、われわれの思想のために、全員あげて行動する機会は失はれた。日本はみかけの安定の下に、一日一日、魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいてゐなければならなかつた。もつともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかつたのである。

 このやむかたない痛憤を、少数者の行動を以て代表しようとしたとき、犠牲を最小限に止めるためには、諸君に何も知らせぬ、といふ方法しか残されてゐなかつた。私は決して諸君を裏切つたのではない。楯の会はここに終り、解散したが、成長する諸君の未来に、この少数者の理想が少しでも結実してゆくことを信ぜずして、どうしてこのやうな行動がとれたであらうか? そこをよく考へてほしい。

 日本が堕落の淵に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の錬成を受けた、最後の日本の若者である。諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。

 私は諸君に、男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた。一度楯の会に属したものは、日本男児といふ言葉が何を意味するか、終生忘れないでほしい、と念願した。青春に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない。

 ふたたびここに、労苦を共にしてきた諸君の高潔な志に敬意を表し、かつ盡きぬ感謝を捧げる。

 天皇陛下万歳!

 

       楯の会々長 三島由紀夫

 昭和四十五年十一月



togyo2009 at 18:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 中共との戦い 

「憂国忌」三島由紀夫氏没後44年祭



togyo2009 at 12:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 中共との戦い