May 2018

May 30, 2018

徳富蘇峰著「近世日本国民史」を知る

徳富蘇峰については以前トピックを上げています。

 

May 27, 2018■ 国際派日本人養成講座徳富蘇峰 〜 文章報国70余年

http://blog.livedoor.jp/togyo2009/archives/53066627.html

 

近世日本国民史についてはWiki. を参照します。

〜〜〜〜〜

近世日本国民史は、1918年から第二次世界大戦後の1952年にかけて徳富蘇峰が著した、近世(安土桃山時代と江戸時代)以降の日本の通史。100織田信長の時代から豊臣政権、江戸時代、幕末・維新期、西南戦争までを綴ったもの。多くの資料を駆使して書かれており、個人編著の歴史書としては、世界でも屈指の規模とされる。全巻のうち7割が幕末・維新期(ペリー来航から西南戦争まで)の記述にあてられている。この業績が評価され、徳富蘇峰は1923年に帝国学士院から恩賜賞を授与された

 

蘇峰は1918年、国民新聞に連載を開始し、同年『織田氏時代 前篇』を刊行。以後、第二次世界大戦終結の1945年までに、第76巻『明治天皇御宇史 15』を刊行した(いずれも民友社より)。占領下では公職追放になった事もあり、一時執筆作業を中断し、1951年に再開した。大久保利通の暗殺、木戸孝允の死までを描く最終巻の『明治時代』を脱稿したのは1952年と、34年をかけた文字通り畢生の大著になった(なお最終数巻は、198081年に講談社学術文庫で、『西南の役 全7巻』と『明治三傑』を改題再刊した)。

 

蘇峰は若い頃から、歴史家として著述活動を目指しており多くの貴重文献を購い、民友社時代(1893年)に革命家として捉えた『吉田松陰』を著し、竹越三叉(『新日本史』、『二千五百年史』)・山路愛山(『足利尊氏』)・三宅雪嶺(『同時代史』)と並ぶ、在野の「史論史学」の歴史家として名を馳せたが、明治天皇崩御をきっかけに、一大叢書の編纂を思い立ったというつまり、本来、蘇峰がこの『近世日本国民史』を書こうとした動機は、「明治天皇の時代史」を書くためであった。明治天皇の時代を書くためには、孝明天皇の時代を書かなければならず、孝明天皇の時代を書くためには、徳川時代を、徳川時代を書くためには、織田・豊臣の時代を書かなければならないと考え、織田・豊臣の時代からの歴史書を書くことを決意した。この構想をもって、蘇峰が『近代日本国民史』の大著の著述に着手したのは、蘇峰56歳の時であった

 

言論人・論客として伊藤博文や山縣有朋、桂太郎らと、終生親しく接した経験(また編者代表として彼らの公的伝記を編んだ)が参考になり、信長、秀吉、家康ら英傑の心事を推し量ることができた、とも語っている。

〜〜〜〜〜

 

この大著は今も蘇ります。

〜〜〜〜〜

名著で読む日本史/著者:渡部昇一/価格:本体950+税/発行:扶桑社

 

【本の内容】日本史の「美しい虹」を見るために、古代から現代まで厳選した名著16冊。「国史の真髄とは何か」が解る1冊!

 

序にかえて――歴史とは何か、国史とは何か

〈古代〉

1 『古事記』……日本神話と日本人

2 『日本書紀』……古代日本人の歴史の実像

3 『栄華物語』……昔も今も歴史はスキャンダラス!?

4 『平家物語』……歴史のドラマと日本人的無常観

〈中世〉

5 北畠親房『神皇正統記』……南朝正統を主張する書に何を読み取るか

6 『太平記』……中世の日本を知るために必読の軍記物語

7 岡谷繁実『名将言行録』……戦国・江戸期に活躍した武将たちの生き方

8 原勝郎『日本中世史』……目からうろこの連続の歴史絵巻

〈近世〉

9 山鹿素行『中朝事実』……尊王思想はこの本を読むと理解できる

10 徳川光圀『大日本史』……世界に誇る全397巻の歴史書に書かれていたこと

11 頼山陽『日本外史』……歴史書犇前のベストセラー畸太犬稜愀

〈近現代〉

12 伊藤正徳『軍閥興亡史』……日本はなぜ第二次世界大戦を戦ったのか

13 徳富蘇峰『近世日本国民史』……今、注目したい国民史・全100

14 辻善之助『日本文化史』……日本文化の核心とは何か

15 R・F・ジョンストン『紫禁城の黄昏』……封印されてきた満洲国の歴史の真実

16 『東條英機 宣誓供述書』……東京裁判史観の呪縛を解く!

付録 渡部昇一『裸の総理たち32人の正体』……「後世の日本」という視点で見る功罪

〜〜〜〜〜



togyo2009 at 22:28|PermalinkComments(0) 本を読む 

May 29, 2018

本郷美則氏に学ぶ日米安保と朝鮮戦争

「今月の朝日新聞」連載第36本郷美則・時事評論家【「WiLL」2010年3月号、ワック出版、p138

 

「日米安保」の由来を学べ/守られているのは日本だ/事実を見据え筆滑らすな

 

歳末24日、クリスマスイブの朝日夕刊。1面題字下を飾る寸評欄「素粒子」に目を遣って仰天した。内容は‐。北原白秋作詞・山田耕筰作曲の童謡「ペチカ」をもじったらしい戯文だが、米軍の基地が多い沖縄に《オバマさんクリントンさん いちど 住んだら?》と、軽々しく言い放つ執筆者の、日米安保体制に関する浅薄極まる基本認識を見過ごせなかった。

 

「素粒子」といえば、2008年6月18日の“作品”で、2カ月間隔で死刑の執行命令を出した法務大臣を指して、「永世死刑執行人」「死に神」と筆を滑らせ、「地下鉄サリン事件被害者の会」などから、2千件近い抗議を突きつけられた過去がある。激しい抗議は当然だ。日本は法治国家であり、極刑として死刑を決定している凶悪犯罪の容疑者も、三審制を基本とする公開の裁判で裁かれ、死刑が確定した被告の刑執行は、法務大臣がその職務権限に基づいて命令する。このような法制が厳存する限り、法務大臣が、死刑についての持論の如何に関わらず、司法上の妥当性を確認して死刑執行命令を下すのは、至極妥当な職務である。もちろん、死刑についての賛否は大いに論じたらいい。だが、新聞の論説委員ともあろうものが、こうした国家社会の基本的仕組みを弁えず、国権の発動を命じた法務大臣を「死に神」呼ばわりするのは、言論の自由の埒を越えた暴言として、非難されても仕方ない。

 

この筆禍以後、「素粒子」の執筆は複数の記者による分担制になった。だが、イブの作品を誰が書いたか、朝日の広報は、照会に答えない。

 

いずれにせよ、件の提言は米軍の基地が集中する沖縄に米国高官を住まわせ、「基地の島」の実態を直に知ってもらおうというものだ。それはしかし、沖縄の米軍基地が、米国や、極東の平和と安全を守るという目的にも増して、第一に日本の安全を米軍が守ることを定めている「日米安保体制」についての、基本的理解と認識を欠いている。そして、その背後には、法相を「死に神」呼ばわりした例と同じ、記者の不勉強と偏見が透けて見える。

 

◆体験なくとも学べる

 

論説委員室の記者たちは、比較的年長者が多い。例えば、「死に神」を書いたK論説記者は、当年58歳のはず。それでも、「日米安保条約」締結の1951(昭和26)年には、まだ生まれてはいなかっただろう。この条約の大改訂で国論が二分、流血を招いた「60年安保騒動」当時も小学生。歴史体験を持たぬのは詮方ない。だが今から学ぶことはできる。記者には、常に学習が必要でもある。

 

今年は「日米安保条約」が結ばれて満60年。いい機会だ。「日米安保体制」、延いては米軍の沖縄基地を必要不可欠とした当時の極東情勢について、虚心に学び直してほしい。今では、ロシアなどで公開された旧極秘資料などによって、歴史の闇に新しい光が当てられている

 

   ×   ×   ×

 

1945年、8月8日午後11時(モスクワ時間)、共産帝国ソ連が「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄して対日宣戦を布告、満州・朝鮮・樺太・千島に侵攻して来るまで、支那大陸の日本軍は、主として蒋介石率いる中華民国政府軍(国府軍)、及び毛沢東・朱徳・林彪らの中国共産党軍(中京軍)と戦っていた両軍の背後に、米・英両国とソ連が控え、資金・武器弾薬・軍事顧問・軍需物資を送って両軍の「抗日戦」を支援していた。確と銘記すべきは、これら両軍が支那を代表する「統一軍」ではなく、自由民主主義勢力 vs. 国際共産帝国主義勢力の尖兵として、同胞が相撃つ鬩ぎ合いを続けていた事実だ。

 

1945年8月、広島・長崎への原爆投下、ソ連参戦と相次いだ後の14日、日本はポツダム宣言を受諾、支那大陸でも武装を解いた。するとたちまち、国府軍と中共軍の抗争が激化、翌年には全土で内戦化した。

 

中共軍は日本軍の武装解除によってソ連軍が獲得した大量の武器を譲り受けるなどして兵力を拡充し、47年秋には、3百万人近い兵員を誇る「人民解放軍」に成長した。これに対して国府軍は米国の援助を受けて最新鋭の装備を得たが、組織に腐敗と士気阻喪がはびこって各地で敗走を続け、49年12月、ついに大陸を放棄して台湾に逃れ、本拠地を台北に移す。こうして49年10月1日、毛沢東中共主席が北京の天安門で「中華人民共和国」の成立を宣言、3年余りの内戦にひとまず終止符を打って、チベット、ウイグルも版図に入れた。

 

◆初めて発火した冷戦

 

一方、朝鮮半島は日本敗戦を機に北緯38度線を境として、南は米、北側はソ連の軍政に委ねられたが、南北とも独立の気運を高め、48年8月15日、南朝鮮が李承晩を大統領とする「大韓民国」として独立すると、北朝鮮は翌9月9日、金日成の下に、「朝鮮民主主義人民共和国」の独立を宣言した

 

ここに至って、ユーラシア大陸に西は東西両独の国境から、東は中国、北朝鮮、ソ連の沿海州・サハリン・千島、南は中央アジアの諸国にわたる広大な「共産圏」が形成され世界の国々は、1917年のロシア革命に始まった20世紀における地球規模の対立、「自由民主主義か国際共産帝国主義か」の体制選択を迫る「冷戦構造」に組み込まれることになった

 

「冷たい戦争」が「熱い戦争」に転じたのは、1950年6月25日に勃発した「朝鮮戦争」が最初だ。7地点から韓国に侵攻した北朝鮮軍は、28日に早くもソウルに突入。ソ連製「T34戦車」や「SU76自走砲」など新鋭の火器と、支那の内戦を中共「八路軍」で戦った精鋭も混じるなど、単純兵力差で韓国軍に2倍の勢力に乗じて電撃的に南下、1カ月後には韓国南西部の大田、群山、光州、木浦を制圧していた。不意を衝かれ、極東米軍の反撃は遅れた。常備の「2・36インチ・バズーカ砲」は、猛進する「T34戦車」に歯が立たず、「3・5インチ・バズーカ」の到着まで圧倒された。

 

国連は、北朝鮮の侵攻を国連への挑戦と断定、7月7日にソ連代表欠席のまま、米・英・カナダ・トルコなどで編成される「国連軍」の参戦を決めた総司令官には、米極東軍の総帥マッカーサー元帥が任命され、14カ国が「国連旗」の下に戦った

 

北朝鮮の勢いは衰えを見せず、開戦2カ月後の8月26日には、国連軍を、馬山西郊・大邱・浦項・釜山を結ぶ一辺約百キロの「釜山橋頭堡」に包囲、勝敗は決したかに見えた。

 

ここで、マッカーサーが幕僚らの反対を退けて打って出た起死回生の奇策が、9月15日に意表を衝いて強行された「仁川上陸作戦」だった。北朝鮮軍は、半島の南端まで攻め込んで、すでに補給線が伸びきっており、上陸した2万5千の米韓軍は9月26日には、ソウルを奪回、「釜山橋頭堡」から北上反撃に転じた米韓軍と、仁川上陸軍に挟撃された北朝鮮軍は、壊乱の末敗走した。南へ侵攻した北朝鮮軍は、10万とされたが、「仁川上陸」による劇的な挟撃作戦「スレッジ・ハマー」により死傷1万2千・捕虜1万3千、脱出2万5千、行方不明・ゲリラ化4万余という大損害を被って瓦解した。

 

◆中共が「志願軍」投入

 

勢いに乗じた国連軍は、38度戦国境を数カ所から突破、10月20には、韓国第一師団や英国空挺隊が先を争って平壌に突入北朝鮮側は鴨緑江南岸の信義州に首都を移した。マッカーサーは、終始強気だった。ワシントンの制止も無視し、米韓両軍が中朝国境の鴨緑江目指して北上するのを黙認、10月25日、一部部隊が鴨緑江南岸に到達した。

 

ここで、中国が「志願軍」を投入し、鴨緑江を超え、戦闘正面に出現した。戦況は一変した。「志願軍」は、人民解放軍の将軍・彭徳懐を総司令とし、林彪の第四・第三野戦軍が主軸で、1950年末には30個師団、60万の大勢力に膨れ、死を恐れぬ「人海戦術」で、国連軍を38度線の南100〜120キロまで押し返した。

 

「朝鮮戦争」が3百万の死を代償に休戦に至ったのは1953年7月「対日講話」が、北朝鮮はもとよりソ連や中共を除く諸国と成立し、日米が「安保条約」を結んだのは、1951年9月だった。(おわり)

 

 

「今月の朝日新聞」連載第37回 本郷美則・時事評論家【「WiLL」2010年4月号、ワック出版、p138

 

日米安保は反共軍事同盟/東ア共産化の危機が契機/そこを忘れて何が見直し

 

朝日などの主要メディアは、今年を「日米安保条約満50年」と強調し、「新時代に相応のと枕を振りながら日米同盟の見直しを煽っている。容共新政権が「日米中正三角形論」「米国抜き東アジア共同体論」などをもてあそび、50年前に共産陣営に操られた勢力が暴力デモで排撃した「日米安保」を、今度は権力で空洞化しようとしていることと同様だ。

 

だが「旧安保」と呼ぶ原初の条約は1951年9月締結の「対日講話条約」に付随し、非武装日本の「安全保障」を目的に、「朝鮮戦争」の最中に結ばれた「反共軍事同盟」である同条約を不可欠とした当時の国際情勢の基調「自由民主 vs. 共産主義」の対峙状況は、東アでは59年昔と基本的に何ら変わっていない。むしろ、共産勢力側が改革開放を掲げて正体を隠している時に、日米同盟の根本的見直しなど沙汰の限りだ。論より証拠、中国、北朝鮮、ベトナムは、今も共産党の一党独裁を護持して人民の自由・人権を抑圧し続け殊に前二者は、核ミサイルを擁して軍拡に狂奔、侵略性を隠さない

 

その意味で、朝日がよく起用する寺島実郎氏らや、新政権の政治家が、1990年を挟んで起きた旧ソ連・東欧共産圏の自壊以後の国際情勢を論ずる際、単純に「冷戦後の世界」と括るのは一面的であって、東アジアでは今日も「冷戦構造」が厳として続いていると認識するのが正しい。したがって、日米安保体制が始まった51年前後の東アジアの状況を学ぶことこそが、今日の日米同盟と、「人民抑圧の独裁」か「自由・人権の民主体制」かを考える、不動の基点になる。

 

東西の冷戦が初めて発火した1950〜53年の「朝鮮戦争」に話を戻そう。先述したように、米韓・国連軍は、南朝鮮深く攻め込んだ北朝鮮軍を、1950年9月に敢行された「仁川(いんちょん)上陸」と「スレッジ・ハマー作戦」で分断・撃滅して戦局を逆転、一気に鴨緑江(アムノッカン)南岸目指して攻め上がった。そして、開戦から4カ月の同年10月25日、鴨緑江南岸近くに到達した韓国第6師団の一大隊が、正体不明の敵と遭遇、救援の米軍とともに撃破された。これが、「志願軍」の名で「東側」が朝鮮半島に送り込んだ中国人民解放軍と、「西側」米韓・国連軍との最初の戦闘だった。

 

建国して日も浅い中国は、辺境や島嶼の解放など、内政課題を抱え、ソ連に直結した北朝鮮の金日成(キムイルソン)政権には必ずしも親身でなく、用済みになった朝鮮系解放軍3万余を押しつけて、重荷にさせたほどだった。

 

◆共産圏の拡張が動機

 

開戦の火蓋は、北朝鮮が切ったとするのが、今日では世界の通説だが、朝鮮戦争の「動機」は、共産圏の拡張(北朝鮮による半島統一)と、米国を主軸とする自由民主勢力の、東アジアからの撃退(韓国、台湾、ベトナムの解放)という、中ソ共産党指導部の「世界的革命戦略」に支えられていたことに疑問の余地はない

 

さらに、米国など「西側」との全面対決を恐れて狐疑逡巡するスターリンと毛沢東(マオツオトン)を、金日成が《小国の知恵をもって渾身の力で大国指導者を動かす一流の演技》を尽くして説き伏せ、その支援を取り付けての南進だったことも信じるに足る(朱建栄著『毛沢東の朝鮮戦争』2006年刊・岩波現代文庫・第2刷52ページ)。

 

いずれにせよ中共中央は、米軍が38度線を越える事態になれば、北朝鮮兵に扮装した「志願軍」を鴨緑江以南に投入、共同防衛に立つ戦略を、開戦の直後に固めていた。

 

米韓・国連軍側は、50年のクリスマスまでに北朝鮮全滅を掌握する算段で、10月1日にマッカーサー司令官が北朝鮮側に降伏勧告まで発していたが、人民解放軍の彭徳懐(ポンドーファイ)将軍を司令官とする戦闘兵力28万の志願軍参戦で、戦況は一変した。地からわき出る蟻の大群のように躍り出ては、戦友の屍を乗り越え、乗り越え、突進して来る勇猛果敢さに歴戦の米英兵も息を呑んだ。

 

50年11月末、厳寒の長津湖(チャンジンホ)の近く下碣隅里(ハガルリ)の激戦では、米第1海兵師団が、志願軍二個師団に重囲された友軍の救出に破砕攻撃で応戦、志願軍側は約5百人の戦死者を出しながらも突撃を繰り返したという。朝鮮戦争での中国兵の戦死は、毛の長男・岸英(アンイン)はじめ15万2千という数字もあり、損耗率は驚異的高さだ。彼らは、猪突猛進するだけでなく巧妙な戦術も駆使した。上空からの偵察や攻撃をかわすために、わざと山火事を起こし、山間を煙で隠して行動したり、車両で山道を移動する国連軍を、山腹の陣地から襲うなど、ゲリラ戦も得意とした。

 

毛沢東が、党内の慎重論を制して志願軍の越境を発令した50年10月下旬には、米韓・国連軍の兵站線は伸びきっていた。加えて、時に零下20度にも及ぶ猛烈な寒さが国連軍兵士を苦しめた。

 

◆血みどろで寸土争う

 

南軍が鴨緑江近くに達したころのスターリンは、金日成の亡命政権を中国領内に設ける案を口にするほど気弱になっていたが、志願軍が予想以上に急速に進撃し、平壌(ピョンヤン)奪回にかかると、約束した重火器や弾薬の供与を、ようやく実行した。さらに、中国がシビレを切らして待っていた空軍による支援も開始50年11月8日には、北朝鮮の暫定首都・新義州(シニジュ)の爆撃に向かった米B29爆撃機を護衛するF80と、ソ連ミグ15による、戦史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が行われたモスクワからの本格的軍事支援が志願軍の戦力を大幅に増強し、米韓・国連軍を38度線の南側に押し返すことに成功した

 

だが米韓・国連軍も譲らなかった。攻防は、文字通り血みどろで寸土を争う展開となり、ソウルを占領した北の「正月攻勢」の後、51年の3月から5月の間に、南北両軍が2回も38度線を行きつ戻りつしたこの間、中国領の爆撃まで主張し半島全域の制圧に固執するマッカーサー司令官と、不拡大方針を強いるトルーマン米大統領の確執が破局を迎え、マ元帥の解任・帰国命令にまで発展する(50年3月11日)

 

だが、一時は38度線の南100〜120キロまで侵攻した中朝軍も損耗著しく、戦況が膠着状態に陥った51年6月、国連でソ連代表が休戦を訴えたのを契機に、ようやく翌7月10日、開城(ケソン)で休戦会議が始まった。会議が断続的に、延々と続く中も攻防は止まず。第一線はピストンのように南北に往復した。このような戦況下、昼間は南軍が支配、夜間は北側の解放区、といった村落も数多く現れ、今なお「恨(ハン)」を残す「補導連盟事件」のような同胞同士の殺戮が続いた。

 

休戦会談は、停戦ラインの確定や捕虜の交換などを巡ってもめ続け、52年末に絶望的休会に陥った。後、スターリンの死(53年3月5日)、周恩来(ジョウオンライ)の再開提案(同30日)を経て軌道に乗り、53年7月27日、開戦から3年1カ月、159回の会談で「休戦協定」の調印に到った

 

釜山(プサン)―対馬60キロ、釜山福岡2百余キロ。一衣帯水の日本がこの戦争と無縁では、ありえなかった開戦6日目、50年6月30日の朝日東京版は、マ元帥の前線視察を報じた1面トップ下に、三段見出しだが、前夜遅く北九州に国籍不明機が接近し、灯火管制の板付基地から米戦闘機が迎撃、福岡沖に閃光を望見。さらに小倉・八幡・戸畑・門司の四市に米占領軍から空襲警戒警報が発令された旨を伝えている

 

◆旧海軍も極秘で参戦

 

当時、新聞はGHQによる厳しい検閲下に置かれ、戦況が熾烈になるにつれ規制も厳しさを増したから、新聞の記録から朝鮮戦争への日本の関与を正確に知ることは難しい。例えば、旧日本海軍の掃海部隊が、米軍要請による政府の極秘命令で米軍が上陸した仁川と元山(ウォンサン)の沿岸に出動し死傷者が出たことや、前線で被弾した軍用機や戦車などが日本の旧軍需工場で修理されていた事実、さらに、砲弾を含む軍需品の受注で24億ドルにも及んだ「朝鮮特需」の詳細も、当時は報道が希薄だ。

 

また、そのころ頻発した在日朝鮮人や国内極左勢力の後方撹乱とも言うべき数々の騒乱事件も、新聞は全てを報じてはいない。大阪では軍需工場が集団で襲われた例もあった

 

日本国内でも「西側」と「東側」が戦っていた自衛隊の祖「警察予備隊」の創設も、朝鮮戦争勃発直後の50年8月在日朝鮮学徒ら6百余人の自願兵南軍側に参戦、多くの戦死者も出たそして朝鮮戦争は今も「休戦」のままなのだ。朝日の記者たちよ、歴史の事実を遡って、今日を論じたまえ。=おわり



togyo2009 at 06:36|PermalinkComments(0) 本を読む 

May 27, 2018

〈■ 国際派日本人養成講座 ■徳富蘇峰 〜 文章報国70余年〉

■■ Japan On the Globe(466)■ 国際派日本人養成講座■■■

         人物探訪:徳富蘇峰 〜 文章報国70余年

近代日本最大のオピニオン・リーダーは、なぜ忘れ去られたのか。

■転送歓迎■ H18.10.08 ■ 35,124 Copies ■ 2,246,143 Views■

 

■1.忘れ去られた我が国最大のオピニオン・リーダー■

 
明治・大正期のベストセラー作家と言えば、まずは夏目漱石が挙げられよう。明治38(1905)年に出版された『我が輩は猫である』は、大正6(1917)年の大蔵書店版で1万1500部も売れている。

 しかし、同時期に出版されて約100万部も売れた本がある。徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』である。蘇峰は500点を数える著書があるが、そのほとんどが当時のベストセラーか、グッドセラーとなった。

 蘇峰が明治20年25歳にして発行した雑誌『国民之友』は、創刊号からたちまち売り切れ、再刊、三刊と重ねて1万部を超えた。普通の雑誌の発行部数がせいぜい千部以下の頃である。明治23年に念願の日刊紙『国民新聞』を創刊すると、たちまち当時の5大新聞の一つになる勢いを示した。

 大正7(1918)年、55歳にして執筆を始めた『近世日本国民史』は、昭和27(1951)年までの実に34年間、88歳まで書き続け、100巻を数えた。10巻まで出たところで帝国学士院から恩賜賞を授与され、国史学界の大御所・黒板勝美博士から「国史学界における画期的一大事業」と賞賛された。個人著述の史書としては質量ともに世界有数のものとされている。

 徳富蘇峰は、明治初期から昭和前期までの期間において、我が国の最大のオピニオン・リーダーであった。これだけの人物が現在、ほとんど忘れ去られているのは、どうしたわけだろう。

 

■2.「言論によって国民同胞を導きたい」■


 蘇峰の名が世に知られたのは、明治19(1886)年、23歳にして『将来の日本』を自費出版した時だった。東京英語学校(第一高等学校の前身)に入学したり、同志社英学校に学び、また父親の関係から勝海舟との知遇も得ていたので、官僚や学者となって立身出世の道に進むことは容易だったはずだ。

 しかし蘇峰の志は新聞記者となり、自らの言論によって国民同胞を導きたい、という事だった。英国の「タイムズ」を理想としたのだろう。しかし日本で本格的に新聞の発行が始まったのは明治5(1872)年だから、まだ十数年ほどの歴史しかない。新聞記者の社会的地位など日本ではほとんど認められていなかった頃である。

 

  『将来の日本』の根底には、欧米列強のアジア侵略への危機感があった。「今日に於いて東洋諸国が欧州より呑滅せらるる所以(ゆえん)のものは他なし、唯(ただ)我は貧にして野蛮なる国にして、彼は富んで文明なる国なるが故なることを」

 列強が誇る軍備は、彼らの「富と智力」の結果である。旧来の少数独裁の軍事型国家では対抗できない。広く産業を起こし、平民が中心の政治、すなわち今日流に言えば民主主義社会によって独立を保つことが「将来の日本」の姿である、と蘇峰は主張した。英国をモデルとした近代化を目指したのである。

 この主張は世間の注目を集め、蘇峰の名は一躍世に知られるようになった。

 

■3.「国民的驕傲を否定す」■

 

 翌明治20(1887)年、蘇峰は月刊誌『国民の友』を創刊した。タイトルは同志社時代に愛読していたアメリカの週刊誌『ネーション』から取ったという。

 明治23(1890)年には、いよいよ本来の志であった『国民新聞』の発行を開始したこの時、蘇峰はまだ27歳の青年であったが、ジャーナリズムの世界ではすでに無視できない存在になっていた。

 

 明治27(1894)年7月に始まった日清戦争において、極東の小国日本が清国に勝利すると、蘇峰はこう論じた。「吾人は清国に勝つと同時に、世界にも打ち勝てり。吾人は知られたり。ゆえに敬せられたり、ゆえに畏(おそ)れられたり、ゆえに適当の待遇を受けんとしつつあるなり」

 西洋列強が跋扈する当時の国際社会において、日本が「眠れる獅子」と恐れられていた清国を打ち破ることによって、国際的な認知を受けた事の喜びが弾んでいる。

 

 しかし、それは夜郎自大の腕力自慢ではならなかった。「孤立を否定す、排斥を否定す。国民的驕傲(きょうごう、おごりたかぶること)を否定す。満足を否定す」(『国民新聞』明治27年11月7日)として、「世界の文明」と協調した謙虚な姿勢こそ、大国民への道だと主張した。

 

■4.「速やかに日英同盟を組織せよ」■

 

 ロシア・ドイツ・フランスからの三国干渉に屈服して、清国から割譲された遼東半島を返還する、という報に接したのは、 蘇峰がちょうど現地を視察中の時だった。そして日本軍が占領していた旅順口の小石をハンカチに包んで持ち帰ったという。

  蘇峰は「戦争によりて一夜のうちに巨人となりし国民は、平和談判のために、一夜に侏儒(しゅじゅ、こびと)となれり」 (「日本国民の活眼目」、『国民の友』第263号)と描写した。弱肉強食の国際社会の中で、日本はまだまだ非力であることを思い知らされたのである。

 

 三国干渉から1年後、蘇峰は1年余の欧米歴訪の旅に出る。欧州に向かう船中で「速やかに日英同盟を組織せよ」との社説を『国民の友』に掲載し、ロンドンでは英国の新聞界とさかんに接触して、根回しを行った。日英同盟が締結されたのは、これから6年後のことである。

 

■5.「引き際が大切なのである」■

 

 三国干渉とロシアの満洲侵攻から、蘇峰は日露の衝突に備えて海軍を強くする必要があり、そのために増税政策を掲げた松方・大隈内閣を支援して、勅任参事官にまでなった。不人気な政策を説く上に、新聞人が内閣に加わるとは何事ぞという反感から、『国民新聞』はあっという間に発行部数が6分の一に落ちてしまい、新聞社は破産の危機に見舞われた。

 しかし、蘇峰はこの苦境にもめげずに、艦隊増強案を持つ政府を支持し続けた。日露戦争が始まるや、蘇峰の主張が正しいことが明らかになり、購読者数は飛躍的に増大した。

 しかし、戦勝後の講和条件には賠償金もなく、領土割譲も樺太の南半分だけという事に、国民は激高した。蘇峰はこう反論した。

 

 講和条件が日本国民の理想でないにせよ、しかし宣戦布告の趣旨はすべて達成されているのである。樺太全部と沿海州を取り、バイカル湖を国境として、更に30億以上の償金までもらおうなどというのは、勝利にのぼせ上がった空想であり、そういう理想が実現されないからとてすぐに講和条約を呪うなどと言うのは正気のさたではない。図に乗ってナポレオンや今川義元や秀吉のようになってはいけない。引き際が大切なのである。[渡部昇一『腐敗の時代』★★★、文藝春秋、S50,p232]

 

 講和に賛成したのは、4千万人の日本人中ただ16人、内閣・元老・全権委員の15人と徳富蘇峰ぐらいだと、他の新聞は書き立てた。東京朝日など各紙は一斉に蘇峰と『国民新聞』を売国奴と罵り、暴徒が国民新聞社に押しかけて焼き討ちを図った。社員は二日間も棒や日本刀で防戦に務めた後、ようやく軍隊が出動して囲みが解かれた。しかし、新聞の購読者数は市内で十数分の一まで激減したと言われ、その回復に数年を要した。

 蘇峰は国民の受けなどを意に介さずに、常に自ら正しいと考える所を主張して止まなかった。

   

■6.日米の親交が世界平和の「中枢」■

 

  第一次大戦の後、急速に大国として浮上したのは、アメリカと日本だった。そのアメリカは、ハワイ併合、フィリピン領有と太平洋に進出し日本も朝鮮、満洲に勢力を広げたので、両国の衝突は不可避の様相を呈していた

 日米の確執は、明治39(1906)年サンフランシスコにおける日本人学童隔離事件に始まり、日系移民の土地所有を禁止する排日土地法を経て、大正13(1924)年の排日移民法によって決定的となった。

 排日土地法は、ヨーロッパ移民には認められていた帰化と土地所有を、日系移民には認めない、としたものだった。「世界の一等国」となったと自負していた日本国民は、面目をつぶされた。

 

   『国民新聞』は、当初、日米の親交が世界平和の「中枢」であと述べて反米ムードを抑える論調だったが、排日土地法の成立に至って、蘇峰は、大和民族が人種と宗教による差別を甘受している事実を直視し、自恃(じじ、自分自身を頼みとすること)の精神を持てと論じた。

 それでも日米戦争不可避の世評を否定して、日米は経済的には「共存共栄」だと強調し、「日米戦争」の音楽にみずから踊り出す愚を犯してはならない、と戒めた。

 

 蘇峰がもっとも困難な敵と見なしていたのはソ連だった日中戦争の真の敵も中国自体でなく、その背後にいるソ連であると考えたこの見方が正しかったことは、その後の歴史研究が明らかにしている

 

■7.「百敗院泡沫頑蘇居士」■

 

 大東亜戦争が始まると、蘇峰は大日本言報国会の会長に就任して、『興亜の大義』『必勝国民読本』など、戦意高揚を意図した書物を次々に出版した戦いが始まってしまったからには、勝つために全力を尽くす、というのが、蘇峰の「言論報国」の姿勢だったのだろう

 

 昭和20(1945)年8月15日に敗戦を迎えると、82歳の蘇峰は一切の公職から退き、自ら「百敗院泡沫頑蘇居士」との戒名を名乗った。「百敗」して、興国の夢が「泡沫」に帰した、という無念の思いが込められている。

 

 しかし「頑蘇」すなわち頑固な蘇峰は健在である。東京裁判弁護団に依頼されて執筆した宣誓供述書は『宣戦の大詔に偽りなし』との題名をつけた


 戦争は日本が望んだものではなく、強いられたものだった。米国は日露戦争後、「賭け馬」を日本から中国に変えた。そして日本に対しては、移民問題パリ講和会議ワシントン会議など、事あるごとに力づくの「懲戒」じみた行動をとった。追いつめられた日本は「乾坤一擲(けんこんいってき)の策」に出た。隠忍しなければならないところで我慢できず、相手の「策謀」に乗って敗れたのは日本の「自業自得」だ、と言う。

 

 蘇峰は8月15日の玉音放送のとき、徳川家康に思いをいたしたという。家康は小藩の領主として、強大な信長に隠忍自重しつつ、攻守同盟を結び、ついに天下を手に入れた。「家康をして今日に在らしめたならば、彼はあらゆる苦情、あらゆる反対に眼を瞑(つぶ)って、米国と攻守同盟を締結したであろう」(『勝利者の悲哀』)と述べた

 そのような偉大な政治家を持ち得なかった日本の敗戦は、まさに「自業自得」だった。この言葉には自らの言論で、この「自業自得」を避け得なかった無念の気持ちも籠もっていよう。

 

■8.米国の引いた貧乏くじ■

 

 一方、勝った米国は、東欧から中国までを勢力圏とするソ連との冷戦に陥り、「世界中の心配を一手に引き受けねばならぬような貧乏籤(くじ)」を引いた

 日露戦争後に、「もし米国が日本に手を差し出し、日本がその手を握って」いたら、日本は東アジアで一流国として安定し、米国もそんな「貧乏くじ」を引かずに「商売繁盛」していたろう、と推測する。

 米国が「貧乏籤」を引いた原因は、日本をここまでに追いつめた自身のアジア政策の失敗にある

 今後、占領下の日本を第二のハワイのような属国にすることは、日本人の反発を招き、共産陣営に追いやる道につながる。一君万民の日本的民主主義の発展を支援し、日米提携の道をとるべきだ、と主張した

 

 この見方は、米軍の高官や共和党の政治家にも共有化されていたもので、冷戦下において米国の対日政策はこの日米同盟路線に転換された

 

■9.70余年に及ぶ「言論報国」の人生■

 

 蘇峰は、昭和31(1956)年6月まで最後の著書となる『三大人物史』を書き続け翌年94歳にして、明治19(1886)年以降、70余年に及ぶ「言論報国」の人生を閉じた

 

 戦後、蘇峰は「平民主義者から国家主義者に変節した」とか、「戦時中に時局便乗のお先棒担ぎをした」などと罵倒され、やがて黙殺と忘却のうちに葬り去られた。

 戦後のこうした罵倒は、ちょうど日露戦後の講和賛成を各紙がこぞって「売国奴」と非難したのと同じようなもので、蘇峰の思想が間違っている事を立証するものではない。その時代の迷妄が解ければ、どちらが正しいかは自ずから明らかになってくる。

 

いかに罵倒されようと、忘れ去られようと、蘇峰にとってはどうでも良いことであったろう。その志はあくまでも「日本が強くなることはとりもなおさず日本国民の幸福」 [渡部昇一『腐敗の時代』★★★、文藝春秋、S50,p237]という所にあったからだ。(文責:伊勢雅臣)



togyo2009 at 01:12|PermalinkComments(0) 明治維新150年