July 2018

July 08, 2018

〈【国際派日本人養成講座】(381) 国柄探訪:大和の国と邪馬台国〉

■■ Japan On the Globe(381) 国際派日本人養成講座 ■■■■

              国柄探訪:大和の国と邪馬台国

                  我が国はいつ、どのように建国されたのか?

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■1.日本の建国は、いつ誰によって行われたのか■

‐建国記念日。皇紀2665年‐、紀元前660年元日の初代・神武天皇即位から、‐2月11日で2665年目となるという事である。

 

‐歴史事実として、日本の建国はいつ誰によって行われたのか、と疑問に思っても、具体的な記述はない。‐こういう状況の中で、厳密な資料批判に基づいて、日本の建国の年代に関して合理的な仮説を提示した本が現れた。八木壮司氏の『古代天皇はなぜ殺されたのか』[★★★、角川書店、H16]である。

 

■2.神武天皇127歳!?■

 建国の年の推定に入る前に、まず「神武天皇が127歳で没した」という長寿の謎に挑戦してみよう。

  確かに初代・神武天皇は日本書紀では127歳だが、第2代綏靖(すいぜい)84歳、第3代安寧(あんねい)57歳と「短命」となり、第4代懿徳(いとく)から第8代考元までは 記載なしで、第9代開化天皇でようやく115歳と長寿に戻る。

 

■3.「古代の日本では1年を春秋で2年と数えていた」■

八木氏は中国の史書を丹念に調べ、有名な魏志倭人伝の原典となった「魏略」という本に「その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」という一節があるのに注目する。「倭人は四季に基づく正しい暦法を知らず、春の耕作の始まりと、秋の収穫のときを数えて年数にしている」と言うのである。

 

 ここから八木氏は、古代の日本人は春と秋に一年が始まる「二倍年」の暦を使っていたのではないか、と推察する。今の1年を春秋で2年と数える暦法である。とすれば、神武天皇127歳というのは、63、4歳にあたる。第3代安寧57歳は28、9歳で、まさに夭折である。記紀(古事記・日本書紀)を通じて最も長寿とされた第10代崇神天皇が168歳であるから、これも84歳となり、ありえない年齢ではない。

 

 おそらく記紀が編まれた8世紀頃には、すでに「倍年法」は忘れ去られていたのであろう。しかし、編纂者たちは伝えられた異様な長寿はその通りに記し、年齢が分からない天皇はそのまま不詳とした。それは伝承された歴史を、そのままに文字に記そうとする、きわめて学問的な態度であったのではないか。そういう人々にとっては、史実として伝えられていない架空の天皇を勝手に造作するなどという事は思いもよらない事だったのだろう。

 

■4.「辛酉革命説」への疑問■

 日本書紀では神武天皇即位の年を紀元前660としているが、この縄文の時代に、神武天皇が船団を組んで九州から大和に攻め込む、というのは、やはり非現実的だろう。

日本書紀で、なぜこんなに古い年代を持ち出したか、については、古くからの定説がある。明治期の歴史学者、那珂通世(なかみちよ)のいわゆる「辛酉(しんゆう)革命説」である。中国古代では、甲(きのえ)・乙(きのと)などの十干(じっかん)と、子()・丑(うし)・寅(とら)などの十二支を組み合わせて、60年で一巡する暦法を採用していた。そしてその21巡目、すなわち1260年目の辛酉(かのと・とり)の年には、王朝が覆される大革命の年になるという讖緯説(しんいせつ)なる俗説があった。推古天皇9年(601年)が辛酉であり、その1260年前に大革命が起きたはずで、それが初代・神武天皇の即位の年であったに違いない、と設定した、というのである。

 この説に対して、八木氏は2つの難点を挙げる。まず1260年毎に大革命があるという讖緯説は、中国では社会不安を煽る俗説として、しばしば禁止されていた。日本書紀編纂に加わった当時一流の学者たちは、当然、この事を知っていただろうし、ましてや万世一系を意識する大和朝廷で、こんな不吉な俗説を正史に採用するとは考えられない、というのである。また推古天皇9年も、聖徳太子が斑鳩の宮を建てたほかは、新羅との緊張が高まる程度の比較的平穏な年であった。とうてい王朝が覆るような大革命の年ではない。

 

■5.「倭国大乱」とは神武の東征■

‐それでは神武天皇即位は何年だったのか。記紀によれば、神武天皇は幼名を狭野命(さののみこと)と申し上げ、現在の宮崎県高原(たかはる)町狭野(さの)に生まれた長じて大八島(日本)の中心である大和に都を置こうと、宮崎市と延岡市の間にある美々津から船団を発し、宇沙(大分県宇佐市)、阿岐国(あきのくに、広島)、吉備国(きびのくに、岡山)を通られて、浪速国にたどり着いたそこで地元勢に襲われて苦戦し、紀伊の国(和歌山)熊野を迂回して、吉野から大和に入り、辛酉の年の正月に初代天皇として即位した。その足跡が各地の地名や神社、祭り、物産となって今も残されている。

 この神武東征の年代について、八木氏は魏志倭人伝の次の有名な一節に着目する。

 

  その国、もとまた男子を以て王と為す。住(とど)まる

  こと七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃ち一

  女子を共立して王と為す。名は卑弥呼という。

 

‐この「倭国乱れ」こそ神武東征による戦乱が中国に伝わった記事なのではないか、というのが、八木氏の仮説である

 まず、この「倭国乱れ」はいつなのか。魏志倭人伝より約2百年後に書かれた『御漢書』では「桓・霊の間、倭国大いに乱れ」とあり、倭国の大乱を後漢の桓帝と霊帝の間(西暦146年から189年)としている。この間の辛酉の年は西暦181年であり、これが神武天皇即位の年だった、というのが八木氏の説である

 

■6.神武即位は西暦181年■

  八木氏は子細に検討する。

 まず、この時代には、朝鮮半島には楽浪郡や帯方郡といった中国側の出先機関が設けられていた朝鮮半島でのいわば植民地統轄拠点だが、倭国に関する情報は郡庁で整理されて、首都・洛陽に送られていたとみられる。倭国に神武東征のような大きな戦乱があれば、その情報がここを通じて、中国に伝えられていたのは当然だろう。

 また『後漢書』によれば、西暦107年に倭国王「師升(すいしょう)」が生口(使用人)160人を後漢の安帝に献じた。これだけの人数を使節、衛兵とともに中国に送れるだけの船が作れたのであるから、その70年ほど後に、神武天皇が船団を組んで瀬戸内海を渡ったというのは、技術的にも経済的にも十分、可能な事であった、と考えられる。

 次に歴代天皇の在位年数で見てみると、神武天皇即位を181年とすると、昭和の末年までで1880年であり、これを125代で割ると、天皇一代あたりの平均在位年数は14.5年となる。天皇の即位年が文献上、正確に分かるのは聖徳太子の父君である第31代用明天皇であり、その即位から昭和天皇の崩御まで94代で計算すると、平均在位年数は14.9年となる。

 神武即位からの14.5年は、これに比較すると0.4年短いが、古代の平均寿命が短かったと考えれば、ほぼ妥当な数字と言える。神武即位は西暦181年という仮説は、技術や経済の発展段階、および、内外の文献上ともうまく整合するのである。

 

■7.邪馬台国と大和の国■

 残る問題は、魏志倭人伝では倭国大乱の後に卑弥呼が共立されたという邪馬台国と、記紀で神武天皇が即位して建国した大和の国との関係である。

 まず注意すべきは、神武東征軍が制した版図は、奈良盆地の南半分でしかなかった、という事である。東征軍が戦った地元勢との戦いの記録は、ほぼこの地域に限られている。また初代神武天皇から第8代孝元天皇まで、各代で建設された宮殿は、すべて奈良盆地の南3分の一ほどの地に限られていた。さらに第5代孝昭天皇を除いて、第8代まではいずれも正妃は奈良盆地南部から迎えている。ようやく建国された大和の国は、第8代までは奈良盆地の南半分を版図とする小国だったのだ。

 それに対して、魏志倭人伝によれば、卑弥呼の邪馬台国は7万余戸と伝えられ、人口は50万人ほどもあったと推定される。同時代に魏に滅ぼされた燕の国は戸数4万というから、邪馬台国はその2倍近い大国である

 卑弥呼は239年に倭国連合の盟主として魏に使節団を送り、魏はこれに応えて「親魏倭王」の金印と銅鏡100枚を送ったこの称号も大量の銅鏡も、史上例のない厚遇であった。魏としては呉、蜀への対抗上、強大な邪馬台国をぜひとも味方につけておく必要があったのだろう。この銅鏡は東は群馬から西は島根、山口まで、複製品を含めて9枚が出土しているが、これは卑弥呼が倭国連合に属する国々に自らの権威づけのために贈ったものと見られる。邪馬台国は九州にあったという説と、近畿地方にあったという説があるが、銅鏡の出土地域を考えれば、後者が有力と考えられる

 

■8.邪馬台国 大和の国■

 魏志倭人伝によれば、247年には邪馬台国はその南に位置していた狗奴(くな)国から激しい攻撃を受け、魏の救援をあおぐ魏は軍事顧問というべき武官を派遣するが、その戦いの最中に卑弥呼は亡くなるあとを継いで第2代女王・壱与(いよ)が共立され、266年には魏に使いを出すが、これを最後に邪馬台国は幻のように消えてしまう

 邪馬台国が大和の国だった、というのが、従来、有力な説だったが、卑弥呼−壱与のように女王が2代続くことは皇室ではありえない邪馬台国を南部から攻撃した狗奴国こそ神武天皇の建国した大和の国だった、というのが、八木氏の仮説である狗奴は「熊野」であり、神武天皇は熊野から大和盆地に入ったからである

 邪馬台国の壱与が隋に最後の使いを出したのが266。先の平均在位年数14.5年から計算すると、第8代孝元天皇の即位が257年前後と推定される。その次の開化天皇は奈良盆地南部から一挙に飛び出して、その北端、奈良市春日の地に宮殿を構え、正妃も初めてこの地から迎えたさらに山背(やましろ、京都府)や北河内(大阪府)の豪族の娘を迎えている。したがって第8代孝元天皇の時代に大和の国は邪馬台国を併合し、それまで奈良盆地南部の地方国家だったのが、一挙に京都府南部、大阪府北部に至る地域に勢力を広げた、と考えられるのである

 神武天皇は天照大神の子孫であることを自覚し、その志を継いで「天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よく暮らす」ことを目的として、皇位についたそうした志からすれば、中国の権威を借りて、その服属国の盟主として国内の実権を維持しようとした邪馬台国とは建国の理念そのものが異なるのである。大和の国がその理念を追求しようとすれば、邪馬台国は共に天を戴くことのできぬ国であったろう。この点から見ても、八木氏の仮説は説得力を持つのである。  
 (文責:伊勢雅臣)






togyo2009 at 01:07|PermalinkComments(0) 歴史に挑む 

July 07, 2018

西尾幹二氏の提言(07)拉致犯罪国家・北朝鮮に日本はどう鉄槌を下すのか

米と協調し「金体制」崩壊の戦略を持て “朝鮮半島を日米に近寄せる大計画を” 
『産経新聞』コラム「正論」欄(平成14年9月21日付)
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 《《《 「北」続くとの前提を持つなかれ 》》》
ベルリンの壁が崩落してから十三年経った。この間ヨーロッパに行くたびに、アジアでなぜ共産主義体制の崩壊が起こらないのかと聞かれた。しかし今度の日朝会談でようやくアジアにも地滑りの兆しが見えた。とはいえ、独裁者の居直りなどのアジア的不徹底さがまだ尾を引く。ーしかし、ヨーロッパと同じ時代の動きが始まった。金正日は「拉致」が北朝鮮による国家犯罪であることを事実上認めたが、ユーゴのミロセビッチ大統領の犯した体制の犯罪に等しく、いずれは国際法廷の場に立たされる運命となる規模の質の犯行である

人は拉致の責任者の追及をというが、責任者は金である。日本政府ならびに外務省は、この認識で対応しなくてはならない間違えても、金体制がいつまでもつづくという前提で、それを温存する方向で、国交正常化交渉をすべきではない。北朝鮮を決して信用していないアメリカの理性をむしろ頼みとしつつ、東北アジアからテロ国家を一掃し、その残滓もきれいに拭い去った後に初めて日本の巨額の経済支援がなされるという未来の方向に、自国の国家戦略をしっかり打ち樹てて立ち向かっていただきたい

 《《《 東欧解放倣い、情報鎖国破れ 》》》
北朝鮮各地で飢餓救済に当たってきた米国の国際開発局のナチオス局長の新著によると、大飢饉は今や人民軍を廠い、兵士の多くは家族が餓死したという悲惨な体験を有し、その原因が政権にあるとの認識についに達している。独裁政治は揺らぎ、内戦の可能性も高い。金正日の言動にも人民軍への恐怖を示す兆候がはっきり出て来たという(『産経』九月十一日)。なりふりかまわぬ今回の「拉致」や「工作員」に関する独裁者の自己告白は、足元に迫っている彼の恐怖と動揺をむしろ証明している。

ミサイルの輸出と開発の中止、さらに配備ずみのミサイルの撤去という日韓への段階的危険除去は、米朝協議に委ねられるほかないであろう。ならば、経済協力という人参を馬の口先にぶら下げる日本政府の交換条件は何であるべきか。私は東ヨーロッパの解放の例にならうべきだと思う。ルーマニアを除いて、東ヨーロッパには西ヨーロッパのテレビ・ラジオの電波が自由に流れ込んでいた。ー韓国や日本からの電波の自由化、それを受信できるテレビ・ラジオの大量のプレゼント。政府が受信を妨害しないための核査察ならぬ情報査察の実施。映画の自由化。そしてやがては書籍の搬入可能化。インターネットの国際接続化。両国が「近くて遠い国」でなくなるためには情報鎖国の中止以外にないことを絶対条件とすべきである。

 《《《 民主主義国家に仕立てる道 》》》
アメリカとの共同で北朝鮮を民主主義国家に仕立てる―それが日本の国家戦略でなくてはならない。幸いアメリカはイラクとともにあの国に「悪の枢軸」の認識をもつ。ある米高官はイラクについて「ガラガラ蛇が庭先にいるとき放って置けるか」と言ったが、北朝鮮が腰くだけになったのもアメリカの決意と力である。日本は脅威除去に動くアメリカの妨害になるような、何にでも使える無差別援助は絶対にすべきではない

しかるに日米協調の朝鮮半島の民主化を、ロシアも、中国も必ずしも望まないという現実がある。韓国でさえも北に心理的に接近している。日本の共産党、社民党も現状維持を期待している。面白いことにみなこの勢力は小泉訪朝を成功とみなし、歓迎した。アメリカだけは注意深く今後を見守りたいと態度を保留している。困ったことは周辺諸国の思惑が、金正日の延命であり、小泉訪朝はそれに役立つのではないかと期待されていることである。ー小泉政権の半島政策は、北朝鮮に対してはもはや遠慮無用のこの機を利用し、金体制を崩壊せしめる方向へ戦略を重ね、アメリカとの協調によって、朝鮮半島を中露の大陸勢力から日米の海洋勢力へとり戻す大計画を展開しなくてはならない。
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五人の被害者を戻せば「北」の思うつぼ ――謀略国家に対する甘い認識を捨てる時―― 
産経新聞2002、12、12「正論」欄
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 《《《待ち受ける過酷な運命》》》
国家犯罪とか全体主義体制の悪とかについての認識が日本ではあまりに低く、小説家や評論家のような立場の人がナイーヴすぎると思うことが少なくない。
旧東ドイツでは、約十万人といわれる秘密警察協力の専従者には、結婚の自由も、好きな友人との交際の自由もなく、自分の子供の職業の選択も制限され、誕生日のパーティーも週末の小旅行も届け出制だった。従って普通の住民との正常な接触は難しく、仲間だけで交際するゲットー風の生活だった
北朝鮮の日本人工作員の住む居住区は鉄条網で囲まれ、その中に幼稚園も病院もある特別区だという。蓮池さんや地村さんは子供に危険が及ぶから口を閉ざしているが、東独同様に隔離された監視下の、親と子が切り離された生活で工作員教育を施され、子供に自由な判断力は育っていまい。

それなのに、五人の被害者をいったん北に戻し、子供と相談させて、永住帰国かどうかを家族全体の自由意志で決めさせるべきだ、なんてまだ分らないことをいっている人がいる。日本を知り、北朝鮮を外から見てしまった五人はもはや元の北朝鮮公民ではない。北に戻れば、二度と日本へ帰れないだろう。強制収容所へ入れられるかもしれない。過酷な運命が待っていよう。そのことを一番知って恐怖しているのは、ほかならぬ彼ら五人だという明白な証拠がある。彼らは帰国後、北にすぐ戻る素振りをみせていた。政治的に用心深い安全な発言を繰り返していた。日本政府は自分たちを助けないかもしれない、北へ送還するかもしれないとの不安に怯えていたからなのだ。

 《《《西側の国と同一視する愚》》》
日本政府が永住帰国を決定して以後、五人は「もう北へ戻りたくない」「日本で家族と会いたい」と言い出すようになった。安心したからである。日本政府が無理に言わせているからではない。政府決定でようやく不安が消えたからなのだ。この心細い彼らの弱い立場が分らないで、「どこでどのように生きるかを選ぶのは本人であって、それを自由に選べ、また変更できる状況を作りだすことこそ大事なのでは」(『毎日』12月1日)と書いているのは作家の高樹のぶ子氏である。彼女は「被害者を二ヶ月に一度日本に帰国させる約束をとりつけよ」などと相手をまるでフランスかイギリスのような国と思っている能天気な発言をぶちあげている。彼女は「北朝鮮から『約束を破った』と言われる一連のやり方には納得がいかない」と、拉致という犯罪国の言い分に理を認め、五人を戻さないことで「外から見た日本はまことに情緒的で傲慢、信用ならない子供に見えるに違いない」とまでのたまう。

《《《子供を外交カードにする策》》》
この最後の一文に毎日新聞編集委員の岸井成格氏が感動し(『毎日』12月3日)、同日朝TBS系テレビで「被害者五人をいったん北朝鮮に戻すべきです」と持論を主張してきたと報告し、同席の大宅映子さんが「私もそう思う」と同調したそうだ。同じ発言は評論家の木元教子さん(『読売』10月31日)にもあり、民主党の石井一副代表も「日本政府のやり方は間違っている。私なら『一度帰り、一ヵ月後に家族全部を連れて帰ってこい』と言う」(『産経』11月21日)とまるであの国が何でも許してくれる自由の国であるかのように言う。

五人と子供たちを切り離したのは日本の政府決定だという誤解が彼らにある。五人の親だけ帰国させた北の謀略なのである子供を外交カードに使う謀略であって、一時帰国に沸いた十月十五日に日本は罠にはまったのである五人を北に戻せば、寺越武志さんの例があるように、五人は家族の意志による北での永住を誓わされ、日本の老父母が北を再三訪問するようになるだろう。幸せに暮らしていると称する五人の誓いの言葉を楯に、拉致問題は消滅し、金正日の責任は解除され、補償の必要はなくなるだろう

日本が五人を北へ戻さなければ、子供を帰さないことで、日本の世論を今のように困らせ、悪いのは約束を破った日本政府だと北は宣伝しつづけるだろう。五人の日本滞在中に子供を帰せば、北の全秘密工作が五人の口から暴露される。北はそれはできない。そう考えると気の毒だが、北が近い将来に子供を帰す可能性は小さい。スパイ養成を国家目的としている国の心理のウラも読めないでよく小説家や評論家の看板をはっていられるものと思う。
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米の北朝鮮政策に誤算はないのか ――日本は対応の危険な間違いに警告を―― 
『産経』2月4日「正論」欄より
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《《《日米安保に背信の匂い》》》
核不拡散条約(NPT)によると、核兵器保有が許されるのは第二次大戦の戦勝国に限られるそれ以外の国は自国の核防衛に自己責任を果たせない仕組みになっている日本はこれに署名させられている従って同盟国アメリカは北朝鮮の核問題を、日本のために無事に解決する「義務」を背負っているのである日本人はそのように理解しているし、そのように主張する「権利」を有している

核保有国の無責任ないし政策の失敗は、必然的に核の拡散につながる。もし北朝鮮問題で米国が責任を果たさないのであれば、日本は不本意でもNPTを脱退し、核ミサイルの開発と実戦配備を急がねば、国民は座して死を待つ以外に手のない事態が訪れ得る。それは中国の核に対しても同様である。そして、日本が核開発すれば、そのミサイルは確実に米大陸に届く。

なぜ私があえて矢継ぎ早にそんなことを言うのかというと、米国の北朝鮮政策が根元の所に迷い、戸惑い、誤算があり、日米安保に背信の匂いが漂いだしたからである。そもそも北朝鮮の核脅威をここまで引き出したのは、イラクと並べて北朝鮮を脅迫した米国の責任ではないか。ー日本政府はこのまま果たして黙っていていいのか。日本の言論界はなぜ反発しないのか。

《《《頭なでてやれば良い子に》》》
1月15日米政府は北が核開発をやめたら食糧やエネルギーの援助を与えるといい、軍事進攻はしないとの約束を文章化する用意があるとも述べたが、北に拒絶された。私にはこの米政府の対応が、たとえイラク戦直前の時間稼ぎを割り引いても、とうてい理解できない。ーおいしいお菓子をぶら下げて、こっちから先に手は出さないよと頭をなでてやれば北はきっと良い子になる、とでも思っているのだろうか。

話し合いはつねに安全ではなく、恐ろしい選択になることもある。米国は武力行使しないと言いながら、北朝鮮を徹底的に無力化する侮辱的な要求を突き付けている。ー国家が丸裸にされる内容である。北にすればバカバカしくて相手にする気にもなれない。米国のこの要求はハルノートである。北朝鮮が米政府との直接的対話を要求しているのは、当然といえば余りに当然である。しかも、さらにいけないのは「先制攻撃」の手法がイラクには適用されても、北朝鮮には適用されそうにもないと北に高を括られてしまったことである。イラクは攻撃し易く、弱体なのである。米国はだから叩くのであるそれに対し東アジアは難しい北も米国軍は百人以上の戦死者が出たら戦争継続できない張子の虎だと考えだした。地対地ミサイルが火を噴けば韓国は焦土と化し、三万七千の在韓米軍は全滅する
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身近な危機に意思示せぬ国は亡びる ――6カ国協議の舞台裏を見定めよ―― 
 (8月26日産経新聞「正論」)
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 ≪≪≪米の頼りは中国に移る?≫≫≫
一つの有機体が衰徴するときには、変化は内からも外からも忍び寄る。リンゴの芯も、腐る頃には、外皮もしなび、ひきつっている。国家も有機体である。内はシーンと静まり返って、死んだように動かない。そうなると、外から近づくものの気配にも気づかない。

小泉首相がアメリカのイラク戦争に誰よりも早く賛成の手をあげて、日本の立場を守った効果は、2ヶ月も持たなかったのではないか。北朝鮮という身近な危機になると無力をさらけ出すのは分かっていたが、集団的自衛権を宣言するとか、核三原則の一部手直しを図るとか、トマホークの買い入れ交渉をするとか、首相が相次いで打つべき手はいくらもあるのに、全身麻酔でも打たれたように動けない。憲法は理由にならない。自民党内部の親中国勢力と妥協して政権の延命を図ろうとする昔からの党内政治を復活させた結果にほかならない。東アジア政策にアメリカが慎重になっているのは事実だが、またしても日本を頼りにできないという失望感が政策をきめる重要な要因になっている−。アメリカが頼りとするのはこのままいけば中国であって、日本にはならない。このことは日本の将来にとっても致命的ともいうべき災厄をもたらす。

 ≪≪≪6カ国協議の焦点は日本≫≫≫
江沢民が退いてから、中国がほんの少しだけ対日微笑作戦に転じた。もはや経済大国日本を中国は恐れていない。ーしかし何としても軍事大国日本の出現を阻止しようとするだろう。歴史認識だけは忽せにできない所以である。中国の手のひらの中で、経済と政治だけで満足する日本を操作する、そのためにアメリカと話し合いに入っていると私は見ている。6ヶ国協議の焦点は北朝鮮ではなく、じつは日本である。表面には出ないが、日本の核武装を阻止し、米中の許容範囲のなかでどの程度まで政治大国日本を泳がせるのか

軍事力を欠いた政治大国というのは歴史上あり得ない。しかし日本の国内世論は、中国が希望する経済と政治にだけに関与した平和国家日本のイメージを歓迎している。アメリカは9・11同時多発テロ以来、対中敵視政策の優先順位を下げた拉致だけ騒いで、核に責任分担できないいつもの日本にはもう飽きている東アジアの戦略から日本を外して、中国に任せるところは任せ、アメリカは北の核の開発と輸出だけ封じれば、後のことはどうでもよい北の体制保証も代償として考え始めているこれは拉致の不完全な幕引き、生物化学兵器の温存放任、そして日本からの経済援助引き出しという、われわれにこの上ない不本意な結果をもたらすだろう

しかし、よく考えていただきたい。6ヶ国協議の行方はどうであれ、あり得る米中合意後のこの結果は、NOと言うべきときに言わない日本政府の責任である。2年前に「自民党をぶっ壊す」と叫んだ首相にアメリカは一大変化を期待した。ところが無変化は経済だけではない。首相が自ら決断ひとつすれば片がつく集団自衛権の問題は店ざらしのままである。これではアメリカは北に軍事意志を明確化できない。日米協力で経済制裁に踏み切ることもできない。金正日体制は守られる。日本政府がこれを壊すという政策意志を持たないことに責任の一半がある

 ≪≪≪帰結は「日本の香港化」か≫≫≫
北は核を捨てても、生物化学兵器特殊テロ工作員潜入で日本を威嚇し続けることができる。そういう国に日本が巨額経済援助をすることが米中露の合意意志とならないともかぎらない。戦争さえなければ何でもありが許される「奴隷の平和」に慣れてしまったこの国の国民の、シーンと静まり返った無意志、無関心、無気力状態は、外から忍び寄る変化の影にも気がつかない。その結果は予想もつかない地球上におけるこの国の位置の変動を引き起こすだろう。一口でいえば「日本の香港化」という帰結を。

核だけ抜いて北朝鮮を維持し、日本を平和中立国家のまま北と対立させておくのは中露韓の利益に適い、日本自らがそれでよいなら、アメリカも「どうぞお好きに」となるだろう。日本列島は返還前の香港のような華やかな消費基地でしばらくあり続け、政治大国と錯覚している間に大陸に吸収される。アメリカは「サヨナラ」というだけだろう。今が転換点である自ら軍事意志を示せない国は、生きる意志を示せない国でもある
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togyo2009 at 16:53|PermalinkComments(0) 拉致被害者奪還 

July 04, 2018

中西輝政氏著〈 「ハンチントン理論」の衝撃〉

京都大学教授 中西輝政 「ハンチントン理論」の衝撃

 

明晰な分析で見通した「時代の直感」

 

サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」論が、1993の夏、初めて世界の論壇に登場したときの衝撃は、今でも忘れることはできない。個人的には、私自身が冷戦後の世界秩序のあり方について、似たような方向で考えを進めており、‐それをともかく一冊の本にまとめようとしていた矢先のことであった点も大きかった。

 

「文明の衝突」が衝撃的であったのは、その内容と議論の鋭角的な輪郭がもつインパクトであった21世紀の世界は、当時支配的な見方であった「グローバルな国際社会の一体化が進む」という方向ではなく、むしろ数多くの文明の単位に分裂してゆき、それらが相互に対立・衝突する流れが新しい世界秩序の基調となる、という彼の議論を雑誌『フォーリン・アフェアーズ』(93年夏号)で初めて目にしたとき、私は自分がそれまで考えてきた21世紀の世界像を、はるかに明晰かつ強烈に展開している「ハンチントン理論」の衝撃力に、"目まい"に似た感覚すら覚えたものであった。実際、正直いってそれは、「やられた」という気持ちであった。

 

まだ80年代の「国際化」とバブル気分の余韻が残っていたこの時期の日本では、「ベルリンの壁」の崩壊と冷戦の終焉は、市場経済と民主主義がのっぺらぼうに世界をおおい文字通り「一つの世界」が現出する時代が来た、という"新株序"イメージを人々が素朴に信じていた時代だった。しかし、現実にあらわれつつあった世界は、民族や宗教の違いに根ざす、かつてのイデオロギー対立よりもはるかに鋭く根深い対立が多くの地域紛争を引き起こしつつある世界であった。しかし実は、この調和と安定を強調する「イメージ」と、他方で目の前に現われつつあった「新しい現実」との狭間ですでに人々は当惑し始めていたのだが、そのことを明確に説明してくれる体系だった議論は、当時世界を見わたしてもほとんどない状況であった

 

本来、学者というものは、一つの理論を提示するとき、何らかのインスピレーションを内に秘めつつも、数多くの事実やデータをつき合わせ長期にわたる自己検証を経て、しかるのちにそれを世に問うものである。また、そのときでさえ、自分が提起しようとする理論が、世の中の一般的な見方、既存の価値観や評価の基準に照らして、果してどう位置づけられるのか、といった「俗事」にとらわれやすい。日本の学者や評論家にはとくにこの後者の傾向が強い。「文明の衝突」論も、駆け出しの、あるいは新進気鋭の学者によって唱えられていたら、その衝撃力も限られたものであったろう。しかし、多くの人々が内心で「もしかしたら、今後の世界はこれまで鳴りもの入りで言われてきたバラ色の"新株序"ではなく、何かもっと深いマグマが噴き上げてくるようなものになるのではないか」と思い始めていた丁度そのときに、アメリカを代表する国際政治学者として、あのキッシンジャーと並び称されてきたハーバードの代表的知性の一人、サミュエル・ハンチントンがまさにズバリとこの間隙を突いたのが、「文明衝突」論であった。93年夏という時点で、人々の何とはなしに感じ始めていたこうした「時代の直感」を、余すところなく、おそらくは120パーセントの明晰さと踏み切りの良さでもって、世界に問うたのが先の『フォーリン・アフェアーズ』論文だったのである。

 

「ピルグリム・ファーザーズ」=アメリカを体現する理論家

 

ハンチントン教授が、なぜ世界に先がけてあれほど体系だった形で文明衝突論を唱えることができたのか。それは国際政治学者としての卓越した洞察力とキャリアもさることながら、すでに冷戦終焉にはるかに先立つ時期から、世界秩序の底流に見え始めていた「新しい現実」にいちはやく目を向ける大きな視野の研究に教授が携わってきたことが大きかったように思われる。70年代末から彼は、世界における民主化の趨勢の実態とそれが世界秩序に対してもつ意義について、各地域・各国、あるいは各個人の中に生じている現実の価値観や精神構造の変容を具体的に追う作業に従事していた。

 

80年代半ば、いまだベルリンの壁が厳然として存在していた頃、アメリカ留学中だった私は、米国の国際政治学者や思想家の中でも、とくに洞察力に秀れた深い学識をもつ人々は、すでに冷戦を超えて21世紀を見通すような視野をもって、マクロ的な世界秩序の変容の方向を探り始めていることを知り驚かされたものである。実は、日本人の多くのように、「冷戦が終わってから、冷戦後の世界を考え始める」のでは、すでに認識上の"敗者"となることが運命づけられていた。いわんや、「冷戦後の世界は、平和と協調の時代となり、軍事力や国家というものがその意義を失う時代となる」、といった戦後日本的な"ユートピアニズム"が改めて唱えられていたわが国の知的風土ではとても歯が立つわけはなく、この10年余り21世紀の世界像について、くりかえし日本の認識と対応が混乱を重ねてきたのも必然といえた。

 

しかし「ハンチントンの衝撃」が世界的にもあれほど大きかったのは、彼が戦後のアメリカを代表するような国際政治学者の一人であると共に、アメリカの知的社会においても「主流中の主流」と見られてきた、いわば"大御所"的な権威を帯びた知識人であったところが大きい。実際、彼は17世紀初頭、東部イングランドからマサチューセッツヘ初めて移民した「ピルグリム・ファーザーズ」と呼ばれる人々の中に直系の先祖をもつ、いわば「アメリカ」を体現するような家系の出身でもある若くしてハーバードの俊秀として将来を嘱望される学者としてのスタートを切り、朝群戦争・ベトナム戦争を現地で体験し、またケネディ政権とカーター政権においてはホワイトハウスで外交・安全保障の政策立案に携わった経歴をもつ、いわばアメリカの「国家戦略」を生涯のキャリアとしてきた人物でもある。当然、多くの著作を刊行してきたが、若い時期に出した『軍人と国家』(1964)は、民主主義において政治家が軍部をどう動かしてゆくべきか、いわゆるシビリアン・コントロールについて考えるときの古典的書物の筆頭につねに挙げられてきた

 

皮肉な結論 − F・フクヤマ理論を超えて

 

このような、名実ともにアメリカ国家と社会の"主流中の主流"に属するハンチントン教授が、21世紀の世界は、民主主義によって一つの世界が生まれるのではなく、数多くの文明間の違いに起因する、分断された世界になろうという、およそ「非アメリカ的」な世界像を、しかもあれほど突出した形で切り込むように世界に提起したことに、欧米世界では多くの人々が驚いた。


あの『歴史の終わり』を著わし、ベルリンの壁の崩壊に先立って、冷戦後の世界のあり方をいちはやく世に問うた、同じくアメリカの国際政治学者で思想家のフランシス・フクヤマを知る人々はわが国にも多いだろう。フクヤマは、21世紀の世界は、グローバルに民主主義と市場経済秩序が定着し、もはやイデオロギーなどの大きな歴史的対立がなくなる"歴史の終わり"という時代となろう、と予言したが、この世界ヴィジョンこそ、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」が世界を覆うという、典型的な「アメリカ的世界像」を描くものであった。

 

つまり、大変皮肉なことに、日系三世のフクヤマがもっとも「アメリカ的」な世界像を唱え、ピルグリム・ファーザーズ直系のニュー・イングランド人(典型的アメリカ人)のハンチントンがもっとも「非アメリカ的」な世界像をそれぞれ世界に提起したわけである。一体、この「皮肉」は何に由来しているのであろうか。私の見るところ、これは決して個人的な次元に帰し得ない、21世紀のアメリカと世界に関わる本質的な問題を内包するもののように思われる。少なくとも、ハンチントンの「文明の衝突」理論を読み解くもっとも重要なカギの一つが、ここに潜んでいるように思われるのである。

 

「文化多元主義」とハンチントンの視点

 

本書の最後の部分にある「文明の共通した特性」(邦訳書『文明の衝突』集英社刊では、第5部第12)の個所に出てくる次の部分は、このことを考える上で大変、示唆的である。

「アメリカには国内で多文化主義(アメリカは西欧文化の国と考えるべきではない、という主張。以下カッコ内は中西注)を奨励する人もいれば、海外での西欧文化の普遍性を説く人もあり、両方を主張する人もいる。国内での多文化主義はアメリカと西欧をおびやかし、海外での普遍主義は西欧と世界をおびやかす。両者とも西欧文化の独特な特性を否定している。世界的な単一文化を唱える人びとは世界をアメリカのようにしたいと思い、国内の多文化主義者はアメリカを世界のようにしたいと思うのだ。(しかし、)多文化的なアメリカはありえない。というのも、非西欧的なアメリカはアメリカではないからだ。(また)世界帝国がありえない以上、世界が多文化からなることは避けられない。アメリカと西欧(の覇権)を保持していくには、西欧のアイデンティティを一新する必要がある。世界の安全を守るには世界の多文化性を認めなくてはならない。」

 

ここから読み取れることは次の二つである。第一は、アメリカを多文化社会にしてはならない、ということ。第二に、アメリカと西欧は、世界を多文化的な存在(つまり多くの文明から成るということ)として認め、決して単一文化(つまり西欧的文化)に染め上げようとしてはならない。もしそうすれば、今後も保持してゆかねばならない欧米の、あるいはアメリカの世界におけるリーダーシップ(ないしは優越した地位)が、むしろ早期に覆される危険が生じる、ということである。

 

今日、アメリカで言われる「文化多元主義(マルチ・カルチュラリズム)」あるいは「多文化社会」論というのは、アメリカという国の文化は、決して単一の西欧(あるいは白人)文化に限定されてはならず、黒人、ネイティブ・アメリカン、ラテン系アメリカ人、アジア系(あるいはユダヤ系)その他の、非西欧文化もそれぞれ西欧文化と対等の存在としての地位を認められねばならず、言語や歴史、その他社会全般に関わる認識や教育、公共政策の方向もそれを助長させるものでなければならない、という主張である。

 

この主張の影響力は日本にいるとわからないが、アメリカでは近年ことのほか強まっており、大学や知識人社会ではもはやそれに疑問をさし挟むことさえ難しいほどの、知的・社会的拘束力をもつものとなっている。それゆえ、本来の意味で良心的な学者は、たとえばアメリカの歴史が、学校ではコロンブスのアメリカ発見ではなく、ネイティブ・アメリカンのアメリカ大陸定住から延々と説き起こす形で教えられ、「白人の侵略」といった言葉や、「英語以外にも国語の制定を」といった運動が市民レベルでも大手を振ってまかり通る、という現状に不満と懸念を深めてきたのである。なぜなら、それはアメリカの社会を分裂と混乱に向わせ、アイデンティティの一大喪失を招くことが、洞察力のある人なら誰の目にも明らかだからである。

 

この点についてはすでにわが国でも話題となったアラン・ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』(みすず書房)や、本書の中でハンチントンも度々引用している、アーサー・シュレジンジャー・Jr.の『アメリカの分裂』(岩波書店)などが、危機感をもって取り上げてきたところである。実際、現代アメリカのどんな事象を観察する際にも、この「文化多元主義」vs.「西欧アイデンティティ論」という対立軸をつねに意識して見てゆく必要がある、といっても過言ではないほど、この「軸」がアメリカ人の意識を強く拘束している。

 

 

「日本の選択」と「ハンチントン理論」

 

国家戦略論としての「文明の衝突」理論

 

このように見てくると、ハンチントンが「文明の衝突」理論を唱えた真の動機が明らかとなる。

 

その第一は、アメリカと西ヨーロッパを単一の文明共同体として強調し、それが世界で他の文明と対峙し、衝突の危険さえ潜在していると説くことによって、米国内における「西欧アイデンティティ」論の大切さに目を向けさせ、大きな視野から文化多元主義に対抗する拠点を人々に提供するという狙いである。

 

第二に、世界には西欧文明とは根本的に異なる多くの文明が互いに分立・対峙している姿を説くことにより、アメリカ人に対し、世界の中で現在の西欧が依然として保持している相対的な優位と覇権(ないしリーダーシップ)を守るためには、西欧文明を「普遍」と思い込んで世界に押しつけていってはならないと訴えるのである。なぜなら、その場合、「西欧」は世界中を敵に回し、本来ならもっと長続きしたはずの「西欧の優位」を早期に失うことになる、と考えるからである。

 

そこでの「西欧」の、世界に対するあるべき対し方は、非西欧世界の中に根深く存在する諸文明間の分裂と対立を視野に入れ、「西欧vs.非西欧」の対立軸を避けつつ、いわば非西欧世界を「分割統治」しうる、という可能性をつねに模索するようアメリカ人に訴えるもの、といってよいかもしれない。このようにして「西欧の優位」という一点において、上述の第一と第二の点が見事に収斂してくるのである。まことに見事な国家戦略論と言う他はない。

 

日本人とハンチントン理論の価値

 

このように見てくると、もしかすると、非西欧世界の一員でもある我々日本人としての立場からは、一体どのようにハンチントン理論をとらえ、評価したらよいのか、という新たな戸惑いが生じるかもしれない。しかし、私自身の立場はきわめて明瞭である。それは、我々はハンチントン理論を、知的業績として高く評価しうるし、全体としてその訴えるところに深く耳を傾けるだけの価値をもつものであると同時に、現代の日本人にとって、きわめて重要な意義を有するもの、という評価である。

 

まず何をおいても、本書で、あるいは彼が自らの理論を最も広汎に論じ尽した『文明の衝突と世界秩序の再編』(邦訳『文明の衝突』集英社刊)において取り上げ、論証しているところが大筋において学問的に適格かつ公平であり、同時にしばしば深い知的洞察に溢れたものであるからである。さすがは世界一流の政治学者、文明論者、として頷かされる個所に随所で出会う。

 

第二に、これだけの権威が、これほどの素直さで欧米から見た「世界の実相」を語る書物は近年珍しく、とかく日本国内で建前的な議論や非現実的な世界観しか与えられない日本人の読者にとって、「世界の実相」、とくに欧米の主要なリーダーが本音に近い部分で世界をどう見ているかを知る上で、本書は誠に貴重な一作であるといえよう。おそらく上述のように、アメリカ国内に残存する奇妙な理想主義者の陣営に論争を挑み、「アメリカのアイデンティティと大きな国益を守らねば」、というハンチントンの使命感と危機感が、このような例外的に率直な叙述を引き出したのであろう。また、エコノミストの発言力が強い日本の知的社会では、経済人を中心にバランスを失した「グローバリズム」論によって歪んだ世界観に陥っている日本人が多い現状を考えれば、「文明の衝突」論は、きわめて健全なバランス効果をもつはずである。

 

第三に、ハンチントンは、トインビー、シュペングラーといった文明史の代表的論者が繰り返し強調してきた、日本文明の独自性に関する議論を踏まえて、日本の文明的アイデンティティがきわめてはっきりとしたものとしてあり、それは中国文明(本書では中華文明)を始めとする他のアジア文明とは全く異質の、それ自体独立した一個の大文明(西欧、イスラム、中華など他の諸文明と並立するという意味で)である、という見方をしている点である。これは一日本人として私自身がこれまで研究してきた結論と一致している。

 

戦後の日本人にとっては、「日本独自の文明など、果してあるのだろうか」という疑問が先に立つほど、我々は「日本」についてネガティブな感覚に浸ってきたところがある。また、「戦前の日本で唱えられたような危険な"一人よがり"につながるのでは……」といった非歴史的な決まり文句もつぶやかれるかもしれない。しかし、この見方はハンチントンだけでなく、西欧の文明史論者がつねに言ってきたところなのである。「日の丸・君が代」の論争の中でも見られたように、戦前や戦争中に存在したものは全て軍国主義につながるもの、といった極端な自己否定、アイデンティティ否定は、本来、人間性から見てきわめて不自然なものであっただけでなく、知的・学問的に見てもきわめて不正確なものであったと言わなければならない。おそらく、戦後世代が作り出した現代日本をめぐる倫理的・精神的混乱や教育の荒廃の根源は、ここにあったのかもしれない。‐今日、新たな歴史資料の発掘から、戦後のアメリカの占領政策に対して、日本の文化的伝統を余りにもドラスティックに破壊し過ぎるとして、これを「不当」とする見方を堅持していたアメリカの知識人が思いのほか多かったことがわかってきた。その意味で、これは「ダグラス・マッカーサーが犯した誤ちを、サミュエル・ハンチントンが正している」という見方すらできよう。

 

第四に、ハンチントン理論が日本人にとってもつ意義は、21世紀の日本が、アジアと世界において、とるべき重要な指針を我々に示唆している点である。それはひとえに中国をどのように見て、これとどう対すべきか、という点に収斂する。

 

「日本の選択」としての「文明の衝突」論の意義

 

私自身とハンチントンとは、中・長期的な中国の将来像については大きく見方を異にする。‐ハンチントンは全体として中国は今後も安定して経済の急速な成長を続ける、という見方に傾いているが、私は長期的に見て中国という社会は大きな変動に直面し、「21世紀の超大国」の座を現実のものとする可能性はまずないであろうと考えている。この点についてもここで詳細に展開できないのは残念だが、21世紀に入ると時間が経つにつれ「分裂する中国」という文明史的特質が浮上してくるはずである。

 

しかしそれまでの間、日本と世界は「膨張志向」が強く残っている現在の中国に対処する必要、という現実的課題に直面しつづけることもたしかである。とりわけ近年の中国が、経済の発展が減速し始める中で突出した軍事増強路線を続けており共産党の独裁体制が続く限り、どうしても性急なナショナリズムやアジアの覇権に手を伸ばそうとする志向はなくならないことがはっきりしてきた日本にとっては、同じ"覇権主義"であっても、このような未成熟で「粗野」な「覇権」よりも、アメリカの成熟し経験済みの「覇権」の方が、誰が見ても相対的には好ましいはずである。しかし、そのとき、「日本はアジアの友を見捨て、西欧の味方をするのか」という、元来誤ってはいるが、どうしても"直き心"あるいは「実直なる日本人」(司馬遼太郎氏の表現)の心の琴線に触れる問いかけが起るかもしれない。しかしこれに対しても、日本人が自信をもって返答でき、文明のアイデンティティと大きな国益が両立する「日本の選択」のあり方を示唆している点で、ハンチントンの示す道は、21世紀に入っても当面、日本人にとり大きな意義をもつものであることは間違いないであろう。



togyo2009 at 01:56|PermalinkComments(0) 本を読む