加瀬英明氏のコラムより(9)日本のルネサンスを!【戦後70年】〈対談:戦後レジームの原点、日本「無条件降伏論」の虚妄〉

August 27, 2015

加瀬英明氏のコラムより(10)日露戦争開戦百周年

今年は、日露戦争開戦百周年 Date : 2004/07/09 (Fri)

今年は日露戦争開戦から、百周年に当たる。日露戦争というと、私は夏目漱石の『三四郎』の一節を思い出す。この作品は、主人公の三四郎が東京帝国大学に合格して、上京する車内の場面から始まっている水蜜桃を好む中年男に出会うが、「いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね」というので、三四郎が「しかしこれから日本もだんだん発展するでしよう」と答える。すると、男がすまして「滅びるね」といった。漱石は直感力に富んでいた。『三四郎』のなかでは、それ以上説明していないが、日露戦争に勝ったものの、日本の将来に暗いものを見たのだった。三四郎はこの男と東京で再会するが、学校教師である漱石自身をモデルにしていたと思われる。『こころ』のなかにも、明治天皇が崩御されたことを報せる号砲を聞いて、明治の偉大な精神が永久に過去のものとなったという思いにうたれた、という記述がある明治は「近代化」と呼ばれた西洋化の高波が奔流のような勢いをもって、日本人の心をつくり変えた時代でもあった大帝がお隠れになったのは、国運を賭けた日露戦争に勝った六年後のことだった。 


私が明治の精神について教えられた本のなかに、旅順攻囲戦と奉天会戦に従軍した外国人記者の『乃木』(東京、文興院、大正十三年)がある。スタンレー・ウォッシバーンは、『シカゴ・ニュース』紙特派員だった。乃木希典大将は征戦中に、外国の従軍記者としばしば会った。「乃木将軍の此頃(注・旅順攻囲戦)の住居は、泥と石とで建てられた侘しい小舎の、支那人や豚や鶏や、(略)逃げ去った跡なのであった。(略)深く露軍の着弾距離内に入って居た為めに、若し萬一敵の知るところになったならば、何時盡滅させらるゝか知れぬのだった。(略)吾々に言葉を懸ける時は、将軍は常に柔和な、慇懃な、そして圓満な微笑を両眼に浮べた。しかし一旦幕僚や傅令士官に命令を交附するとなると、双の瞳孔は収縮して、鋼鐵色の二點と化してしまひ、其顔色亦た一見して何の個性も感情も無き、単なる戦争の機関として相貌を現ずる。復た飜って吾々に對すると、(略)全然別個の人物となって来る」(目黒野鳥訳)「鮮血を注げよ、惜まずに注げよと要求せられた将校士卒が、喜んで其使命を受理した其ストイック精神も、彼等を死地に就かしめた将軍のそれに、少しも譲らなかったのだ。自己の本務と国家との祭壇に生命を獻げよと命じた、其言沈默寡の司令官の命令を、舌端にも念頭にも、曾て問題とした者は一人も無かった」また、ウォッシュバーンは乃木大将をつぎのように描いている。「将軍は、士卒に對しても、常に親切温和であつたが、しかし如何なる場合にも狎れることは無かつた。彼等に對する将軍の言葉は、常に簡潔であつた。彼等は言下に将軍の命を實行した。部下に一瞬の猶豫でもあると、くん燻えん煙の閃きのやうに鋭い眼が光る。部下は血潮を波立たせて、突つ立ち上るのであつた。今し死を宣する時、まなじり眦が裂けたかと思ふと、忽ち平静にかえって、泰平の逸民たるの外、何の考も無いといふやうな眼を持つた人は、他に見たことも聞いたことも無い」旅順が、ついに陥落した。「幕僚が皆祝賀會に耽っていると、いつの間にか将軍の姿が見えない。もう退席されたのであった。行って見ると、小舎の中の薄暗いランプの前に、獨り顔を覆って腰かけて居られた。将軍の双頬に涙が見えた。私を見られるとかう言われた。今は喜んでいる時ではない、あの様に大きな犠牲を拂ったではないか」明治の日本人は、精神性が高かったウォッシュバーン記者は旅順攻囲戦中に、東京の乃木邸に静子夫人をたずねた。すると、夫人が「主人が出發の別れに、戦争が首尾よく終わるまでは、自分は死んだものと思へ。其時まではたより音信をす爲るな、音信も爲まい」といったという。昨今、公務で妻を残して海外に出かける時に、「後髪を引かれる思い」というのと、何と大きな違いがあるだろうか。


『乃木』の序文は、幣原喜重郎男爵が書いているが、「近年、本邦に於て、妄りに外来の新思想に惑溺する者あるに方り」と警告している大正は日本が第一次世界大戦に本格的に参戦することがなかったから、日本にとって国際環境が穏やかなものだった。日本は日露戦争によって疲弊したが、大戦によって交戦国から軍需品や、ヨーロッパから輸入が途絶えたアジア・アフリカから注文が殺到したために、未曾有の景気に涌いた大正時代に、今日の経済大国となる基礎が築かれた。大正の日本は、今日の日本社会の雛型となった。日本で大衆文化が誕生した。大正時代を表わす言葉といえば、株ブーム、野球熱、宝塚歌劇、大学の増設と受験戦争、美容院、映画、女権、私鉄と住宅地の開発、輕便な文化住宅、文化包丁、文化人といったものだ。


西洋化によって日本人の精神が、蝕まれた時代となった『三四郎』は、「うとうとして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。このじいさんはたしか前の前の駅から乗ったいなか者である。発車まぎわに頓狂な声を出して駆け込んで来て、いきなり肌をぬいだと思ったら背中にお灸のあとがいっぱいあった」というところから、始まっている。私は四谷で育って、日米開戦の二年後に小学校にあがったが、戦後二,三十年までは男たちがステテコ姿で近所を歩いていたし、若い母親が電車のなかで胸をはだけて赤児に乳を飲ませていた。―今ではこのような日本らしい光景がみられなくなった。江戸時代末期に日本を訪れた西洋人たちは、男たちが街中をふんどし褌だけで闊歩しているのや、若い女が全裸でたらい盥を使って行水しているのを見て驚いたことを、記している西洋人を真似た羞恥心を、持っていなかった


しばらく前に、私は桜の季節に山口県岩国市の錦帯橋から、花見をしたことがあった。その日は、四月十四日だった。偶然のことだったが、佐久間勉艇長が十三人の乗員の部下とともに、明治四十三年のこの日に花見を楽しんでいた。その翌日に、佐久間艇長と乗組員は六号潜水艇に乗って、潜航訓練中に全員が殉職した。その時に、私は十四人の先人たちのことを思って、錦帯橋は当時の姿のままたっているが、日本人が変わったという感慨にとらわれた。六号潜水艇は明治四十年に初めて、国産によって建造された潜航艇だった漱石が『三四郎』を発表した前の年であった


幕末から明治にかけて、日本はきらぼし綺羅星のように無数の逸材を生んだ日本で初めて国勢調査が行われたのは明治五年だったが、人口は三千万人だった。人口は徳川期中期から、ほぼ変わらなかった。今日、日本の人口は一億二千万人を超えて、四倍になっている。それだったら四倍の逸材がいなければならないが、百分の一も、千分の一もいまい。『三四郎』を読み返してみて、「滅びるね」という一言によって胸が締めつけられるような思いがする


新約聖書の『ヨハネの福音書』のなかに、ある学者がイエスに質問する場面がある。「もう一度新しく生まれなさいっていっても、いったいよいトシをした私が、もう一度おふくろの腹のなかに入って、出てくるわけにゆかんでしょう」すると、イエスが「水と聖霊によって洗礼を受けなければ、新しく生まれることはできない」と答える。私たちももう一度、母なる日本文化の胎内に入って、その内壁を見きわめ、再び躍り出ることが必要である。


日露戦争とヤコブ・シフ Date : 2005/10/20 (Thu)

今年は、日露戦争に日本が勝ってから、百周年に当たる。もし、日本が日露戦争に敗れていたとしたら、日本はロシアによって支配されていたから、今日の日本はありえなかった

 

他界されてしまったが、私はイスラエルのモシェ・バルトゥール駐日大使と親しかった。大使は昭和41年から5年にわたって、東京に在勤された。私は大使からきいたが、着任してすぐに、皇居において信任状の奉呈式が行われた。その時に、昭和天皇から「日本民族はユダヤ民族に対して、感謝の念を忘れません。かつて、わが国はヤコブ・シフ氏にたいへんにお世話になりました。この恩を忘れることはありません」という、お言葉をいただいた。大使は陛下の思いがけないお言葉に、驚いた。ところが、ヤコブ・シフという人物について、知識がなかった。そのために大使館に戻ってから、急いで調べた。


私は前大戦中と占領下における昭和天皇の御苦労について、週刊誌にノンフィクションを連載した。入江相政侍従長に何回にもわたってインタビューをした縁から、実懇になった。そこで、バルトゥール大使からきいた話について、たずねた。すると、昭和天皇はどのイスラエル大使に対しても、信任状の奉呈が行われるたびに、シフとユダヤ民族への感謝の念を伝えられた、とのことだった昭和天皇は日本国民のほとんど全員が、日露戦争について関心を失っていたというのに、日本の運命を決定した日露戦争を、昨日のことのように、覚えていられた私は深く感動した


ヤコブ・シフは日本が国運を賭けて戦った日露戦争に当たって、大きな役割を果たした。日露戦争が始まったのは、1904(明治37)年2月だった。日本は極東の小国に、すぎなかった。ロシアは圧倒的な軍事力をもっていた。世界の誰もが、日本がロシアと戦うことがあれば、とうてい勝ち目がないとみていた。開戦が避けられない状況になると、日本は急いで戦費を調達しなければならなかった。開戦の前年の12月には、日本銀行には円も含めて、正貨が1億6796万円(1170万英ポンド)しかなかった。日本は何とかして、海外で戦費を募らなければならなかった。日露戦争が始まるとすぐに、当時、日本銀行の副総裁だった高橋是清が、日本の国債を売り込む使命を帯びて、まずアメリカに乗り込んだ。高橋の訪米は、徒労に終わった。当時のアメリカ人は日本が勝つことが万に一つもありえないと、判断していた。高橋は深い失意を味わって、次の目的地であったイギリスへ向かった。高橋はロンドンに一ヶ月以上も滞在して、精力的に走りまわった。日本の第一回目の戦時国債として、1000万ポンドを調達する任務を、帯びていた。日英同盟の誼から、ようやくイギリスの銀行団から、500万ポンドの日本国債を引き受けてもらう約束をとりつけた。だが、それではとうてい足りなかった。高橋は途方に暮れて、懊悩した。高橋はイギリスの銀行家の友人が催した晩餐会に、招かれた。その席上で、隣に座ったアメリカ人の銀行家から、日本について多くの質問を受けた。高橋は一つ一つ丁寧に答えた。高橋はその後に自伝のなかでこの時のことを、いきいきと描いている。すると、翌朝、晩餐会を催してくれたイギリスの銀行家が、高橋をホテルに訪ねてきて、「昨夜、あなたの隣に座ったアメリカの銀行家が、日本の国債を引き受けようといっている」と、告げた。隣席の人物が、ヤコブ・ヘンリー・シフだった

 

ヤコブ・シフを、私が所蔵している『エンサイクロペディア・ジュデイカ』(ユダヤ大百科事典)で調べると、「著名な金融家で、慈善家」として、細く説明されている。この百科事典は全十六巻におよぶが、イスラエルで発刊されている。シフは残りの500万ポンドを、引き受けてくれた。高橋は愁眉を開いた。その後、シフは全世界に散ったユダヤ人に、日本の戦時国債を買うように呼びかけた。シフの力によって、ユダヤ人が日本が日露戦争の戦費を賄うために、戦争中に海外で発行した戦時国債のおよそ半分を引き受けてくれたもし、この時に、ユダヤ民族の援助がなかったとすれば、いくら日本将兵の精神力がロシア兵に優っていたといっても、日本は勝つことができなかったといえよう。高橋は自伝のなかで、こう述べている。「シフ氏が何故に自ら進んで、残りの5000万円を引き受けやうと申出てきたのであるか?当時、私にはそれが疑問で、どうしてもその真相を解くことができなかった。しかるに、その後シフ氏とは非常に別懇となり、家人同様に待遇されるやうになつてから、その理由があきらかになつて来た。ロシヤ帝政時代ことに日露戦争前には、ロシヤにおけるユダヤ人は、甚だしき虐待を受け、(略)故に、他国にあるユダヤ人の有志は、自分らの同族たるロシヤのユダヤ人を、その苦境から救はねばならぬと、種々物質的に助力するとともに(略)いろいろと運動を試みた」


シフは日露戦争が日本の勝利によって終わった翌年に、日本政府によって招待されて、日本を訪れた。明治天皇から宮中において親しく陪食を賜り、最高勲章を贈られた。昭和天皇は明治大帝を、慕っていられた。そこで、日本がシフとユダヤ民族によって救われたことを、よく知っていられたのだった。


1/29 Date : 2004/01/29 (Thu)

平成十六年が明けた時に、同じ十六年ということから、昭和十六年を想い起した。日本がアメリカの強い圧迫を蒙って、「自存自衛ノ為、蹶然」ー開戦の御言宣(みことのり)ーと、立ち上った年だった。もっとも、私は強大なアメリカを相手に戦争に突入したのは愚かなことで、三国干渉を蒙った時のように、臥薪嘗胆すべきだったという想いと、歴史の大きな流れのなかで仕方がないことだったという想いが、交錯する。それでも、日本国民が勇戦したために、アジア・アフリカ諸民族が白人による数世紀にわたった醜い支配から、解き放たれた。自存自衛のために已(や)むなく戦ったのだったが、多くの日本の若者が有色人種を解放する理想を信じて、戦場に殉じた。今日の人種平等の美しい世界は、日本が創ったものである


今年は、日露開戦の百周年に当たる。大帝国だったロシアを相手にして、辛じて勝った幕末から日露戦争にわたった時期が、日本の二千年に近い歴史のなかで、もっとも輝かしい時代だった、と思う日露戦争が戦われた明治時代は、江戸時代の延長だった江戸時代の日本は、精神性がきわめて高い国だった明治が始まった時の日本の総人口といえば、三千万人だったそれなのに幕末から日露戦争にかけて、綺羅星のように煌めく多くの偉材が、日本に現われた。新年に当たって、私はどうして日本の人口が一億二千万人に、四倍にまで増えたというのに、あの時代のように優れた人々が生まれないのか、と訝った。あきらかに、今日の日本人はあのころの先人たちと較べて、あらゆる面で劣っている。先人の後塵を拝しようとする、気概すらない。もっとも、アメリカだって同じことだ。アメリカが独立した時の人口は、僅か三百万人だった。それなのに、ジェファーソン、フランクリン、ハミルトンをはじめとする多くの逸材を生んだ。今日、アメリカの人口は二億五千万人を超えるが、日本と似たような状況になっている。ひたすら快楽を求める、大衆民主主義のせいなのだろうか。それだけでは、あるまい。


ー日本人は誰もが粒が小さく、輕くなった。ー時代だといえば、それまでのことだが、生活環境が物的に豊かになり、テレビをはじめとする娯楽が横溢して、いつも気が散るために、人々がつまらないことに追われて、忙しすぎる生活を送るようになったからにちがいない。幕末はもちろんのこと、戦前まで貧しかった時代には、人は独りでゆっくりと考え、落ち着いて読書する時間が、ふんだんにあった。だから自分の手で、しっかりとした自分を創ることができた。今日では、人がパソコンや、携帯電話、ビデオや、デジタルカメラなどのつまらない道具によって四六時中、振り回されているために、人が主役の座から追われた人間の歴史で不必要なものが、これほど支配的な力を持ったことはなかった外から操られて生きているために、人の自主性が失われた物質的な豊かさが増大するにつれて、世界のどこへ行っても、人が小粒になった。人が薄っぺらになっている


豊かさが増えるにしたがって、人が利己的になったー。貧しかった時代には扶け合わねばならなかったので、人は利他的にならざるをえなかった。長が屋の情が失われた。人と人とのあいだの絆は、多分に経済的な環境によってつくられるのだろう。主婦が隣家に味噌、醤油を借りにゆくこともなくなった。都会では隣近所という言葉が死語になった。ほどなく隣人という言葉も、日本語から消えることになろう。


家族といえば身を寄せ合って生きていたのに、家族が団欒することがなくなった。このごろでは家族の触れ合いを妨げるために、孤立した子供部屋をつくるのが当たり前のことになっている。子供が部屋から出てこないから、座敷牢をつくるようなものだ。子供の心が歪んでしまうのも、仕方あるまい。ひとりで食事を摂る子供が多いために、「個食」という言葉があるという。個食とか、個人主義は、「孤」の字を使うべきだろう。文部科学省は子供の個性を伸ばす教育に力を入れているが、競争社会を生き抜くことができる、器量が狭い人間を育成しようとしている。それだったら孤性と書くべきだ。それよりも、人に恋する、人懐っこい子をつくるべきだ。


老人は粗末にされるから、古老に敬意が払われることがなくなった。古いものは役に立たないという進歩的な考えが、横行している。だったら「孤老」と、呼ぶべきだ。進歩に反対したい。病んだ親の面倒をみなければならないというと、「何と不幸せか」と、同情される。まるで妖怪の会話のようだ。公的機関が世話をするのが、高度福祉社会ということらしいが、「福」の字を使うことをやめてほしい。親を粗末にする者が、国や、人類を愛することができるはずがなかろう日本はこのままゆけば、かならず滅びる



togyo2009 at 18:58│Comments(0)TrackBack(0) 教育の心をまもる 

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