国家存立の危機を生き抜く道(下)礎となる中川昭一の核議論〈OBが語る なぜ朝日の偏向報道はやまないのか〉(承)広岡元朝日新聞社長が指示したもの

October 07, 2018

〈OBが語る なぜ朝日の偏向報道はやまないのか〉(起)戦後左翼社会の鏡〜村山事件の経緯

≪徹底討論≫OBが語る なぜ朝日の偏向報道はやまないのか 『月刊正論』 200811月号

https://ironna.jp/article/515

 

稲垣 武(元「週刊朝日」副編集長)/本郷美則(元朝日新聞研修所長)/聞き手 石川瑞穂(元産経新聞論説委員)

 

朝日は戦後左翼社会の鏡だった

 

稲垣 ‐朝日新聞は戦後民主主義の守護神であることを自任しているわけです。その戦後民主主義がもたらした歪みはどこからどう来たのか。それはそっくり朝日の論調に反映されているといっていいと思うのです。マスコミとは社会の鏡だという言い方がされます。しかし、戦後民主主義が左翼に牛耳られ、歪められてきたことを考えると、朝日新聞とは日本のいわゆる左翼社会の鏡でもある。左翼と朝日は互いに影響し合って動いているともいえる。では、互いに共鳴しあう左翼とは何だろうか。容共ではあっても、必ずしも共産党ではないのです。共産党のようにがっちりと構築された理論を持っているわけではない。むしろ、ムードに基づくもので、その方が格好いいと考えるモードと言っても良い。つまり一種の心情左翼的なところがあるね。

 

本郷 朝日が最初に左翼的なカラーを明確に出すのは終戦直後です。昭和2010月、朝日社内では十月革命と言っているのですが、要するにそれまで地下に隠れていた聴涛克己氏(のち日本共産党中央委員)や、後年、「私はマルキストだった」と自著で告白した森恭三氏(のち論説主幹)らが素顔で表に出てきて、理論武装を支えた

稲垣 渡邉誠毅氏(のち社長)もそうだよね。

本郷 彼は、たしか横浜事件で辞めた。

稲垣 いや会社を辞めたのに、戦後復帰したんですよ。

本郷 田中慎次郎氏も復職してくる。のちに出版局長として『朝日ジャーナル』を創刊した人物です。

 

稲垣 彼はゾルゲ事件に連座したんですよね。

本郷 そう。彼はゾルゲ事件のときに政経部長だった。不思議にもゾルゲ事件で起訴されてはいないが、大阪経済部の出身ですよね。田中氏は広岡知男氏や森恭三氏と一緒に大阪経済部の出身でした。大阪編集局というのは、権力中枢の東京から遠く、戦前からいささか反体制的な雰囲気があったようです。昭和11年に、当時の東証で朝日記者が絡んだ不祥事が起こり、東京の経済部改革が迫られたときに、大阪から田中氏が広岡氏やらを率いて東京へ転じているのです。そのころの東京本社には、尾崎秀実もいました。彼は、その後、社を辞めて満鉄で働いているときに、ゾルゲ事件を起こすわけですが、尾崎に「御前会議」の最高機密「南進」を耳打ちしたのが、部下から情報を仕入れた田中でしたそういう人たちが戦争中は社内に潜んでおり、終戦を機に一斉に表に出てきたGHQの公職追放令は21だったが、その前年、朝日は独自に当時の編集幹部や村山家、上野家の当主たちを追い出して、21年春に重役を公選するわけですこれは組合が選挙して選ぶということです。社長には、まだ編集局次長だった長谷部忠氏が就任するわけですが、一種の組合管理に近い形になった。これが、朝日に赤い旗が立った最初だと思う。だけど、重要なことは、こうした流れの底流は、戦前からあったということですよ。そして占領政策を推し進めたGHQにも革新派がいて、これと呼応して朝日の左傾路線が始まったというわけです。

稲垣 革新派とは当時の民政局や社会教育畑に多かったみたいですね。

本郷 そう。中にはニューディール政策を進めた連中もいたわけですよ。

稲垣 ニューディール派でもニューディール左派だから。

本郷 アメリカで夢が叶わなかった連中といっていい。

 

稲垣 もともと彼らは容共的社会主義者なんだよ。共産党とそう変わらない共産主義というとアメリカ国民には生理的な嫌悪感があるでしょう。だから「リベラル」などとごまかして、それでいろんな政府機関に潜りこんだわけで、なかでも相当に過激な連中が日本へなだれ込んできたマッカーサー司令部の社会教育畑に潜りこんでいたわけです。

本郷 それでこの連中は、日本の民主化に新聞を使おうと目論んだ。戦争中に抑圧された連中を表に出し、新聞を先兵にして、日本のいわゆる民主化を進めていくわけです。読売は読売で激しい争議があった。あれは鈴木東民氏に率いられたけど、鈴木自身も戦争中は朝日の在欧通信員です。

本郷 ところが世界情勢は劇的に変わっていく。昭和
213月には、早くもチャーチルが「鉄のカーテン演説」をし、中共が蒋介石をどんどん負かしていく。さらに朝鮮戦争が兆す。そうすると、米国はガラッと占領政策を変えるわけです。それまで戦前戦中の指導者を公職追放で斥けていたのに、一転してレッドパージに乗り出す。その際、教育界の次に狙ったのが新聞業界だった追放者が最も多かったのはNHKの119人、次いで朝日の104人だった。手法としては、職場内の密告を推し進めた。長谷部社長は苦汁を飲まされ、GHQに「やらないと朝日新聞を潰す」とまで強要されるわけです。彼が最も懸命に守ったのは笠信太郎氏(論説主幹)だったと言われています。いったん表舞台に現れて、労組を母体に花形となった広岡氏、田中氏、森氏といった連中も、ここで本来の職場に戻されてしまう。そして、公職追放令が解除され上野精一氏も村山長挙氏も社に復帰してくる。もっとも、二人とも社主家の二代目で「よきにはからえ」の体質は否めなかった。

稲垣 正力氏(松太郎・読売社長・第一次岸改造内閣で科学技術庁長官)のような指導力がなかったんだよなあ。

本郷 ‐それで結局‐、比較的若く経営能力のある連中が、昭和2324年から先、戦後の新聞ブームを築いていくわけです。業務系は永井大三氏(のち常務)という大物、編集系統は信夫韓一郎氏(のち専務)が両輪になり、昭和30年代の初めまで戦後の黄金時代を築いていくわけです。

石川 村山さんの時代ですね。

 

転機となった村山騒動

 

本郷 というより「信夫・永井」の時代。だから終戦直後、いったん左翼が乗っ取ったけど、それはひっくり返された。その連中は元の現場に戻ったわけです。でもね、戦後の企業に共通した悩みとして、能力の高い人ほど多く戦争で失っているわけですね。だから、現場に戻された左翼でも、現場を握る強さで、どんどん出世の階段を上っていくわけですよ。

石川 それが広岡さんであり、森さんであり、渡邉誠毅さんだということですね。

本郷 ‐それに本社の編集局といっても、当時は非常に人も少なかった。そして、昭和34の暮れ、96時間のストライキ「九六スト」がある。「60年安保」の前年ですからね。この前後から、社内で再び左翼が跳梁跋扈し始めるわけです。

 

本郷 現実に、30年代の初めから、紙面がひどく左傾化していった。とくにひどかった盛岡支局などは、社内でも「朝日新聞の赤旗県版」と呼ばれるぐらいの左傾県版を作っていました。のちの北朝鮮報道で有名な岩垂弘記者たちがいたころです。

稲垣 社会党の岩垂寿喜男元衆議院議員の弟かな。

本郷 「長野の秀才兄弟」なんて言われていたが、彼の報道は、北朝鮮べったりだった。

 

本郷 ところが「九六スト」の直後に、専務の信夫さんがスパっと辞めるわけです。自分で役員定年制を決めた手前もあったが、左を抑え切れなかった責任を取ったようなものだったそして、「自分でやってみたい」と意欲を燃やした村山長挙社長が親政を始め、まず左翼征伐をやろうとした。そのとき東京編集局長に起用したのが、編集局次長だった木村照彦氏でした。九六スト、それからそのすぐ後の「60年安保」のときに、広岡氏はヒラ取締役で東京編集局長だった。村山社長は、その広岡氏を快く思わず、紙面の左傾を問うて九州に飛ばした。当時は西部本社担当と言ったが、この人事について、森氏は『私の朝日新聞社史』という回想録の中で、「広岡氏が西部に追われて、社に暗黒時代がやってきた」と書いている。暗黒時代とは村山親政を指し、それに付き随った木村氏についても悪口を書いている。木村氏は、かねてから右翼系政治結社黒龍会と関係があり、思想的にはむしろ中道右派だった。ところが、村山親政で致命的な失政が起こってしまった。村山社主家に、公私の別をわきまえぬ行為が重なったのです。そうして、昭和38から、お家騒動が始まる。すったもんだのあげく、九州に流されていた広岡氏が、391月20日の取締役会で村山社長解任の動議を出し、それが通ってしまう。彼はヒラ取締役から一足飛びに専務になり、その翌日、大阪経済部時代からの刎頸の友、森氏を論説主幹に据えるわけです。ここからずっと左翼路線が固まっていく。

 

稲垣 この「村山騒動」が、一つの転機になったんだ。確かにそれまでの朝日新聞は、左旋回してはいたけれども、それは社会全体が左がかってたから、その反映でもあった。そのころの朝日の社内は、言論はかなり自由だった。実際、社内にはいろんな人間がいたのです。‐ところが、村山騒動後、いわゆる広岡体制になると一変するのです。というのも広岡氏の権力基盤は極めて脆弱だった。支配株は50%に満たない。それで組合員の持ってる株券を一所懸命かき集めたりした。

本郷 株式受託委員会ですね。これは、実は法的な資格を持っていなかったのです。法人格もなく、株だけかき集めるという体裁上の組織でしてね。しばしば職権まで使って株を広岡政権に集め″翼賛体制を作った。

稲垣 組合のボスを通じても集めたんだよ。そこで組合との腐れ縁ができたわけだ。‐そういうことで、広岡体制になってから、人事も連中が完全に握ったもんだから、左がかったやつばかり入れるようになった。つまり、明々白々の共産党員であると、親父もそうだし、共産党一家みたいなやつの子弟を入れたり、NHKの番組改変問題で話題となった本田氏のような記者も入れているわけですよ。

石川 ああ、本田雅和さん。

稲垣 ああいう記者を平然と入れているわけです。だから、事件が絶えないわけです。

 

 

この対談では「村山騒動」と表記されていますが、Wikipedia.では「村山事件」と表記されています。そして「朝日新聞社で196312月に表面化した社内紛争」と解説されています。

その経緯について、Wiki.を参照します。

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19633月、朝日新聞社と東京国立博物館が共催した「エジプト美術五千年展」の場内で、朝日新聞社長夫人(村山藤子)が昭和天皇夫妻に近づこうとした際、宮内庁職員に制止されたことで転倒して骨折したとし、同社編集部に宮内庁糾弾キャンペーンを指示したものの、編集局は調査の結果、夫人の言い分は誇張だと判断した。このため、19631224日の朝日新聞社定時株主総会で、同社の株式40.5パーセントを保有する大株主の村山社主家は、販売部門の最高責任者である永井大三常務取締役・東京本社業務局長を解任した。これに対して同社の業務(販売、広告、経理)関係役員らが全員辞任し、全国の新聞販売店が朝日への新聞代金納入をストップした。

 

紛争は編集部門にも拡大して、村山長挙社長が翌1964110日に木村照彦取締役・東京本社編集局長を北海道支社長へ左遷する辞令を発すると、木村編集局長は北海道への赴任を拒否した。村山社長は木村編集局長の後任人事の辞令も発令したため、東京本社では編集局長が2人いる異常事態となった。 そのため同120日の役員会で村山社長は辞任し、西部本社担当に左遷されていた広岡知男ら4人の取締役が代表取締役となった。後任社長には同年1117日、全日空相談役となっていた元常務取締役で朝日新聞社顧問の美土路昌一が就任し、同日付で専務取締役に昇格した広岡が、森恭三論説主幹らと組んで実権を握った。広岡は1967721日に社長となり、朝日新聞社の経営から村山家を排除する路線を推進した。

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togyo2009 at 10:36│Comments(0) 事件の深層 

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