南知隊 平成27年3月 記事保存(2)週刊新潮「朝日新聞の戦争責任」 他天保元年(1830)庄内藩に清河八郎生まれる

January 19, 2019

南知隊 平成27年3月 記事保存(3)「虚報の真犯人はエドガー・スノーだ」鈴木明氏 他

「虚報の真犯人はエドガー・スノーだ」鈴木明氏(1)「アウシュヴィッツと南京の違い」の一節より
 2015.03.14.16:06
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アウシュヴィッツと南京の違い

「南京大虐殺」という言葉を、いまでは老いも若きも、日本人の中で知らない人はいない。ー中国、韓国をはじめとして、多くのアメリカ人、ヨーロッパ人でも、知的階級に属する人なら、その名前ぐらいは知っている。「南京大虐殺」は「アウシュヴィッツ」と並んで、第2次世界大戦で起ったできごととしてはズバ抜けて世界中の人によく知られている。日本とドイツの恥部に当たる事件なのである。

ところが、日本には中国人に対する差別というものが、白人社会におけるユダヤ人に対するもののように存在していたわけではなかった。「中国人だから殺してもいい、或いは迫害してもいい」という考えは、一般日本人の中にも、或いは政府の政策としてもなかった。それにもかかわらず、盧溝橋事件をきっかけとして「日中の全面対決は、日本の強引な侵略的意図によって始まった」という風に日本人は信じている。ーそして、この戦いはやがて上海に「飛び火」し、上海戦をへて、日本軍は「南京攻略」へと、戦いを進めていった、というのが、一般の人たちが考える「日支事変」(或は、日中戦争)のはじまりである。

1972年、僕が始めて「"南京大虐殺"のまぼろし」という作品を書いたときにも、基本的にはこのような認識の上に立っていた。しかし、1980年代の後半になり、日本人の中国渡航が比較的容易になると、僕もその中の1人に交じって、まず上海へ、そして南京へと旅行するようになった。無論、いわゆる「南京大虐殺記念館」(1985年完成)にも行ったが、建物はアウシュヴィッツに対して、余りにもお粗末であり、展示品は「向井 野田両少尉(当時)」の事を書いた昭和12年の「東京日日新聞」と、郭岐という署名のある「西京日報」という新聞の一部分が展示されているだけで、他にはこれほどというほどの印象的な同時代記録が並べられていたわけではなかった。

「向井 野田両少尉」については、僕は1972年に60貢近くの貢数を割いて、「向井少尉はなぜ殺されたか」を書いて向井少尉の無実を立証したつもりだったが、それは、1972年は文化大革命のさなかであり、いまや文化大革命が完全否定されているとき、まさかあの話がまだ中国の中に残って「虐殺記念館」にあのような形で展示されているとは考えてもいなかったので、何とも複雑な思いを持ったことは事実である。

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「虚報の真犯人はエドガー・スノーだー私が「新"南京大虐殺"のまぼろし」を書いた理由」鈴木明(「正論」平成11(1999)年7月号)
http://www.history.gr.jp/nanking/books_seiron9907.html
本編は↑でご一読ください。

「百人斬り」についての言及は、当時の大宅壮一ノンフィクション賞の選考委員全員が「百人斬り競争」は真実でなかったことを認め、作品を絶賛し、1973年に第4回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しました。(Wiki. 参照)
文芸評論家・故平野謙氏は「私はその克明な追跡ぶりに感嘆し、たとえば、南京虐殺事件の責任者の一人として処刑された向井少尉の無実などについては、一読者として肯定せざるを得なかったまでである」と評価しています。


「虚報の真犯人はエドガー・スノーだ」鈴木明氏(2)「剣橋中華民国史」を読む
2015.03.14.16:09
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中国の本にみる数々の新事実

中国旅行をするようになって、改めて目についたのは、その刊行されている本のバラエティの豊富さであった。ーその中で「剣橋中華民国史」上下巻2千数百頁(1991年中国版発行)という巨著があった。「剣橋」とは、ボストンにあるハーバード大学の場所を指し、主編者は中国研究家なら誰もが知っている、巨人中の大ボスであるジョン・K・フェアバンク(費正清。文化大革命中の中国を礼讃した)である。


僕はその中で、ロイド・イーストマン(イリノイ大学教授 中国現代史専攻)の書いた「流産した革命・国民党統治下の1927〜37年」を読んでいるとき、ふと注目すべきいくつかの点に気がついた。

例えば盧溝橋事件について、「当時、北京の近くにいた日本軍隊の数は5千人〜7千人だが、その展開、配置された場所は、盧溝橋に備えたようなところではなかった。中国第29軍は少なくともその10倍はおり、この事件が日本側によってあらかじめ計画された事件であるとは考えにくい」

「蒋介石がその高級官僚をすべて集め、全面抗戦を決定したのは、8月7日のことである。蒋介石はその生涯における、最大にして後に議論を呼んだ、大きなギャンブルに打って出た。ー蒋介石は日中の戦いの主戦場を、華中かた華南、つまり上海に移すことを決心したのである」


イーストマンはアメリカ人だが、この本が中国で正式の検閲を受け1万9千部もの発行が許された、ということは、中国の改革開放がそれほど進んだ、ということであり、僕が假に「中国で出版された本による」と書いても、それは決して誤りでないことを意味するであろう。そして「中国で許可を得た」この本は、「南京占領に際して、日本軍は中日戦を通じて、最も卑劣な暴挙、南京大虐殺を行った。およそ7週間の間に、日本軍は最低4万2千人の中国人を殺害し、およそ2万人の女性が強姦されたが、真の中日戦争は、この時から始まったのである。」とも書かれている。僕はこれらの文章を読みながら、中国で発行された本の中で、はじめて「4万2千名」というような細かい数字が出てきたことに注目した。

そして、日本人が日頃から考えている「日中戦は、昭和12年7月7日、盧溝橋事件」からはじまったのではなく、8月7日、蒋介石によって決断されたのであり、また「上海戦」「南京戦」は別個に存在する戦いではなく、あくまでワンセットの戦いとして見るべきものである、ということも理解した。
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「虚報の真犯人はエドガー・スノーだー私が「新"南京大虐殺"のまぼろし」を書いた理由」鈴木明(「正論」平成11(1999)年7月号)
http://www.history.gr.jp/nanking/books_seiron9907.html
本編は↑でご一読ください。

やんわりと解説してみます。
日本でも購入できる「剣橋中華民国史」という大著の中のイーストマン教授の著述「流産した革命ー」に蒋介石率いる中国国民党軍の真相がありました。
そして同誌の他の著述にいわゆる南京大虐殺が出てきているようです。
 

「虚報の真犯人はエドガー・スノーだ」鈴木明氏(3)中国側戦記を読む
2015.03.14.16:12
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ー多くの中国側戦記によっても、実際に南京で戦った中国軍の大半は、疲れ果ててやっと南京にたどり着いた軍隊であり、その中の約4分の1は、鉄砲の撃ち方も知らない新兵(中国兵は、すべて金によって仕方なく軍に連れてこられた貧しい傭兵である)であることもわかった。
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「虚報の真犯人はエドガー・スノーだー私が「新"南京大虐殺"のまぼろし」を書いた理由」鈴木明(「正論」平成11(1999)年7月号)
http://www.history.gr.jp/nanking/books_seiron9907.html
本編は↑でご一読ください。

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ー最高司令官の唐生智は、戦後毛沢東の側につき、湖南省副省長になっているが、晩年に書いた「南京戦」の回憶録の中で「南京はそもそも守るべき都市ではなかった」といっており「あの戦いは、蒋介石が日本軍を利用して雑牌軍(蒋介石直系軍以外の軍)を整理しようとしたのだ」とまで言い放っている(唐生智は、文化大革命のとき、紅衛兵のつるし上げにあって、それが直接の原因となって死亡した)。
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新「南京大虐殺」のまぼろし(2)中国の本にみる数々の新事実/南知隊
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-130.html

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1990年代に入って、中国でも「売れない本は出さない」という市場原理が入ってきたからであろうか、旧国民党時代に関する本が、書店の主要な部分を占めるようになった。特に、国民党の特務のものや、1985年以前「大漢奸汪精衛(兆銘)」という名で呼ばれて、多くの読者を獲得した「漢奸もの」も1995年以降のものは、全貢のうち汪精衛の業績を強調する部分が圧倒的に多く「漢奸」という文字は、全一冊の中でわずかに1個所か2個所出てくるに過ぎない。世情は、間違いなく急激に変わったのである。
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「虚報の真犯人はエドガー・スノーだ」鈴木明氏(4)中国人の知識人も知らなかった大虐殺
2015.03.14.16:43
新「南京大虐殺」のまぼろし(3)中国人の知識人も知らなかった大虐殺(上)/南知隊 2011.11.11
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-131.html

新「南京大虐殺」のまぼろし(4)中国人の知識人も知らなかった大虐殺(下)/南知隊 2011.11.15
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-132.html

「虚報の真犯人はエドガー・スノーだー私が「新"南京大虐殺"のまぼろし」を書いた理由」鈴木明(「正論」平成11(1999)年7月号)
http://www.history.gr.jp/nanking/books_seiron9907.html
本編は↑でご一読ください。

 
「虚報の真犯人はエドガー・スノーだ」鈴木明氏(5)事件の鍵を握るエドガー・スノー
2015.03.14.16:49
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事件の鍵を握るエドガー・スノー

これは、まぎれもない事実で「東京裁判」であれだけ強いショックを日本人に与えた大事件を、中国人の、それも知識階級エリートに属する王若望氏のような立場の人が「戦争中は知らなかった」というのは、普通の感覚でいえば不自然である。


現に「南京大虐殺」という言葉が出れば、それに反応するように、第一次資料として出てくるのはオーストラリア人ティンパーリーが1938年に編集完成して出版した「日人在華的恐怖」或いは「中国人目賭中之日軍暴行」原文は「What war means: The Japanese Terror in China」日本語訳文として通常使われるのは「中国に於ける日本軍の暴行」で、僕もこの本の中国語訳原本は、エール大学の王正廷(1937年当時の、駐アメリカ大使)コレクションの中で発見しており、扉のところには、たしかに「1938年 漢口」の字が見える。 しかし、この本も、どこまで中国人に読まれたであろうか。

当時の一般的中国人は、まず字が読めず、読めても面白い小説本以外には殆ど売れることはなく、「日本軍の暴行」が何部出たかは不明だが、この本を出版した「庁」にいた郭沫若は、その日記の中で「不幸にしてこの本の多くが、長沙の大火で焼かれてしまったが、それでも探してみれば、いくらかは残っているかも知れない」と書いているところを見ると当時、4億数千万といわれた中国人の中でこの本を見つけるのは、砂丘の中に落ちた1円玉を探すほどの困難さであったと思われる。王若望がこれを知らなかったとしても、知らない方がむしろ自然である。

しかし、それはとんでもない錯覚である。瑞金は江西省の南、福建省との境にある仙霞嶺山脈の中腹にある貧しい町で、江西省はその北側に石炭のとれる坑山があったため、わずかにこの付近にまで鉄道は通っていたが、そこから瑞金までは、標高千メートルもある山々を越え、更に標高二千メートル近くの高地まで4百キロもの道を歩いてゆかなければならない。ー今回僕が書いた「新"南京大虐殺"のまぼろし」の主要登場人物の1人である潘漢年は上海から瑞金にゆくとき、まず便船で香港に行き、そこから更に船で汕頭(スワトウ)に逆行し、韓江を4百キロもさかのぼって、その上流から仙霞嶺山脈を越えて瑞金に着いている。瑞金と上海とを結ぶ唯一の線は無線による通信だったが、そのために上海の共産党地下党員は、いつも暗号表を持っていた。一般市民が「瑞金で共産党がどのようにしているか」などというニュースは、実質的には上海では誰も知らなかったのである。このようなニュース伝達の困難な状況は、日中戦が始まった1937年当時でも、基本的には変わっていない。

但し上海戦という舞台だけを見れば、日中戦を行った「上海」という場所は、いまわれわれ日本人旅行者が普通に「上海」と呼んでいる場所とは全く違っていた。上海市の中心部は、当時フランス租界、共同租界に分かれていたが、共同租界は、俗にイギリス租界と呼ばれていた地域と、上海北側に流れていた蘇州河(現在、呉淞江)を南北にわけて、その北側が俗にいう「日本租界」であった。そして、フランス租界は美しい石畳みとアカシアの並木に包まれており、下水道もあり、水道の水源地は黄浦江であったのに対して「日本租界」の大部分は泥道であり、雨が降れば足首までぬかるんでしまうという悪条件の下にあった。

しかし、水道のある場所は、大変少ない。それも、フランス租界の下水道から流れ出る汚い水を含んだ蘇州河を水源として利用しているので、真夏に行われた上海戦の日本軍の戦いは、文字通り泥沼との戦いであったことがわかる。一番重要であったのは、日本租界内で行われている「日中の戦い」で、双方の撃ち合う弾丸は、イギリス、フランス租界の中に絶対に落としてはならない、ということであった。上海の中国人市民、イギリス人、アメリカ人などは、蘇州河の「イギリス側」から日中の戦いを「見物」していて、中国側将官の中には、英仏租界区の中にいて、電話で蘇州河北部で戦っている部下に指令を出していた者もいる、と、新しく出版された中国側の本には書かれている。

当時、この「上海戦」を、競馬場(現・市政府及び博物館)近くにある24階建の国際飯店の屋上から眺めていた欧米人の中の1人に、エドガー・スノーがいた。スノーは後にこの戦いの様子を、「それは世界最大のショウでもあった。いま思い出してみても、それはヒトラーの電撃戦ですら思いもおよばなかったほど、ユニークなものであった。何と百万に近い人間が参加する殺人試合を、何の心配もなくリングサイドで眺めることのできる大都会は、もうどの世界にも、二度とは出現しないであろう」と書いたのである。この文章を書いた本「アジアの戦争」は、日本が真珠湾攻撃を行った同じ年の春、つまり半年余り前に、アメリカの大出版社であるランダムハウス社から出版され、一部の知識人を中心にして、アメリカでは強い反響があった。ーアメリカに帰っていたスノーは新聞記者たちと何回もインタビューを行い、「ヨーロッパで起こっている事件は、やがてアジアに波及するであろう」「米日戦は、少なくとも1年以内に、必ず起るであろう」と、くり返しいい続けた。

無論大部分のアメリカ人は中国のことなどにはほとんど関心はなく、この年の3月、ルーズベルトは「武器貸与法」に署名し、日本流にいえば「金(武器)は出すけれども、人は出さない」という行動にふみ切ったが、その貸与した武器の97パーセントまでは対イギリスであり、当時、アフリカ系アメリカ人(黒人)のことなど眼中になかったルーズベルトは、中国に対しても同じように、パール・バックの描いた「大地」(ノーベル文学賞受賞作)の「チャイナ」のことは知っていても、エドガー・スノーが頭に描いていた「毛沢東・蒋介石の連合勢力による、日本との戦い」には、それほどの関心はなかった。

しかし、これも僕が感じていた「錯覚」の1つだが、エドガー・スノーのこのような言動は、日本には全く伝えられなかったし、日本人の誰1人として、スノーの「アジアの戦争」が出版されたことに対しての重大な意味を理解した人もいなかった。その最大の原因は、スノーの「アジアの戦争」が、日米戦のわずか数ヶ月前に出版され日本語としては全く伝えられなかったという偶然であろう。僕は今回「新"南京大虐殺"のまぼろし」を書くに当たって、その第1頁目の扉に当る部分に、本文より少し大きな活字で、こう書いた。


「日本、中国、アメリカという、東アジアだけではなく、二十一世紀の世界に最も大きな影響を与えるかも知れない重要な三つの国の中で、いまも喉もとに突き刺さったままでいるような大きな歴史的課題が、まだ未解決のままである。いわゆる"南京大虐殺論争"である。この不可解な事件の鍵を握っていた人物は一体誰なのか、僕は長い間考え続けてきた。そしてその人物こそは、実は二十世紀ノンフィクション文学の中でも特に名作として知られる"中国の赤い星"を書いたアメリカ人作家であり、第二次大戦のときには、アメリカ大統領ルーズベルトと数回にわたって、2人だけで、対中、対日に関する話し合いを持った著名なジャーナリストでもあった、エドガー・スノーであることを、僕は最近まで気がつかなかった」

スノーが日中戦のとき南京に行ったことは一度もなく、第一次資料を残したこともないことはよく知られている。 それにもかかわらず敢て僕がこう書いたプロセスが今回出版した「新"南京大虐殺"のまぼろし」に、5百頁以上の内容を必要とした原因であり、ここでは到底このことにふれることは出来ないので、すべて割愛することを許して頂きたい。
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「虚報の真犯人はエドガー・スノーだー私が「新"南京大虐殺"のまぼろし」を書いた理由」鈴木明(「正論」平成11(1999)年7月号)
http://www.history.gr.jp/nanking/books_seiron9907.html
本編は↑でご一読ください。


「虚報の真犯人はエドガー・スノーだ」鈴木明氏(6・完)20世紀の終わりに
2015.03.14.18:16 
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日中米で話し合いの第一歩を

僕は王若望が、中国人でありながら「南京大虐殺」について、戦争中は何も知らなかった、と書いた。考えて見れば、毛沢東も周恩来も、国民党軍内の最高の地位にいた何応欽も、長期間にわたって日記を書き、「南京戦」のとき、軍事委員会委員長の職にあった徐永昌も(徐永昌は、東京湾内ミズーリ号甲板で中華民国を代表して日本の降伏文書にサインした)南京戦当時副参謀長で、日本軍に対しての感想文を残した白崇禧も、その他多くの著名な高官を含めて「南京大虐殺」にふれた中国人は、1人もいなかったのである。

「南京大虐殺記念館」に展示されている同時代資料の中で唯一と思われる、台湾で「南京大屠殺」を書いた郭岐は、その文章の中で「南京大虐殺を証言する者がなく、私は当時新疆ウイグル地区に勤務していたが、裁判のためにわざわざ南京まで呼び戻され、法廷の証人となったのである」と書いている。

「南京大虐殺」の火の元は、中国よりも、むしろアメリカの中にある 、という考えはその頃から僕の中に芽生えてきたのである。僕が今回「何故いま"南京大虐殺"について考えようとしたのか」は「南京大虐殺論争」は、何とか「20世紀」といわれている期間のうちに、その決着とまではいかなくても、せめて日中米の間で、よりオープンな形で「歴史を反省」し、「南京大虐殺とは、本来はこういうものであった」ということを話合い「南京大虐殺記念館」を「平和記念館」と名称を変えてほしい。

ーいまアメリカでも「南京大虐殺」が話題になっている、と伝えられている。南京の「記念館」の方も「拉貝(ラーべ)」という新しい人物が参入し、まるで「拉貝記念館」であるかのように、ラーべの顔写真は特別の額縁に飾られ、7百20頁にもなる「拉貝日記」が、うず高く積まれている。僕は率直にいって、このような状態を正常な状態とは思えない。

このテーマを中心にして今回書いた新しい本が、1999年の半頃になってやっと発表されるようになったのは全く偶然のことだがそれだからこそ、この偶然の機会を僕は無駄にはしたくない。
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「虚報の真犯人はエドガー・スノーだー私が「新"南京大虐殺"のまぼろし」を書いた理由」鈴木明(「正論」平成11(1999)年7月号)
http://www.history.gr.jp/nanking/books_seiron9907.html
本編は↑でご一読ください。

鈴木氏は1作目にて日本軍の暴行に関する報告や記事などをまとめた『WHAT WAR MEANS』(戦争とは何か)を編集したハロルド・J・ティンパーリが中国国民党顧問の秘密宣伝員であったと結論付けました。(Wiki. 参照)
そして新版ではエドガー・スノーこそ欧米で大虐殺を喧伝した犯人だと確信し、だからこそ関係国間での対話を望み、その布石となるべく資料に忠実な論証をおこないました。

その姿勢は、1作目の後書きでも「もし請われて、僕がどうしても「南京事件」について記述しなければならないとしたら」「中国側に、軍民合わせて数万人の犠牲者が出たと推定されるが、その伝えられ方が当初からあまりに政治的であったため、真実が埋もれ、今日に至るもまだ、事件の真相は誰にも知らされていない……」と締めくくています。
また、『諸君!』2001年2月号では、「まぼろし派・中間派・大虐殺派 三派合同大アンケート」と題するアンケートを行い、23人の回答者の一人である鈴木氏は『「南京大虐殺」のまぼろし』について論じながらも「南京大虐殺はまぼろしだった」と結論つけてはいない、「南京大虐殺」の真実については不明なままと述べています。

鈴木明氏死去 ノンフィクション作家【共同通信】2003/07/26
http://www.47news.jp/CN/200307/CN2003072601000436.html
鈴木明氏(ノンフィクション作家、本名今井明夫)22日午後3時4分、虚血性心不全のため東京都目黒区の病院で死去、77歳。東京都出身。


鈴木氏は21世紀を迎えて2年を待たずにこの世を去りました。
はや12年の年月を迎え、未だ南京事件は国際社会の中に引っ張り出され、政治的カードとして扱われています。
歴史の真実を突き詰めることなく、言語だけが情報として浮遊している現状は現実離れしています。
呪縛に捕われた日本近代の事実と情報の乖離を埋める作業こそが、我々南知隊が受け継ぐ使命です。


togyo2009 at 15:56│Comments(0) 共同管理ブログ「南京の真実を知らせ隊」 

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