南知隊 平成27年3月 記事保存(3)「虚報の真犯人はエドガー・スノーだ」鈴木明氏 他祝う 平成三一年建国記念の日

February 10, 2019

天保元年(1830)庄内藩に清河八郎生まれる

庄内藩は出羽国庄内(現山形県鶴岡市)を領とした譜代大名・酒井氏(徳川家康の四天王の一人である酒井忠次からなる譜代の家柄)の藩であり、正式には鶴岡藩です。戊辰戦争の際に官軍と戦い、連戦連勝しながらも、会津藩の降伏などで勝ったまま降伏した歴史があります。明治に入って大泉藩と改称し、藩庁は鶴ヶ岡城、枝城として酒田市に亀ヶ崎城を配置していました。

 

関ヶ原の戦い(1600年)後、現在の山形県の大半を領有した最上氏の藩領が4分割され、信濃国松代藩より酒井忠勝が138千石の庄内藩主となりました。庄内平野は米所であり、酒田(現在の山形県酒田市)は北前船の寄港地として栄え、財政的にも恵まれていました。

 

庄内の藩校「致道館」は寛政十二年(1800)、九代藩主・酒井忠徳が設立し、十代藩主・酒井忠器は「藩政に学問より成り、学問の修身の場は藩校、藩校を藩庁(藩の役所)とすべし」と説く政教一致の趣旨より、致道館の講堂を役人の政務の場としました。さらに文化十三年(1868)、忠器は鶴ヶ岡城三の丸に致道館を拡大移築し、藩庁の機能もここに設置しました。

 

幕府の学問所(昌平坂学問所)では朱子学以外の学問を禁じていましたが、庄内藩では教育の主軸を徂徠学に定めていました。徂徠学とは、荻生徂徠が十八世紀前半に提唱した学派であって古文辞学とも呼ばれます。その特徴は、中国の古典や聖賢の文に直接ふれ、聖人の道を明らかにしようとしたところで、徂徠は8代将軍・徳川吉宗にその著書『政談』を献上するなど経世論(政治学)にも重点を置いていました。

 

文化二年(1805)、庄内藩は「被仰出書」という形式で致道館の教育目標を明らかにしました。「国家(庄内藩)の御用に相立候人物」、具体的には「経術を明らかにし、その身を正し、古今に通じ、人情に達し、時務を知る(儒教の文献を解き、品行方正で歴史に詳しく、人の情けを知り、的確に政務を執る)」人材育成です。

 

関川夏央氏『回天の門』書評より

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広い平野部を持つ羽州荘内地方の物成りはよい。だがそれは「一年の三分の一が風雪に閉ざされる土地」だからこその豊かな水のおかげである。清川村はその荘内領の東端、最上川が平野に出る手前の咽喉部にあり、荘内領から江戸への主出口である。参勤交代の行列も清川から隣藩新庄領までは舟を仕立てる。

 

清河八郎は、その地で酒造業を営む豪農斎藤家の長男として天保元年(一八三〇)に生まれ、元司と命名された。斎藤家は藩から十一人扶持で遇されているものの武士ではない。すなわち藩の後ろ楯を持たぬまま、自らの弁舌と剣を恃んで世に驥足を展ばすべくつとめる清河八郎の三十三年の生涯を、藤沢周平は千百五十枚分の紙幅を費やして描いた。

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清河八郎は天保元年(1830)十月十日出羽國東田川郡清川村の郷士・斉藤豪寿の子として生まれました。本名は斉藤正明です。7歳より父・豪寿より孝教の素読を受け、10歳になり鶴岡の伊藤鴨蔵から学問を、清水郡治に書を学びますが、従来の横着悪童気質よりで塾を追われます。14歳からは清川関所役人・畑田安右衛門に師事し、論語・孟子・易経・詩経・文遷を学びます。そして弘化3年(1846)には酒田の伊藤弥藤治に剣を学びます。

 

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元司は九歳で鶴ヶ岡城下の伯父の家に預けられて学塾に通った。しかし三年後に破門されたのは、持ち前の反抗心と人の意表に出たがる性格、藤沢周平いうところの「“ど”不敵」ゆえであった。「“ど”不敵」とは、風雪と身分制の重みに身をかがめて生きる東北農民に、時折その反動として出現する性格である。年長者に廓通いを咎められた十三歳の元司が、「面白すぎて、少しこわくなりました」と述懐したような早熟さと大胆さもそのあらわれである。要するに斎藤元司は、少年時代からその土地と豪農の惣領息子という立場に倦んでいたのである。

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斎藤家は嘉永6年(1853)大庄屋格十一人扶持となり、一代御流頂戴格・御郡代支配人でした。斎藤家の田地は村内30石でしたが、隣接する立谷沢村100石、狩川村一帯に400石があり、 酒井家が14万石庄内藩主として封ぜられた頃から醸酒を業として、当主は代々治兵衛と称しました。斎藤家は小さな酒造家でしたが、自家保存米を使うために生産経費が安く上がり、文化・文政から嘉永・安政にかけての最上川回船の繁栄に伴う清河駅の賑わいがあって利益が多く、酒造石高は500石といわれ当時の庄内では最大級の酒屋でした。その他、立谷川から取れる砂金も収入源のひとつでした。

 

父・治兵衛は書画、骨董、刀剣にも見識の高い教養人で、俳号は雷山といいました。また八郎の祖父・昌義は神仏を崇拝すること厚く、文雅の人で号を寿楽といい、孫の教育に熱心でした。昌義は「この子、大芳を遺さずんば必ず大臭を遺さん」と孫の逸材を見抜いたといいます。

 

〈参考〉

2016.03.20 書評 革命の奔流に巻かれた「孤士」清河八郎――藤沢周平による最長の評伝小説 文: 関川 夏央 (作家) 『回天の門』 (藤沢周平 著)/文芸春秋BOOKS

https://books.bunshun.jp/articles/-/1294

・幕末最強・庄内藩士の強さを支えた「驚きの教育システム」河合 敦 2018.05.01/現代ビジネス

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55463



togyo2009 at 03:41│Comments(0) 明治維新150年 

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