歴史に挑む

September 13, 2018

百人一首を読む(7)阿倍仲麻呂の生涯

天の原ふりさけ見れば春日(かすか)なる 
 三笠の山に出でし月かも 安倍仲麿


2014.3.6【世界史の遺風】(99)阿倍仲麻呂 唐高官となった日本人 東大名誉教授 本村凌二
http://www.sankei.com/life/news/140306/lif1403060026-n1.html
平城京に遷都したばかりのころ、数え16歳(19歳説もある)で遣唐留学生に任命されたのが阿倍仲麻呂翌年の遣唐使に従って唐に渡り、太学(たいがく)(古代中国の官僚養成学校)に学んだ。ー数年後にはなんと最難関の科挙にも合格したのだ。隋より前の中国は貴族の門閥がはびこり、特権を世襲化していた。その弊害を認めた隋朝は、個人の才能に即して官吏を登用する科挙の制度を定め、それは清代まで1300年間も実施された。

いつのころ詠まれたかは定かでないが、仲麻呂作として伝わる名高い一首は彼の内心を映し出している。「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」(古今和歌集)
官吏としての能力も文人としての才能も秀でた仲麻呂であるから、当時の名だたる文人名士からも目をかけられる。李白、王維などの著名な詩人たちも放っておかず、親密な交際を結んだという。

16年目の33歳のとき入唐した遣唐使とともに帰国を願い出たが、許されなかった。それほど仲麻呂は人材として見込まれていたのであろう。その後、仲麻呂51歳の年に入唐した遣唐使とともに帰国することを上奏してやっと許可された。このとき日本から招待を受けていた鑑真とともに蘇州から帰国の途についたが、不運にも仲麻呂が乗った船は暴風に見舞われ、安南(ベトナム)に漂着してしまう。やっとのことで長安に戻った仲麻呂だが、またふたたび高官に任じられる宿命にあった

西域のソグド人をはじめ、唐代に任官して活躍した異民族出身者は少なくない。それだけ唐朝は国際色豊かな世界帝国であった。だが、日本人としてここまで朝廷のなかに入り込み、広く深い人脈をもった人物は仲麻呂よりほかに思いあたらない平城京が10万人にも満たなかったころ、唐の長安はすでに100万人の住民がいた。遣唐使の使節団が、いかに国家の存亡にかかわる使命を背負って旅立っていたか。仲麻呂とともに唐へ渡った吉備真備も17年の留学の後に帰国し、日本の指導者教育の中核を担った。だが、仲麻呂には日本で公人として使命を果たす機会はなかった。


■■ Japan On the Globe(702) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

国柄探訪: 日本語が育てる情緒と思考
 情緒を養う大和言葉の上に、論理的思考を支える外来語を移入して、我が国は独自の文明を発展させてきた。

■転送歓迎■ H23.06.12 ■ 3

■3.和歌に見る大和言葉の伝統

ー大和言葉の特徴をもっとも純粋に保っているのが、和歌の伝統である。たとえば、百人一首に入っている次の和歌を知っている人は多いだろう。

 天の原 ふりさけ見れば 春日(かすが)なる
 三笠の山に いでし月かも

作者の阿部仲麻呂は、遣唐留学生として唐に渡り、後に玄宗皇帝に仕え、さらに当時の代表的詩人である李白や王維とも交わって、漢詩人としての文名が現地でも高かった人物である。その仲麻呂が、「唐土(もろこし)にて月を見てよみける」と題して詠んだのが、この歌である。20歳前に唐に渡り、立身出世の後は帰国を夢見ながらも果たせず、73歳で客死したこの歌は、若かりし頃に見た奈良春日の三笠山を思いながらの歌である。切々とした望郷の思いが伝わってくる。この歌も大和言葉だけで歌われている。唐で漢詩人として高名であった仲麻呂でも、切々とした情を歌に詠むと大和言葉だけになってしまう、という点に、現代のフォークソングにも通ずる日本語の伝統が現れている。


第七番 阿倍仲麻呂 


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July 08, 2018

〈【国際派日本人養成講座】(381) 国柄探訪:大和の国と邪馬台国〉

■■ Japan On the Globe(381) 国際派日本人養成講座 ■■■■

              国柄探訪:大和の国と邪馬台国

                  我が国はいつ、どのように建国されたのか?

■■■■ H17.02.06 ■■ 33,397 Copies ■■ 1,468,425 Views

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h17/jog381.html

 

■1.日本の建国は、いつ誰によって行われたのか■

‐建国記念日。皇紀2665年‐、紀元前660年元日の初代・神武天皇即位から、‐2月11日で2665年目となるという事である。

 

‐歴史事実として、日本の建国はいつ誰によって行われたのか、と疑問に思っても、具体的な記述はない。‐こういう状況の中で、厳密な資料批判に基づいて、日本の建国の年代に関して合理的な仮説を提示した本が現れた。八木壮司氏の『古代天皇はなぜ殺されたのか』[★★★、角川書店、H16]である。

 

■2.神武天皇127歳!?■

 建国の年の推定に入る前に、まず「神武天皇が127歳で没した」という長寿の謎に挑戦してみよう。

  確かに初代・神武天皇は日本書紀では127歳だが、第2代綏靖(すいぜい)84歳、第3代安寧(あんねい)57歳と「短命」となり、第4代懿徳(いとく)から第8代考元までは 記載なしで、第9代開化天皇でようやく115歳と長寿に戻る。

 

■3.「古代の日本では1年を春秋で2年と数えていた」■

八木氏は中国の史書を丹念に調べ、有名な魏志倭人伝の原典となった「魏略」という本に「その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」という一節があるのに注目する。「倭人は四季に基づく正しい暦法を知らず、春の耕作の始まりと、秋の収穫のときを数えて年数にしている」と言うのである。

 

 ここから八木氏は、古代の日本人は春と秋に一年が始まる「二倍年」の暦を使っていたのではないか、と推察する。今の1年を春秋で2年と数える暦法である。とすれば、神武天皇127歳というのは、63、4歳にあたる。第3代安寧57歳は28、9歳で、まさに夭折である。記紀(古事記・日本書紀)を通じて最も長寿とされた第10代崇神天皇が168歳であるから、これも84歳となり、ありえない年齢ではない。

 

 おそらく記紀が編まれた8世紀頃には、すでに「倍年法」は忘れ去られていたのであろう。しかし、編纂者たちは伝えられた異様な長寿はその通りに記し、年齢が分からない天皇はそのまま不詳とした。それは伝承された歴史を、そのままに文字に記そうとする、きわめて学問的な態度であったのではないか。そういう人々にとっては、史実として伝えられていない架空の天皇を勝手に造作するなどという事は思いもよらない事だったのだろう。

 

■4.「辛酉革命説」への疑問■

 日本書紀では神武天皇即位の年を紀元前660としているが、この縄文の時代に、神武天皇が船団を組んで九州から大和に攻め込む、というのは、やはり非現実的だろう。

日本書紀で、なぜこんなに古い年代を持ち出したか、については、古くからの定説がある。明治期の歴史学者、那珂通世(なかみちよ)のいわゆる「辛酉(しんゆう)革命説」である。中国古代では、甲(きのえ)・乙(きのと)などの十干(じっかん)と、子()・丑(うし)・寅(とら)などの十二支を組み合わせて、60年で一巡する暦法を採用していた。そしてその21巡目、すなわち1260年目の辛酉(かのと・とり)の年には、王朝が覆される大革命の年になるという讖緯説(しんいせつ)なる俗説があった。推古天皇9年(601年)が辛酉であり、その1260年前に大革命が起きたはずで、それが初代・神武天皇の即位の年であったに違いない、と設定した、というのである。

 この説に対して、八木氏は2つの難点を挙げる。まず1260年毎に大革命があるという讖緯説は、中国では社会不安を煽る俗説として、しばしば禁止されていた。日本書紀編纂に加わった当時一流の学者たちは、当然、この事を知っていただろうし、ましてや万世一系を意識する大和朝廷で、こんな不吉な俗説を正史に採用するとは考えられない、というのである。また推古天皇9年も、聖徳太子が斑鳩の宮を建てたほかは、新羅との緊張が高まる程度の比較的平穏な年であった。とうてい王朝が覆るような大革命の年ではない。

 

■5.「倭国大乱」とは神武の東征■

‐それでは神武天皇即位は何年だったのか。記紀によれば、神武天皇は幼名を狭野命(さののみこと)と申し上げ、現在の宮崎県高原(たかはる)町狭野(さの)に生まれた長じて大八島(日本)の中心である大和に都を置こうと、宮崎市と延岡市の間にある美々津から船団を発し、宇沙(大分県宇佐市)、阿岐国(あきのくに、広島)、吉備国(きびのくに、岡山)を通られて、浪速国にたどり着いたそこで地元勢に襲われて苦戦し、紀伊の国(和歌山)熊野を迂回して、吉野から大和に入り、辛酉の年の正月に初代天皇として即位した。その足跡が各地の地名や神社、祭り、物産となって今も残されている。

 この神武東征の年代について、八木氏は魏志倭人伝の次の有名な一節に着目する。

 

  その国、もとまた男子を以て王と為す。住(とど)まる

  こと七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃ち一

  女子を共立して王と為す。名は卑弥呼という。

 

‐この「倭国乱れ」こそ神武東征による戦乱が中国に伝わった記事なのではないか、というのが、八木氏の仮説である

 まず、この「倭国乱れ」はいつなのか。魏志倭人伝より約2百年後に書かれた『御漢書』では「桓・霊の間、倭国大いに乱れ」とあり、倭国の大乱を後漢の桓帝と霊帝の間(西暦146年から189年)としている。この間の辛酉の年は西暦181年であり、これが神武天皇即位の年だった、というのが八木氏の説である

 

■6.神武即位は西暦181年■

  八木氏は子細に検討する。

 まず、この時代には、朝鮮半島には楽浪郡や帯方郡といった中国側の出先機関が設けられていた朝鮮半島でのいわば植民地統轄拠点だが、倭国に関する情報は郡庁で整理されて、首都・洛陽に送られていたとみられる。倭国に神武東征のような大きな戦乱があれば、その情報がここを通じて、中国に伝えられていたのは当然だろう。

 また『後漢書』によれば、西暦107年に倭国王「師升(すいしょう)」が生口(使用人)160人を後漢の安帝に献じた。これだけの人数を使節、衛兵とともに中国に送れるだけの船が作れたのであるから、その70年ほど後に、神武天皇が船団を組んで瀬戸内海を渡ったというのは、技術的にも経済的にも十分、可能な事であった、と考えられる。

 次に歴代天皇の在位年数で見てみると、神武天皇即位を181年とすると、昭和の末年までで1880年であり、これを125代で割ると、天皇一代あたりの平均在位年数は14.5年となる。天皇の即位年が文献上、正確に分かるのは聖徳太子の父君である第31代用明天皇であり、その即位から昭和天皇の崩御まで94代で計算すると、平均在位年数は14.9年となる。

 神武即位からの14.5年は、これに比較すると0.4年短いが、古代の平均寿命が短かったと考えれば、ほぼ妥当な数字と言える。神武即位は西暦181年という仮説は、技術や経済の発展段階、および、内外の文献上ともうまく整合するのである。

 

■7.邪馬台国と大和の国■

 残る問題は、魏志倭人伝では倭国大乱の後に卑弥呼が共立されたという邪馬台国と、記紀で神武天皇が即位して建国した大和の国との関係である。

 まず注意すべきは、神武東征軍が制した版図は、奈良盆地の南半分でしかなかった、という事である。東征軍が戦った地元勢との戦いの記録は、ほぼこの地域に限られている。また初代神武天皇から第8代孝元天皇まで、各代で建設された宮殿は、すべて奈良盆地の南3分の一ほどの地に限られていた。さらに第5代孝昭天皇を除いて、第8代まではいずれも正妃は奈良盆地南部から迎えている。ようやく建国された大和の国は、第8代までは奈良盆地の南半分を版図とする小国だったのだ。

 それに対して、魏志倭人伝によれば、卑弥呼の邪馬台国は7万余戸と伝えられ、人口は50万人ほどもあったと推定される。同時代に魏に滅ぼされた燕の国は戸数4万というから、邪馬台国はその2倍近い大国である

 卑弥呼は239年に倭国連合の盟主として魏に使節団を送り、魏はこれに応えて「親魏倭王」の金印と銅鏡100枚を送ったこの称号も大量の銅鏡も、史上例のない厚遇であった。魏としては呉、蜀への対抗上、強大な邪馬台国をぜひとも味方につけておく必要があったのだろう。この銅鏡は東は群馬から西は島根、山口まで、複製品を含めて9枚が出土しているが、これは卑弥呼が倭国連合に属する国々に自らの権威づけのために贈ったものと見られる。邪馬台国は九州にあったという説と、近畿地方にあったという説があるが、銅鏡の出土地域を考えれば、後者が有力と考えられる

 

■8.邪馬台国 大和の国■

 魏志倭人伝によれば、247年には邪馬台国はその南に位置していた狗奴(くな)国から激しい攻撃を受け、魏の救援をあおぐ魏は軍事顧問というべき武官を派遣するが、その戦いの最中に卑弥呼は亡くなるあとを継いで第2代女王・壱与(いよ)が共立され、266年には魏に使いを出すが、これを最後に邪馬台国は幻のように消えてしまう

 邪馬台国が大和の国だった、というのが、従来、有力な説だったが、卑弥呼−壱与のように女王が2代続くことは皇室ではありえない邪馬台国を南部から攻撃した狗奴国こそ神武天皇の建国した大和の国だった、というのが、八木氏の仮説である狗奴は「熊野」であり、神武天皇は熊野から大和盆地に入ったからである

 邪馬台国の壱与が隋に最後の使いを出したのが266。先の平均在位年数14.5年から計算すると、第8代孝元天皇の即位が257年前後と推定される。その次の開化天皇は奈良盆地南部から一挙に飛び出して、その北端、奈良市春日の地に宮殿を構え、正妃も初めてこの地から迎えたさらに山背(やましろ、京都府)や北河内(大阪府)の豪族の娘を迎えている。したがって第8代孝元天皇の時代に大和の国は邪馬台国を併合し、それまで奈良盆地南部の地方国家だったのが、一挙に京都府南部、大阪府北部に至る地域に勢力を広げた、と考えられるのである

 神武天皇は天照大神の子孫であることを自覚し、その志を継いで「天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よく暮らす」ことを目的として、皇位についたそうした志からすれば、中国の権威を借りて、その服属国の盟主として国内の実権を維持しようとした邪馬台国とは建国の理念そのものが異なるのである。大和の国がその理念を追求しようとすれば、邪馬台国は共に天を戴くことのできぬ国であったろう。この点から見ても、八木氏の仮説は説得力を持つのである。  
 (文責:伊勢雅臣)






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May 15, 2018

【国際派日本人養成講座】義に生きる〜台湾を救った根本博・元中将(4)大東亜戦争史:終戦時の、満州の、根本中将の対ソ戦

No.688 義に生きる 台湾を救った根本博・元中将(上)<国際派日本人養成講座 2011/02/27

http://blog.jog-net.jp/201102/article_4.html

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司令官の断固たる決意に、駐蒙軍の将兵も闘志を燃やし、攻め込んできたソ連軍と激戦を展開した。8月15日、16日のソ連軍の攻撃は特に激しかったが、駐蒙軍の頑強な抵抗によって、戦車15台の残骸を残して退却していった

 

■3.4万人の日本人居留民を脱出させる

 

 駐蒙軍の目的はただ一つ、侵入してくるソ連軍と戦って、時間を稼いでいる間に4万人の居留民が安全に引き上げる時間を作ることだった。

 

 張家口から脱出した当時25歳の早坂さよ子さんは、当時の体験をこう語っている。

__________

 張家口はソ連邦が近いのでソ連兵が迫ってくるという話にも戦々恐々と致しました。5歳の女子と生後10ヶ月の乳飲み子を連れてとにかく、なんとか日本に帰らねばと思いました。・・・

 駅に着きますと貨物用の無蓋車が何両も連なって待っており、集まった居留民は皆それに乗り込みました。張家口から天津迄、普通でしたら列車で7時間位の距離だったと思いますが、それから3日間かかってやっと天津へ着くことが出来ました。・・・

 列車は「萬里の長城」にそって走るので、長城の上の要所々々に日本の兵隊さんがまだ警備に着いていて、皆で手を振りました。そして兵隊さん達よ、無事に日本に帰ってきてと祈りました。

[門田隆将『この命、義に捧ぐ 〜台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡〜 』★★★、集英社、H22,p66]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 根本率いる駐蒙軍がソ連軍と激しく戦っている間に、4万人の居留民は、こうして無事に引き揚げる事ができたのだった


 8月21日の午前中に、居留民の撤退が完了したという報告があがり、その夕刻から夜にかけて、駐蒙軍にもひそかに撤退命令が下された。将兵は、途中、生のトウモロコシなどを食べながら、歩いて北京に向かった。

 

 −その後、根本は北京に留まり、北支那方面の最高責任者として在留邦人および35万将兵の祖国帰還の指揮をとった。‐

―――――

 

 

2016.11.17【京都「正論」懇話会詳報(上)】不安な時代・現代にこそ、日本人の毅然とした生き方が必要 ノンフィクション作家・門田隆将氏

https://www.sankei.com/west/news/161117/wst1611170030-n1.html

−門田隆将氏が「日本人の『毅然とした生き方』と『現場力』」と題して講演した。‐

 

ソ連軍の強さは、戦車隊にあります。戦車をどうするかということが課題でした。根本さんは戦車が来られないように、山岳地帯に「戦車壕」を延々と掘りました。そうすると、ソ連軍は白兵戦で戦うしかない。白兵戦になると、日本軍は強いです。対等に戦えます。日本軍の気迫にソ連軍はびっくりしました。日本軍は兵が少ない分、気迫で補い、ソ連軍は突破できずにいました。

 

邦人全員を脱出させるまで

8月17日、ソ連軍は張家口にビラをまきました。ビラには「日本はすでに無条件降伏している。関東軍もまた日本天皇の命令に服従して降伏した。だが、張家口方面の日本指揮官だけが日本天皇の命令に服従せず、戦闘を続けているのは、まことに不思議である。直ちに降伏せよ。降伏しないならば、指揮官は戦争犯罪人として死刑に処する」と書いてありました。‐駐蒙軍の参謀会議が始まり、「いつまで戦うのか」「戦争をストップして、向こうのいうことを聞いた方がいいんじゃないか」という意見が出ました。その一方で、「残された邦人を北京に脱出させていた最中であり、最後の1人を脱出させるまで断固戦い抜くべきだ」という意見も出て、会議は真っ二つに割れていました。そこで「会議が紛糾しております」と根本さんが会議に呼ばれました。

その時に根本さんが言い放った言葉が残っています。「諸君。私を戦犯にすると言うがごときは、児戯に類することである」「ソ連は、私を戦犯にするとのことだが、私が戦死したら、もはや戦犯にしようとしても不可能ではないか。もし、諸君の中に戦闘継続に対して躊躇する者があらば、私自身が『〇一陣地』に赴き、ソ連軍軍使を追い返す。もし不可能ならば、私自身が戦車に体当たりして死ぬだけのことだ」と言ったのです

‐根本さんがそのまま立ち上がっていこうとするものだから、みんなで止めました。それで、戦闘継続になったのです。「本義忘れじ」。どんなことがあっても、国民の命を守り抜くという意思がゆらいでいません。

 

2016.11.18【京都「正論」懇話会詳報(下)】「邦人を守るために、俺たちは一歩も退かない」現場力のすごさ ノンフィクション作家・門田隆将氏

https://www.sankei.com/west/news/161118/wst1611180011-n1.html

ソ連軍の奇襲攻撃

8月20日の夜でした。ついにソ連軍が奇襲攻撃をかけてきました。当時従軍していた山形在住の渡辺義三郎さんが、そのときのことを詳しく話してくれました。夜襲は激しいものでした。銃剣はソ連軍の方が約10センチ長く、身体も大きいです。‐実際の戦闘がどんなものであったか想像するしかありませんが、このような場合、肉弾戦になるそうです。斬り合い、突き合いの繰り返しです。接近戦では弾が味方にあたるため、鉄砲は使いません。戦闘は朝方まで続きました。そして、ついに押し返しました。渡辺さんに「戦争が終わっても戦っていたことについてはどうでしたか」と聞くと、渡辺さんは「そんなの分かっているけど、邦人を守るためだった。中には入れないという気迫でやっていた」と話しました。この戦闘で次々と日本軍が死んでいきました。渡辺さんも戦友を失いました。

 

命令も拒否して

度重なる武装解除命令を拒否していた根本さんの元には多くの電報が送られてきました。「蒙彊方面に於ける『ソ』軍の不法行為に対し、貴軍の苦衷察するに余りあり 然れども 詔勅を体し 大命を奉じ 真に堪へ難きを堪へ 忍びが難きを堪へ 忍び難きを忍ぶの秋たるを以て 本職は大命に基き 血涙を呑んで 総作第十二号の如く 有ゆる手段を講じ 速やかに我より戦闘を停止し 局地停戦交渉 及武器引渡等を実施すべきを厳命す」といった内容です。それに対し、根本さんは「今張家口には、二万人の日本人有り 外蒙『ソ』軍は延安と気脈を通じ 重慶軍に先立って張家口に集結し 其の地歩を確立せんが為 相当の恐怖政策を実施せんとしあるが如し 日本人の生命財産を 保護すべきも 若(も)し延安軍 又は外蒙『ソ』軍等に 渡すならば 其の約束は守る能(あた)はずと申しあり」との返電をしました。武装解除をした場合、日本人の生命・財産を守ることができないと、はっきりと答えています。さらに、根本さんは、この戦いの意味を部下たちにしっかりと教えています。「邦人を守るために、俺たちは一歩も退かない」という意思を浸透させていますこれが、毅然とした日本人と現場力のすごさです

 

戦闘疲れも毅然と行進

8月21日、ついに日本人を乗せた最後の列車が出ましたそして、最後の撤退命令が出ました。根本さんが出した命令です。渡辺さんによると、撤退命令が出たとき、初めて霧が出たといいます。霧でソ連軍が日本軍の場所をつかめないでいるときに、駐蒙軍も北京に向かって撤退しました。ソ連軍は、日本軍が撤退したことになかなか気づきませんでした。

 

北京で部下たちを案じていた根本さんは、無事に在留邦人が列車で北京にたどり着いているのを見て、部下たちが責務を果たしたと察しました。しかし、なかなか部下たちが北京に戻ってきません。根本さんは全軍が全滅したと思い、意気消沈していました。ところが、遙か遠くから駐蒙軍がやってくるのが見えました。この時の様子は、部下の松永留雄・陸軍少将が回想録に書き記しています。度重なる戦闘で兵たちはボロボロになっていましたが、かけ声をかけて、行進して戻ってきたといいます日本軍は恥を知る軍隊ですゲートル(脚絆)もきれいにまき直していたそうです私は、この部分の話が非常に印象に残っています。本義を忘れず、毅然と生きた日本人でした

 

 

終戦時の対ソ戦大東亜戦争全史

http://holywar1941.web.fc2.com/sensi2/sensi-taiso1.html

 

日ソ関係の推移概略

昭和7年・満州国建国後、満ソ国境紛争が次第に頻発するようになり日ソ関係は険悪化した。しかし昭和14年(1939年)9月 第二次欧州大戦(第二次世界大戦)が勃発したあとは、新たな世界情勢に対応する日ソの思惑が一致した結果、昭和16年4月13日「日ソ中立条約」が成立、日ソ関係は平穏に推移した。

 

昭和16年6月22日 独ソ戦勃発に伴い、日本は対ソ戦に備えて関東軍増強のための動員「関特演」を行ったが、独ソ戦進展の判断と南部仏印進駐に伴うアメリカの対日全面禁輸によって、8月9日 年内武力行使企図を中止、「北進」を断念するに至った。この「南進」か「北進」かあるいは「南北両準備案」を巡っては、海軍は対ソ戦に絶対反対、陸軍省側は独ソ戦を楽観しておらず、‐参謀本部側の強硬な主張とは隔たりがあった。

 

ゾルゲを通じる諜報等により日本が「北進」を断念したことを承知したソ連は、9月以降、極東から本格的な兵力抽出を行った。すなわち極東の対日正面兵力を対独戦線へ振り替えることを実施し、昭和16年(1941)中に18個師団がモスクワ周辺の戦闘に参加して独ソ戦線の危機を救ったのである。これによって極東ソ連軍はある程度減少したものの、大規模な召集等によって兵員数そのものはむしろ増加し−、ている。

 

独ソ戦に関して日本は対ソ参戦の義務はなく、むしろ日ソ中立条約を遵守すべき義務を負っていた。そもそも三国同盟の前身の日独防共協定は、共産主義防止−打倒の根底から出発したものであり、同防共協定が三国同盟に発展する際はソ連を抱き込み、英米に対する日独伊ソの四ヶ国同盟を企図したものであった。世界の主要国が枢軸、連合の両陣営に分かれて戦う世界大戦の中で、ソ連は独ソ戦に全力を傾注する一方、日本とソ連の間だけが中立関係を維持するという奇妙な状態が続いていた。

 

国際信義

昭和16年6月22日 日本は独ソ開戦第一報をドイツからの公電ではなく同盟通信社から報告で知ったこの独ソ戦勃発に際し、ヒトラーが日本に進攻開始日時や具体的進攻要綱などを事前通告しなかったことに対して、日本国内には憤激する向きが多かった。さかのぼれば昭和14年8月の「独ソ不可侵条約」締結は、「日独防共協定秘密付属協定」の違反であり、‐ドイツの信義違反は前例があり、日本は独自の道を進むべしとする声が少なくなかった。

しかし対米交渉の時から日本の国策は三国同盟の立脚が前提であり、初動における独軍のあざやかなる大戦果は大勢を魅了し、結果として「日ソ中立条約」よりも「三国同盟」に信義を立てんとする空気が一層助長された。三国同盟に信義立てするということは、極東ソ連軍を釘づけにした上で、好機に乗じて撃破するということを意味した。‐日ソ中立条約を一方的に破棄するという国際信義に反する武力行使は、必ず多くの敵を作り国を誤ることになる。‐皇軍の名折れになる、という意見も少なくなかった。

 

7月31日 杉山参謀総長が上奏のため拝謁した際、陛下は「南部仏印進駐が米国の対日硬化を誘発したのではないか」と仰せになったうえ、「関特演などを続けるうちに日本の立場は次第に悪くなり、極東ソ連軍の西送もかえって鈍るのではないか、関特演はやめてはどうか」 と仰せられたまさに的確な御指摘であったが、「関特演」のねらいが不測の変に応じるためであることと、対ソ交渉に対し後拠としての役割があること等を申し上げて、ようやく御納得戴けたのであった。

 

関東軍の作戦準備

日本陸軍の満州における作戦は、日露戦争以来寡をもって衆を撃つ(以寡撃衆)攻勢作戦によって防衛をまっとうすることを主眼としていた。「関特演」以降極東ソ連に対して弱い立場となった日本軍は、攻勢から防勢に転換すべき時期を迎えていた。大本営による持久守勢への転換が発令されたのは昭和19年9月18日、絶対国防圏構想から1年後のことである。だがこの時の構想は、実際に行われた対ソ戦とは異なり、前方国境地帯における抵抗を重視したものであった。その後昭和20年に入り、関東軍の対ソ作戦任務は、「満州の広域を利用して侵攻する敵野戦軍を撃破するとともに南満及び朝鮮の要域を確保して持久を策し、帝国全般の作戦を有利ならしむ」という思想に大きく後退した。‐ソ連を仲介とする終戦工作に期待を抱いていた中央同様、関東軍も完全な奇襲を受け、対応は後手後手となったのである。

 

ソ連の対日戦準備

独ソ戦線は、1943(昭和18年)8月の反攻により完全に攻守ところを変え、ソ連は全線を挙げて総追撃に移行、ソ連屈服・北進は全く望み得ない状況となった。スターリンはハル米国務長官に対し、ドイツ降伏後ソ連は日本との戦争に参加すると初めて明確に通告、続く11月28日のテヘラン会談の冒頭、ドイツ降伏後の対日参戦を公式に表明した

 

昭和20年2月11日 ヤルタで行われた米英ソ三国間の秘密協定により、ソ連は政治的要求の代償にドイツ降伏2〜3ヶ月後の対日参戦を約束、ソ連軍参謀本部は対日作戦・戦略計画作成に着手した。‐5月 首都ベルリンは陥落、同盟国ドイツは降伏した。これにより単独不講和の義務も消滅し、日本政府は対米英和平実現の有効な手段としてソ連仲介に最後の希望を託し7月13日 近衛元首相を特使として派遣する旨をソ連に申し入れるが、ソ連はこれに対し拒否も応諾もせず回答を引き延ばした

 

一方ソ連の対日攻撃開始時機は、8月20日〜25日と予定されていたが、直前になって8月9日に繰り上げられた日本の急激な戦力低下、米による原爆投下ポツダム宣言などにより日本が降伏する前に参戦することでヤルタ協定に規定した政治的要求の実現を図ったものと思われる。ソ連側は関東軍の戦力をかなり過大評価し、国境地帯での強力な抵抗を予期していた。そのためソ連は対日攻勢のために昭和20年5月から本格的な兵力集中を実施していたのである。

 

満州の対ソ戦大東亜戦争全史

http://holywar1941.web.fc2.com/sensi2/sensi-taiso2.html

 

モスクワ時間8月8日17:00(日本時間23:00)、モロトフ外相は佐藤駐ソ大使に宣戦を通告、日本政府への連絡は自由であると述べたが佐藤大使からの報告電は東京には届かなかった。8月9日00:00から事実上完全無警告の奇襲攻撃が、中立条約締結国に向かって開始されたのである。‐8月9日01:00 第5軍司令部からの緊急電話によって、ソ連軍の攻撃開始の報告を受けた関東軍総司令部は各方面からの情報を総合して、ソ連が全面攻撃を開始したことが明らかになった。そして午前6時頃までに「作戦計画に基づき侵入し来る敵を撃破」の命令を下達した。一方大本営は、モスクワ放送傍受と関東軍の報告を受けソ連の宣戦を知り、「全面的対ソ作戦の発動準備」を命令したそのころ政府・統帥部はポツダム宣言受諾問題に忙殺されており、ソ連参戦の対応までは手が廻らない状況であった。とはいえ全面攻撃を行っているソ連に対し、停戦までは防衛作戦を行わねばならず、大本営は8月10日付「対ソ全面作戦の開始」の大陸命を下達した。これにより関東軍の任務は「皇土朝鮮の保衛」−実質的な満州放棄に後退したのである。関東軍の決意は「敵侵入企図の破砕」であり、成否は問わず断固として敵に立ち向かうことを明示した。なお、かねての計画に従って関東軍総司令部は新京から満鮮国境付近の通化に移動、満州国皇帝溥儀以下も大栗子に遷都した

 

居留民後退の問題

当時満州の在留邦人は約155万人であった。そのうち約27万の開拓団関係者の多くは辺境地区に、その他一般邦人は都市部に在住していた。関東軍が持久守勢に転移して以来、居留民対策は幾度となく問題になったものの決定的措置がとられないうちにソ連参戦に直面することとなった。‐それでも9日には在留邦人の後送に着手し一般邦人を先に送り出そうとしたが、既に生活拠点を有する民間人は直ちに乗車などできない状況にあり、満州は内地よりも安全と考えられていたことも手伝って遅々として進まなかった。一刻の猶予もない状況下ではやむを得ず、緊急集合が容易な軍人・軍属の家族を主体に一番列車に乗せ、10日01:40には新京駅を出発した。だがこのことは後に、関東軍は軍人家族を最初に後退させた、として非難されることとなった

 

北支方面軍隷下の戦闘

内蒙古に侵入したソ連機械化騎兵旅団に対し、駐満軍(根本博中将、のち北支方面軍司令官兼任)は、張家口に終結しつつあった邦人約3万人の引き揚げを8月20日から開始することにしていた。同日、張家口陣地に接近したソ連軍に、引き揚げ終了まで猶予を願ったが聞き入れられず、守備する独立混成第2旅団は、根本司令官の意図を体し、邦人引き揚げを援護するため抗戦を続行した。この戦闘で同旅団は約70名の犠牲者を出すも4万人近い邦人は全員無事に引き揚げを完了した





togyo2009 at 05:12|PermalinkComments(0)