ニッポンの心

May 01, 2019

平成から令和の時代へ 皇位継承の儀

【図解・社会】皇位継承式典の流れ(20187月)次官級トップに準備組織=皇位継承、月内にも新設−政府

https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_koushitsu20180703j-10-w470

天皇陛下の退位と皇太子さまの新天皇即位に伴う一連の式典に向け、政府は各府省庁による準備作業を統括する事務局を、今月末か8月初めに新設する−。トップは国税庁長官などと同格の事務次官級ポストとする。政府は退位の礼や即位の礼の大枠を定めた「基本方針」を4月に閣議決定しており、新たな事務局はこれに基づき各式典の詳細について検討を進める。常勤職員約25人で構成し、内閣官房と内閣府が共同で設置する形とする。宮内庁と連携を密にするため、同庁からの出向も検討している。政府は10月にも首相を委員長とする式典委員会(仮称)を発足させ、月1回程度のペースで会合を開催。官房長官を本部長とする式典実施連絡本部(仮称)も設置する方針で、新事務局は、式典委員会と式典実施連絡本部の事務局機能を担う見通しだ。

 

閣議決定された基本方針によると、陛下が退位される来年4月30日に「退位礼正殿の儀」が行われる皇太子さまの即位日の翌5月1日は「剣璽等承継の儀」と「即位後朝見の儀」、10月22日以降には「即位礼正殿の儀」「祝賀御列の儀」「饗宴(きょうえん)の儀」が挙行されるこれら六つの儀式は憲法上の国事行為と位置付けられ、内閣の「助言と承認」に基づいて行われる。政府が新設する各種準備組織の検討作業では、皇室の伝統と象徴天皇制との整合性、陛下や皇太子ご夫妻の負担軽減、式典の簡素化などが課題となる。

 

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平成30年11月20日 宮 内 庁 退位の礼関係諸儀式(予定)について(案)


〇賢所に退位及びその期日奉告の儀 (平成31年3月12日) 〔賢所〕

〇皇霊殿神殿に退位及びその期日奉告の儀(同日) 〔皇霊殿,神殿〕

〇神宮神武天皇山陵及び昭和天皇以前四代の天皇山陵に勅使発遣の儀(同日) 〔御所〕

〇神宮に奉幣の儀(平成31年3月15日) 〔神宮〕

〇神武天皇山陵及び昭和天皇以前四代の天皇山陵に奉幣の儀(同日)〔各山陵〕

〇神武天皇山陵に親謁の儀(平成31年3月26日) 〔神武天皇山陵〕

〇神宮に親謁の儀(平成31年4月18日) 〔神宮〕

〇昭和天皇山陵に親謁の儀(平成31年4月下旬) 〔昭和天皇山陵〕

〇退位礼当日賢所大前の儀(平成31年4月30日) 〔賢所〕

〇退位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀(同日) 〔皇霊殿,神殿〕

◎退位礼正殿の儀(同日) 〔宮殿〕


(注)1は,国事行為として行われる。

   2は,大礼関係の儀式である。

   3 名称及び期日については,変更があり得る。

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一連の退位儀式始まる 皇居で「奉告の儀」 2019/3/12

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO42335790S9A310C1CR0000/

天皇陛下は12日午前、皇居・宮中三殿で430日の退位を告げる「賢所に退位及びその期日奉告の儀」に臨まれた。200年ぶりとなる退位の儀式の最初の行事。厳かな雰囲気の中、皇太子さまや秋篠宮ご夫妻ら皇族方、宮内庁や皇宮警察幹部ら約40人が参列した。

 

陛下は午前10時ごろ、儀服の黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)をまとい、皇祖神を祭る「賢所」内陣で拝礼。自身が退位することと、その期日が430日であるとの趣旨の御告文(おつげぶみ)を読み上げられた。歴代天皇や皇族の霊を祭る「皇霊殿」、神々を祭る「神殿」でも同様の所作を繰り返された。皇后さまはこの間、お住まいの御所で儀式終了まで待機された。

 

午後には御所で、伊勢神宮、神武天皇山陵、昭和天皇はじめ前4代の天皇陵に使者を派遣する「勅使発遣の儀」が行われた。退位の儀式は、この日を皮切りに、伊勢神宮や神武天皇山陵の参拝などを経て、退位当日の430日まで続く。

【皇室ウイークリー】(582)陛下、古式装束で譲位期日ご奉告 復興へ秋篠宮さま「心を一つに」2019.3.15

https://www.sankei.com/life/news/190315/lif1903150003-n1.html

天皇陛下は12日午前、皇居・宮中三殿で、4月30日に譲位することを歴代天皇や神々に伝える「退位及びその期日奉告の儀」に臨まれた。午後には皇居・御所で、譲位の奉告のため伊勢神宮などに勅使(ちょくし)を派遣する儀式があり、譲位関連の儀式が本格的に始まった。「退位礼正殿の儀」を含め残り9つの行事がある。

期日奉告の儀で、天皇のみが着用できる古式装束「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」を身につけた陛下は、皇祖神の天照大神(あまてらすおおみかみ)をまつる「賢所(かしこどころ)」の回廊をゆっくりと進み、御簾(みす)の前でご一礼。賢所内で拝礼した後、譲位を奉告する趣旨の「御告文(おつげぶみ)」を読み上げられた。

 

陛下が歴代天皇や皇族をまつる「皇霊殿」、八百万(やおよろず)の神をまつる「神殿」でも同じ趣旨の奉告を行われた後、皇太子さまが「黄丹袍(おうにのほう)」と呼ばれる束帯姿で拝礼された。秋篠宮さまをはじめとする皇族方も拝礼され、宮内庁や皇宮警察の幹部が続いた。皇后さまは髪形や装束の負担を考慮し、御所で遙拝(ようはい)された。

両陛下、伊勢神宮を参拝へ 418日  2019/3/15
宮内庁は15日、天皇、皇后両陛下が伊勢神宮参拝のため、41719日の日程で三重県を訪問されると発表した。同18日に外宮(豊受大神宮)と内宮(皇大神宮)を参拝し、退位の関連儀式「神宮に親謁の儀」に臨まれる。4月末の退位を控え、両陛下にとって在位中最後の地方訪問となる見通し。陛下は皇位のしるしの「三種の神器」のうち剣と璽(じ=まがたま)を伴われる剣璽が皇居を出るのは20143月、伊勢神宮の「式年遷宮」後の参拝以来という。

 

伊勢神宮などで「奉幣の儀」=天皇陛下の退位を報告 20190315

https://www.jiji.com/sp/article?k=2019031500853&g=ryl

天皇陛下が4月30日に退位されることを、陛下の使者が伊勢神宮(三重県伊勢市)と神武天皇陵(奈良県橿原市)、昭和天皇はじめ前四代の天皇陵に報告し、供え物をささげる「奉幣の儀」が15日行われた。12日から始まった一連の退位儀式の一環。15日午前は伊勢神宮外宮と昭和天皇陵(東京都八王子市)、孝明天皇陵(京都市)で、午後は伊勢神宮内宮と明治天皇陵(京都市)、大正天皇陵(八王子市)で儀式が行われた。



両陛下、伊勢神宮に譲位ご報告 2019.4.18

https://www.sankei.com/life/news/190418/lif1904180013-n1.html

三重県伊勢市を訪れている天皇、皇后両陛下は18日午前、伊勢神宮の外宮(げくう)で、天皇陛下の譲位を報告された。譲位関連の儀式の1つで、陛下と皇后さまが順にご参拝。午後には皇祖神の天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭る内宮(ないくう)でも拝礼される。陛下はモーニング、皇后さまはロングドレス姿で宿泊先の内宮行在所(あんざいしょ)を車で出発し、衣食住の神である豊受大神(とようけのおおみかみ)を祭る外宮に移られた。

 

両陛下、武蔵野陵ご参拝 昭和天皇に譲位ご報告 2019.4.23

https://www.sankei.com/life/news/190423/lif1904230023-n1.html

天皇、皇后両陛下は23日、武蔵陵(むさしりょう)墓地(東京都八王子市)にある昭和天皇の武蔵野陵(むさしののみささぎ)を訪れ、天皇陛下の譲位を報告された。モーニング姿の陛下は石段を上って陵前に進み、玉串をささげて深々とご一礼。グレーの参拝服姿の皇后さまが同様の所作で続かれた。

 

両陛下は今後、26日に皇居外での最後の公務となる政府主催の「みどりの式典」にご臨席。30日に退位礼正殿の儀に臨まれる



togyo2009 at 18:26|PermalinkComments(0)

September 17, 2018

古事記が語る原風景(1)〈【セッション1】私にとっての『古事記』〉岡野弘彦氏





エンゼル・フォーラム「日本人の心の源郷『日本語(やまとことば)』 〜本居宣長・折口信夫・小林秀雄を辿って〜」
収録日:2003年3月8日 主催:エンゼル財団
http://angel-zaidan.org/contents/series/kojiki_genfukei/

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身はたとへいづくの土となりぬとも
魂(たま)は翁のもとに行かまし
 (平田篤胤)
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014年1月19日 岡野弘彦(歌人)・三十一文字(ミソヒトモジ)にいのちを吹き込む(1)/明日への言葉
http://asuhenokotoba.blogspot.com/2014/01/blog-post_19.html

岡野さんは大正13年 三重県の古い神社の神主の家に生まれ、幼いころから和歌に親しんできました。大学生の時から国文学者で歌人の折口信夫に師事して、卒業後は母校である国学院大学で教鞭をとりながら、歌人としての活動を続けてきました。

本居宣長が古典の素晴らしい研究をしたのに和歌はあまり上手な人ではなかったというのが定評だが、亡くなる前の年から、亡くなる間際までにかけて、300首ほど枕の山の歌集に残す。そこに残されている歌は宣長が床について枕に頭を置いてから様々な桜の幻が浮かんでくる、その歌集はいい歌がある。私もまねをして我が晩年の枕の山を残しておこうとした。ー「夜ごと夜ごと 夢の枕に立つ花を 幻に見て 老いてゆくなり」(我が魂の枕の山)ー

私は典型的な戦中派でして、小学校1年 満州事変 中学に入る時が日中戦争 卒業する年の秋に大東亜戦争が始まる。戦争と自分の人生が、一番若い物を感じやすい時期がぴったりと重なってしまっていて、戦争が終わってどんなふうに心を立て直していっていいのか、一番苦しんだ年齢層だとおもいます。平和に過ごすことができる様に心に思っているが、それが意外なことに戦争がどっかで続いている。一番近いところでは東日本大震災がある。「美しく愛(かな)しき日本」

我々祖先は大きな災害にあってきて、それで居ながら四季の変化の美しい日本列島の生活が日本人の心をこの上もなく平和で温かく優しいものにしていると思う1500年にわたって作り続けられてきた、和歌、短歌の伝統は形式がずーっと変わらず、民族の大事な感情情熱を凝縮させて歌い続けてきた点でも、類の無い、詩の形 文学表現の定型と言っていいと思う。漢詩 奈良時代にはおおきな感化を受けた。和歌は女性の手に依って作り続けられてきたことがある。

「したたりて 青海原に つらなれる この列島を まもりたまえな」海の産物に恵まれていて、気候は穏やかで、ところどころで山が火を吹いて、突発的に地震が起きて予想もしなかったようなところまで津波が来る。民族が列島の美しい風土の中で、段々心を優しく美しく繊細に淘汰せられていって、素晴らしい日本の文化を生みだした万葉集、古今集、伊勢物語、源氏物語 物語を生みだした民族は古代と違わない形で列島で保ち続けているというのは日本人の大きな誇りとして良いと思う。源氏物語には要所要所に和歌がちりばめられていて、大きな働きをしている。

私も予科の2年になった時に、特攻隊要員の募集があって、自分たちが犠牲にならないと国は救えないんだという切羽詰まった気持ちがあって、志願しようと思って書類を取り寄せたら、父親が駆けつけてきて、一晩父親から説得されたが、20年1月ーに軍隊に入った。同級生が特攻隊長になって、死んでいった。東京で大空襲にも会う。 一晩明けると焼け野原になっていた。東京から茨城県ほこた中学が宿舎になっていて、そこに帰ると桜が満開だった。東京の桜並木が一本一本炎になって燃え上がってゆく様子を目に焼き付いているので、ほこたの校庭の桜がはらはらと軍服に散りかかる。6日間、死体を焼いていたが、死体の油が匂い立って、俺は桜は一生美しいなんて思えないおもわないはずだと思った。「すさまじく ひときの桜 ふぶくゆえ 身はひえびえと なりてたちより」と後に詠んだ。

物ごころついてから、人を殺すことばかり教えられてきた。敵愾心をかきたてられて、敗色が濃くなってくると、神風が吹くという事が合言葉のようになって日本人全体が死に絶えるまで、我々は戦うのだという事が本当に心の底から信じなければ、日本人ではない様に言われた。それが間違っていた事が、30代、40代の人たちは割と単純に切り替えたが、我々の世代はどうしても切り替えができなかった。旅に出て、伊勢神宮に行った。ー

伊勢、志摩、熊野まで行って、神社の縁の下に野宿していると、呼んでくれる。祭りの夜に家に泊めてくれて、腹いっぱい食えと言ってくれる。異人歓迎 旅人を歓迎する宗教的な思い。是が大事な心なんだと、いくらか心が和んだ。翌年近江に行くが、私の心がやっと静まる。壬申の乱、都を大和に持ってきて新しい日本の統治、律令制度に依ってきちんとした政治体制を築こうとする。近親の悲しい争い。柿本人麻呂等が悼んだ歌をうたう。「近江の海 ゆうなみ千鳥 ながなけば 心もしのに いにしえおもほゆ」 美しい哀切な歌ー悲しい戦いの事が思われる「いにしえの ひとにわれあれや ささなみの ふるきみやこを みれば悲しき」不幸な戦争の中で死んでいった魂を和歌の形で悼んでいった、祈りの歌、鎮魂の歌と言う想いがつくずくした。

古い都に立つ事によって、歌に込められた祈り、鎮魂の想いを実感する事が出来た。大学を教師になるが30代から60代まで毎年万葉旅行をして、自分の身体で感じ取る旅行をした。いまも世界の平和を歌にする。「美しき ことだまは 我にやどりこよ このあかときの 空に祈らん」 和歌を作っていると 言霊 魂が細やかに自分の心に宿ってくる、日本人には歌に対する信頼感がある。


togyo2009 at 15:31|PermalinkComments(0)

May 14, 2018

【国際派日本人養成講座】義に生きる〜台湾を救った根本博・元中将(3)「私が身命を賭して守り抜く」

No.688 義に生きる 台湾を救った根本博・元中将(上)<国際派日本人養成講座 2011/02/27

http://blog.jog-net.jp/201102/article_4.html

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■2.「私が身命を賭して守り抜く」

 

 昭和20(1945)年8月15日の敗戦の日を、根本は北京の北西150キロほどにある張家口で迎えた。張家口は万里の長城のすぐ外側にあり、そこから先は内モンゴルの地である。根本はモンゴルの大部分を警備する駐蒙軍の司令官であった

 

 ラジオから流れてきた昭和天皇の玉音は、9年前の北海道での陸軍特別大演習で、巡視中の陛下から「将兵はみな元気か?」と直接かけられたお声そのままだった。

 

 玉音放送の後は、根本がマイクに向かって、「彊民(地元民)、邦人、および我が部下等の生命は、私が身命を賭して守り抜く覚悟です」と語りかけた。玉音放送の直後だけに、根本の声はモンゴル地区に散在していた日本人居留民たちを安心させた。

 

 放送の後、根本は全軍に命じた。「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ連軍を断乎撃滅すべし。これに対する責任は、司令官たるこの根本が一切を負う

 

 本国からは武装解除命令が出ていたが、ソ連軍の本質を見抜いていた根本中将はそれに従わなかった。日本軍が武装解除すれば、ソ連軍は邦人に対して略奪、虐殺、強姦の限りを尽くすだろう6日前の8月9日から満洲に侵入してきたソ連軍の蛮行は刻々と伝えられていた

 

 本国からの武装解除命令を無視してソ連軍と戦うことは、戦勝国からは「戦争犯罪」とされるが、根本中将はその責任は自分一人で負えば良いと覚悟していた。

 

 司令官の断固たる決意に、駐蒙軍の将兵も闘志を燃やし、攻め込んできたソ連軍と激戦を展開した。8月15日、16日のソ連軍の攻撃は特に激しかったが、駐蒙軍の頑強な抵抗によって、戦車15台の残骸を残して退却していった

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2016.11.17
【京都「正論」懇話会詳報(上)】不安な時代・現代にこそ、日本人の毅然とした生き方が必要 ノンフィクション作家・門田隆将氏

https://www.sankei.com/west/news/161117/wst1611170030-n1.html


−門田隆将氏が「日本人の『毅然とした生き方』と『現場力』」と題して講演した。‐

 

玉音放送後に自らも“放送”

終戦当時、内蒙古(内モンゴル自治区)の4万人の邦人を守っていたのが、駐蒙軍でした張家口(ちょうかこう)に司令部が置かれていて、根本さんはその司令官でした。‐玉音放送で知らされた終戦は、日本軍が初めて経験した敗戦でした。日本軍は負けたときにどうするかということを教育されていなかった。このようなときは、それぞれの軍隊の司令官の腹ひとつで出方が決まります。張家口放送局でも玉音放送が流されることになりましたが、根本さんはあらかじめ「玉音放送のあとに私が内蒙古全土に放送で伝えるから準備をしておくように」と伝えていました。その放送がすごい。

 

「日本は戦争に敗れ、降伏いたしました。みなさんは今後のことを心配していると思います。しかし、わが部下・将兵たちは、みな健在であります!」玉音放送が終わって、みんなが涙を流しているときに、根本さんの放送が始まりました。「わが軍は、私の命令がないかぎり、勝手に武器を捨てたり、任務を放棄したりする者は一人もおりません。心を安んじてください。彊(きょう)民および邦人は、決して心配したり騒いだりする必要はありません」「私は上司の命令と国際法規によって行動します。彊民、邦人、およびわが部下らの生命は、私が身命を賭して守り抜きます。みなさんには軍の指導を信頼し、その指導にしたがって行動されるよう、強く切望するものであります」このような放送をしたのは、根本さんだけでした。

 

パニック防いだリーダー

予期せぬ事態に陥ったとき、リーダーはまずパニックを防がなければなりません。戦争で負けたということは、武装解除、つまり武器を敵に渡すことになります。これは、取り残された邦人がどういう扱いを受けるか分からないということです。根本さんは、この放送で邦人の不安を取り除き、パニックを防ぎました。

 

放送の直後、根本さんは駐蒙軍の駐屯地に戻り、司令官として絶対命令を出しています。「全軍は、別命があるまで、依然その任務を続行すべし」「もし、命令によらず勝手に任務を放棄したり守備地を離れたり、あるいは、敵の武装解除の要求を承諾した者は、軍律によって厳重に処分する」最初に全体のパニックを抑え、次は自分の部下たちを引き締めたのです。

 

ゆるがない男

それで、内蒙古でどういう状況が起きたのか。ソ連軍(当時)との戦いを継続したわけです。終戦直後の満州の悲劇はよく知られていますが、逆に言えば、内蒙古は徹底的な抗戦で、一般の邦人の被害を出さなかったということなのです8月9日から戦いが始まり、15日の武装解除命令も拒否しました。根本さんは「軍人の正義は、国民の生命を守ることだ」というゆるぎのない信念をもった男です。その本義に向かって突き進みました。武装解除命令が出ると、やはり部下たちは動揺します。しかし駐蒙軍は、邦人を守るためにとことん戦い抜きます。根本さんの願いが全軍まで届き、命令が共有されたのです

 

日本の「現場力」は、すごいリーダーのもとで発揮されます。ソ連軍はびっくりしました。ほかの関東軍などは総崩れになって武装解除をしているのに、駐蒙軍だけが戦っているからです。これには、根本さんの経歴も関わっています。陸軍参謀本部第二部の支那班の班長もやっていて中国情勢に詳しかった。彼と同期の橋本欣五郎さんもロシア班の班長で、同じ時期に勤務していました。そのために、いかにソ連軍がひどいものであるかということをロシア革命のころから分析し、お互いの情報を共有していました。ソ連軍に武装解除したら、婦女子が大変なことになる。根本さんは分かっていました。だから、戦い抜いたのです

 

この命、義に捧ぐ   台湾を救った陸軍中将 根本博の奇跡

http://www.comnaika.com/docs/pdf/この命、義に捧ぐ%E3%80%80根本博陸軍中将の奇跡.pdf

 

根本博中将は、終戦時北支那方面軍の司令官で内モンゴルの守備にあたっていたソ連 8 9 日、一方的に日ソ不可侵条約を破棄し攻め入ってきた時、上層部の武装解除をし て投降せよ、という命令に抵抗し、断固戦い、ソ連兵を一歩たりとも侵攻させなかった 民間人 4 万人と 35 万の兵士の命を護るためである

ラジオで「全責任は私がとる。皆さん安心してください」と明言した。
  隣で守備についていた関東軍の意気地なさのために、どれほどの満洲に住んでいた人々が被害にあったか、を考えれば、その決断には敬意を表するしかない。‐満洲のひとびとは、大変な目にあっている。その意味で、根本の英断には、
頭が下がる思いである。

 

ところで、関東軍。山海関より東にあるから、この名がついた。幼い頃から見ても、元関東軍だった、という人にあまりお目にかかったことがない。当然のことながら、軽蔑されることはあっても羨ましがられることもない。下手をすると、ぶん殴られるかもしれない。−以下の話は、戦後 40 年以上経ってから聞いた話である。関東軍などの上層部には 8月上旬には敗戦がわかっていたらしい。少佐で敗戦を迎えた人が、あるとき話してくれたのだが、「ワシャこれだけは死ぬまで言わんつもりやったんやが、実はナ。関東軍の高級将校や参謀たちは、どうやって自分の家族を帰国させるか相談しよったんじゃ。ワシャそれを聞いたとき、あきれてしもうてナ。国民を守るよりも、自分の家族を優先しよったんじゃ。」


 

武装解除を拒否して居留邦人4万人を守り抜いた日本軍正統史観年表

http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-563.html


1944
11
月、駐蒙軍司令官に就任19458月のソ連軍の満州侵攻は、815日の日本降伏後も止まらず、同地域に滞在していた同胞4万人の命が危機に晒されていた

 

ソ連軍への抗戦は罪に問われる可能性もあったが、生長の家を信仰していた根本は『生命の実相』よりそのような形式にとらわれる必要はないと考え、罪を問われた際は一切の責任を負って自分が腹を切れば済む事だと覚悟を決め、根本は「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と、日本軍守備隊に対して命令を下した

 

途中幾度と停戦交渉を試みるもソ連軍は攻撃を止めず、部下将兵は必死にソ連軍の攻撃を食い止めながら、すさまじい白兵戦をも乗り越え、更に八路軍(中国共産党軍の前身)からの攻撃にも必死に耐え、居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜いた

 
根本博



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