共同管理ブログ「南京の真実を知らせ隊」

January 19, 2019

南知隊 平成27年3月 記事保存(3)「虚報の真犯人はエドガー・スノーだ」鈴木明氏 他

「虚報の真犯人はエドガー・スノーだ」鈴木明氏(1)「アウシュヴィッツと南京の違い」の一節より
 2015.03.14.16:06
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アウシュヴィッツと南京の違い

「南京大虐殺」という言葉を、いまでは老いも若きも、日本人の中で知らない人はいない。ー中国、韓国をはじめとして、多くのアメリカ人、ヨーロッパ人でも、知的階級に属する人なら、その名前ぐらいは知っている。「南京大虐殺」は「アウシュヴィッツ」と並んで、第2次世界大戦で起ったできごととしてはズバ抜けて世界中の人によく知られている。日本とドイツの恥部に当たる事件なのである。

ところが、日本には中国人に対する差別というものが、白人社会におけるユダヤ人に対するもののように存在していたわけではなかった。「中国人だから殺してもいい、或いは迫害してもいい」という考えは、一般日本人の中にも、或いは政府の政策としてもなかった。それにもかかわらず、盧溝橋事件をきっかけとして「日中の全面対決は、日本の強引な侵略的意図によって始まった」という風に日本人は信じている。ーそして、この戦いはやがて上海に「飛び火」し、上海戦をへて、日本軍は「南京攻略」へと、戦いを進めていった、というのが、一般の人たちが考える「日支事変」(或は、日中戦争)のはじまりである。

1972年、僕が始めて「"南京大虐殺"のまぼろし」という作品を書いたときにも、基本的にはこのような認識の上に立っていた。しかし、1980年代の後半になり、日本人の中国渡航が比較的容易になると、僕もその中の1人に交じって、まず上海へ、そして南京へと旅行するようになった。無論、いわゆる「南京大虐殺記念館」(1985年完成)にも行ったが、建物はアウシュヴィッツに対して、余りにもお粗末であり、展示品は「向井 野田両少尉(当時)」の事を書いた昭和12年の「東京日日新聞」と、郭岐という署名のある「西京日報」という新聞の一部分が展示されているだけで、他にはこれほどというほどの印象的な同時代記録が並べられていたわけではなかった。

「向井 野田両少尉」については、僕は1972年に60貢近くの貢数を割いて、「向井少尉はなぜ殺されたか」を書いて向井少尉の無実を立証したつもりだったが、それは、1972年は文化大革命のさなかであり、いまや文化大革命が完全否定されているとき、まさかあの話がまだ中国の中に残って「虐殺記念館」にあのような形で展示されているとは考えてもいなかったので、何とも複雑な思いを持ったことは事実である。

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「虚報の真犯人はエドガー・スノーだー私が「新"南京大虐殺"のまぼろし」を書いた理由」鈴木明(「正論」平成11(1999)年7月号)
http://www.history.gr.jp/nanking/books_seiron9907.html
本編は↑でご一読ください。

「百人斬り」についての言及は、当時の大宅壮一ノンフィクション賞の選考委員全員が「百人斬り競争」は真実でなかったことを認め、作品を絶賛し、1973年に第4回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しました。(Wiki. 参照)
文芸評論家・故平野謙氏は「私はその克明な追跡ぶりに感嘆し、たとえば、南京虐殺事件の責任者の一人として処刑された向井少尉の無実などについては、一読者として肯定せざるを得なかったまでである」と評価しています。


「虚報の真犯人はエドガー・スノーだ」鈴木明氏(2)「剣橋中華民国史」を読む
2015.03.14.16:09
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中国の本にみる数々の新事実

中国旅行をするようになって、改めて目についたのは、その刊行されている本のバラエティの豊富さであった。ーその中で「剣橋中華民国史」上下巻2千数百頁(1991年中国版発行)という巨著があった。「剣橋」とは、ボストンにあるハーバード大学の場所を指し、主編者は中国研究家なら誰もが知っている、巨人中の大ボスであるジョン・K・フェアバンク(費正清。文化大革命中の中国を礼讃した)である。


僕はその中で、ロイド・イーストマン(イリノイ大学教授 中国現代史専攻)の書いた「流産した革命・国民党統治下の1927〜37年」を読んでいるとき、ふと注目すべきいくつかの点に気がついた。

例えば盧溝橋事件について、「当時、北京の近くにいた日本軍隊の数は5千人〜7千人だが、その展開、配置された場所は、盧溝橋に備えたようなところではなかった。中国第29軍は少なくともその10倍はおり、この事件が日本側によってあらかじめ計画された事件であるとは考えにくい」

「蒋介石がその高級官僚をすべて集め、全面抗戦を決定したのは、8月7日のことである。蒋介石はその生涯における、最大にして後に議論を呼んだ、大きなギャンブルに打って出た。ー蒋介石は日中の戦いの主戦場を、華中かた華南、つまり上海に移すことを決心したのである」


イーストマンはアメリカ人だが、この本が中国で正式の検閲を受け1万9千部もの発行が許された、ということは、中国の改革開放がそれほど進んだ、ということであり、僕が假に「中国で出版された本による」と書いても、それは決して誤りでないことを意味するであろう。そして「中国で許可を得た」この本は、「南京占領に際して、日本軍は中日戦を通じて、最も卑劣な暴挙、南京大虐殺を行った。およそ7週間の間に、日本軍は最低4万2千人の中国人を殺害し、およそ2万人の女性が強姦されたが、真の中日戦争は、この時から始まったのである。」とも書かれている。僕はこれらの文章を読みながら、中国で発行された本の中で、はじめて「4万2千名」というような細かい数字が出てきたことに注目した。

そして、日本人が日頃から考えている「日中戦は、昭和12年7月7日、盧溝橋事件」からはじまったのではなく、8月7日、蒋介石によって決断されたのであり、また「上海戦」「南京戦」は別個に存在する戦いではなく、あくまでワンセットの戦いとして見るべきものである、ということも理解した。
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「虚報の真犯人はエドガー・スノーだー私が「新"南京大虐殺"のまぼろし」を書いた理由」鈴木明(「正論」平成11(1999)年7月号)
http://www.history.gr.jp/nanking/books_seiron9907.html
本編は↑でご一読ください。

やんわりと解説してみます。
日本でも購入できる「剣橋中華民国史」という大著の中のイーストマン教授の著述「流産した革命ー」に蒋介石率いる中国国民党軍の真相がありました。
そして同誌の他の著述にいわゆる南京大虐殺が出てきているようです。
 

「虚報の真犯人はエドガー・スノーだ」鈴木明氏(3)中国側戦記を読む
2015.03.14.16:12
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ー多くの中国側戦記によっても、実際に南京で戦った中国軍の大半は、疲れ果ててやっと南京にたどり着いた軍隊であり、その中の約4分の1は、鉄砲の撃ち方も知らない新兵(中国兵は、すべて金によって仕方なく軍に連れてこられた貧しい傭兵である)であることもわかった。
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「虚報の真犯人はエドガー・スノーだー私が「新"南京大虐殺"のまぼろし」を書いた理由」鈴木明(「正論」平成11(1999)年7月号)
http://www.history.gr.jp/nanking/books_seiron9907.html
本編は↑でご一読ください。

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ー最高司令官の唐生智は、戦後毛沢東の側につき、湖南省副省長になっているが、晩年に書いた「南京戦」の回憶録の中で「南京はそもそも守るべき都市ではなかった」といっており「あの戦いは、蒋介石が日本軍を利用して雑牌軍(蒋介石直系軍以外の軍)を整理しようとしたのだ」とまで言い放っている(唐生智は、文化大革命のとき、紅衛兵のつるし上げにあって、それが直接の原因となって死亡した)。
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新「南京大虐殺」のまぼろし(2)中国の本にみる数々の新事実/南知隊
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-130.html

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1990年代に入って、中国でも「売れない本は出さない」という市場原理が入ってきたからであろうか、旧国民党時代に関する本が、書店の主要な部分を占めるようになった。特に、国民党の特務のものや、1985年以前「大漢奸汪精衛(兆銘)」という名で呼ばれて、多くの読者を獲得した「漢奸もの」も1995年以降のものは、全貢のうち汪精衛の業績を強調する部分が圧倒的に多く「漢奸」という文字は、全一冊の中でわずかに1個所か2個所出てくるに過ぎない。世情は、間違いなく急激に変わったのである。
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「虚報の真犯人はエドガー・スノーだ」鈴木明氏(4)中国人の知識人も知らなかった大虐殺
2015.03.14.16:43
新「南京大虐殺」のまぼろし(3)中国人の知識人も知らなかった大虐殺(上)/南知隊 2011.11.11
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-131.html

新「南京大虐殺」のまぼろし(4)中国人の知識人も知らなかった大虐殺(下)/南知隊 2011.11.15
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-132.html

「虚報の真犯人はエドガー・スノーだー私が「新"南京大虐殺"のまぼろし」を書いた理由」鈴木明(「正論」平成11(1999)年7月号)
http://www.history.gr.jp/nanking/books_seiron9907.html
本編は↑でご一読ください。

 
「虚報の真犯人はエドガー・スノーだ」鈴木明氏(5)事件の鍵を握るエドガー・スノー
2015.03.14.16:49
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事件の鍵を握るエドガー・スノー

これは、まぎれもない事実で「東京裁判」であれだけ強いショックを日本人に与えた大事件を、中国人の、それも知識階級エリートに属する王若望氏のような立場の人が「戦争中は知らなかった」というのは、普通の感覚でいえば不自然である。


現に「南京大虐殺」という言葉が出れば、それに反応するように、第一次資料として出てくるのはオーストラリア人ティンパーリーが1938年に編集完成して出版した「日人在華的恐怖」或いは「中国人目賭中之日軍暴行」原文は「What war means: The Japanese Terror in China」日本語訳文として通常使われるのは「中国に於ける日本軍の暴行」で、僕もこの本の中国語訳原本は、エール大学の王正廷(1937年当時の、駐アメリカ大使)コレクションの中で発見しており、扉のところには、たしかに「1938年 漢口」の字が見える。 しかし、この本も、どこまで中国人に読まれたであろうか。

当時の一般的中国人は、まず字が読めず、読めても面白い小説本以外には殆ど売れることはなく、「日本軍の暴行」が何部出たかは不明だが、この本を出版した「庁」にいた郭沫若は、その日記の中で「不幸にしてこの本の多くが、長沙の大火で焼かれてしまったが、それでも探してみれば、いくらかは残っているかも知れない」と書いているところを見ると当時、4億数千万といわれた中国人の中でこの本を見つけるのは、砂丘の中に落ちた1円玉を探すほどの困難さであったと思われる。王若望がこれを知らなかったとしても、知らない方がむしろ自然である。

しかし、それはとんでもない錯覚である。瑞金は江西省の南、福建省との境にある仙霞嶺山脈の中腹にある貧しい町で、江西省はその北側に石炭のとれる坑山があったため、わずかにこの付近にまで鉄道は通っていたが、そこから瑞金までは、標高千メートルもある山々を越え、更に標高二千メートル近くの高地まで4百キロもの道を歩いてゆかなければならない。ー今回僕が書いた「新"南京大虐殺"のまぼろし」の主要登場人物の1人である潘漢年は上海から瑞金にゆくとき、まず便船で香港に行き、そこから更に船で汕頭(スワトウ)に逆行し、韓江を4百キロもさかのぼって、その上流から仙霞嶺山脈を越えて瑞金に着いている。瑞金と上海とを結ぶ唯一の線は無線による通信だったが、そのために上海の共産党地下党員は、いつも暗号表を持っていた。一般市民が「瑞金で共産党がどのようにしているか」などというニュースは、実質的には上海では誰も知らなかったのである。このようなニュース伝達の困難な状況は、日中戦が始まった1937年当時でも、基本的には変わっていない。

但し上海戦という舞台だけを見れば、日中戦を行った「上海」という場所は、いまわれわれ日本人旅行者が普通に「上海」と呼んでいる場所とは全く違っていた。上海市の中心部は、当時フランス租界、共同租界に分かれていたが、共同租界は、俗にイギリス租界と呼ばれていた地域と、上海北側に流れていた蘇州河(現在、呉淞江)を南北にわけて、その北側が俗にいう「日本租界」であった。そして、フランス租界は美しい石畳みとアカシアの並木に包まれており、下水道もあり、水道の水源地は黄浦江であったのに対して「日本租界」の大部分は泥道であり、雨が降れば足首までぬかるんでしまうという悪条件の下にあった。

しかし、水道のある場所は、大変少ない。それも、フランス租界の下水道から流れ出る汚い水を含んだ蘇州河を水源として利用しているので、真夏に行われた上海戦の日本軍の戦いは、文字通り泥沼との戦いであったことがわかる。一番重要であったのは、日本租界内で行われている「日中の戦い」で、双方の撃ち合う弾丸は、イギリス、フランス租界の中に絶対に落としてはならない、ということであった。上海の中国人市民、イギリス人、アメリカ人などは、蘇州河の「イギリス側」から日中の戦いを「見物」していて、中国側将官の中には、英仏租界区の中にいて、電話で蘇州河北部で戦っている部下に指令を出していた者もいる、と、新しく出版された中国側の本には書かれている。

当時、この「上海戦」を、競馬場(現・市政府及び博物館)近くにある24階建の国際飯店の屋上から眺めていた欧米人の中の1人に、エドガー・スノーがいた。スノーは後にこの戦いの様子を、「それは世界最大のショウでもあった。いま思い出してみても、それはヒトラーの電撃戦ですら思いもおよばなかったほど、ユニークなものであった。何と百万に近い人間が参加する殺人試合を、何の心配もなくリングサイドで眺めることのできる大都会は、もうどの世界にも、二度とは出現しないであろう」と書いたのである。この文章を書いた本「アジアの戦争」は、日本が真珠湾攻撃を行った同じ年の春、つまり半年余り前に、アメリカの大出版社であるランダムハウス社から出版され、一部の知識人を中心にして、アメリカでは強い反響があった。ーアメリカに帰っていたスノーは新聞記者たちと何回もインタビューを行い、「ヨーロッパで起こっている事件は、やがてアジアに波及するであろう」「米日戦は、少なくとも1年以内に、必ず起るであろう」と、くり返しいい続けた。

無論大部分のアメリカ人は中国のことなどにはほとんど関心はなく、この年の3月、ルーズベルトは「武器貸与法」に署名し、日本流にいえば「金(武器)は出すけれども、人は出さない」という行動にふみ切ったが、その貸与した武器の97パーセントまでは対イギリスであり、当時、アフリカ系アメリカ人(黒人)のことなど眼中になかったルーズベルトは、中国に対しても同じように、パール・バックの描いた「大地」(ノーベル文学賞受賞作)の「チャイナ」のことは知っていても、エドガー・スノーが頭に描いていた「毛沢東・蒋介石の連合勢力による、日本との戦い」には、それほどの関心はなかった。

しかし、これも僕が感じていた「錯覚」の1つだが、エドガー・スノーのこのような言動は、日本には全く伝えられなかったし、日本人の誰1人として、スノーの「アジアの戦争」が出版されたことに対しての重大な意味を理解した人もいなかった。その最大の原因は、スノーの「アジアの戦争」が、日米戦のわずか数ヶ月前に出版され日本語としては全く伝えられなかったという偶然であろう。僕は今回「新"南京大虐殺"のまぼろし」を書くに当たって、その第1頁目の扉に当る部分に、本文より少し大きな活字で、こう書いた。


「日本、中国、アメリカという、東アジアだけではなく、二十一世紀の世界に最も大きな影響を与えるかも知れない重要な三つの国の中で、いまも喉もとに突き刺さったままでいるような大きな歴史的課題が、まだ未解決のままである。いわゆる"南京大虐殺論争"である。この不可解な事件の鍵を握っていた人物は一体誰なのか、僕は長い間考え続けてきた。そしてその人物こそは、実は二十世紀ノンフィクション文学の中でも特に名作として知られる"中国の赤い星"を書いたアメリカ人作家であり、第二次大戦のときには、アメリカ大統領ルーズベルトと数回にわたって、2人だけで、対中、対日に関する話し合いを持った著名なジャーナリストでもあった、エドガー・スノーであることを、僕は最近まで気がつかなかった」

スノーが日中戦のとき南京に行ったことは一度もなく、第一次資料を残したこともないことはよく知られている。 それにもかかわらず敢て僕がこう書いたプロセスが今回出版した「新"南京大虐殺"のまぼろし」に、5百頁以上の内容を必要とした原因であり、ここでは到底このことにふれることは出来ないので、すべて割愛することを許して頂きたい。
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「虚報の真犯人はエドガー・スノーだー私が「新"南京大虐殺"のまぼろし」を書いた理由」鈴木明(「正論」平成11(1999)年7月号)
http://www.history.gr.jp/nanking/books_seiron9907.html
本編は↑でご一読ください。


「虚報の真犯人はエドガー・スノーだ」鈴木明氏(6・完)20世紀の終わりに
2015.03.14.18:16 
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日中米で話し合いの第一歩を

僕は王若望が、中国人でありながら「南京大虐殺」について、戦争中は何も知らなかった、と書いた。考えて見れば、毛沢東も周恩来も、国民党軍内の最高の地位にいた何応欽も、長期間にわたって日記を書き、「南京戦」のとき、軍事委員会委員長の職にあった徐永昌も(徐永昌は、東京湾内ミズーリ号甲板で中華民国を代表して日本の降伏文書にサインした)南京戦当時副参謀長で、日本軍に対しての感想文を残した白崇禧も、その他多くの著名な高官を含めて「南京大虐殺」にふれた中国人は、1人もいなかったのである。

「南京大虐殺記念館」に展示されている同時代資料の中で唯一と思われる、台湾で「南京大屠殺」を書いた郭岐は、その文章の中で「南京大虐殺を証言する者がなく、私は当時新疆ウイグル地区に勤務していたが、裁判のためにわざわざ南京まで呼び戻され、法廷の証人となったのである」と書いている。

「南京大虐殺」の火の元は、中国よりも、むしろアメリカの中にある 、という考えはその頃から僕の中に芽生えてきたのである。僕が今回「何故いま"南京大虐殺"について考えようとしたのか」は「南京大虐殺論争」は、何とか「20世紀」といわれている期間のうちに、その決着とまではいかなくても、せめて日中米の間で、よりオープンな形で「歴史を反省」し、「南京大虐殺とは、本来はこういうものであった」ということを話合い「南京大虐殺記念館」を「平和記念館」と名称を変えてほしい。

ーいまアメリカでも「南京大虐殺」が話題になっている、と伝えられている。南京の「記念館」の方も「拉貝(ラーべ)」という新しい人物が参入し、まるで「拉貝記念館」であるかのように、ラーべの顔写真は特別の額縁に飾られ、7百20頁にもなる「拉貝日記」が、うず高く積まれている。僕は率直にいって、このような状態を正常な状態とは思えない。

このテーマを中心にして今回書いた新しい本が、1999年の半頃になってやっと発表されるようになったのは全く偶然のことだがそれだからこそ、この偶然の機会を僕は無駄にはしたくない。
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「虚報の真犯人はエドガー・スノーだー私が「新"南京大虐殺"のまぼろし」を書いた理由」鈴木明(「正論」平成11(1999)年7月号)
http://www.history.gr.jp/nanking/books_seiron9907.html
本編は↑でご一読ください。

鈴木氏は1作目にて日本軍の暴行に関する報告や記事などをまとめた『WHAT WAR MEANS』(戦争とは何か)を編集したハロルド・J・ティンパーリが中国国民党顧問の秘密宣伝員であったと結論付けました。(Wiki. 参照)
そして新版ではエドガー・スノーこそ欧米で大虐殺を喧伝した犯人だと確信し、だからこそ関係国間での対話を望み、その布石となるべく資料に忠実な論証をおこないました。

その姿勢は、1作目の後書きでも「もし請われて、僕がどうしても「南京事件」について記述しなければならないとしたら」「中国側に、軍民合わせて数万人の犠牲者が出たと推定されるが、その伝えられ方が当初からあまりに政治的であったため、真実が埋もれ、今日に至るもまだ、事件の真相は誰にも知らされていない……」と締めくくています。
また、『諸君!』2001年2月号では、「まぼろし派・中間派・大虐殺派 三派合同大アンケート」と題するアンケートを行い、23人の回答者の一人である鈴木氏は『「南京大虐殺」のまぼろし』について論じながらも「南京大虐殺はまぼろしだった」と結論つけてはいない、「南京大虐殺」の真実については不明なままと述べています。

鈴木明氏死去 ノンフィクション作家【共同通信】2003/07/26
http://www.47news.jp/CN/200307/CN2003072601000436.html
鈴木明氏(ノンフィクション作家、本名今井明夫)22日午後3時4分、虚血性心不全のため東京都目黒区の病院で死去、77歳。東京都出身。


鈴木氏は21世紀を迎えて2年を待たずにこの世を去りました。
はや12年の年月を迎え、未だ南京事件は国際社会の中に引っ張り出され、政治的カードとして扱われています。
歴史の真実を突き詰めることなく、言語だけが情報として浮遊している現状は現実離れしています。
呪縛に捕われた日本近代の事実と情報の乖離を埋める作業こそが、我々南知隊が受け継ぐ使命です。


togyo2009 at 15:56|PermalinkComments(0)

南知隊 平成27年3月 記事保存(2)週刊新潮「朝日新聞の戦争責任」 他

〈チャンネル桜討論会 所謂南京虐殺関連部分〉
2015.03.05.18:35






 
週刊新潮「朝日新聞の戦争責任」(上)朝日新聞の戦争報道
2015.03.10.18:25
特集 日本の戦争責任を追及する「朝日新聞」の戦争責任──まず自分のアタマの上のハエをどうにかしろ 「週刊新潮」平成14年8月29日号より抜粋

戦後の朝日新聞の歴史は、偽善と自己弁護の歴史だったといっていい。「屠り去れこの米鬼」「朝鮮、徴兵制に感激の波高し」「洋々たり我が資源作戦」と、戦争をひたすら礼賛し、国民を逃げ場のない洗脳状態に放り込む先頭に立ったのが、朝日である。が、同紙は戦後、日本の戦争責任を中国・韓国の意に沿って追及する側に見事に転じる。 では、自らの戦争責任について、朝日はどう総括したのか。

昨年の終戦記念日に社説で「天皇の戦争責任」を追及して波紋を呼んだ朝日新聞は、今年は一転、天皇のテの字も出さない社説を掲げた。自らの戦争責任をタナに上げての天皇の責任追及には、さすがに多くの読者がア然としたものだが、今年はその反省もあってか、社説の代わりに『天声人語』にこんな一説が登場した。

<新聞は、本誌も含めて日本の新聞の多くは、過ちを犯した。厳しい情報統制下とはいえ、戦争推進の政府方針に追随し、戦意高揚を図った。その責任は大きいが、貴重な教訓を得た。毎日の紙面で誓うわけではないが「あの失敗を繰り返してはならない」と多くの新聞人が思ってるはずだ>(8月15日付)

一見殊勝にも思えるこの文章は、実はいかにも朝日新聞らしい偽善に満ちた巧妙な手法が用いられている。つまり、この文章を冷静に読むと、ほかの新聞もすべてが政府方針に追随し、戦意高揚を図ったのだから、これは自
分だけの責任ではない、すべては時代が悪かったのだ、という自らの責任逃れを印象づけていることに気づく。

だが、果して朝日は、ほかの新聞も戦意高揚を図ったのだから、と許されるような紙面を当時展開していたのだろうか。そして、そのことに対する誰もが納得する総括を自ら行ったことがあるのだろうか。答えは”ノー”である。「朝日新聞が自らの戦争責任を総括したことはいまだに一度もありません」というのは、『朝日新聞血風録』の著者で元朝日新聞記者の稲垣武氏(評論家)だ。「朝日は終戦後3カ月を経た昭和20年11月7日に、紙面の左隅にわずか33行で『国民と共に立たん』という宣言を目立たないように掲載し、戦争責任をとったとしています。しかし、その内容たるや軍部からの制約で新聞としての本分を全うできなかったという極めて自己弁護的なもので、さらに戦後50年を経た95年2月、『メディアの検証』という連載記事を掲載し、これも自らの戦争責任を総括したかのような形式をとりましたが、それもメディア論という手法を用いたもので、当時の状況を他人事のように扱う実に不完全なものでした。本来なら1面で、堂々と社長名で総括すべきものを姑息なすり替えでごまかしたのです。つまり、
朝日はいまだに一度も国民に”謝罪”していない。戦後57年を経ても、自らの戦争責任を総括できず、一方で日本の戦争責任を追及しつづける。それが朝日新聞なのです。 

朝日新聞の戦争報道──たしかにそれは、検証するに値するものである。戦争を美化し、正当化し、国民の戦争熱を極限まで煽り、そして、真実を知りながら、自らの主張に沿って最期の最期までそれを隠蔽し、嘘を書き続ける。国民を死地に追いやったその見事なまでの紙面は、やはり地を圧するものだった。それは一体いかなるものだったのか。


http://www.geocities.jp/pekin_chan/page034.html
 

週刊新潮「朝日新聞の戦争責任」(中)国民洗脳に果たした役割
2015.03.10.18:31
特集 日本の戦争責任を追及する「朝日新聞」の戦争責任──まず自分のアタマの上のハエをどうにかしろ 「週刊新潮」平成14年8月29日号より抜粋

凄まじい戦争礼賛記事
朝日新聞が軍部礼賛の記事を掲載し始めるのは、満州事変以後のことである。「満州事変以前の日本というのは、ちょうど現在の日本のような長期的不況に陥っていました」と、前出の稲垣氏がいう。「当時は、日本人全体に軍部に対する反感があり、軍人が軍服のまま電車に乗るとうしろ指をさされるような雰囲気がありました。しかし、満州事変勃発以後、国民感情は転換する。満州国建国によって国内の閉塞感が一気に突き破られる感じを受けたからなんですが、朝日はそれでもなかなか軍部を持ち上げるような記事は書かなかった。しかし、そうした朝日の報道に九州の在郷軍人会が不買運動を始め、ライバルだった毎日新聞が、朝日は売国的だ、という内
容のビラを撒くようになる。そこで朝日は役員会を開き、方針転換をはかるのです。朝日は以降、堰を切ったように戦争を肯定し、推進する論陣を張るようになりました。」その変わり身の早さは、戦後遺憾なく発揮されるが、とにかく実際に当時の新聞を見てみるとそれは凄まじいの一語に尽きる。

国民洗脳に果たした役割
前出の稲垣氏によれば、「朝日新聞は、読者に募金を募り、そのお金で軍用機を買い、軍部に献納するというキャンペーンまで始めます。朝日はこれを”銀翼基金”と名づけ、”千機、二千機われらの手で”というスローガンの下、まず朝日新聞の社長・会長が率先して1万円の募金をおこない、この基金にお金を出した読者の名前を紙面に掲載しつづけるのです。そのほか、軍国歌謡や戦争スローガンの募集、そして慰問金の募集など、次から次へと戦争遂行のために積極的な活動をおこなっていくのです。」たしかに昭和16年12月12日に掲載された。
<軍用機献納運動の強化>と題された社告は面白い。ー本社が10万円、社長・会長がそれぞれ1万円を献金したことを宣言しているのである。これはもはや当時の体制に責任を転嫁できるレベルの関与の仕方ではない。「それだけではありません。朝日は積極的に”記者報告会”という後援会を各地で開催し、戦地から戻った特派員たち
に直接、軍部寄りの意見を述べる講演をさせて、大衆感化の重要な役割を果たすのです。紙面だけではなく、あらゆる意味で朝日は国民を戦争に駆り立てる重大な役目を果たし続けたことになります。」(同)ーそして、朝日新聞の常軌を逸した軍国報道は、終戦が近づくとさらに激しさを増す。敗戦がわずか3週間後に迫った昭和20年7月25日に至っても、<本土決戦必ず勝つ 敵近づけば思ふ壺 その機掴んでわが戦力爆発 特攻隊に学ぶ>と、この期に及んで特攻を賛美・推進している。その欺瞞の姿勢は、終戦を察知しながら、終戦前日の8月14日に、<敵の非道を討つ>と題する社説を掲げ、<いかに敵が焦慮の新戦術を実施しようとも、一億の信念の凝り固まった火の玉を消すことはできない。敵の謀略が激しければ激しいほど、その報復の大きいことを知るべきのみである>と戦争継続を主張するところにも現れている。


http://www.geocities.jp/pekin_chan/page034.html


週刊新潮「朝日新聞の戦争責任」(下)いまだ戦争責任を取らず
2015.03.10.18:42
特集 日本の戦争責任を追及する「朝日新聞」の戦争責任──まず自分のアタマの上のハエをどうにかしろ 「週刊新潮」平成14年8月29日号より抜粋

いまだ戦争責任を取らず
その徹底した紙面は見事というほかないが、朝日と覇を争って軍国報道に血道を上げた毎日新聞が、終戦直後に社長以下、有力幹部が責任をとって続々辞任したのに比べ、朝日は、社主の村山派と反村山派の権力抗争が繰り広げられ、実に3カ月を経た11月に両派が退陣するまで、すべてが曖昧にされるのである。
 

稲垣氏(前出)がいう。「前述したように、その末に出された 『国民と共に立たん』という宣言さえ、軍部に責任を転嫁したものに過ぎませんでした。そればかりか朝日は戦後今度はGHQに擦り寄り、持ち上げ記事を掲載するようになり、事前に是非読んでくれと、GHQに掲載前に記事を持っていくことまでしていたことが、米の公文書に記されています。要するに朝日は、戦時中は軍部に擦り寄り、戦後はGHQ、そしてやがては中国やソ連という共産勢力に擦り寄って、時代時代に現われる強い相手を礼賛する報道を続けるのです。 変わり身の早さと、強い者にはとことん擦り寄るその姿勢は戦前から一切変わっていませんね 」

元日経新聞記者でコラムニストの井尻千男氏(拓殖大学日本文化研究所長)もいう。「 戦後の朝日にとっては、結局GHQが大本営であり、占領期が終って以降は、中国が大本営になったんです。 朝日はセンチメンタリズムというか感情論だから、GHQや中国の言うことを聞いている方が大衆受けすると思ったんだろうね。 やがて北京政府や韓国政府の言いなりになり、反日・自虐史観を前面に押し出すようになるんです。 そして少しでも日本の政府要人が北京政府の気に障ることを言おうものなら、すぐにご注進して問題化するという”ご注進ジャーナリズム”を作りあげた。 自ら戦争を煽り、礼賛した朝日は日本の近代史を断罪する資格などないはずなのに、GHQや中国に擦り寄ることによってこれを断罪する側に回ったのです。 その無定見さ、臆面もない大衆迎合ぶりは見事というしかありません」

さて、朝日新聞の言い分も聞こう。「朝日新聞は、自らの戦争責任を明確にするため、社長以下の役員、編集幹部が退陣し、1945年11月7日の1面に宣言『国民と共に立たん』を掲載して、国民の側に立った新聞社になることを誓い、以来それに沿った新聞づくりを進めてきました。戦前の小紙の振る舞いについては、ひとことで総括できるものではありませんが、戦後50年にあたる1995年の2月以降に連載した、自らの戦争責任を検証する企画記事をはじめ、折々に、検証記事を載せています」(広報室)それらが姑息なすり替え記事に過ぎなかったことは前述の通りだ。 戦後、日本人としての誇りや気概を失わせることにひたすら邁進してきた朝日新聞 のこれが正体である。

http://www.geocities.jp/pekin_chan/page034.html 


togyo2009 at 15:45|PermalinkComments(0)

南知隊 平成27年3月 記事保存(1)山本武利著「朝日新聞の中国侵略」 他

山本武利著「朝日新聞の中国侵略」(上)
2015.03.01.15:38
朝日新聞の中国侵略 上製 
山本 武利 (著)
出版社:文藝春秋
出版年:2011年02月

内容(「BOOK」データベースより)
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昭和十四年元旦、日本人居留民が激増する中国の上海に日本語新聞が創刊された。その名は「大陸新報」。題字は朝日の緒方竹虎が筆を執り、近衛首相、板垣陸相の祝辞が並ぶ立派な新聞である。この「大陸新報」こそが、帝国陸軍や満州浪人と手を結び、中国新聞市場支配をもくろんだ朝日新聞社の大いなる野望の結晶だった。「正義と良心の朝日新聞」がひた隠す歴史上の汚点を、メディア史研究の第一人者が、半世紀近い真摯な朝日研究の総決算として、あえて世に問う。
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著者本人による解説です。

朝日新聞は自らの戦争責任をさらに検証すべし 山本武利/早稲田大学政治経済学術院教授
http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/opinion/society_110328.html
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 実は同名のタイトルの原稿を『諸君!』2004年11月号に公表していた。大陸新報社の足跡を分析しながら、朝日新聞社の第2次大戦での戦争責任を問うものであった。10年かけて大陸新報社の資料を探し、中間報告のつもりで雑誌原稿をまとめた。しかし個人の能力では資料集めに限界があることを思い知らされたので、このテーマに関する社内資料の情報公開を朝日に求めた。朝日のデスクが研究室に来て、これから始まる長期の連載があなたへの回答であると言った。ところが1年間の連載でも、本となった『戦争と新聞』、『新聞と「昭和」』でも肝心の『大陸新報』は一度も登場しなかった。

 『朝日新聞社史』では歴史上の「汚点」を包み隠さず明らかにしていると当時の中江社長は語っている。『大陸新報』名は1994年に出された社史の「大正・昭和戦前編」に初めて登場したもので、実は私もそのとき初めてその新聞名を知った。たしかにこれは「汚点」公開の姿勢のあらわれであった。しかし調べているうちに、不都合な事実を意図的に隠していることが分かってきた。そこで朝日は頼むにたらずと、ー国内外のアーカイブスや図書館での資料収集、関係者へのインタビューを重ねた。

 大陸新報社は終戦までの6年あまり、日本語の新聞を上海、南京、武漢、徐州で、そして中国語の『新申報』を上海で発行した。『新申報』は南京大虐殺のあった当時は陸軍直営の新聞であったが、ーそれが大陸新報社に経営されるようになっても、ー中国人向けにその武力攻撃の正当性を現場で宣伝していた。

 『大陸新報』は陸海軍と満州浪人の呼びかけで朝日が協力したもので、ー「国策新聞」を引き受けたことを誇りにしていた。幹部らは汪精衛の南京政府が樹立される1940年あたりからー、それを正当化することになんら違和感を持たなくなった。朝日から送られた記者が社の枢要の地位を占めるようになった。パールハーバー以降、朝日は同社を子会社にして、その重要決定を本土の重役会で行うようになった。大陸新報社の経営が好調であったため、大陸支配の野望は『満州朝日新聞』計画樹立にまで拡大した。だが一紙による支配を警戒する関東軍参謀によってその計画は挫折した。

 大陸新報社は1938年上海毎日新聞社を買収し、上海の日本語新聞を独占し、1939年には中国新聞協会を結成し、それを実質的に支配するようになった。米国立公文書館で見つけた資料は、同協会が日本語新聞だけでなく中国語新聞までも一元的に支配するファッショ的な機関であったことを示している。その協会の要所には元朝日記者が配置されていた。もし日本軍の中国制覇が成功していたなら、朝日の社旗は北京の天安門広場に掲げられていたことだろう。

 朝日は満州事変以前ではデモクラシーを推進する代表紙として軍部、右翼から「国賊新聞」と攻撃されていた。ところが日本の大陸侵略とともに「国策新聞」となったばかりか、軍部以上に帝国主義を賛美するようになった。平時はデモクラシー、戦時は帝国主義の新聞となることに社内外で違和感をもたなかった。当初は朝日色が記事、広告で鮮明であったが、次第にその色は消えてゆく。軍部隠し、朝日隠しは進行するが、それに反比例して朝日本社の同紙支配は強まった。

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当時も今も朝日新聞の体質がつかめるような気がします。

但し解説にある帝国主義や中国侵略の言葉はいただけませんので、極力排除してみました。
戦争は国同士の政治(外交)における当時の最終局面でした。
支那大陸への日本軍の進出は、事変から戦争への流れであり、主義を押し付けたり侵略による民族の壊滅を計ったものではありません。
 

山本武利著「朝日新聞の中国侵略」(下)
2015.03.01.15:53
朝日新聞の中国侵略 上製 
山本 武利 (著)
出版社:文藝春秋
出版年:2011年02月

次は論者による解説です。

「朝日」の体質を解明した画期的な本『朝日新聞の中国侵略』 佐藤 優(本の話 2011年3月号) 
http://hon.bunshun.jp/articles/-/169

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本書は、戦前、戦中に中国で発行された国策新聞『大陸新報』への朝日新聞社の関与を実証的に究明することによって、朝日の体質を解明した画期的研究書だ。

朝日は、日本の政治エリート(特に国会議員と官僚)に対して特に強い影響を与えるメディアだ。ー評者が外交官だったときの経験を言えば、外務省幹部は朝日に対して、特別の配慮をしていた。外交の円滑な遂行のためには世論の支持が不可欠だ。しかし、多くの重要な外交交渉は秘密裏に進めなくてはならない。そのなかで政府の方針をメディアにさりげなく伝える必要が出てくる。外務省幹部が「ここだ」というときに秘密情報をリークするのはいつも朝日の記者に対してだった。それには2つの理由があった。

第1は組織規律がしっかりしていて、朝日にリークしても情報源が露見することはないという信頼感があるからだ。評者が現役の頃、外務省は霞クラブの政治部記者に政治家とのオフレコ懇談の内容を含む政局に関するレポートを書かせ、カネを払うというかなり乱暴なメディア工作を行っていた。その政局レポートには、「取扱注意」の判が押され、全世界の日本大使館に「厳に当省(外務省)出身の幹部館員に限る」という但し書き付きで配布された。オフレコ懇談の内容を外部に漏らし、それでカネを受けとったことが表に出れば、どの新聞社でも記者はクビになる。それをわかった上で外務省は政治部記者と「黒い友情」を育むためにこのような工作を行っていたのだ。この裏仕事を担当する外務省報道課員が評者に「朝日の記者はどんなに親しくなっても政局レポートに乗らないんだよね」とこぼしたことがある。これくらい規律が厳しいので、朝日には安心して秘密情報をリークすることができたのだ。

第2は、朝日には外務省人事に手を突っ込むのが好きな妖怪記者が多いからだ。こういう記者に情報面で「貸し」を作っておくと、人事上のプラスになるということを外務省幹部は経験則で知っていた。評者の個人的経験でも、鈴木宗男バッシングのときに朝日の某政治部記者が、評者が連載をもっていた『世界』(岩波書店)編集部に「佐藤優を使うな」というファックスを送りつけたことがある。ーまた、2002年5月14日に評者は東京地検特別捜査部に逮捕された。その2日前に朝日の社会部記者が述べたことを評者は一生忘れない。その記者は、「私たちの取材に対して答えたくないのでしたらそれでもいいでしょう。ただし、検察に対して黙秘は通用しませんよ。検察官に対しては真実をすべて話すことがあなたのためです」と説教した。

 政府に対して批判的な目を持つ面倒な存在であるが、いざというときにはもっとも政府にとって頼りになるという朝日新聞の内在的論理を山本武利氏は見事に解明している。山本氏の〈初代オーナーの村山龍平は平時はデモクラシー、戦時はナショナリズムを編集方針とすることを編集幹部に指示していたが、二代目の村山長挙にはリベラルな体質はなく、中国侵略を是認する国権主義的ポリシーを支持していた。緒方(竹虎)の体質も平時はデモクラシー、戦時は帝国主義という社論の矛盾に違和感がなかった〉(230頁)との指摘が問題の本質を衝いている。

この朝日的な変わり身の早さは、太平洋戦争敗北時の『大陸新報』にも顕著に現れた。〈蒋介石は大陸の日本軍に対すると同様、新聞メディアにも重慶国民政府に従い、毛沢東の中国共産党に協力しないかぎりその身を保護する方針を即座に指示、徹底させたことがわかる。『大陸新報』は日本人と日本軍のスムースな引揚完遂を行うプロパガンダ新聞となり、居留民からみれば安全な内地引揚のための情報満載の復員新聞に転換することを奨励され、日本側はそれに嬉々として従ったことがわかる〉(219頁)。ー朝日が『大陸新報』に深くコミットした理由が経営判断にあるという山本氏の指摘も鋭い。〈創刊当初、『大陸新報』は成功するか、失敗するか予測できなかったが、「国策新聞」であるため資本提供の必要がなく、成功した際の利益は大きいと考えた。ローリスク・ハイリターンとの経営判断であった〉(233頁)。

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またこの書籍から南京の真実を語る pdf がありましたので、↓を拝見して下さい。
http://higejihchan.my.coocan.jp/AsahiInvationUponChina.pdf
 

野口裕之の軍事情勢より「拷問を隠す中国」(上)顔が裂けてポップコーン
2015.03.01.17:18
2014.12.22 【野口裕之の軍事情勢】拷問を隠す中国が、公表した米国を非難する鉄面皮
http://www.sankei.com/world/news/141222/wor1412220002-n1.html
「中国は一貫して拷問に反対している。米国は行動を正し、国際条約に真摯に従わなければならない」ー冒頭の言葉は、米上院情報特別委員会が9日に公表した、CIA(中央情報局)によるテロ容疑者への過酷な尋問に関する調査報告書を受けた中国外務省報道官のーコメント。拷問を隠す中国が、公表した米国を非難する大胆不敵ー。ー中国の鉄面皮にはツッコミどころ満載だが、常人はそんなにツラの皮が厚くない。小欄は国際人権団体の告発書(9月)を読み《ポップコーン》なる中国公安の隠語を知った。公安警察官が電気ショック警棒で非合法指定する気功集団のメンバーを殴ると、顔が裂けてポップコーンの様に見えるので、警官たちはそう言って揶揄するらしい。批判された警官はうそぶくやもしれない。「生きている人間の肉を削ぎ落とす《凌遅》、皮膚を剥ぎ取る《剥皮》など、中国王朝の伝統的刑罰を踏襲したに過ぎぬ」と。


このような拷問シーンを南京事件で登場させたのが、アイリス・チャン「"The Rape of Nan
king"」です。
その一説が国際派日本人養成講座さんの講座「南京事件の影に潜む中国の外交戦術」にあります。

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1.目をえぐり、耳と鼻をそぎ...
 チャンがどのように「南京大虐殺」を描いているか、その一端を覗いてみよう。南京占領の章では、生き埋め、八つ裂き、火あぶり、氷漬け、犬にかみ殺させる、強姦などのおどろおどろしい記述が続く。たとえば、こんな具合である。

 「少なくとも、100人の男が、目をえぐり出され、耳と鼻をそがれてから、火炙りにされた。また別の200人の中国人兵士や市民は、裸で学校の戸や柱に縛りつけられ、zhuiziと呼ばる柄のついた特別な針で口やのどや、目など何百カ所も突かれた。[The Rape of Nanking, Iris Chang, Basic Books, 1997,p87]」

 このzhuiziとは、いったい何なのか。語感からして日本語ではないようだ。手元の日本最大級の英和辞典にも出ていない。中国の伝統的な拷問用具なのだろうか。
 そうなら日本兵が中国の拷問用具を使って、いかにも中国的な虐殺をしているわけで、まことにリアリティに欠けた描写である。いつ、どこで、誰が、という基本的な事実はいっさい出てこないので、検証のしようもない。


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Japan On the Globe 国際派日本人養成講座(60)南京事件の影に潜む中国の外交戦術 平成10年10月31日
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h10_2/jog060.html

講座では「"The Rape of Nanking"」文章や写真の誤用がいくつも取り上げられ、この本がトンデモ本でありながら欧米で大きな影響を与えてきたことが述べられています。
本編は↑にて拝読していただき、こちらでは講座の最後の章で締めさせていただきます。

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■6. 影に潜む高等戦術■
 アイリス・チャンは、中国系アメリカ人によるいくつかの全米規模の団体から後援を受けており、さらにそれらは、中国政府から資金提供を受けていると確認されている。 [「ザ・レイプ・オブ・南京」中国の陰謀を見た、浜田和幸、文芸春秋、H10.9]
 日本が南京で30万人を虐殺したのなら、原爆投下はそうした犯罪国家への罰なのだ、という免罪符をアメリカ人は手に入れることができる。そういうアメリカの態度に日本人は改めて不快感を抱くだろう。こうして南京事件は、現在の日米同盟に対する楔となるのである。同時に日本には犯罪を償う賠償金として経済援助を中国に払い続けさせることができる。

 まるで、三国志の時代のような中国的高等戦術である。謝罪問題の影には、こうした国際的な外交戦術が潜んでいることを我々はまず認識すべきである。
 もうひとつ、文化的な問題も絡んでいる。事実かどうか、いっさい気にせずに罵詈雑言を浴びせかけるのが、中国式喧嘩のようだ。それに対して、日本人は事実を曖昧にして、とにかく謝ってしまって、水に流そうとする。
 両者は対照的だが、事実を無視している点では同じだ。
 我々日本人ももっと、事実と論理をもって、いいがかりには断じて反論するという姿勢を学ばなければ、到底、権謀術数うずまく国際政治の世界ではやっていけないであろう。
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「朝日新聞の戦争責任―東スポもびっくり!の戦争記事を徹底検証」
2015.03.05.16:41
朝日新聞の戦争責任−東スポもびっくり!の戦争記事を徹底検証−
 安田将三、石橋孝太郎・著 / 太田出版1995年

内容(「MARC」データベースより)
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朝日新聞の抗議を受け、絶版となった「読んでびっくり朝日新聞の太平洋戦争記事」の書を増補改訂復刻。現役記者が当時の記事を検証し、自発的に戦争に荷担した朝日の戦争責任を問う、告発の書。
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「本書は発売停止となった本の復刻版である。といっても、太平洋戦争の言論弾圧で発禁となった本の類ではない。昨年末、朝日新聞社の抗議により絶版となった『読んでびっくり 朝日新聞の太平洋戦争』(リヨン社)を改訂、再編集したものである。−略−また、我々同業の中には政治家、官僚、企業、警察におもねり、良好な関係を保つために取材先が気に入る記事執筆に精を出し、彼らにとって不都合なことは伝えない記者が少なくない。こうした記者達も戦時下、軍・政府に寄り添うだけで、国民の知りたい情報を伝えなかった記者達と大差ないのではないだろうか。朝日新聞の戦時下の紙面を見ることで現代の新聞の問題点が見えてくることも願ってやまない、。−略− 現役記者 安田将三 石橋孝太郎」 


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