1974-2199 宇宙戦艦ヤマト とはず語り ー全砲門開けー

宇宙戦艦ヤマトにまつわるよしなしごとをそこはかとなく書き綴っています。 2019年5月24日より「全砲門開け」のサブタイトルを付けました(笑)。

 結局、古代がどういった過程で「愛し合うこと」の至高性に気が付いていったのかが語られることはなかったので、「とにかく大きな声で言っておけばなんとなくすごいことを言っているような気がするの法則」を地で行くようなクライマックスが、その後なんとなく「ヤマトらしさ」と認識されていくようになってしまったのは、甚だ不幸なことだと私は思っている。
 いや、「ヤマト」が本来語りたかったのは「愛」だ。大きな宇宙の愛だ。
 百歩譲ってそう仮定しよう。当初の企画書を読む限りそんなことは微塵も書かれていないのだが、ここであえて逆からのアプローチを試みる。
 時間と予算の関係で削られた「愛」の中身を描くことは、続編の劇場版に託されたといっていい。当初、「ヤマト」の新作劇場版として想定されていたのは、正典では語られなかった「愛」(といってまずければ「相互理解」)にたどり着くヤマトの戦いを描いた作品だったように思う。というのも、やはり当初の企画書に書かれていた未使用の設定やプロットが形となって日の目を見ることを、当時のファンとして私たちは期待していたのだから。ところが、蓋を開けてみると、「さらば」という言葉が頭についている。なに、これ、ヤマトとはこれでお別れなの?終わっちゃうの?そして「愛の戦士たち」。今思えば盛大な出オチ感。というより、タイトルに「愛」って入ってるから、中身はどうでもいいよね、と先に言い訳されてる感がすごい。
 結局「さらヤマ」でも「愛」について深く描かれることはなく、空虚なまま雰囲気だけで押し流されていった。(詳しくは「リメンバー・イン・1978」をご覧ください。)
 で、その後「ヤマト」で描かれる「愛」は高校生の純愛みたいな古代と雪の恋愛(すでにリア充カップルとして出来上がっているはずなのだが)が主軸となり、あんまり、戦争を回避するための宇宙の種族を超えた相互理解といった「大きな愛」とは関係ないような、ちまちまとした男女の恋愛(というより、純愛。ここでもイノセント。)がお添え物のように描かれるにとどまる。(メインはもちろん宇宙艦隊によるドンパチだ。)
 よしんば「ヤマト」のテーマが「愛」だったとして、宇宙を舞台にしたスケールの大きな愛、すなわち人類の運命を一身に担って戦うヤマトが、戦いの果てに「相互理解」を築き上げていく過程をストーリーの中に練りこんだ巧みなシナリオ、などお目にかかれるはずもなく、それどころかそんなものはすっかり忘れられて、古代やデスラー、その他の敵キャラ、宇宙の女神といったヤマト定番のキャラクターで毎回似たり寄ったりの展開が繰り返されるだけ。弁当屋の日替わり弁当のような目新しさのなさが、ファンに安心感をもたらすのか、「良くも悪くもヤマトらしい」といったぬるま湯のような言葉が評価として残る。
 そこにはもう、メッセージすらない。
 イデオロギーがないのはいい。むしろ、特定のイデオロギーなんかで粉飾されている方がやっかいだ。イデオロギーはないが「愛」という言葉で、さもメッセージがあるように取り繕った、と言っては言い過ぎか。
 いや、いいんです。私は。メッセージとか好きじゃないんで。むしろ何にもないほうがすがすがしいくらいなんで。
 でも、なんかメッセージがあるようなこと言ったほうが、かっこいいんですよね。ありがたいというか。少なくとも送り手側の達成感は満たされるかもしれない。
 「愛」について気づく過程をすっ飛ばされた関係で、ガミラスの中心で愛を叫ばなければならなかった古代は、シリーズを追うごとに紋切り型の主人公へと押し込められていく。「ヤマト」のキャラクターたちは生身の人間らしい息遣いは削がれ、予定調和の物語のパーツとして扱われる。「ヤマトⅢ」の揚羽や土門なんて、ほんとかわいそうなもんですよ(同様の扱いされたキャラはほかにもたくさんいるけど)
 なんでこんなことになってしまったのかというと、きっと西崎義展というひとが、無邪気だったからなんだろうなあ、と思うわけです。
 あっさり死ぬ、ということは、あっさり生き返る、ということでもあるわけで。
 無邪気だ。
 あんまり深く考えてない。
 古代と雪の「純愛」なんかもそうだ。純愛。イノセントラブ。昭和30年代の高校生か。
 イデオロギーなきイノセントで空虚な宇宙に、愛を描こうとしたんだろうか。
 そんなわけでもなかったような気がするなあ。

 どこまでも、無邪気に。イノセントに。

 それが、ヤマト。

【おしまい】




最後までお読みいただきありがとうございます。
この10月で「宇宙戦艦ヤマト」は45周年を迎えるのですね。そんなアニバーサリーな年に何かやる予定は・・・、今のところありません。
もし、大和川に「こんなことやってほしい」というリクエストがあれば参考にさせていただかないこともない・・・。あんまり無茶なこと言われても物理的・時間的・能力的に無理だったりしますので、その時は丁重にお断り申し上げますのであしからず。
ヤマトに関するあれやこれやの記事はまだまだ書いていきますので、しばらくお休みをいただいて涼しくなったころに再開したいと思います。
それでは皆様、またお会いできる日まで、ごきげんよう。

  豊田有恒先生が著書『宇宙戦艦ヤマトの真実』の冒頭で語られているように、「反戦アニメだという人がいてもいいし、好戦的だと感じる人がいても、いっこうかまわない」。ただ、「あの大新聞から、統一的な解釈を強要されるような性質の作品ではない」し、「その新聞のイデオロギー的な主張の方向へ強引にねじ曲げて」特集記事に仕立て上げられていいわけがない。
 受け取り方は視た人たちの勝手だが、特定の思想とは無縁で、「ただただアニメが好きな人々が集まって創り出したサブカルチャーに過ぎない」。そこに特定のイデオロギー的主張を読み取るなんてナンセンスなのだ。
   ただ、「ヤマト」(特に正典)においては底流に戦争忌避の気分が流れているであろうことは否めない。ガミラスの遊星爆弾攻撃も原爆のメタファーだが、空襲の記憶の引き写しでもある。古代が少年時代に家族を失った遊星爆弾の攻撃の描写は、ある人たちにとっては現実の記憶と重なったはずだ。そんなリアルな戦争の記憶が正典ヤマトにはそこかしこに紛れ込んでいる。それを単にノスタルジーととらえるか、戦争の日常記憶の再現ととらえるかは受け取った人の自由かもしれない。しかし、ガミラスとの戦いと、イスカンダルまでの未知の宇宙航海という大きな物語の中に紛れ込んでいる妙に生々しい描写が、「ヤマト」を異様なまでに輝かせ、若者たちの心を惹きつけたのではないか。
 だがやはりそれは、明確な反戦思想というべきものではないし、特定のイデオロギーに組するものではない。かといって「声高に叫ばない静かなる主張」みたいなかっこいいものでもないと思うのだ。
ことさらメッセージとして込めたわけでもないような、どちらかというと些細な描写が心に残ってしまう、しかも、観ている側の無意識に訴えるようなところがあるのはなぜか。
 それは、「ヤマト」に備わった無邪気さ、言い換えれば「深いことを考えていない」空っぽさにあるのではないか、という気がしてならない。
 豊田先生のいうところの「ただただアニメが好きな人々が集まって創り出したサブカルチャー」であるという、肩の力の抜けたスタンス。中身がものすごく詰まっているように見えて、実は空っぽ。この空虚さの中に、視聴者(観客)は自分が観たいものを見てしまうのではないか。
 空虚といえば、正典第24話「神よ!ガミラスのために泣け!」のラスト近くで、ヤマトの捨て身の猛反撃の前に灰燼と帰したガミラス本星を見て古代が「われわれがしなければならなかったのは愛し合うことだったんだ!」と叫ぶシーンがある。突然思いついたような一連のあのセリフは、存外空虚に響く。ヤマトは必死で戦ってあの結果なのだから、それをいまさら悔いるようなことを言っていったい何になるというのだ、という疑問が最初に見た時からもやもやと残ったまま今日に至っている。ガミラスは地球を食い尽くそうとした敵である。そりゃ、ガミラスの都市には無辜の人々も住んでいたかもしれませんがね。デスラーこそがそういった人々を盾に、ヤマトを沈めようとしたのではなかったのか?
 おそらく、あの古代のセリフの空虚感(嘘っぽさ)に対する回答が「2199」における、総統府を貫いての波動砲による第二バレラス撃沈のシークエンスだったのではないか。つまり、あえて声高に強いメッセージを叫んだことによって、かえって空々しいものになってしまった古代の台詞に対する異議申し立て。
 ここで注意したいのは、「愛」という言葉が「ヤマト」を通して初めて出てくるということだ。激しい戦闘の末破壊しつくされたガミラスの都市を目の当たりにして、古代は「愛し合うことの大切さ」に今やっと気づきました、みたいなことを言っているが、どんなに割り引いても唐突感は否めない。古代、こんなに感受性鋭かったのか。そして、傍らで「神様の姿が見えない」と、よよとなく森雪。



PICT0016
「宇宙戦艦ヤマト記録全集 中」より、設定対比表。「戦闘の設定は第二次世界大戦を参考にしていることがわかる」と柱に書かれている。ガミラス側のキャラ名はナチスドイツ軍のまんまである。

PICT0017

「設定対比表」続き。左下の最終話には「男の友情万歳!」とは書かれているが、男女の愛については欠片も触れられていない。


PICT0020




 補足をすれば、ここは本来語られるはずであった小マゼラン編というガミラスの勢力圏内でヤマトが遭遇する超自然現象や、ヤマト艦内のごたごたを乗り越えての団結がかなり端折られてしまったために、わかりにくくなった部分ではある。


PICT0018

テレビシリーズ各話設定書。20話あたりまではほぼ放送された通りだが、低視聴率によるる打ち切り(と一般的に語られている事情)で描かれなかった10数話分のシノプシスを見てみると、ヤマトとガミラスの戦いというより、それぞれのお家事情により事態が進捗したりしなかったりしていたことがわかる。宇宙の怪生物や超自然現象がやたら出てくる。ガミラスはほぼ自滅という感じ。


PICT0019

森雪は死んだり生き返ったりしない。



 だが、とってつけたようなこのシーンは、映画版として編集し直された「ヤマト」においてクライマックスにもって来られ、繰り返し流されることによって強く印象付けられることになる。インパクトのあるシーンで強く訴えかけられた「愛」は、その中身がどんなものであるか語られることなく、なんとなく事態を収束させるための便利な道具として使われたとしか、思われてならない。


【つづく】

「完結編」公開から約10年後、寝た子を起こすかのように再び立ち上がったヤマトの企画。もう一度整理してみると、「2520」のVol.0という宣伝ビデオという形でリリースされている。このころは「2520」は「新・宇宙戦艦ヤマト」という企画名で、全く新しいヤマトを制作するという告知だったわけだ。それとは別に「復活篇」を作りますよ、ということなので、ずいぶんとまた大風呂敷を広げたものですね。
 その時点で具体的なプロットが上がっていたのか、シナリオまで出来ていたのかは知らないが、一度真っ二つに折れてアクエリアスと地球の中間の海に沈んだ(なんかもう、ねぇ、どうしようもなくエモい)ヤマトをどうにかして復活させて、古代進や森雪を乗っけてりゃなんとかなるだろう、くらいに思ってたんだろうなあ、ということは2009年に出来上がった完成品を見ればだいたい想像がつく。
 石原慎太郎先生原案という「どうだすごいだろう感」が画面全体から滲み出るプロモビデオを作ったのはいいが、会社が倒産して「2520」が未完に終わり、当然のことながら「復活篇」制作も頓挫。その後もう一度企画が上がったがこれもいつの間にか消えてしまい、どうなるのかと思っていたら2009年に公開されたが、その間に権利関係で松本零士先生との裁判沙汰になったり、制作そのものがいろいろ揉めたりごたごた続きだったことは皆さんご承知の通り。
 なにがどうであれ、「復活篇」を宣伝するのに石原慎太郎を連れてきたのは、悪手だった。芥川賞作家で大物政治家、なにより石原裕次郎の実兄となれば日活で数々の裕次郎映画を撮った舛田利雄との関連はいやでも想像する。昭和・平成を経て令和の世の中になってもその存在感は衰えぬ保守派の論客でもある大先生。これで「ヤマトは右寄り」なんかではありません、などとどの口が言うか!?と問い詰められても返す言葉を小一時間探さねばなるまい。「ああ、やっぱりヤマトって戦争賛美の特攻礼賛のアニメなんですよね」と、今さらな古傷をえぐられても仕方がない。というか、自ら古傷を晒してつついてください、と言っているようなものだ。石原慎太郎の真意はもっと単純なところにあって、イデオロギーとは何の関係もない、と後でわかってみても(「戦艦大和」と混同しているのではないか説があるが、当たらずとも遠からずらしい)、そういうイメージで世間は見ちゃうんですよ!ていうか、ファン自身が!「ああ、やっぱりね」ですよ。右だとか、左だとかがいい悪いじゃなくて!そういうイデオロギーやポリティカルな匂いが付いちゃうことが、い や な ん で す よ!!
 だいたい、アニメやマンガに関わっている人たちというのは昔から「左寄り」の傾向があるのは相場が決まっていて、反戦・反体制に与する意識が強い。ヤマトを作ったオフィス・アカデミーという会社は西崎義展が作ったアニメプロダクションだが、もとはと言えば虫プロ倒産後のアニメーターが路頭に迷わないための救済会社だった。西崎氏の思想的バックボーンがどういったものかは知らないが(たぶん、そんなものは、ない)、現場の作り手の皆さんが「右巻き」だったとは到底思えない。それどころか、出来上がったセル画のかたまりをバイクで二人乗りして撮影スタジオへ運ぶ途中、警察官に呼び止められ、荷物の中身を問われた際「官憲にはわたさない!」と言い放った女性制作進行のスタッフがいた、という逸話が残っているくらい、アニメ制作の現場の人たちは反体制の気概を持っていたのだ。
 そう考えると、「ヤマト」はむしろ反戦や人々に苦しみをもたらす圧倒的な力に対抗する反骨の象徴だったのではないか?いやむしろ、そうだろう。さらに言えば、波動砲は原爆のメタファーであり、一瞬にして破滅をもたらす兵器だからこそ、その扱いは慎重の上にも慎重を重ね、使いどころを見極めねばならない。『2199』において沖田艦長が「われわれはメギドの火を手に入れてしまったのかもしれない」とつぶやくのは、そういう意味が含まれている。波動砲はアホみたいにバカスカ使ってよい武器ではないのだ。その証拠に、『さらヤマ』以降の正典シリーズでさえ、ヤマトは波動砲を数えるほどしか使っていない。封印されたり、有効な手立てでさえないことがある。ヤマトはむしろ、波動砲の意味が消失した時からが本領発揮と言える。扱いに困る兵器(核兵器のメタファーとしての波動砲)をあえて搭載したことで、「ヤマト」における戦争の意味が、反転した形で浮き彫りになって来はしないだろうか。
 つまり、こと波動砲の扱いに於いては、無邪気にファンと戯れていたい西崎氏でさえ、慎重なスタンスを維持していた――少なくとも、波動砲で何でも解決、みたいな展開は容認しなかった――のではないか。
 それは、リアルに戦争を知っている世代(昭和20年以前に生を受けた人たち、遅くとも昭和15年くらいまでに生まれた人たち)にとって、暗黙の裡に了解された共通認識のような気がする。正典ヤマトのスタッフの生年を調べてみるとわかると思うが、昭和ヒトケタから終戦までの間に生まれている人が中核をなしている。さすがに終戦時に成人していた人はいないが、物心つくかつかないころに終戦を迎えている。つまり、うっすらと戦争の記憶をとどめている人たちが作っていたのだ。(松本零士先生のお父上が戦闘機のパイロットであったことは有名。)※注
そんな人たちが作ったアニメが、戦争賛美なわけがない。そうは思いませんか。昭和49年(1974年)、日本が第二次世界大戦に敗けて29年、戦争の記憶も薄れたとはいえ、まだまだ戦前から戦中戦後を生きた人たちが元気だった時代。もちろん、戦争へ行って帰ってきた人も親戚や町内に一人や二人はいらしたことでしょう。ある世代の人たちにとっては、まだ生々しい記憶として残っていて、多くを語りたがらない現実だったかもしれない。実際、私の親もそうでした。戦争にはいかずとも、激しい空襲の記憶など、抱えてはいても一切話そうとはしなかった。それほどまでに、戦争というのは自分の中で相対化、客体化するのが難しい出来事なのだと私などは推察するしかない。戦争はやっちゃいけないことだし、誰も好きなわけはないことはわかりきっている。エンターティンメントを標榜していても、言外ににじみ出てくるものは止めようがないのである。

【つづく】

注:メインスタッフの生年補足について
西崎義展 1934年(昭和9年)12月18日 
山本暎一 1940年(昭和15年)11月22日
松本零士 1938年(昭和13年)1月25日
舛田 利雄 1927年(昭和2年)10月5日
豊田 有恒 1938年(昭和13年)5月25日
藤川桂介 1934年(昭和9年)6月16日 

このページのトップヘ