2017年04月29日
ブログ移転のお知らせ
10余年にわたりご愛読頂いた裏祥寺物語はこちらに移転します。
http://blog.livedoor.jp/oogesataro/
大袈裟通信として、まずは500回に上るアーカイブから構築中です。
これからもゆたしくお願いします。

大袈裟太郎
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大袈裟太郎
2016年12月30日
「オール沖縄の向こう側へ」

大袈裟通信343
翁長知事の「辺野古工事承認取り消し」取り下げ以降、
知事に疑念を持つ声、リコールの声が少しづつ上がり始めている。
高江の現状や、積み重なった不信感を知事が拭えない以上は、
当然の声とも思える。
しかし、あれから数日、取材を重ねてきた結果の僕個人の皮膚感覚としては、今はリコールの時ではないと感じる。
いくつかの有力な情報を総合すると、
今の翁長知事は、不信感を抱かせる構造の中に身を置いてしまっている気がしてならない。
その原因は、稲嶺、仲井真県政に薫陶を受けてきた県職員によるものであったり、オール沖縄内部の党派の違いによる情報共有の欠如であったりするのではないか?
だから、今、僕らにできることは知事のリコールではなく、
オール沖縄をより強いものにするための、具体的なアプローチだと思っている。
知事が孤立しているという話を耳にする。
県庁からも、オール沖縄の県議たちからも、孤立しているという声がある。
ならば、その状態を少しでも正常化するためには何ができるか。
知事と民の距離は確かに遠い気がするのだ。
具体的には、知事への疑念の声を届けることから始める。
それは知事に直接でなくとも、県議や周辺の人材に働きかけることで少しづつでも環境を変えていくしかない。
そして知事がどういう腹づもりなのか、わかりやすく説明してくれる人物を探し出そう。
その存在が今、明らかに足りない。
あのオール沖縄の熱と量を、今、祈りではなく、具体的な行動に転化していくことが民に求められている。
もちろん選挙の時だけではなく。
恒常的な行動として。
翁長知事が初めてオスプレイの墜落現場、安部の浜を訪れた時、
僕は数名の機動隊に運ばれながら知事に叫んだ。
「高江にも来てください!応援してます。みんなで支えます!」
翁長知事はしっかりとこちらを見据えていた。
この行動はのちに、翁長を応援するなんて馬鹿だ、などなど、と
批判されたが、
自分としては間違っていなかったと思っている。
僕が叫んだのは、知事個人へではない。
オール沖縄として知事を勝たせた沖縄県民へ叫んだんだ。
だからこそ、知事個人にその責任をすべて負わせてはいけない。
知事がこれからどう動くかは、
僕ら、民の声がいかに知事を導くかにかかっている。
知事が民の先頭に立つのではなく、
民が先頭に立ち、知事を導く時なのだ。
新潟の泉田知事の例を出すまでもなく、
地方自治体の長にかかる国からの圧は、並大抵のものではない。
死さえ覚悟させる強大な圧力だ。
だからこそ、県民が知事を支え、導いていくしかない。
オール沖縄の弱点を洗い出し、さらに磐石にしていこうじゃないか。
また、内地の人々に於かれましては、
この異様な現政権がこれ以上、民の生活を踏みにじらぬように、
それぞれの場所で、さらなるトライ&エラーを続けていただきたい。
新しく自由なつながりを広げ続けていただきたい。
より広く新しい人間が政治を語れる雰囲気作りを心がけていただきたい。
長くなりましたが、
今年はいろいろとお世話になりました。
まだまだ不束者ではありますが、
これからもゆたしくうにげーさびら。
来年は、「基地には反対だが反対運動には疑問がある」
という沖縄の生々しい声にも耳を傾けていきたいし、
オール沖縄が取りこぼしてしまっている人々にも焦点を当てて、
取材していこうと思います。
自分にできる範囲を少しずつ広げながら、
どうにかしぶとく、晴れ晴れとやっていきましょう。
それでは皆様の輝くような年末を、新しい年を、
お祈りしながら筆を置かせていただきます。
一年間ありがとうございました。
名護わーばーべーすより、
大袈裟太郎
#オールおれたち
2016年12月12日
フェンスに登り見つめた高江Hヘリパッド

大袈裟通信310
三宅洋平に言われたんだ、
「こいつはどんなことがあっても前に進んでいくやつだ」って、
今もその言葉がおれを強くしてくれるよ。ありがとう。
浦添のご夫婦がわざわざ僕のところまで、冷蔵庫を届けてくれたよ。
にふぇーでーびたん。ありがとう兄弟姉妹。
たくさんのひとに支えられて、僕は今日も生きている。
それを忘れないように1日を生きる。
気づけば、返還式まであと10日だ。
今朝は5時台の始発バスで高江へ。
バスの運転手が気を利かせて赤橋で降ろしてくれた。
作業員と話し合い、止める活動。
機動隊が到着する寸前に、蜘蛛の子散らすように北へ。
揚水発電所、GとHの作業車両を止める試み。
僕は、海を染める朝焼けが美しすぎてしばらく見とれていた。
千葉県警は比較的やさしい。
警視庁は手ひどい。
警察の採証班(カメラ撮影部隊)が遅れ、
沖縄県警が警視庁を怒鳴り散らす怒号が飛び交った。
メドさんが額に汗して走り回っていた。
3時間以上工事を遅らせることに成功した。
その頃、N1正面では座り込みの月曜行動、
今日は砂利を一台もゲート内に入れなかったとの吉報が届いた。
コバさんたちの喜ぶ顔が目に浮かんだ。
昼食後は山へ、
久しぶりのHヘリパッド。
あの、僕が切り株の上に座っていた場所といえば思い出していただけるだろうか?
フェンスをよじ登り全貌を見た。
もはやあの頃の面影は微塵もなく、
ゴルフ場のグリーンのような光景が眼の前に広がり、
僕は落胆した。眼を塞ぎたくなった。
どれだけたくさんの人が、この工事を止めるために、
少しでも遅らせるために手を尽くしてきたことだろう。
人生の大事な時間を費やしてきたことだろう。
僕なんてまだ新参者だ。
沖縄のひとびとの、そして高江の住民たちの想いを鑑みると、
僕は悔しくて悔しくて、このフェンスをぶっ倒して、
全部、粉々に爆破してやりたくなった。
しかし、僕ひとり捕まって、何になるというのだ。
やさしくて強い、彼らの想いに泥を塗るわけにはいかないのだ。
僕は整然と撮影を続けた。
この現状をより多くの人に知らしめること、
どのような苛烈な犠牲を払い、このヘリパッドが完成しゆくのかを記録し続けなければならないんだ。
たくさんのひとの顔が浮かんだ。
この工事が終われば、引っ越さざるを得なくなるひとたちの顔が浮かんだ。
10年間、振り回され続けてきた高江のひとびとの顔が浮かんだ。
なぜだかみんな笑顔だった。
眼の前では得体の知れない、緑の液体が散布されて、
切り刻まれた切り株を合成着色料みたいな異常な緑色で塗りつぶした。
折しも携帯から、
最高裁辺野古敗訴確定の報が届き、
苦虫を噛み潰す僕らを、
あざ笑うかのようにオスプレイが低空を旋回していった。
疲れ果てたおれはヘリパッドの横で眠った。
カミソリ付きの有刺鉄線に囲まれながら。
工事ももう本当に終盤のようだ。
作業員たちの資材置き場も片付けられ始めた。
今日の分の工事が終わるのを見届けて、山から下りた。
N1裏テントの陽もだいぶ短くなった。
すすきが夕暮れに輝いていた。
森住さんが夕焼けの写真を撮っていた。
ひょいと現れたゲンさんと久しぶりに話せた。
もうおれが最近気づき始めてるようなことは、
この人はすべて知っているんだと思った。
ゲンさんはやっぱり最強で最高だった。
帰りの車のなか、送ってくれたひとと、
工事が終わるまでに、僕らに何ができるかと、
工事が終わってからも、
僕らは何をするべきかって話をずっとしていた。
とても素敵な友人ができた。
名護に着いて、わーばーの近くのコンビニでオリオンビールを買っていると、一通のLINEが来た。
翁長知事が返還式への参加を見送るという内容だった。
あぎじゃびよい!と月を見上げた。
沖縄はまだまだ負けない。
だって、
美しく生きている人たちがこんなにもたくさんいるんだもん。
おれも、そんなひとたちと同じきれいな空気を吸って、
まだまだまだ、歩き続けられそうだ。
あーまん!大袈裟太郎だ!ででん!

https://www.facebook.com/oogesa/posts/1147651428644354
#高江今日
#オールおれたち
#沖縄は負けない
#あと10日
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2016年09月30日
メルマガ第8回試し読み“水俣でつながったこと”

大袈裟通信211
21日間で15回の高江報告会、全国ロードは水俣を終着地にひと段落しました。
たくさんのひとの笑顔と、涙に包まれた幸福な旅でした。
水俣には、公営の水俣病資料館とは別に、いわゆる裏資料館と呼ばれている、水俣病歴史考証館という民営の施設があるのを知りました。
裏と表のあいだに広がるグレーゾーンにこそ、深淵なる真実があると思い、足を運びました。
歴史考証館、
ここには今、
高江の問題や福島の問題で、ぼくらを悩ませている難題のすべてが凝縮していました。
住民と運動の分断の問題、
メディアによるデマの問題、
学者による権力者の擁護、
問題を矮小化、隠蔽するための国の手口、
誰が当事者なのかという線引きの問題、
そして深く横たわる、差別。
今、沖縄や福島でぼくらが抱えている問題に、すでに水俣の先人たちは、苦しみながら対峙しつづけてきた歴史を知りました。
水俣病歴史考証館、
皆、行ってみてください。
今、地方自治や社会運動に携わる人々にも、必ずや前向きなヒントを与えてくれる場所です。
そして、水俣病について、知らなかったことをいくつか知りました。
まずは、1956年に水俣病が公式に発見されてから1968年まで、チッソの責任は問われず、12年間、有害物質がたれ流されこと。工場が停止しなかったこと。
ここに、国の恣意的な策略を感じるのは、私だけじゃないはずです。
チッソが作っていたのはプラスチックです、これが当時の日本の高度成長には欠かせないものでした、
国は高度成長がひと段落し、東京オリンピックを終えた1968年にようやく、チッソの責任を認め工場排水を停止したのです。
この12年間のあいだに犠牲者が拡大し続けたのは言うまでもありません。
経済成長、東京オリンピック、汚染水のたれ流し、
2016年を生きる僕らにも、当てはまるキーワードばかりで、震えました。
そして特筆すべきは今、われわれと同世代の30代の水俣病患者も現われているという点です。
汚染された魚を食べた母親から生まれたわれわれ世代にも、少なからず水俣病の症状が出始めているのです。
しかし、声を上げるのはたいへんなのです。
医療費目当てのニセ患者だろ、と個人への誹謗中傷があるからです。
さらにおかしいことに国は2010年、水俣病患者だと訴え出る人々に、医療費の無償化を呼びかけました。
しかし、その内容が怖いんです。医療費を無償とする代わりに、自分を水俣病患者だと認定する裁判などは、一切やめろという内容だったのです。
国が2010年にやったことというのは、おまえらを水俣病患者とは認定しないが、
認定てほしいと訴えなければ、医療費をタダにしてやる。という内容なんです、、、
そこで苦渋の思いで5万人のひとが、和解してしまいました。
だから、水俣病と認定されているひとは5,000人ほどですが、認定されていない方、認定されずに亡くなってしまった方は10万人とも言われています。
まして、現地水俣で、聞いたお話では、表には出しづらいが、異常な数の死産、流産があったとのことです。
これで、あなたは本当に今の国を信じられますか?
この話を福島の被曝問題に平行移動して考える僕を、偏っていると言い切れるでしょうか?
97年、汚染水の停止から30年がたち、ようやく水俣湾の安全が認められ、漁業が再開されました。
水俣産の食の安全について活動されている方とも知り合いました。
30年ですよ?
30年経って、ようやく、
食べて応援が許される時代になったんです。
それでもまだまだ、水俣産食材の安全性の認知度は低いし、ぼくでさえ、
水俣産の魚と阿久根産の魚どっち食べたい?とフラットに聞かれたら、阿久根産と言ってしまうでしょう。
海や山を汚すことは、そのぐらい負の遺産になることなのです。地元のひとにとって半永久的に背負わなければならない重い十字架になることを忘れないでほしいです。
最後に差別の問題です。
水俣の中学生が修学旅行に行った先や、サッカーの練習試合に行った先で、ひどい暴言を浴びること、残念ながらこれは今も続いています。
そして、水俣病の根底に、差別が横たわっていることを今回初めて知りました。
初期に水俣病を発病した人々は、天草などの島から移住し、海辺に暮した、たいへん貧しい人々だったのです。
これはなぜかと言うと、
海辺に暮らす貧しい漁師たちは、田畑を持たないため、
どんぶりに魚を入れ、魚を主食にしていたのです。
よって、水俣の丘に住む人々より何倍もの水銀を摂取し、
まず、彼らから発症していったのです。
ですから、当初は、水俣病は差別者だけの病とされ、
水俣の人々からもタブー視され、問題の発覚が遅れたというのです。
そしてその差別は今だに根深く残っていると知りました。
その後の保障問題の分断にもつながっていると知りました。
ここで、突然、僕は当事者になってしまったのです。
ぼくの父や、祖母や祖父は天草の出身なのです。
自分が差別される側の人間だと気づかされたのです。
体が急に重くなりました。
言葉が出なくなりました。
そして、
高江のあの違法伐採の道に敷かれている砂利が天草から運ばれていると知ったのです。
この、高江報告会の終着地、水俣で、僕は、すべてが自分のもとに、つながってしまったと、不思議な気分に包まれました。
去り際に、考証館の遠藤さんとお話ししました。
「自分は元々左翼運動をしていたんだけど、あの時、歴史や伝統や文化をすべて否定してしまったことが、今の新自由主義の台頭につながっているんじゃないか、、、」
というお話しでした。
全共闘トラウマからの脱却を約束し、笑顔で握手しました。
六反とふたり、車中から眺める水俣湾、
そして遠くに見える天草は輝いていました。
ドラクエで言ったら3レベルぐらい一気に上がった音が頭の中で響きました。
これからも、過去の歴史や過ちや反省と向き合いながら、
一歩一歩、前に進んで行こうと決めました。
未来へのヒントはいつも過去や歴史にあるのです。
最後に、水俣のみなさん、
企画してくれた三須くん、本当にありがとう。
次は天草にも行きます。
水俣、薩摩川内、天草を結ぶ三角形が、自分の聖地だと気づきました。
ぼくはまた、ケツの座りの悪いあの大東京に戻り、
大袈裟通信を続けます。
報告会呼んでくれた、全国のみなさんほんとうに有難う。
これからもよろしく!
#この道は高江に通じている
メルマガ、カンパなど下記よりよろしくお願いします。
https://goo.gl/forms/tgTNbXjG1Brv8sEb2
2011年01月18日
太宰治情死考 坂口安吾
太宰治情死考
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)角力《すもう》
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新聞によると、太宰の月収二十万円、毎日カストリ二千円飲み、五十円の借家にすんで、雨漏りを直さず。
カストリ二千円は生理的に飲めない。太宰はカストリは飲まないようであった。一年ほど前、カストリを飲んだことがないというから、新橋のカストリ屋へつれて行った。もう酔っていたから、一杯ぐらいしか飲まなかったが、その後も太宰はカストリは飲まないようであった。
武田麟太郎がメチルで死んだ。あのときから、私も悪酒をつゝしむ気風になったが、おかげでウイスキー屋の借金がかさんで苦しんだものである。街で酒をのむと、同勢がふえる。そうなると、二千円や三千円でおさまるものではない。ゼイタクな食べ物など、何ひとつとらなくとも、当節の酒代は痛快千万なものである。
先日、三根山と新川が遊びにきて、一度チャンコのフグを食いにきてくれ、と云うから、イヤイヤ、拙者はフグで自殺はしたくないから、角力《すもう》のつくったフグだけは食べない、と答えたら、三根山は世にも不思議な言葉をきくものだという解せない顔をして、
「料理屋のフグは危いです。角力のフグは安心です。ワシラ、そう言うてます。なア」
と、顔をあからめて新川によびかけて、
「角力はまだ二人しか死んどりません。福柳と沖ツ海、カイビャク以来、たった二人です。ワシラ、マコの血管を一つ一つピンセットでぬいて、料理屋の三倍も時間をかけて、テイネイなもんです。あたった時はクソを食べると治るです。ワシもしびれて、クソをつかんで、食べたら吐いて治りました」
角力というものは、落ちついたものだ。時間空間を超越したところがある。先日もチャンコを食いに行ったら、ちゃんとマコを用意してあり、冷蔵庫からとりだして、
「先生、マコ、あります」
「イヤ、タクサンです。ゴカンベン」
「不思議だなア、先生は」
と云って、チョンマゲのクビをかしげていた。
然し、角力トリは面白い。角力トリでしかないのである。角力のことしか知らないし、角力トリの考え方でしか考えない。食糧事情のせいか、角力はみんな、痩せた。三根山はたった二十八貫になった。それでも今度関脇になる。三十三貫の昔ぐらいあると、大関になれる。ふとるにはタバコをやめるに限る、と云うと、ハア、では、ただ今からやめます、と云った。嘘のようにアッサリと、然し、彼は本当にタバコをやめたのである。
芸道というものは、その道に殉ずるバカにならないと、大成しないものである。
三根山は政治も知らず、世間なみのことは殆ど何一つ知っていない。然し、彼の角力についての技術上のカケヒキについての深い知識をきいていると、その道のテクニックにこれだけ深く正しく理解をもつ頭がある以上、ほかの仕事にたずさわっても、必ず然るべき上位の実務家になれる筈だということが分る。然し、全然、その他のことに関心を持っていないだけのことなのである。
双葉山や呉清源《ごせいげん》がジコーサマに入門したという。呉八段は入門して益々強く、日本の碁打はナデ切りのウキメを見せられている。呉八段が最近しきりに読売の新聞碁をうち、バクダイな料金を要求するのも、ジコーサマの兵タン資金を一手に引きうけているせいらしい。僕も読売のキカクで呉清源と一局対局した。そのとき読売の曰く、呉清源の対局料がバカ高くて、それだけで文化部の金が大半食われる始末だから、安吾氏は対局料もベン当代も電車チンも全部タダにして下され、というわけで、つまり私も遠廻しにジコーサマへ献金した形になっているのである。南無テンニ照妙々々。
双葉や呉氏の心境は決して一般には通用しない。然し、そこには、勝負の世界の悲痛な性格が、にじみでゝもいるのだ。
文化の高まるにしたがって、人間は迷信的になるものだ、ということを皆さんは理解されるであろうか。角力トリのある人々は目に一丁字もないかも知れぬが、彼らは、否、すぐれた力士は高度の文化人である。なぜなら、角力の技術に通達し、技術によって時代に通じているからだ。角力の攻撃の速度も、仕掛けの速度や呼吸も、防禦の法も、時代の文化に相応しているものであるから、角力技の深奥に通じる彼らは、時代の最も高度の技術専門家の一人であり、文化人でもあるのである。目に一丁字もないことは問題ではない。
高度の文化人、複雑な心理家は、きわめて迷信に通じ易い崖を歩いているものだ。自力のあらゆる検討のあげく、限度と絶望を知っているから。
すぐれた魂ほど、大きく悩む。大きく、もだえる。大力士双葉山、大碁家呉八段、この独創的な二人の天才がジコーサマに入門したことには、むしろ悲痛な天才の苦悶があったと私は思う。ジコーサマの滑稽な性格によって、二人の天才の魂の苦悩を笑殺することは、大いなるマチガイである。
文士も、やっぱり、芸人だ。職人である。専門家である。職業の性質上、目に一丁字もない文士はいないが、一丁字もないと同様、非常識であっても、芸道は、元来非常識なものなのである。
一般の方々にとって、戦争は非常時である。ところが、芸道に於ては、常時に於てその魂は闘い、戦争と共にするものである。
他人や批評家の評価の如きは問題ではない。争いは、もっと深い作家その人の一人の胸の中にある。その魂は嵐自体にほかならない。疑り、絶望し、再起し、決意し、衰微し、奔流する嵐自体が魂である。
然し、問題とするに当らぬという他人の批評の如きものも、決して一般世間の常態ではないのである。
力士は棋士はイノチをかけて勝負をする。それは世間の人々には遊びの対象であり、勝つ者はカッサイされ、負けた者は蔑まれる。
ある魂にとってその必死の場になされたる事柄が、一般世間では遊びの俗な魂によって評価され、蔑まれている。
文士の仕事は、批評家の身すぎ世すぎの俗な魂によって、バナナ売りのバナナの如くに、セリ声面白く、五十銭、三十銭、上級、中級と評価される。
然し、そんなことに一々腹を立てていられない。芸道は、自らのもっと絶対の声によって、裁かれ、苦悩しているものだ。
常時に戦争である芸道の人々が、一般世間の規矩と自ら別な世界にあることは、理解していたゞかねばならぬ。いわば、常時に於て、特攻隊の如くに生きつつあるものである。常時に於て、仕事には、魂とイノチが賭けられている。然し、好きこのんでの芸道であるから、指名された特攻隊の如く悲痛な面相ではなく、我々は平チャラに事もない顔をしているだけである。
太宰が一夜に二千円のカストリをのみ、そのくせ、家の雨漏りも直さなかったという。バカモノ、変質者、諸君がそう思われるなら、その通り、元々、バカモノでなければ、芸道で大成はできない。芸道で大成するとは、バカモノになることでもある。
太宰の死は情死であるか。腰をヒモで結びあい、サッちゃんの手が太宰のクビに死後もかたく巻きついていたというから、半七も銭形平次も、これは情死と判定するにきまっている。
然し、こんな筋の通らない情死はない。太宰はスタコラサッちゃんに惚れているようには見えなかったし、惚れているよりも、軽蔑しているようにすら、見えた。サッちゃん、というのは元々の女の人のよび名であるが、スタコラサッちゃんとは、太宰が命名したものであった。利巧な人ではない。編輯者が、みんな呆れかえっていたような頭の悪い女であった。もっとも、頭だけで仕事をしている文士には、頭の悪い女の方が、時には息ぬきになるものである。
太宰の遺書は体をなしておらぬ。メチャメチャに泥酔していたのである。サッちゃんも大酒飲みの由であるが、これは酔っ払ってはいないようだ。尊敬する先生のお伴して死ぬのは光栄である、幸福である、というようなことが書いてある。太宰がメチャメチャに酔って、ふとその気になって、酔わない女が、それを決定的にしたものだろう。
太宰は口ぐせに、死ぬ死ぬ、と云い、作品の中で自殺し、自殺を暗示していても、それだからホントに死なゝければならぬ、という絶体絶命のものは、どこにも在りはせぬ。どうしても死なゝければならぬ、などゝいう絶体絶命の思想はないのである。作品の中で自殺していても、現実に自殺の必要はありはせぬ。
泥酔して、何か怪《け》しからぬことをやり、翌日目がさめて、ヤヤ、失敗、と赤面、冷汗を流すのは我々いつものことであるが、自殺という奴は、こればかりは、翌日目がさめないから始末がわるい。
昔、フランスでも、ネルヴァルという詩人の先生が、深夜に泥酔してオデン屋(フランスのネ)の戸をたゝいた。かねてネルヴァル先生の長尻を敬遠しているオデンヤのオヤジはねたふりをして起きなかったら、エエ、ママヨと云って、ネルヴァル先生きびすを返す声がしたが、翌日オデンヤの前の街路樹にクビをくゝって死んでいたそうだ。一杯の酒の代りに、クビをくゝられた次第である。
太宰のような男であったら、本当に女に惚れゝば、死なずに、生きるであろう。元々、本当に女に惚れるなどゝいうことは、芸道の人には、できないものである。芸道とは、そういう鬼だけの棲むところだ。だから、太宰が女と一しょに死んだなら、女に惚れていなかったと思えば、マチガイない。
太宰は小説が書けなくなったと遺書を残しているが、小説が書けない、というのは一時的なもので、絶対のものではない。こういう一時的なメランコリを絶対のメランコリにおきかえてはいけない。それぐらいのことを知らない太宰ではないから、一時的なメランコリで、ふと死んだにすぎなかろう。
第一、小説が書けなくなったと云いながら、当面のスタコラサッちゃんについて、一度も作品を書いていない。作家に作品を書かせないような女は、つまらない女にきまっている。とるにも足らぬ女であったのだろう。とるに足る女なら、太宰は、その女を書くために、尚、生きる筈であり、小説が書けなくなったとは云わなかった筈である。どうしても書く気にならない人間のタイプがあるものだ。そのくせ、そんな女にまで、惚れたり、惚れた気持になったりするから、バカバカしい。特に太宰はそういう点ではバカバカしく、惚れ方、女の選び方、てんで体をなしておらないのである。
それでいゝではないか。惚れ方が体をなしていなかろうと、ジコーサマに入門しようと、玉川上水へとびこもうと、スタコラサッちゃんが、自分と太宰の写真を飾って死に先立って敬々《うやうや》しく礼拝しようと、どんなにバカバカしくても、いゝではないか。
どんな仕事をしたか、芸道の人間は、それだけである。吹きすさぶ胸の嵐に、花は狂い、死に方は偽られ、死に方に仮面をかぶり、珍妙、体をなさなくとも、その生前の作品だけは偽ることはできなかった筈である。
むしろ、体をなさないだけ、彼の苦悩も狂おしく、胸の嵐もひどかったと見てやる方が正しいだろう。この女に惚れました。惚れるだけの立派な唯一の女性です。天国で添いとげます、そんな風に首尾一貫、恋愛によって死ぬ方が、私には、珍だ。惚れているなら、現世で、生きぬくがよい。
太宰の自殺は、自殺というより、芸道人の身もだえの一様相であり、ジコーサマ入門と同じような体をなさゞるアガキであったと思えばマチガイなかろう。こういう悪アガキはそッとしておいて、いたわって、静かに休ませてやるがいゝ。
芸道は常時に於て戦争だから、平チャラな顔をしていても、ヘソの奥では常にキャッと悲鳴をあげ、穴ボコへにげこまずにいられなくなり、意味もない女と情死し、世の終りに至るまで、生き方死に方をなさなくなる。こんなことは、問題とするに足りない。作品がすべてゞある。
1948(昭和23)年8月1日
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card43137.html