ブッチャー音楽教室

小学生ならトランペット、トロンボーンのレッスンが無料で受けられます。演奏できるようになれば、みんなで曲を演奏して、音楽を楽しみましょう。  12年連続全国大会に出場させた指導者がリタイアして、ボランティアでやっています。  長い間バンドとしてやってきましたが、現在レッスンのみ。

    楽器はこちらに用意してあります。

    楽譜もこちらで用意します。

    参加にあたっては、費用はかかりません。
    (雑巾、クリアファイルだけ用意して下さい)

    毎週 日曜13:00-15:00
    場所 B's academy

     けっこうな回数、死にかけた。
    身体的なダメージは回復すれば立ち直れる。ただ、もはや治ることはない病気と戦い続けている。治療をやめたら間もなく死ぬ。救いは、治療さえ続ければ生きていられる。

     でも精神的なダメージもここんところくらい続けている。この精神的ダメージは回復することはない。
    詳細は残せない。信頼していた人に裏切られ、扱いによっては警察ざた、訴訟も辞さない。
    裏切られた不信感は消えず、人を見る目も変えられた。
    他にも信用してしていたことが裏切られた。これも詳細は書けないが、続けて盗難に遭ってる。侵入されて盗難にあったら、通報して警察に任せるが、証拠もないし、通報できない事情もある。
     さらに、頼まれて受けたことが他の人に迷惑をかけたりしながら、ようやくできるようになったと思っていたら、あっさり、何も言わずにやめたクソ。詳しく書けないが、その経緯を書ければ、如何にくそかがわかるが、事情で書けない。散々謝られたが、不信感は消えない。
    「ウソだろ」とあきれるようなこと。

    書けないことばかりだが、要するに不信感でえらい精神的ダメージをくらっている。

    まさに、心身ともにボロボロ。

    街中だが、畑を続けてきた。ところが病気のせいで、作った野菜は、ほぼ食べられない。
    じゃあなんで野菜づくりをしてきたかというと、バンドの子達と練習終わりに野菜をみんなでわいわいしながら、収穫して、おみやげにしてもらうのが楽しかったからだけ。
    作ったじゃがいもがたくさん過ぎて、みんなにあげても余り、自分でも食べたら、救急車で運ばれて、死ぬところだった。ジャガイモで死にかけた。そういう野菜も食べられない病気になっている。
     他の野菜もほぼ食べられない。メンバーもごく少なくなり、野菜を作る意味も無くなった。
     野菜を作る作業も病気などのせいで困難になった。つらくて作業もできない。

    「もう 終わりだね」

    そう決意した。畑はもうやらない。

    バンドの練習場所として作った広い部屋も、無意味になっている。
    かつては20人程度いたメンバーは、今は3人か4人。何年も待ったが増える見込みなし。

    広い部屋も大量の楽器や機材も無意味になってる。

    「もう 終わりだね」

    そう決意した。
    長いこと関わってきた子ども・音楽・・・。人生の中で多くを占めてきたことを終える。
    その想いは、簡単に言えるものではない。

    部屋はどうにもならないが、大量の楽器や機材は、処分することにした。
    シンセサイザーを取り入れた頃のシンセサイザーは、ほぼ10台。それを使うための機材群、スピーカー群、そしてトランペットなどの楽器は、20台近い。びっくりするほど大量だ。
    5tトラックに乗せられるかどうか危ぶまれるほど。

    そして、買い取ってもらった。20年近く使ってきたものだから、当然二束三文。数百万かけたものが子供の小遣い程度に。でも、散々使って数々の思い出を作ってくれた。使い切ったと言えるわけだから、売ってお金になったらなんて思っちゃいない。

    スッキリしたと同時に

    「もう終わったね」
    という実感。いつかは終わるのは当然と思ってたけど、意外にすんなり終わりを受け入れられた。

    死にかけたりで心身ポロポロになり、ずっと生きがいというか生きてきた中心的なことたちが、そろいもそろって一気に「終わり」という状況を迎えた。じわじわ終わると思ってたのに。
    「もういろいろやってこれたじゃん。十分でしょ」
    「はい、はいもう終わり。強制終了だ」
    終末を通告された。


    転換期なのは間違いない。生から死への転換か。
    すでに余生に入ってるが、別の余生への転換か。


     

     重大な事態になったので前回のブログからかなりの時間が経つが、記録のために書いておく。

    昨年10月に死にかけたことを書いたが、その後2回死にかけた。
    1度は、カツ丼事件。
    店でカツ丼を久しぶりに食べた時、喉に詰まらせた。それだけのことと侮れない。飲み込めないつまり嚥下障害で死ぬ例は意外に多い。それが原因で肺炎になって死ぬことも。
     喉に詰まらせた時は、「ええ、俺ってこんなことで死ぬの?」と本気で思うほど苦しかった。その間、息は吸いたくても吸えない苦しさ。死を覚悟した。幸い手洗い場の中にコロッと出てきた。奇跡だったのかもしれない。冷や汗まみれで、客席に戻り、そのまま店を出た。
     「おいおい、また死にかけたよ」

     それから間も無く、自分家の店舗型の天井のエアコンのフィルター掃除をすることにした。高いところなので脚立をを使い、危険は承知していた。手で持つ所もない脚立に乗っての作業は、恐怖でビクビクしながら慎重に行なった。4箇所のうち3つを終え、最後のエアコンも作業を終え、蓋をパチンととめて完了する時だった。
     そのパチンができない。
    「あれ?」ともう1回パチンとやろうとしたら指が滑ってそのまま体ごと倒れてしまった。
     そこは、脚立の上。
     倒れたら、高いところからの落下になる。頭から落下してしまったのだ。
    落下したら体は動かせず、声も出ない。
     運良く近くにいた人がいて、救急車を要請してくれた。
     緊急病院では、命に直結する脳にダメージがないか検査が行われた。
     幸い大きな問題は見つからなかったが、硬膜下血腫がじわじわ始まっている懸念が残り、1ヶ月は予断を許さない状況に。

     通常、あの高さで頭から落ちてたら、頭蓋骨が割れてた。それもなく、脳にも大きなダメージがなかったのは、奇跡的だったのだ。病院から帰って、事故現場を見て驚いた。
     分厚い板のテーブルが真っ二つに割れていた。あれほど頑丈な板を割るのは並大抵な衝撃力ではなかったはず。その板がきれいに割れてた。
     頭がぶつかる衝撃力は、板を割ってくれた。衝撃力は、そのおかげで頭蓋骨を割ることはなかったのだ。またしても奇跡的に命が助かった。

     ただ、頭から落下したのだからタダでは済まなかった。
     背骨(胸椎)が圧迫骨折を起こしてた。とんでもない激痛との戦いが始まった。
     落下してから2日間は、少しの痛みを感じてただけだが、3日めに背中に激痛が発生。
    事故直後は、不思議にも痛みはなく、心配して駆けつけてくれた人たちと談笑もした。
     安堵して帰ってくれた人たちがその後、私がかなりの激痛で苦しむことは、想像できなかったはず。
    「わざわざ心配してきてくださり、ありがとうございました」
    という笑顔を見たら当然だろうが、本当の落下事故の骨折というケガに苦しむとは想像もしなかったろう。

     よく事故を起こした人がすっと立ち上がって「大丈夫、心配ないよ」と言ってる場面もみる、その人が入院して動けなくなることはよくあるらしい。大怪我の直後は身を守るために脳からアドレナリンを出して、痛みを感じさせない仕組みがあることを体感した。事故の2.3日後から強烈な痛みが起こる。

     痛みで歩くどころか上を見て寝ているだけ。横になろうとすると激痛が。仰向けで首を上げることすらできない。
    「おおい、いるんでしょ」と窓から呼ぶ声に返事はできても玄関に出るどころか、首を上げることも起き上がることも無理。そんな激痛で苦しんでいる状態は理解されるはずもなく。
     少し経って激痛に耐え、うめき声を出しながら病院に行くまでが辛くてたまらなかった。

     他の病気のせいで強い痛み止めが使えない。湿布なんてクソの役にも立たない。痛みは消えるどころか和らぐこともない湿布。
     治す手立ては医師にもない。
     病院に行ったとて、「第8胸椎が圧迫骨折してますね。効かないと思いますが、湿布だしときます」
    だけで治療もできず、通院しても痛みはどうですか。あと最低1ヶ月は続きますよ」と言われるだけで治療する手立てもない。苦痛に耐えながら病院に行くのが無意味だった。
     ひたすら痛みを我慢して、自然治癒を待つだけ。
     徐々に痛みも弱くなっいったが、3ヶ月苦しんだ。

     脳がやられて死ぬところだったが、それよりは良かった。
     が、辛かった。

    死にかけた話はまだいくつもあるが最近こんなことがあった。
    なぜか生きているが、なんでこうもそんなことが続くのか。
    おかしいよ。
     しかし、また別のジャンルというか別のことで
    「なんでこうも辛いことばかりが起きるんだ。何かに取り憑かれてるんじゃ」
    と思わざるを得ないことが続いている。進行形なのだ。

    それ次回


    H県の知事が「なんてやつだ」と袋叩きに遭ってた頃にどこかで訴えたい自分なりの思いがあった。
    「妬みを持った中心人物が自分の愚かさを誤魔化すために誹謗中傷やデマを流し、引き摺り下ろそうとしてんじゃねえの」と世間の騒ぎ方に強い違和感を感じていた。「自分の時となんか似てるんじゃないの」ともし自分の考えを書いてたら「お前も頭おかしいんじゃねえの」と思われること必須だったし、確証もなかったので書かなかった。
     真相が明らかになりそうになってる今、やはり自分の体験と似ている気がするので少し記してみたい。
    「私も似たような目にあったんだ」

    「あの知事は確かに何かが欠如している。しかし、優秀すぎ、ちょっとやりすぎなせいで、足を引っ張られてる。潰そうとする力が働いている。いわばいじめの構造と似ている。」と思っていた。
     しょうもない妬み、嫉み、やっかみ、嫉妬・・、「あいつ面白くねえな」これはどこにもある。
    「私だって頑張ってるのに、認めてくれない。なんであいつばかりが認められて、やりたいようにできるんだ」という強い思いを持つ者が現れる。「そこまでガッツリやられるとこっちは迷惑なんだよ」と面白くないのだ。ムカついたんだろう。
     賛同する奴が現れ、やがて粗探しや不満点を探し出し、さらに賛同者を増やす。いつしか噂程度の話から集団全体がまるで洗脳されていくように、変貌しながら浸透していく。
     まるで集団ヒステリーの如く。
    「〇〇は間違ってるから潰してやろう、引き摺り下ろしてやろう」という間違った正義感を伴って目的化していく。それが劣等感の裏返しであることには気づかない。自分たちこそが正義であると信じているからタチが悪い。通常、頑張っている人には応援したいと思うはずだが、自分とは全く関わりのない人に対しては、それが言える。身近で関わりのある人間には、嫉妬心が生まれ、劣等感とともにやがて化け物のような感情に支配されるようだ。

     ヒステリー化した集団にボスがいた。周りを巻き込む中心人物が最も強い妬みを持った。自分がボスなのに、大した成果は出せない。部活も勝てない。近隣の学校との対抗試合でたまに勝てる程度。ところが、市内大会どころか、三河大会に出てる部活があり、東海大会まで出て、気づいたら、全国大会まで出る部活の出現におそらく嫉妬したのだろう。
     あれよあれよという間に新聞やテレビなどのマスコミにチヤホヤされている。単発なら我慢できただろうが、ずっと続く。部活だけではなかった。.月曜の朝は全校朝会があり、何か表彰されると全児童の前で披露される。毎週のように、その部活以外のことでもその部活担当者が賞賛された。
     おもしろいはずはない。
     「なんであいつだけが・・・」
     ボスの嫉妬は全職員の共感となった。そこまで持っていく手腕は、さすがボスだ。
     全国大会まで出た部活以外の部活が「近隣の学校との試合に勝った」という朝の職員打ち合わせの時間に発表されたら、大きな拍手が沸き起こった。
     ところが東海大会で勝って全国大会に出場できるようになったという発表だと拍手も起こらない。無視なのだ。集団そのものが相当狂ってきていた。
     しばらくの間は称賛する雰囲気があり、ほぼ全職員がわざわざ全国大会まで行って応援するということもあったが、徐々に崩れていった。
     徐々に面白くないという雰囲気が広がり、誹謗中傷が飛び交い、妨害するという状態までになっていった。面白くないと思っている連中が秘密裏に会合を持っていたらしい。酒を交わしながらの悪口は、盛り上がっただろうし、ボスらしい手口だ。もはや謂れのない悪口が飛び交い、どうもデマ、悪口は日常茶飯事だったかも。こちらはただ部活動をしているだけで何の迷惑もかけていない。悪口を言われる筋合いもないので、何のことかわからない。気にしない。
     許せないのは、全国大会に出る子どもにまで、嫌がらせをする輩も珍しくなくなった。
    「あの先生にまた嫌味を言われた」
    「練習してたら、大声で怒鳴られた」など
    そんな愚かしい行動にはなんの正義もないのに「自分たちが正義だ」と堂々としてい妨害が横行した。
    ボスは、全市の先生方が集まる場で、堂々と誹謗中傷したらしい。全国大会常連校に問題あるらしいと大きく広まる事態となったらしい。こちらは何も悪いことをした自覚もないし、何をわめかれても詳しいことは聞く気にもならず、詳細は知らない。もはや頭がイカれて、常規を逸している。
    「集団ってこうなってしまうんだ」と集団ヒステリーの怖さを感じた。自分たちこそが正義だと思ってる怖さ・・。これを目の当たりにした。
     読むはずもないが、この文を読んだ当人たちは強く反論し、正当性を主張するだろうが、中には自分たちの異常性に今になって気づく者もいるだろう。「狂ってた」と・・・。大半は周りに合わせてただけだろうが。

    ついには、「部活動はやらせない」「できないようにする」ような議決がされた。
     要は、部活動そのものが潰された。学校のバンド名が消えた理由の真実はそこにある。

    何の苦労もなくいきなりスパーンと全国に彗星の如く現れ、10年名を轟かせたが、ドロドロな中、喘ぎながら、消された。「長い間、頑張りました。お疲れ様でした」という卒業のような有終の美のかけらもなかった。竜頭蛇尾どころか蛇の尻尾は、腐ったような状態で死んだ。

    腐り始めた根元にあるのは、人間のしょうもない嫉妬。最終的に辞めさせられた。
     コミュニケーションが下手だったのはあるが、自分に非がなかったと信じてる。
     自分に非がある自覚もなく失職させられたあの知事と似てる気がする。
    何を言われても表情も崩さず、反省の意も表さなかったのは、自分に心当たりもないから仕方ない。
     
     自分もそうだった。悪口をどんなに言われても心当たりもない。
     ただ違うのは、正しいと思われる情報がSNSで一気に広まり、県民の理解がえられ、再び、知事に返り咲いた。劇的だった。
     自分は、潰されたまま消えていくのみだった。
    ただ、完全に消えたわけでもなく、部活は消えたが地域のバンドを作り、学校という狂った制約から解放されて意地で続けてやった。他の教員の妨害を受けることもなく、自力で全国大会にも出てやった。やがて勤務地も変わり、私的なバンドとして今は消えつつある今の活動につながっている。

     嫉妬や妬みから始まり、引き摺り下ろそうとする輩、事象は、規模は違えど、どこにでもあるような多くの集団でも見られる珍しくないことだろう。
     10年にわたる全国レベルの部活動が嫉妬から始まり、市内の教育界全体にも伝わる悪評とともに消えていった過程は、決して規模が小さいとは言い難いだろう。部活動が消されたことで市長も巻き込む事件も起きたエピソードは、またの機会に記す。

     今、日本中の話題になってることと似ていたので、曖昧な記憶で不確かな記述もあったとは思うが、書いてみた。

     

    自分のために記録しておく。

    「死んでてもおかしくなかった。でも死ななかった。なんでだろ」
    と、子どもの前でもぼやいたら
    「私たちに勉強や楽器を教えるためだよ」
    と言ってくれた。バンドのメンバーだった。もう一人も同じようなことを言ってくれた。
    小さなことだけどありがたいではないか。まだ生きる意味が残ってることを教えてくれた。

    心臓は規則正しく動いてる。ところがそれがおかしくなって不規則な動きになり、いつ突然死を起こしても仕方ない病状になった。心臓を規則正しく動かす電流を出す部分がイカれた。その部分を潰す手術が必要になった。アブレーションという手術であり、足の付け根からカテーテルを心臓まで送り、心臓に到達したら、先っちょで焼くか凍らせるかで潰す。マイナス50℃で凍らせ、不規則な電流が出るのを止めた。
     完了したらカテーテルは抜く。3泊4日で退院できるそんなに大きな手術でもなかった。そのまま終わるはずだった。しかし、おかしい、退院後の激痛がひどすぎる。

     後日、経過観察で受診した時、激痛を訴え、
    異常な膨らみを見た医師は、「動かないで、すぐ車椅子に乗って!」
    「緊急事態です」「このままECUに緊急入院です」と告げられた。

    カテーテルを挿入する際、どうも血管に穴が開いて出血してたらしい。体の外側が怪我したら、血は外へ流れる。だが今回は体内の大腿血管だ。体内で出血してた。流血できない血は、体内で風船のように膨らみ、いつ破裂してもおかしくない状況になってた。もう少しで破裂して・・・死ぬところだった。
    あと2日くらい発見が遅れてたら、死んでた。

    「寝たままで動くな」「起き上がっても、横向いてもダメ」ずうっと長時間続いた。
    真上向いて何も動かせない。水も食べ物も食べられない。点滴で生きた。その上眠れない。どんどん腰の痛みは激痛となる。
    すぐ出血を止める治療に入った。経験しないとこの地獄は理解できないだろう。
    責任感の塊となった医師の「俺がなんとかしないと・・、俺のせいで」という思いがひしひしと伝わってくる。「もう何時間も・・頑張りすぎですよ」と言わせるほど頑張っていただいた。2日目も続いた。が、医師が頑張っている時間の激痛は、半端じゃなかった。ようやく出血も止まった。出血状況を確認するために何度検査をしただろう。手術は4日間、後日のこのトラブルには1週間の入院が必要だった。

    死なずに済んだ。退院できた。
    ところが直後に別の手術。何針も縫った。麻酔が切れたら激痛が続いた。
    また、まったく別の治療でまたも激痛に苦しめられ続けている。

    9月下旬から1ヶ月間、詳しくは書かないが、次から次へと激痛が襲いかかってきてた。
    「なんで自分だけがこうも続けて苦しまなきゃいけないんだ」
    今も動かなかった時間による体力低下と他の作用でしんどくて仕方ない。治ってはいない。

    若い頃、もう散々頑張り、散々楽しんだ。
    もう充分だよ。
    でも、その後、何度も死にかけながら生きてきた。
    しぶとく生きてきた。今回も・・。
    そろそろこうやって苦しみながら、生涯を終えても仕方ないのかもと受け入れ始めてた。

     すっかり気弱になってる時に、メンバーの子が言った。
    「私たちに勉強や楽器を教えるために死ななかったんだよ。死んでもらっちゃ困るし」
    と言われた言葉。

    うれしくもあり、複雑な思いで、もう少し生きていいのかなと思わせてくれた。
    多くの労力や時間をかけ、参加費もいっさいもらわず、なんの見返りも求めてこなかった。
    しかし、こんな見返りが得られたとは・・・。
    感謝しかない。

    やはり自分は変人だ。

    昨日のこと、今のメンバーが自分の学校のバンドが出演することになり、出演後には遊べる時間があると喜んでいた。出演するついでに遊びの時間があるのは、初めてのことだそうだ。
     そういえば、私が指導したマーチングバンド時代、そして今の形のバンドで一体何度大会やら発表会に出たことだろう。100以上は確実。その時のほぼ100%は、大会出演に際し、往路、復路の中に遊びの時間を組み入れていた。少々イカれたヤツだ。

     大会で出演順を決める会議に出席し、出演順が決まった途端にどういうスケジュールにしたら遊びの時間が組み込めるか、まだ会議中だというのに真剣に考える。 
     出演順がトップになった時が2度ほどあった。吹奏楽でも音楽の大会でトップで演奏するのは、かなり不利で、トップの団体がいい成績を取ることはないというジンクスが一般的だ。中盤か最後あたりが有利とされている。自分とこがトップになったことで頭を抱えていたのは、そのことじゃなく、どういうスケジュールならたっぷり遊べる時間が取れるかということだった。他の学校の先生方がそんなことで悩んでるなんてだれが想像しただろうか。
     ちなみにトップで出演しても最優秀賞を獲っている。
     岐阜での大会なら岐阜城、浜松での大会なら中田島砂丘、全国大会ならディズニーランドを組み込む。
     必ずだ。全ての大会、発表会がこのありさま。
    「めざせ全国大会」とかかげた記憶はない。東海大会で最優秀賞をとっても「やったあ、全国に行ける!」と心の中で叫ぶことはなかった。
    「やったあ、ディズニーに行けるぞ」「ホテルにみんなで泊まれるじゃん」「バスの中で騒げる」と本気で思ってた。盛ってない。これが真相なのだから、子ども以下なのだろう。変人なのだ。まともじやないと今でも思う。

    バスの中も普通の先生は、一番前に座る。自分は、子供の間に座って一緒に騒いでる。弁当の時間はといえば、普通は先生は先生どおしで固まって食べる。私は、子供の中に入って食べる。毎度のこと。

    大会などで出演直前は、どの学校もビシッと並んで、動かないまま緊張してる。扉が開いて、いざ出演となると整然とステージに出ていく。
     うちの学校は、イカれてた。入り口の担当者や他校の先生は、開いた口が塞がらないといった感じであきれて笑ってた。うちの子たちは緊張して整列するどころか、ウロウロし回ってふさけて騒いでた。笑い声でうるさかった。並んでやしない。それを止めようともしなかった私は、まともな先生ではない。
     しかし、ドアが開いて「さあ行くぞ」と声をかけると、笑顔が急変し、一斉にステージに飛び出ていく。
     そんなイカれた学校が最優秀賞をかっさらっていた。あの出演直前の子供達の様子を知ってる人にとっては不思議な光景であり、驚いてたろう。
    「オタクの学校どうなってんの。あんな子たちなのにそれでいつも最優秀賞取っちゃう。ムカつくわ」
    と何度か叱られた。
     そんな子供たちの様子に「あんな子たち見たことない」と教頭先生などが語っていたことを後に知った。あの出演直前の子供達の呆れた先生と子どもの様子を知ってる人は、少なかったろう。

     練習の時も変わらなかった。練習は結構厳しい。ところが
    「さあ、休憩だ」
    となると厳しかった先生はもはや子供にとっていじめの対象になることも少なくなかった。からかわれるわ、蹴られるは、ふざけてばかり・・・。「先生」呼ぶやつは、皆無。「ブッチャー」としか呼ばない。
    めんどくさがりの女子は、「ブッチー」と呼び、「ブチ」挙げ句の果ては、「ブー」と呼びやがる。
     それを受け入れてた私は、変人。

     12年全国大会に出続け、全国トップを競ってたのに結局トップは取れなかった。まともな先生だったら取れてたかもしれない。申し訳ないと思ってる。でも、子どもらしくのびのびと楽しくやれて、それでまあまあいい成績取れてたのもいいんじゃない?

    まだエピソードはあるが、割愛。今のバンドのメンバーが練習するのは私の自宅。20人くらいが練習できる部屋を中心に設計して作った家。そんな理由で家つくるか?ふつう!!
    まともじゃない。
    ずうっと変人です。

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