瑛九展にふらりと寄られた建築家の大野幸さんは磯崎新アトリエのOBで、亭主とは25年近い付き合いになります。
小さい頃からヴァイオリンを弾いて、早稲田の学生時代は研究室ではなくオケの部室に通いつめ(今でも教会でバッハをひいている)、大学院時代はエジプトで遺跡発掘の日々という、変り者の多い磯崎アトリエでもとびっきり異色の経歴

大野「ボクの事務所のすぐそばに磯崎さんの幻の処女作・ホワイトハウスがあるのをご存知ですよね」
亭主「知ってるけど、まだあるの」
大野「それが中も見られるんですよ、最近カフェになったんです」

そりゃあ知らなかった、早速行かなくちゃあ。
ホワイトハウスをご存知ない方のために、磯崎先生ご自身の回想をお読みください。

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 私が深夜につき合っていたネオ・ダダイスト・オルガナイザーというグループは、そのメンバーの一人でもあった尾辻克彦(赤瀬川原平)の記録によると、私が設計したことになっているホワイトハウスと呼ばれていた吉村益信のアトリエを根城にして、グループ展やパフォーマンスを繰返していた。第一次安保闘争というものがあった前後約一年程の期間である。私が吉村益信のアトリエを設計したといっても、簡単な間取りを書いて渡したら、彼が自分でそれに基づいて、大工仕事を全部やりながら建ててしまったものである。ここで身につけた技術で、後年彼はニューヨークで生計を立てることになるから、私が妙に建築的にかかわらなかったのは結果としては正解であった。
 彼らの作品は、いずれ東野芳明氏によって反芸術と呼ばれるようになり、日本の前衛美術史の重要な一齣になって、美術館がかなりの数を収蔵しているが、その発表の当初は、通念と常識をくつがえす、その一点に標的はしぼられていた。リーダー格であった篠原有司男は、瀧口修造氏をいたく感動させた作品タイトル「こうなったらやけくそだ」で知られており、頭髪をモヒカン刈りにして、白いキャンバスにむかって絵具をつけたグローヴでシャドウボクシングをやった。ときには頭髪を絵筆代りにもした。赤瀬川原平は廃品回収所から、古タイヤのチューヴをひきだして、人間がすっぽりくるまれる程の大きさの女性器を模造して壁にぶら下げた。升沢金平は寝小便の跡のある破れ布団を壁にかけ、毎日、その表面に新鮮な小便を補充していた。ホワイトハウスでは深夜に到ると酒宴がはじまり、大量の最安価ウイスキーが消費されたが、吉村益信はその空瓶を屏風から横方向に林立させ、尖端をたたき割り、危険きわまりない迷路をつくって、観客を強制的にその間を通過させた。荒川修作は、胎児のようなものの箱詰めを量産していた。(以下略)

磯崎新『建築家捜し』(岩波現代文庫、75〜76ページ)より

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磯崎ホワイトハウス大野さんがスマホで見せてくれたカフェアリエのホームページには、「新宿ホワイトハウスと呼ばれたこの家は1957年、 磯崎新氏の設計で美術家吉村益信氏のアトリエ兼住居として建てられました。近年まで画家の宮田晨哉氏がお住まいでした。」とあります。

大野さんによれば、「やっぱり磯崎さんらしい空間で、まったく(コンセプト)は変わっていない」。
夜はお酒も出るらしい。楽しみです。

ときの忘れもののコレクションから関連の作品をいくつかご紹介します。
akasegawa_nezisiki赤瀬川原平
「ねじ式」
1969年
シルクスクリーン
51.7x75.5cm
Ed.100 Signed

篠原有司男ストロベリソフトクリーム篠原有司男
「Strawbery Soft Cream」
1976年
シルクスクリーン
39.0x50.0cm
Ed.30 Signed

磯崎新MOCA磯崎新
「MOCA #4」
1983年
銅版(エッチング)
イメージサイズ:15.0×20.0cm
シートサイズ:29.0×38.0cm
Ed.100 Signed

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