ウォーホルKIKU1アンディ・ウォーホル Andy WARHOL
「KIKU 1」
 1983 Silkscreen(刷り・石田了一)
 Ed.300  signed
 50.0x66.0cm

ウォーホルの晩年の版画「KIKU」シリーズは、私が1983年にエディションした連作である。
今となっては遠い思い出だが、初めてパスポートをとってニューヨークに渡り、数十ページにわたる契約書を交わした相手がアンディ・ウォーホルだった。

なぜ日本発のエディション、それも菊の花の作品が誕生したかを書いておくのも当事者の務めだろう。
記憶のあいまいなところを、ほんとは正確な記録でチェックして書かなければならないのだが、少しご勘弁いただいて、不正確な点はお許しいただきたい。

1974年、当時毎日新聞社で新規事業の企画に携わっていた私は、ひょんなことから会員制による版画の版元「現代版画センター」を創立した。
大きな目的は毎日新聞の未来の読者獲得のため、具体的には版画の普及活動を通じて全国の小中学校にオリジナル版画を寄贈しようという遠大な計画だった。開業の資金は毎日新聞が出した。
毎日新聞本社からは私ひとりが出向(正確には平社員だったので出向とは言わず<勤務>という)し、組織を立ち上げた。久保貞次郎先生が顧問となり、尾崎正教先生はじめ小コレクター運動に関わっていた多くの人が参加してくれた。当初のスタッフは全員アルバイトだった。
とそこまでは良かったのだが、まもなく毎日新聞が経営危機に陥り、全ての関連事業を見直し、利益のあがらない事業は撤収せよとの社命が下った。
オノサト・トシノブ、靉嘔はじめ作家を口説き、全国を行脚して版画の頒布組織をつくりつつあった私は梯子を外されてしまったわけで、進退窮まった。私もまだ20代で若かった。社の上司たちに出資して貰って「株式会社現代版画センター」に法人化、毎日新聞を退社し、すべての資産(エディション作品)を買い取り独立した。
決して順調とはいえなかったが、たくさんの方が応援してくれて、関根伸夫、菅井汲、元永定正、加山又造、難波田龍起などのエディションを次々に手がけた。このあたりのことはいずれ詳しく書くとして、ウォーホルの話を急ぎましょう。

1982年、鉢山町の私の自宅兼企画室のお隣に住むTさん(不動産業)の紹介で、宮井陸郎さんという正体不明な人物が現れた。60年代のアングラといわれた芸術運動の担い手のひとりで、特に映像やヴィデオアートの先駆者だった。かわなかのぶひろ、小林はくどう、中谷芙二子、萩原朔美、東野芳明らとも協働したらしい。生きているらしいのだが、今は行方不明である・・・・
宮井さんは1974年10月〜11月にかけて東京・神戸の大丸で開催された「アンディ・ウォーホル大回顧展」(朝日新聞社主催)のプロデューサーだった安斎慶子さんの助手としてニューヨークでウォーホルと交渉し、彼の来日に尽力した人だった。
ダリやウォーホルを口説き落とした70年代の安斎慶子さんの活躍については別の機会に譲るとして、このときのウォーホル展はマスコミ的には大騒ぎだった。
ところが、美術業界は何の反応も示さなかった。そういうと皆さん驚かれるだろうが、東京画廊も南画廊も南天子画廊も、つまり日本の現代美術の大画商さんたち、誰もウォーホルには興味を示さなかった。それが証拠に、ウォーホルの個展を最初にやったのは何と西武デパート渋谷店だ(1971年)。その後もウォーホル生前にはこれら大画商さんたちは個展を開くことはなかった。
ウォーホルは実はデパート作家だったんです(・・・・)

宮井さんはその後インドに渡り、なにやら某宗教に入り、瞑想にふけっていたらしいのだが、再び下界に戻りウォーホルを口説いて大規模な展覧会を組織して、今度こそ美術界に正当なウォーホル評価を確立したいと考えたんですね。
詳しくは聞きませんでしたが、私のところに来る前までに相当銀座や青山の画商さんを口説いてまわったらしい、しかし軒並み断られて(ウォーホルは売れない!!)、とうとう渋谷の山の上の私の事務所にたどり着いたというわけです。
(続く)

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