植田実のエッセイ
尾形邸「タイルの家」を訪ねて1 植田実

尾形一郎・優夫妻の自邸を訪ねた。
四角い打ち放しコンクリートの箱形で、各辺ほぼ12メートル、つまり正方形プランの3階建て。御両親や妹さんも住む複数世帯の家だが、外観は四面とも等間隔に各階三つの開口部が並ぶだけだから、店舗ともオフィスとも工房ともつかない佇まいである。見るなり私は、哲学者ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインが姉マルガレーテ・ストンボロウのために設計した住宅を連想した。やはり3階建て、等間隔の窓が三つ並ぶ正面ファサードが印象的だからだが、尾形さんたちの家はその基本形だけで全てを決めた、ずっとシンプルな表れになっている。
この家があるのは高級住宅街、どころか都内随一の、駅を要とした放射状の並木道を誇る場所で、3,40年前まではそれぞれ控え目でありながら自分の美しさを十分に心得ている洋館和館が多かった。そのほとんどが建て替えられた現在の家並みは何だかぎくしゃくしている。それは戦後初期から今日まで、核家族のための生活に即した小住宅設計に建築家たちが専念し、それより上の階層の住宅について考える動機も機会も失っていた、その結果としての景観だと私は思っているのだが、さて、この放射状の道路の末端部をつなぐ円弧状の道に出ると家々の強張りは緩む。さらにその外側が深く落ちこんで、切り立った崖が迫ってきたり家々の隙間から遠い風景が大気のように入り込んでくる地形のせいかもしれない。
尾形邸の立地はこのいわば裏手の、高名な地区特性の縛りから解放された、つまりはいちばん気持ちのいいところで、緩やかなスロープに背面をわずかに埋め、落ち着いている。幾何学的なコンクリート・ボックスが向こう三軒両隣りにたいして異質な存在ではなく自然に感じられるのは、さきに触れた住宅らしからぬ性格と巧妙な接地の形によるのだろう。歴然とした住宅対住宅においてこそ異質性が発生する。レベルの高い住宅街においてはすべてが住宅対住宅の連らなりだから、すべて異質同士が相互に閉じているのが現状であるそのなかで、尾形邸はかえって普通であり、開かれている。
タイルの家1
「タイルの家」正面ファサード

それは均一的な壁と開口部の並びが「住宅らしからぬ」ばかりか、出入り口の構えさえうかがわせていないからだし、もっとずっと直接的には、道に面したファサードのコンクリート外壁が、両端部を残して、めずらしい図像と文様のタイルに覆われているからである。メキシコのアラベスク文様をベースとしてグァルダルーペの聖母と聖なる幼子が嵌めこまれている。
絵タイルを住宅の一部に採り入れるというあしらいは決して特別ではない。スパニッシュを基調とした、かの三島由紀夫邸にも門の鉄格子の奥の壁に可愛らしい絵タイルが1枚嵌め込まれていると聞いて、私はわざわざそれだけを見に行った記憶があるが、あれは飾りである。飾りは住まい手に愛されるほどにその私有を強調した表れとなる。住宅街景観の心地よさとはそうした関係で、外から見る者にもとりあえずは許容されてきたといってもいいだろう。
けれども尾形さんの家におけるあまりにも大々的、しかも本格的な(現地のタイル・アーティストに発注した)タイル壁は装飾という一線をあっさり越えてしまっている。一点豪華主義ではない。といって建物を丸ごとタイル貼りにしてメキシコの精神風土に帰化した姿でもない。ぎりぎりまで理詰めでつくられた日本のお家芸ともいうべき打ち放しコンクリート(技術的にも美意識的にも)の建物に、突然メキシコの建物が交叉した、その瞬間がそのままフリーズしたような、何とも不思議な動きの表れが、尾形さんたちの家なのである。ここで尾形さん夫妻をまず建築家として紹介しておこう。(うえだまこと)


*画廊亭主敬白
尾形一郎さんのエッセイに続いて、<植田実のエッセイ―尾形邸「タイルの家」を訪ねて>を今日から3回にわけて掲載します。

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ウルトラバロック案内状600
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