現代日本版画家群像 第1回 
恩地孝四郎と長谷川潔

針生一郎


 晩年の恩地孝四郎を、わたしはアートクラブの会合などで時折みかけたが、これがあの心ひかれる抽象版画の作者か、と思いながら遠望していただけだった。彼の死後、当時「日本読書新聞」にいて、いま「週刊読書人」に移っている長岡光郎が、恩地の女婿にあたると打明け、恩地の長男の画家邦郎の家にわたしを誘ったことがある。いってみると、当時わたしが住んでいた荻窪のすぐ近くで、多くの美術家がサロンのように集まった恩地の生前、なぜ訪れなかったかと悔やまれた。
 数年前、形象社から短かい原稿をたのまれたとき、同社から刊行されたばかりの『恩地孝四郎版画集』を贈られ、私は長いあいだ気がかりだったこの作家の、全貌にようやく接することができたのである。恩地の父は裁判官を経て宮内省に入った忠君愛国、厳格一途のひとで、四男の孝四郎はその窮屈さをのがれるため、幼時から虫や魚、人形遊びなどに熱中したらしい。父は彼を医者にするつもりで、ドイツ語が必修の独協中学から、旧制一高を受験させたが、息子がこの受験に失敗した上、その兄や妹があいついで病死したのに弱気になって、東京美術学校志望をみとめたという。だが浪人中白馬会の経営する葵橋研究所に通って、そこで永瀬義郎、藤森静雄、田中恭吉らを知り、また麹町の自宅に近い竹久夢二宅を訪問して、版画熱を吹きこまれたのが孝四郎にとって決定的となった。
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恩地孝四郎「水浴

 当時、浮世絵末流の木版画は精巧な複製技術となり、銅版、石版も印刷技術に組みこまれていたから、白馬会系の印象派亜流画家は、版画を職人仕事として展覧会からしめだそうとした。それにたいして竹久夢二は、すぐれた彫り師伊上凡骨に依頼して木版画に創作的な活力をよみがえらせ、絵草子店「港屋」を経営しながら、展覧会芸術を否定して挿絵、装幀などのエディトリアルな領域に新生面をきりひらいた。また山本鼎、石井柏亭、森田恒友らの「方寸」、富本憲吉、南薫造らの新帰朝者、「白樺」などが後期印象派、アールヌーヴォー、表現主義などの思潮を導入しながら、自画自刻自摺の創作版画の運動をよびおこしたのである。
 一九一〇(明治四三)年、美校洋画科予備科に入った恩地は、翌年彫刻科に転科し、一二年洋画科に復帰したが、すでにムンクやカンディンスキーの影響をうけた、日本最初の抽象版画をこころみていた。一九一四(大正三)年、和田英作教授の油絵コンクールに、風変りな静物画をだしてみずから撤回し、まもなく諭旨退学となっている。同年、恩地は藤森静雄、田中恭吉とともに、詩と版画の同人誌「月映(つくばえ)」を「白樺」の発行所洛陽堂から創刊する。この雑誌は翌年、和歌山に帰った田中恭吉の病死とともに七号で廃刊となったが、そこに発表された恩地の作品は、アールヌーヴォ風の曲線模様や女性像から、自意識の亀裂のような曲線の交錯のうちに、ぶきみな眼だけ光っているような、観念性と抒情の結びついた作風に進んでいる。
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恩地孝四郎「五月の風

 詩人でもあった恩地は、一九一六年には萩原朔太郎、室生犀星らとともに同人誌「感情」を創刊、これらの詩人の『月に吠える』『愛の詩集』などの挿絵と装幀を担当し、一七年には山本鼎、石井柏亭らが留学から帰るのを迎えて、日本創作版画協会の創立に参加、二一年には藤森静雄とともに総合芸術誌「内在」を編集発行し、二二年には創作版画協会編集の「詩と版画」(アルス社)に協力した。だが二三年に関東大震災がおこると、彼は生活のため土岐善麿の紹介で鶴見花月園の少女歌劇部主任となり、自作脚本の監督・作曲・舞台美術を担当し、その後アルス社を中心に数多くの装幀を手がけるようになった。一九五三年に書かれた「恩地孝四郎自己紹介」には、つぎのようにある。「彼は現在殆んど写実から離れ抽象若しくは非対象の道に専念して居る。彼が非対象主題を持ったのは大正初期からで一九一〇年代であるが、弱気な彼は周囲と同化して長い間廻り道をして居たわけだ。彼の装本図案家としての生業はその傾向を助長していたといえる」
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恩地孝四郎「廃墟

 恩地は顔にはたえず笑顔をたやさずに、心にはいつも憂愁をいだいて、抽象と具象を問わず「捉えようとすれば消えてしまうものの美しさ、変わりゆく物のそのひとときだけにある美しさ、うつろいゆく瞬間の残していったあるかないかの姿の美しさ」を表現しつづけた。そこには、音楽の楽想と通ずるものが、いつも見い出される。技法的には浮世絵の赤線摺り、雲母摺り、つや出しを活用したり、今日流行の写真転写を先駆的にこころみたり、蠟紙に絵具を塗ってガラス面に伏せて摺ったり、はては木炭、紐、木の葉、レース、ゴム靴のかかと、自分の手などを「版」に使う実験までおこなっている。しかも、アメリカの研究者オリヴァー・スタットラーによれば、“『氷島』の著者”と題されている萩原朔太郎像について、恩地が頑として摺り増しをしてくれないため、人びとは恩地の高弟で摺りにも細かい指示をうけた関野準一郎に摺り増しを依頼し、また恩地の死後、遺族が彼の戦後作品を手がけてきた浮世絵摺師平井孝一に何点かの作品の摺り増しを依頼したが、恩地摺りには詩が躍動するのにたいし、関野摺りは散文、平井摺りは学術書の脚註だという。戦後毎月第一木曜の面会日「一木会には、関野のほか、山口源、北岡文雄、斉藤清、品川工駒井哲郎、太田耕士、前田政雄らが集まったほか、ハートネット、スタットラー、ミッチェナー、ケンスターバーク、グリリらアメリカ人も訪れ、今日恩地作品の大部分はアメリカに買いとられている状態だ。

 長谷川潔の父は銀行家で、幼時から息子に漢文の素読、書や日本画の手ほどき、書画骨董の鑑賞を教えるような文人であり、親戚には南画家安田老山がいた。中学時代に父母がなくなり、伯父たちは外交官になることをすすめたが、高校受験のため健康を害し、美術の道に進んだ。こうして、葵橋研究所で永瀬義郎らと知りあい、ついで藤島武二らの本郷洋画研究所にも通ったが、後者で岡田三郎助からエッチングの手ほどきをうけ、しだいに版画をとおしてブレイク、ルドン、ムンク、カンディンスキーらのヨーロッパ芸術精神をさぐる方に興味がむかった。
長谷川潔木版
長谷川潔(木版)

 一九一二(大正元)年、日夏耿之介、西条八十、森口多里らの同人誌「聖盃」(翌年「仮面」と改題)に加わり、第三号以後の表紙を永瀬義郎と交替に木版画で担当して注目をあびた。一四年、ベルリン留学から帰った山田耕筰が、ドイツ表現派の版画数点をもたらしたのに刺激され、また山田との親交をとおして音楽と絵画の関係に開眼し、一七年の日夏耿之介処女詩集『転身の頌』の装画装幀では、一見装飾的なうちに象徴性と神秘性への志向を示している。その間に、フランスから銅版画印刷機と道具一式をとりよせ、バーナード・リーチに「ソフト・グランド」とよばれる銅版技法を学び、十数点の試作を残した。
 第一次大戦後、アメリカ経由でパリに赴いた長谷川は、以来八十歳をこえる今日まで一度も帰国していない。彼は油絵、木口木版、石版、銅版などのあらゆる技法を研究したが、銅版ではエッチング、アクアチント、ドライポイント、ビュランのほか、二四年以後「マニエル・ノワール」とよばれるメゾチントの古い技法を研究して復興した。これは十七世紀半ばオランダで創始され、肖像画や静物画の複製技術として十八世紀のフランスでも流行したが、中間色の複雑な調子で写真に似た効果をもつが、長谷川は明暗の対照をできるだけつよめて、創作版画の表現をつくりだした。
 要するにマニエル・ノワールは、黒地に白で映像をうかび上らせるのが特色で、初期には縦、横、斜めの細線の交錯で下地をつくったが、その後ヴェルソーを用いて全面にささくれのような線を交錯させ、つぎにその線を削ったり面を磨いたりして、中間色から純白までの諧調をつくる技法を完成した。さらに材料の分析研究の結果、褐色や藍色をまぜた黒のインクを特別につくらせ、一作ごとに独特な調子を要求し、紙もフランス製のリーブ、和紙、中国の玉版宣、ときに羊皮パルシュマンや子牛の皮ヴェランを用い、すぐれた摺師が一時間に四枚ぐらいしか摺れないほど細心の工夫を加えて、闇のなかに実在の神秘が開示される、高雅で味わい深い世界が生まれるのだ。
長谷川潔「薔薇と時」
長谷川潔「薔薇と時」

 こういう世界は、パリ周辺が急速に近代化されて自然が失われてゆくとき、ある村はずれで枯れかけた一本の木とむきあって、それがひとつの存在として自分に語りかけるのを感じたのが動機で、みいだされたという。だが、日本を離れて孤独のうちに精進しなければ、このようなほろびた版画の技法を新しい息吹きでよみがえらせることも、不可能だったろう。彼はフランスで数々の勲章や栄誉をうけたが、日本では浜口陽三、駒井哲郎らに深い影響をあたえ、永瀬義郎と文通をつづけるほか、名前だけは知られながらあまりにも真価が知られていない。むろん、いくつかの画廊で作品展がひらかれ、またときおり彼のアトリエを訪れる日本人画商、ジャーナリスト、美術家はあるが、それがかえって生き先短かい彼のスケジュールをさまたげ、マニエル・ノワール創造にこめられた彼の精神の全幅が、祖国の作家たちに継承されるための基盤がまだ形づくられていない。
 わたしは長谷川潔自身が何よりも心待ちにし、すでに何度も画商などのあいだで話が出た、彼の大回顧展がなぜ公立美術館で実現しないのか、不思議でならない。それが実現したら、フランス人の夫人とともに帰国したいという彼の希望も、もう可能だろう。これらの事実は、わたしたちの美術の大きな欠落を示すもので、戦後版画史の総括どころか、まだその幕開けすら公式には確認されていないことになるだろう。しかし、この二人はいかにも版画家らしく、つつましく、そういう現実をしずかにみつめながら生きたのである。
(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.45より再録
1979年3月 現代版画センター刊

13
長谷川潔
「窓からの眺め
(シャトー・ド・ヴェヌヴェルの窓)」


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*画廊亭主敬白
昨日(五十殿利治)に続き、新旧研究者の論考を掲載しました。
針生先生の論考は亭主が1974年〜1985年にかけて主宰していた会員制による共同版元「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」に掲載したものです。
同誌は名称や判型はときどき変えましたが、1985年1月号まで通算105号まで刊行し、エディション作家をはじめ、美術評論家、コレクターなど多くの方々に執筆していただきました。
現代日本版画家群像」は、1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで足掛け4年にわたる長期連載でした。
執筆から既に30数年経ちましたが、作家の評伝として、また現代版画史としていま読んでも新鮮です。今回ご遺族のご了承を得て再録させていただくこととなりました。
30数年前なので、たとえば長谷川潔の美術館における回顧展は当時まだ開催されていませんでしたが、その後、京都国立近代美術館、横浜美術館などで大規模な回顧展が実現しました。遅きに失した感もありますが、ようやく世界の版画史に残る業績が評価されてきたということでしょうか。
この連載は、毎月28日に掲載(再録)いたします。どうぞご愛読ください。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。

◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は毎月28日の更新です。

◆ときの忘れものは6月25日(火)〜7月6日(土)「恩地孝四郎展」を開催しています(*会期中無休)。
恩地DM創作版画運動の指導者、日本の抽象絵画のパイオニアであった恩地孝四郎の木版画、素描、水彩など約20点をご覧いただきます。

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