現代日本版画家群像 第3回
浜口陽三と瑛九

針生一郎


 数年前、パリの浜口陽三から手紙がきて、古い資料を整理していたら、かつてわたしが彼について書いた記事がでてきたので、記念に作品を一点贈るとあり、まもなくパリ帰りの女性に託して銅版画が届けられた。わたしはその小さな画面をみるたびに、そこにはらまれる空間の強靭さと諧調のゆたかさにおどろきを新たにする。浜口とは彼がパリに住みつく前から顔みしりで、近年もわたしはパリのカフェ・クーボールや南天子画廊で会って雑談したことはあるが、考えてみればまだ一度も彼のアトリエを訪問したことがない。その孤独な研鑽ぶりと悠揚迫らぬ生活ぶりを遠望して、すでに完成された芸術家と敬遠していたのだが、今度パリにいったらふらりとたずねてみたいと思っている。
 浜口は人も知るように、創業三百年以上にわたる「ヤマサ」醤油の御曹子で、美術蒐集家でもあった十代目儀兵衛の十人の子女の三男として、一九〇九年和歌山県有田郡広村に生まれ、六歳のとき千葉県銚子に移った。叔母夫婦が槐樹社に属する日曜画家だったため、幼時から当時の有名画家たちと知りあい、小学時代小室翠雲に南画、片岡銀蔵に油絵の手ほどきをうけ、またコンニャク版でオモチャの紙幣をつくったりした。学校は大きらいで、中学時代は小林万吾に油絵、建畠覚造の父建畠大夢に彫刻を習い、美校では彫塑科に入って国画会に彫刻を出品した。だが、アカデミックな教育に反撥し、梅原龍三郎のすすめもあって、一九三〇年、二十一歳で美校を中退し、パリに留学する。長谷川三郎や岡本太郎がその前年からパリにいたが、大恐慌でさしものエコール・ド・パリのはなやかな雰囲気も死にたえようとしていた。
 パリでは油絵に集中して三三年サロン・ドートンヌ、三四年サロン・デ・ザンデパンダンとサロン・デ・チュイルリーに出品する。三六年には貨物船でカリブ海の諸島を経て旅行し、ユーヨークに滞在したが、先に帰国した長谷川三郎が、村井正誠山口薫、矢橋六郎、津田正周、大津田正豊らと結成した「新時代洋画展」に、同年作品を送って連鎖個展に参加している。三七年には「新時代」グループが、「フォルム」の難波田龍起、「黒色」の小野里利信、独立展にいた森芳雄らと結成した自由美術家協会の創立会員となる。この年、水彩とともに銅版画に手を染め、ドライポイントで《猫》などを制作し、三八年アンドレ・シュレール画廊で銅版画をふくめて油絵の個展をひらいた。だが、第二次大戦がはじまって、三九年無一物同然で帰国している。
 大戦中は軍国主義に背をむけて悠々自適と思いきや、旺盛な活動をつづけている。四〇年は台湾や沖縄に旅行し、四一年は京都に滞在して、臼倉喜八に水墨画を習い、岩橋英遠、船田玉樹、津田正周らとともに、プロレタリア美術の流れを汲む日本画の歴程美術協会にも加わっている。太平洋戦争がはじまると、経済使節団の通訳として仏領インドシナ、いまのヴェトナムにおもむき、敗戦まで三年間滞在した。そのため、帰国後にマラリアを発病し、二年ほど療養についやしている。
 浜口陽三が銅版画に本格的にうちこむのは、マラリアから回復した一九四八年以後で、女の顔、隅田川風景、猫などをドライポイントとメゾチントでつくり、五一年フォルム画廊の個展で発表した。メゾチントは戦前のパリで長谷川潔からも刺激をうけたのだろうが、長谷川のように真黒のプレパラシオンから出発せず、灰色を基調にして透明性をあたえようとする意図がすでにうかがわれ、ドライポイントの線を網状にかさねて濃密な調子をだす技法も、それに即応している。五三年、ふたたび滞仏する年には、フォルム画廊と養清堂画廊の両方で個展をひらいたが、銅版の高度な技術とつきない魅力に、多くの人びとが眼をみはったのをおぼえている。
hamaguchi_01_pari-yane浜口陽三
「パリの屋根」
銅版

 パリに着いた夜、彼はモンパルナスのカフェで、その後の生活ときりはなせない画商ベルグリユーアンと知りあったというのも、運命的なものを感じさせる。五四年、サロン・ドートンヌに銅版画を出品して会員となり、五五年ごろからカラー・メゾチントに進んだ。渡仏後の主題はすべて静物にかぎられるが、青、赤、黄、黒の四つの版をかさね、どの版も半調子のプレパラシオンから出発し、ペルソーの刻みを密にした濃い調子の部分と、バニッシャーやスクレイパーで細肌をつぶしたり、けずったりした明るい部分をもつから、おそろしく時間と根気のいる製作ぶりだ。そこには石版画のような色彩空間の計画性と微妙な諧調の変化があって、宋元陰体画の精神性とクレーのような自在な幻想が統一されている。だから、五七年サンパウロ・ビエンナーレで版画部門最高賞、五八年ルガノ版画ビエンナーレで国際賞、六一年リュブリアナ版画ビエンナーレで大賞、六六年クラコ一版画ビエンナーレで優秀賞と、数々の受賞を経験したのである。
 浜口は弟子をとらないが、斉藤寿一をはじめ私淑して訪れるものは拒まず、彼のパリ定住も日本に背をむけたわけではなく、ときどき往復して暮らしている。六九年後半以後は神経性の眼病のため、一時メゾチントの制作をやめて石版画などに集中したが、七四年からメゾチントを再開した。一種の国際人ではあるが、日本人の情感を手放さず、といって東洋趣味などとまったく無縁な彼の作品は、多くの若い世代に指標をあたえている。
 瑛九という天才がいるという話は、一九五〇年代後半、デモクラート美術協会に加わった泉茂、加藤正、周辺にいた利根山光人、福島辰夫などから何度も聞いていた。だが、当時浦和にいた瑛九は、めったに東京に出てこないし、作品をみる機会も少なかった。だからわたしは五九年だったか、「瑛九の名を聞くと、ジンマシンにかかったようにむずかゆくなる。」「瑛九を神棚に祭りあげるな、久保貞次郎から解放しろ。」と書いたことがある。オノサトトシノブらはその文章をおもしろがってくれたが、久保貞次郎は数年後タクシーのなかで、「あなたは何か皮膚病がありませんか?」などと逆襲してきた。その後、彼のフォトデッサンや晩年の点描油絵をみて、瑛九の死後未亡人に会い、わたしがブレーンをしていた画廊で遺作展をやらせてくれとたのんだが、未亡人はまず美術館でやりたいといい、今春の小田急デパートの遺作展まで、代表作をまとめてみる機会がなかった。
 瑛九(本名杉田秀夫)は一九一一年、宮崎の眼科医の次男として生まれた。四歳で母を失い、継母は七人の子のうち秀夫がいちばんカンがつよく、命令されるのがきらいでなつかなかったと回想する。一九二五年、中学を中退して単身上京し、日本美術学校に入って油絵を学んだが、ここも二年ほどで退学して、十六歳ごろ「みづゑ」「アトリヱ」などに美術評論を寄稿していた早熟ぶりだった。一九三〇年オリエンタル写真学校に入学して写真やフォトグラムを制作し、写真雑誌に写真評論を発表する。三二年からふたたび油絵に専念して、二科、独立展などに出品するが、どこにも入選せず、三四年宮崎にもどって、絵のかたわらエスペラント語を勉強し、三五年末エスペラント学会に講演にきた久保貞次郎と出会う。
 彼がガラスやセルロイドに手描きし、印画紙の上に物体とともにおいて感光させたフォトデッサンをはじめて制作したのは、一九三六年初頭らしい。同年二月、彼はスーツケースいっぱいのフォトデッサンと素描をもって上京し、まずエスペラント学会本部で久保にみせ、ついで長谷川三郎の家を訪れてそれをみせると、長谷川は当時新傾向の美術評論家だった外山卯三郎の家に同道し、三人でフォトデッサンという呼称や「瑛九」というペン・ネームを考えた。同年四月、紀伊國屋画廊で最初の個展がひらかれたのも、同年末『眠りの理由』というフォトデッサン集が刊行されたのも、長谷川と外山の斡旋によるものである。
 長谷川のすすめで「新時代洋画展」にも名をつらねたが、出品した形跡はいちどもない。三七年創立の自由美術家協会にも、長谷川によって自動的に加えられたが、第一回展にフォトデッサンを数点送っただけだった。当時彼は、抽象ともシュルレアリスムともちがった独自な道を自覚しつつあり、フォトグラムの先駆者マン・レイなどはディレッタントにすぎないと考えていた。だから、四一年にはもう自由美術をやめ、画壇と絶縁して長谷川三郎と同様、古美術に傾倒し、また水墨画、俳句、読書、静座などにうちこんでいる。
 敗戦後はいち早く共産党に入党して、文化講座をひらいたり、エスペラント語普及の運動をはじめたりした。四八年、ようやく抽象絵画を制作し、四九年自由美術会員に復帰するとともに、東京、大阪、宮崎でフォトデッサン個展をひらく。しかし、既成画壇とはやはり一線を画する必要を感じて数年で退会し、五一年、宮崎と大阪にわたってデモクラート美術協会を組織した。そこに山城隆一、早川良雄、泉茂、吉原英雄、森啓らが加わり、同年彼が浦和に移ると河原温、加藤正、靉嘔細江英公、杉村恒らも加わった。五二年には、久保貞次郎北川民次を中心とする民間美術教育運動「創造美育」の創立にも参加し、美術教師の組織化に力をつくしている。
瑛九瑛九
「ともしび」  
1957年 リトグラフ  
53.5×40.8cm」

 彼が真岡の久保貞次郎の家で、エッチングを試作したのは一九五〇年だが、五三年には瀧口修造企画のタケミヤ画廊で銅版個展をひらき、五一年銅版プレス機で石版画を試作したのをはじめ、五〇年代に銅版画二百数十点、石版画百五十余点に達する。瀧口が指摘したように、版画から写真への歴史を逆行して、フォトデッサンから版画にさかのぼっただけでなく、抽象的だが柔軟な曲線の動きのなかに新しい詩情をもちこんだところに、それらの版画の特色がある。エッチングは細密で幻覚的なイメージにみちているが、それらをとおして非物質的な空間、眼にみえない光がつねに求められている。だから晩年のエアコンプレッサーによる点描風の油絵は、光と色を完全に一致させた日本の抽象表現主義の極致となった。デモクラート美術協会には加わらなかったが(ママ)、靉嘔、池田満寿夫磯辺行久らをふくめて、彼が深い影響をあたえた若い作家たちは少なくない。
(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.51より再録
1979年10月 現代版画センター刊

◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されたもので、毎月28日に掲載(再録)いたします。
30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま転載します。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。