現代日本版画家群像 第4回
駒井哲郎と浜田知明

針生一郎


 一九五二年から、たどたどしい美術批評をはじめたわたしは、五三年に二つの銅版画個展をみて、小さな画面に世界を凝縮するような銅版画の魅力に眼をひらかれた。―資生堂の駒井哲郎展とフォルム画廊の浜田知明展である。黒白の微妙な諧調と質感で、ポール・クレーを思わせるメールヘン的幻想をくりひろげる駒井は、一見してきびしい自律性につらぬかれた、造形の詩人であることがわかる。一方、象徴的に単純化された形態で、戦場と軍隊の極限状況におかれた人間の運命をうかびあがらせる浜田は、仮借ない告発の画家というべきか。
 わたしは当時、自由美術に親近感をもっていたから、浜田の主題にはすぐひきつけられた。それにたいして、駒井の方はまもなくフランスに留学したから、個人的に話しあう機会がなかなか訪れなかった。一九五〇年代の末、ひろし画廊でユリイカ社の主催する詩画展があって、駒井は大岡信の詩を主題とする銅版画を発表したが、そのころから大岡や安東次男などの詩人たちが、駒井の仕事を熱烈に讃美しはじめたのも、わたしが近づけない一因となったかもしれない。その上、すらりとした好男子の彼は、酒飲みの文人でもあって、酔うとはげしくからんでくるのも苦手だった。
 六〇年代の末、渋谷の酒場に数人で入ると、前から二階で飲んでいた駒井がわたしをよんで、「オレは多摩美では学生がかわいいから授業をやっているだけなんだ」といったが、自宅が多摩美大に近いため、前から非常勤講師で版画を教えてきた彼には、あとから専任に入ったわたしが、ひとりでかきまわしているようにみえたのだろう。七四年ごろ、養清堂画廊で会った駒井に、「何だか顔が変ったね」というと、舌瘤で手術をうけたことを説明され、わたしは心ない言葉をかけたことを後悔したが、それがわたしとの最後の出会いとなった。彼がなくなってからわたしは、もっと自分から出かけて彼の話を聞いておくべきたった、とかえすがえすも残念に思っている。
 駒井哲郎は一九二〇年、いまの室町界隈にあたる日本橋魚河岸に生まれ、家は氷室問屋だった。十三歳のとき、父に送られてきた雑誌で銅版画を知り、翌年麹町にあった西田武雄の日本エッチング研究所に通いはじめ、そこで関野準一郎などと知りあった。三八年、東京美校油絵科に入り、在学中に文展にエッチングで入選したが、美校を出て東京外語でフランス語を学ぶうちに召集をうけ、一年ほど軍隊生活を送った。戦後は四八年に日本版画協会展に出品、受賞して同会員となり、五〇年春陽展に出品、受賞して、翌年同版画部会員に推された。そして資生堂での最初の個展のあと、五四年私費留学生としてパリに渡り、翌年末に帰国したのである。
 わたしは五三年の個展の印象から、駒井が戦前に留学して銅版画法を身につけてきたと思いこんでいた。だからのちに、五四―五五年の留学が最初であることを知って、少々おどろいたのである。この留学体験は彼にとって、長谷川潔を訪れてそのマニエール・ノワールをつらぬく意志的生活態度にうたれ、また初期銅版画展をみてビュラン彫りの力づよさに感動し、エコール・ド・ボザールのビュラン教室に入ったことにつきるだろう。といっても、これらの感動や衝撃のうちには、銅版画を支えてきた西洋文明の伝統が集約されており、それを駒井は鋭敏な感受性でうけとめながら、身をもってその落差を埋めてゆくほかないと決意したことにほかならない。
 滞仏中わずかな作品しかつくらなかったという彼は、帰国するとあのクレー風の幻想を離れて、明晰でつよい線条による写実的ともいうべき樹木シリーズにとりかかった。技法的には、マティエールと諧調を中心とする渡欧前のサンド・ペーパーやシュガー・アクワチントよりも、ビュランやニードルによる彫刻凹版に集中したわけだ。それは彼の西洋体験が何よりも画面の骨格と空間の深さにかかわっていて、いわばデッサンからやり直すことを彼に決意させたようにみえる。だが、五八年の南画廊での個展や六〇年の白木屋での回顧展では、そういう再出発を経た彼がすでに、写実から幻想まで、抽象から象徴まで多様な方向を生みだしつつあることが知られた。思えばそういう苦渋にみちた内省と転回の過程を知らずに、わたしなどは依然として初期以来のイメージで駒井の仕事をみ、彼のようにすでにできあがった作家について、わたしなどの語るべきことはないと考えていたのである。
 一九六〇年代をとおして、版画は若い世代の美術家たちに急速にひろがり、創作版画以来のどこか民芸調をもつ木版画の趣味的閉鎖性はうちやぶられていった。だが、シルクスクリーンの技法が普及し、下絵と刷りの工程が発注芸術などの名称でよばれるように分離していったなかで、銅版画にも安易な多色刷りが流行し、駒井が西洋で再確認した黒白の魅力もビュランの骨格もおき忘れられようとしていた。彼は鋭敏な感受性にうけとめた銅版画の理念のゆえに、この事態に深い痛みと困惑をおぼえたにちがいない。これは明治以来の皮相な文明開化をのりこえ、西欧的伝統をまさに自己の感性のドラマとして血肉しえた作家が、その伝統すらふりすてようとする新しい開花の風潮のなかで、孤立のままとりのこされるという、戦後美術最大の転換点であった。
 駒井は六三年七月読売新聞に、「もう少し計画的にだんだんと仕事を整理して不必要なものは捨てていかなければならない」と、自戒の言葉を書いている。その矢先の十月、彼は信号無視のトラックにはねられて両脚を骨折し、二度も大手術を受けた。回復後、彼は銅版画の基本原理を制作と教育の両面で日本に定着することに、自己を限定したようにみえる。だから、多摩美大、ついで七二年以後東京芸大の非常勤講師として教えることは、駒井にとって重要な仕事であり、死後出版された『銅版画のマチエール』(美術出版社)は彼のライフ・ワークの意味をもつのだ。弟子たちによると、駒井の制作は一ヵ月一点ぐらいだが、周到な精神的、物理的準備の上で制作にかかったらスピードが速く、指先がよごれることは全然ないのに、作品は多様な技法にわたり自在だったという。しかも、芸大講師になった翌年には舌癌で舌と顎を切除せざるをえず、その二年後には癌が肺に移転して、五十六歳で死んだのだから悲劇的である。だが、七三年に出た彼の作品集(美術出版社)と遺著『銅版画のマチエール』は、いま若い世代の最良の指南書となりつつある。

komai_bigtree駒井哲郎
「大きな樹」
1971年
エッチング
44.5x32.1cm
Ed.210
サインあり
※レゾネNo.288(美術出版社)


komai_mati駒井哲郎
「街」
1973年
銅版
イメージサイズ:23.5×21.0cm
Ed.250
サインあり
※レゾネNo.298(美術出版社)


 浜田知明は一九一七年、熊本市に近い御船村に小学校長の子として生まれ、肥後の「もっこす」の典型としての父親への反骨を幼時からつちかった。美校でも藤島武二のアカデミズムに反撥したため、「学校をやめろ」と叱りつけられたという。一九三九年末、現役で軍隊に入ると二ヵ月でその不条理をつぶさに体験し、徹底して劣等生で通す決意を固めた。中国戦場に駆りだされたのちは、たえず自殺だけを考え、「いつの日か、戦場で考えたことを絵にしたいという願い」だけで自殺を思いとどまった。思いがけず四三年に満期除隊となり、美術文化展に油絵を出品し、熊本市の呉服卸商の娘と結婚したが、新婚一ヵ月で再度召集されて伊豆新島に送られた。敗戦後の四八年、妻子を熊本に残して単身上京し、横浜の中学教師をつとめながら、自由美術の会員となったが、油絵では戦争体験の主題がどぎつく露出しすぎるので、駒井哲郎と関野準一郎に銅版画の手ほどきをうけ、一九五〇年からようやく《初年兵哀歌》シリーズの制作にとりかかったのである。

hamada浜田知明
〈初年兵哀歌〉より「歩哨」


 銅版画には長い準備の上に器材と技術がいるから、銅版画家の道程はいずれも計画的だが、浜田知明も戦場で自己をうちのめされ、幻覚とともにいだいた極限状況のイメージを、戦後数年反趨し凝縮して表現しはじめた。熊本にとどまった妻が親の家業を手伝いながら、二人の娘の養育をひきうけたせいもあるが、浜田の銅版画は一年に四、五点の寡作なペースを守り、商品としての流通を求めないから、部数も十部ぐらいだったようだ。だが、そのシリーズをたどると、初期の抒情的心象から状況のリアルな把握へ、さらに極限状況の象徴的表現へと進み、とりわけ日本軍の暴力にさらされた中国民衆の死体が導入されることによって、初年兵をたんなる被害者ではなく、同時に加害者としてとらえる視点が確立した。一九五〇年代後半の「逆コース」時代になると、戦場の光景をはなれて戦後につづく眼にみえない戦争を、寓話的ないし諷刺的にえぐりだそうとする姿勢がめだってくる。
 一九五七年、浜田は九年におよぶ下宿生活をきりあげて、熊本の家族のもとに帰り、五九年自由美術を退会した。そのころから彼は、戦争への告発を現代文明の不条理へのアイロニーにまで拡大して、亡霊や怪物がうごめく百鬼夜行の世界を描きはじめた。六四年には、私学研修福祉会の助成金で一年間ヨーロッパを旅行し、カメラももたず、スケッチもせず、ひたすらみることに徹したらしい。その結果、十五世紀から十七世紀まで、油絵草創期のとくにフランドル絵画に傾倒するとともに、戦争と革命につながるギロチン、貞操帯、城郭、地下牢、カタコンベ、騎士の甲冑などにひかれた。こうして《ヨーロッパの印象記》シリーズが十年近くかかって描かれたのち、七〇年代半ばからふたたび現代日本の人間喜劇を痛烈な批評とアイロニーをこめて描きつづけている。
 ふりかえると、わたしが浜田知明の方にまずひかれたのは、わたし自身が駒井哲郎のような東京育ちではなく、地方出であるせいもあるだろう。だが、わたしは戦後三十数年を右往左往してすごしたので、浜田のように一点に固執して凝縮された制作を持続してきた作家に、あらためて敬服せざるをえない。昨年三月、熊本県立美術館でひらかれた浜田知明展につづいて、昨秋はウイーンで浜田の個展がひらかれており、彼の真価が国際的に知られるのはこれからだと思う。
(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.54より再録
1980年1月 現代版画センター刊

◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されたもので、毎月28日に掲載(再録)いたします。
30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま転載します。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。

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