現代日本版画家群像 第9回
吉原英雄と斉藤寿一

針生一郎


戦後版画のパイオニアは、創作版画の流れを汲む人びとや、敗戦直後に版画をはじめた世代にかぎらない。今回とりあげる二人は、ともに一九三一(昭和六)年生まれだから、敗戦のとき中学生で、一九五〇年代に版画に志したとき、すでに幾人もの先輩たちがいたはずだ。だが、版画には元来、技術の実験や発明という意味で、パイオニア性を要求されるところがある。この二人はその要求に忠実なため、版画ブームのなかでいくぶん孤立しているようにみえる。
まず二人の共通性をあげると、どちらも父親が機械技術に縁があった。吉原英雄は父がアメリカに渡った留守中、広島県の尾道に近い因島に生まれた。四歳のとき、父が帰国して一家は神戸に移るが、一九三八(昭和一三)年、そこで水害におそわれる。そのあと、父は機械工具の会社をはじめたので、一家は大阪に出た。だが、太平洋戦争末期、英雄ら中学生は和歌山に勤労動員され、空腹のまま塹壕堀りをやらされているとき、病床にあった母の死の報がとどいた。
斉藤寿一は川崎市に生まれ、父は日本鋼管の技師で、多くの機械工具を発明または改良したらしい。その血をひいたのか、彼は小学校時代から模型飛行機に熱中し、小遣いは全部その材料に注ぎこんだ。そのため県立川崎中学に受験して落ち、一年高等小学校に通ううち、「画鋲とり」や「塵とり」を発明して川崎市長賞を受け、全国発明工夫展でも受賞したという。中学に入ると、すぐ東芝工場に勤労動員となり、真空管づくりをやらされたが、「エジソン」の仇名をもつ彼は、廃品をあつめてラジオをつくったり、米軍の飛行機が墜落した現場に駆けつけて、計器類をとりだしたりした。
もうひとつの共通性は、どちらも東京芸大を志して、結局断念したことである。吉原は高校三年のとき、ふいに画家になる決心をし、父が会社を継ぐか、医者になれと反対しても動じなかった。だが、あいにく結核にかかって一年入院したため、芸大受験はあきらめ、回復後大阪市立美術研究所に三年通った。その後吉原治良に一年間絵をみてもらううち、「具体美術」の創立メンバーに加えられたが、このグループのモダニズムとヒエラルキーにいや気がさし、泉茂の誘いで「デモクラート美術」に加わった。一九五五年、幼な馴染の良子夫人と結婚して父の家を出たが、そのころ泉茂が東京で仕入れてきたリトグラフの機械をみて、自分も購入する。二つの前衛芸術運動に加わりながら、いつもさめて自律性を失わず、結局どちらもリトグラフとの出会いまでの予備過程でしかなかったのが、いかにも吉原らしい。
斉藤は敗戦後の中学で教師に画才をみとめられ、ほかの授業をサボって石膏デッサンに没頭した。学制改革で新制高校三年になったとき、彼は東京芸大を受験するといいだして、理工系への進学を期待していた両親を失望させた。だが、この年は入試におち、それから目黒洋画研究所に通って、都合三回芸大を受験したがいずれも失敗した。そのころ、友人の紹介で会った加山四郎に、こんな石膏デッサン中心のアカデミックな勉強ではダメだ、造形の根本をつかめ、と忠告されて芸大受験のかわりにフランス留学を決意した。アテネ・フランセや日仏学院のほかに、個人教授についてフランス語を学び、私費留学生試験を受けたが、ここでも芸大出優先で二度落され、三度目にやっと合格して、一九五八年船で旅だった。
パリでは加山四郎の紹介状をもって濱口陽三を訪れると、濱口はヘイターの「アトリエ一七」に入って銅版画を学ぶことをすすめた。刃物をとぎ、銅版を彫り、腐蝕し、プレスする作業は、発明狂だった斉藤の資質にぴったりで、大学都市日本館で同室の新村猛に「魚の版画家」などとよばれながら、海、魚、ゆがんだ太陽といったイメージを追いつづけた。一九五九年夏、イタリア旅行から帰ると、第一回パリ青年ビエンナーレに招待されていたが、搬入まで一週間しかなかった。彼は森と湖と月をモチーフとし、青と黒のインクに、腐蝕のトーンで微妙な変化をつけた銅版画を一〇点出品し、注目をあびたが、そのさなかに母の死を知らせる電報をうけとったらしい。
これまでの経過からも、二人の性格の相違はうかがわれよう。吉原英雄は転変にみちた生いたちのなかで、独得な反骨をつちかわれたが、その反骨は表面もの静かにみえて、性分にあわないものは断乎拒否するところに特色があるようだ。そして、銅版や木版よりも抒情味がなく、クールだからいいというリトグラフに出会って以来、テコでも動かないようにもう二十五年間、それとはてしない対話をつづけている。一方、斉藤寿一は小学校時代「小エジソン」とあだ名されたように、身近な素材を使っておもしろく便利なものをつくりだすのが無上のよろこびで、夢中になるとほかのことはすててかえりみないが熱中の対象はつぎつぎに変ってきたようだ。何といっても、ヘイターのもとで一版多色刷りの銅版技法を身につけたのが決定的だとはいえ、この「小エジソン」はいつまでもそこにとどまっていず、版画のほとんど全領域に実験の触手をひろげている。
ここでデビュー以後の二人の、作風の展開をふりかえってみよう。一九五〇年代後半の吉原英雄の石版画は、鳥、花、楽器などと合体した幻想的な人間像が中心で、泉茂の影響が感じられる。作者の反省によると、同じ主題を油絵や水彩でも追求しながら、プレスの圧力をとおして石版画独特の表現が生まれることの理解が浅かったという。一九六〇年代前半には、刷りの行為とプレスの圧力をとおして版画特有の表現をさぐるため、同じユニットの無限連続による抽象にむかっている。その延長に、紙の材質感を強調するため、中央を破って折り返した連作も生まれている。
一九六五年の《証言》は、石版による色の帯が斜めにくぎる空間に、女の顔をドライポイントで描きこみ、これが抽象芸術から鳥、花、女の体軀と色の帯を組みあわせた近年の作風への転換点とされている。だが、吉原は女の顔をほとんど描かず、物体や記号のように断片化されたその体軀も、抽象空間を緊張させる要素となっている。エロティクよりもサスペンスに関心がある、という彼の言葉はその間の事情を物語るだろう。

yoshihara_03_woman吉原英雄
「WOMAN IN THE SKY」
1967年
エッチング
55.5x41.5cm
Ed.30
サインあり


yoshihara070306吉原英雄
「切り取られたチューリップ(朝)」
1984年
エッチング
45.0x36.5cm
Ed.150
サインあり


『吉原英雄の石版画』(河出書房新社)によれば、数年前ニューヨークの工房で制作したとき、彼は欧米の美術家から「ぼくらは一版ずつ刷りを確かめなければ、つぎの版が描けないのに、きみはなぜ刷る前に全部の版が描けるのか」とふしぎがられたそうだ。たしかに、頭のなかでイメージを分解=綜合して版におきかえてしまう能力は、日本人の特技であると同時に弱点かもしれないが、石版画の制作には好適である以上、この能力を活用して強味に転化したい、と吉原はいう。こうして彼は、日常性のうちに存在の構造を透視する、現象学的地平をきりひらきつつある。
五九年秋に帰国した斉藤寿一は、六〇年一月、濱口陽三に紹介された田村泰次郎の現代画廊で個展をひらくと、ヘイター直伝の技法が新鮮で、銅版画十二点、グワッシュ四点が全部売れた。同年のシェル賞展でも受賞したので、渡欧前仏語教師のもとで知りあった聆子夫人と、新村猛夫妻の媒酌で結婚する。六三年にはヘイターの技法を発展させ、ローラー着色により二版で三色を出す技法を発明し、妖しく光る青い微生物がただよう《青い光》シリーズをはじめる。六五年、長男の乳母車の修理をたのみにいった町工場で、工員が貸してくれたグラインダーに魅せられ、自分もグラインダーを買って亜鉛版に自在な線を引き、孔版による純色の色面を配した《四季》シリーズ(六五〜六六年)や、こどもを主題とするユーモラスな《母子手帖》シリーズ(六七年)を制作した。

jyuichi斉藤寿一
「白い風 A」
1970年
銅版
42.0x30.0cm


同じころから、斉藤は形のない実在としての「風」や「宙」を主題として、版画のおちいりやすい技術主義を脱却しようとする。とりわけ、六八年は大爆発の年で、油絵大作、木版、石版、紙を切りぬいて組みたてる「立体版画」コラージュと吹きつけ、石彫にまで手をひろげた。それらは文化学院と和光大学で教えるうち、学生の制作に刺激されていっしょに研究したことが、機縁となっているらしい。七五年には芳賀明夫とともに、インド、ネパールを旅行して、とくにヒンズー教の神像に魅せられ、翌年また二人でインド、アフガニスタン、イランを旅行して、回教寺院の幾何学文様とバーミアンの石窟仏像に衝撃をうけた。こうして、「風」や「宙」の主題は、風神雷神、カオス観音氏神などの「おかしな神々」とアジア的宇宙論に収斂されてゆくとともに、壁画、レリーフ、木彫などをとおしても、地域コミュニティに根をおろそうとする努力がつづけられる。
ところで、わたしは斉藤のアジアヘの関心に共鳴しながらも、近作では《青い光》や《風》シリーズの初期にあった、神秘で新鮮な流動する無限空間が、妙に通俗的に固定化しつつあるという危倶をもいだいている。彼はかつて、日本の版画に根づよいシュルレアリスムには、生理的に耐えられないと語ったが、近作には幻想や象徴への志向が過剰にあらわれてはいないだろうか。吉原英雄と同様、斉藤寿一の出発点には明確な抽象への意志があり、それが風のように流動する無限空間を生みだしたことを、もういちどふりかえってほしい。
(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.73より再録
1981年10月 現代版画センター刊

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◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されました。
ご遺族の許可を得て再録掲載します。30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま再録します。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。

◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は毎月14日の更新です。

■ときの忘れものは2014年3月12日[水]―3月29日[土]「瀧口修造展 II」開催しています(※会期中無休)。
201403
今回は「瀧口修造展 機では展示しなかったデカルコマニー30点をご覧いただきます。

●出品作品を順次ご紹介します。
II-05(124)瀧口修造
《-1》
デカルコマニー、水彩、紙
Image size: 14.0x12.3cm
Sheet size: 15.1x12.3cm

II-21(156)瀧口修造
《-2》
デカルコマニー、水彩、紙
Image size: 13.6x9.9cm
Sheet size: 13.6x9.9cm

●このブログでは関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
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本日のウォーホル語録

「母はいつもぼくに、愛について気に病むことはないけれど、結婚だけは必ずしなさいと言っていた。けれども自分が決して結婚しないことだけはいつもわかっていた。なぜなら、子供は欲しくないし、子供たちに、ぼくが持ってるのと同じような悩みを抱えて欲しくないからだ。誰もそれを受け取るには値しないと思う。
―アンディ・ウォーホル」


ときの忘れものでは4月19日〜5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催しますが、それに向けて、1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介して行きます。
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