現代日本版画家群像 第7回
靉嘔池田満寿夫

針生一郎


「その人間は私を変える力を持っていた。かれは私の信ずる限りもっとも秀れた芸術家であった。私はかれからなんと多くのことを学んだことか?かれは無数の言葉でどのように私を困惑させたことか?(中略)
かれはつねに私と対等に語り合い、私の内の芸術家を尊重した。そんなかれが私の母と同じ年令であるのを知って、私はどんなに感激したことだろう。一方芸術家としてのかれは生きている間に物故作家の側に入れられていた。二十世紀の芸術家の生き方はまさにそうあるべきなのだ。」
池田満寿夫瑛九との出会いをこんな風に回想しているが、わたしはついにいちども会ったことのないこの作家について、これに似た傾倒の言葉を利根山光人、加藤正など何人から聞いたことだろう。一九五一年、宮崎から浦和市に移り住んだ瑛九は、久保貞次郎らの創造美育の運動に協力する一方、訪れる青年たちをデモクラート美術協会に誘い入れ、彼らに版画への情熱を鼓吹してやまなかった。しかも、「創作版画」の流れとちがって、瑛九の推進した版画はこれらの作家にとって、けっしてゆきどまりの到達点ではなく、期せずして多様な冒険への起点となっているのは興味深い。
一九三一年、茨城県玉造町に生まれた飯島孝雄も、東京教育大に在学中瑛九と出会って版画熱を吹きこまれ、一九五四年、大学を出てドライポイントとエッチングの銅版画集を上梓するとき、瑛九に似て二字の靉嘔というペンネームを使いはじめた。この処女作品集は、内部の主調低音を素朴にまさぐる過程といっていいが、レジェのように明確でつよい輪郭にかこまれた男女がいるかと思えば、はりつけや絞首刑の人物がみえ、またひまわりの花が人間の顔とかさなりあうかと思えば、空間にひらかれた窓となり、さらに鉄骨の歯車に変形するあたりに、まさに戦後日本の精神風景が集約されている。当時、わたしをふくめてかけだしの批評家三人が、座談会でレジェの楽天性に疑問を述べ、デモクラート美術の泉茂からその認識不足を痛烈に批判されたことがあるが、靉嘔の初期銅版画にもレジェの力づよい明るさに惹かれながら、暗く内攻するものをひめた感受性があらわれている。
一九五五年、靉嘔は池田満寿夫、真鍋博、堀内康司とグループ「実在者」を結成し、まだ瑛九も手をつけなかったリトグラフにうちこむため、石版機械を自宅に買いこんだ。おそらく、より抽象的な表現と色彩への要求が銅版から石版への転換をうながしたのだろう。とはいえ、当時紹介されたアンフォルメルのように、流動し渦まく色彩のタッチ、鉄骨と機械、マヌカンのような人体はあらわれても、靉嘔が具体的なものを完全にはなれることはなかった。一九五七年には、久保貞次郎が創美の美術教師たちを中心に組織した「小コレクターの会」が、靉嘔と池田溝寿夫の版画を毎月数点ずつ購入する契約を結んだので、靉嘔は五八年にアメリカに渡るまで、わずか二年間に一〇三点の石版画を制作している。もっとも、五七年美術出版社の設立した「版画友の会」も、靉嘔の石版二点を頒布目録に加えたが、その後三年間にたった一枚しか売れなかったという。
靉嘔靉嘔
「アンフォルメールNo.90」
1957年 石版画
38.0×24.5cm
Ed.20 サインあり
レゾネNo.116


池田満寿夫は一九三四年、旧満州国奉天(中国瀋陽)に生まれ、敗戦後両親の故郷である長野市に引揚げ、高校まで同地ですごした。上京して東京芸大を三度受験して失敗し、街頭で似顔を描きながら、フォルム画廊で初個展をひらき、自由美術展に入選したりした。一九五五年、「実在者」の仲間である靉嘔につれられて、はじめて瑛九を訪問したが、瑛九はやがて彼に銅版画をつよくすすめるとともに、「ルンペン根性」を叩き直すよう要求した。そこで似顔描きをやめて銅版にうちこみ、これも瑛九のすすめで色彩銅版画を開拓する。一九五七年、第一回国際版画ビエンナーレでは、靉嘔とともに池田の作品も公募部門に入選したが、審査で落ちそうなところを、久保貞次郎が「しかし、これには色彩がある」と発言したため、かろうじて残ったものらしい。
同年、前述のような「小コレクターの会」との契約のため、多量の制作を強いられるなかで、池田の多感だがあてどなく彷徨していた表現は、しだいに花嫁、私の処女、鳥、天使、飛行空間といった主題に収斂し、線じたいが息づき、夢み、うたうような魅力を発揮しはじめる。一九五九年以後、江戸川乱歩の弟にあたる平井通の依頼で、物語に銅版のさしえをつけるいくつかの豆本を手がけたことも、春画すれすれのひそかなささやきのような表現の性格をつよめたかもしれない。同年、大阪を訪れてデモクラート美術展の先輩泉茂とともに映画館に入ったとき、そこに来あわせた詩人富岡多恵子に紹介され、五五年以来下宿先の十一歳年上の女性と結婚していた生活から脱出して、かけおち同然に同棲したことも、作風の転機となったのだろう。一九六〇年、第二回版画ビエンナーレで、公募部門の審査に加わったわたしは、同じ審査員の久保貞次郎が「おい、きみたち、かけ足!」などとアルバイトの青年たちに号令するのに眼をみはったが、このなかに池田満寿夫もいたらしい。しかも、この展覧会で彼は、西ドイツからきた国際審査員グローマンの激賞をうけて、文部大臣賞を受賞し、以後翌年のパリ青年ビエンナーレで佳作賞、六二年の東京版画ビエンナーレで東京都知事賞、そのとき国際審査員だったリーバーマンの企画で、六五年ニューヨーク近代美術館での個展が決定するなど、「シンデレラ・ボーイ」とよばれる道を歩みはじめる。

池田満寿夫池田満寿夫
「ボーリングする貴婦人たち」
1964年 銅版
36.3×33.8cm
Ed.20 サインあり
※レゾネNo.452


ニューヨークに定住した靉嘔は、一九六二年、ジョージ・ブレクト、ディック・ヒギンズ、アリソン・ノールズ、小野洋子らのハプニング集団<フルクサス>に参加する。芸術と生活の境界を無化しようとするこの運動の理念が、彼の作品世界の振幅をいっそう拡大したことはみのがせない。その作品に虹のスペクトルがあらわれるのは一九六四年で、それは最近出た靉嘔全版画集『虹』の作者メモによれば、対象から固有色をうばうとともに、単色ではなくあらゆる色彩の定型をあたえることにより、第一に、作者をはなれて版画の刷り師やコンピューターが自由に再制作でき、第二に、「希望」や「幸福」を象徴すると同時に虚無をはらむ虹色によって、「色即是空」「空即是色」の理念をあらわすためだという。靉嘔は岡部徳三、助田憲亮らのシルクスクリーン刷り師との対話を緊密にして、色彩の指示だけで正確な効果をあげうるようなシステムをつくり、さらに石版の効果を検証するため、石版で虹の制作もこころみた。このような虹色の掌線をかけることによって、北斎の春画のような古典や既成写真から作者自身の行為の記録写真、さらに文字のような記号まで、一種の異化作用を経てまったく未知の記号と化する、ポップ・アート的機能がつよめられる。さらにオブジェ、エンバイラメント、ハプニングまでふくめて、この虹という匿名のシンボルが、世界全体に浸透してゆく過程がくりひろげられた。
グローマンに注目された前後から、ドライポイントの敏捷で気まぐれな線に、こどものらくがきのような、ぶきみでユーモラスなメールヘンのようなイメージを追求していた池田満寿夫は、ニューヨーク近代美術館の個展のあと、一年半のアメリカ滞在をとおして、女性の姿態の断片を大量生産の商品のように配列する作風に転じた。六五年のヴェネツィア・ビエンナーレに、靉嘔とともに出品して版画大賞を受賞して帰国したのち、六七年に西ドイツ芸術アカデミーの招待でベルリンに滞在したときは、すでにニューヨークで知りあった女性リランを同伴しており、ベルリンで二人と会ってきたわたしは、帰国して富岡多恵子と顔をあわせると、対応に困ったことがある。池田はやがて富岡と訣別して、リランとともにアメリカのイースト・ハンプトンと東京で半々に生活するようになり、その作風はポルノ雑誌から転写された女体の部分に空、紐、革帯などをあしらい、シルク、石版、水彩、油彩などを混合した手法にむかった。同時に、彼の文筆での名声があがって、何冊かのエッセイが出たのち、一九七七年に小説『エーゲ海に捧ぐ』が発表されて反響をよぶことになる。
この小説が芥川賞候補に推されたとき、わたしはたまたま帰国していた池田に、「芥川賞になると大さわぎで、しかも半年しかもたないから大変だよ。直木賞ならもう少し長持ちするけど」と語ったことがあるが、幸か不幸か芥川賞になってしまった。それによってマスコミに追いまくられる状態が、リランとの距離を急速に深めたようにみえる。さらに一九七八年には、ローマに滞在して『エーゲ海に捧ぐ』の映画化にとりかかったから、いっそう断絶が深まったのか、それとも断絶があったからヨーロッパに脱出したのだろうか。彼の小説も映画も結局物語のある版画の発展で、いままでのところストーリィよりもイメージの配合と連鎖にきわだった特徴がある。リランと別れて佐藤陽子と共同生活をはじめた彼は、美術流通の面でもこれまでの南天子画廊と手を切って番町画廊と契約を結んだが、創作の面でもいやおうなく転機を迎えている。わたしとしては池田の女性遍歴も、メディア遍歴にも苦情をいうつもりは毛頭ないが、あの柔軟直截な感受性を貴重と思うからこそ、新たな飛躍を祈る気持が切である。
靉嘔はつい先日、スリランカから一葉の絵葉書をわたしに送ってきた。どんな目的できているとも書いていないが、わたしははだしの僧侶の行列するそのカラー写真をみながら、この作家の端倪すべからざる行動の振幅と透徹した文明批評をあらためて思いうかべたものだ。今年のはじめに出た前述の『虹』に収録された厖大な作者メモは、靉嘔がはじめてその内面の振幅を言葉で語った興味深いドキュメントである。もうひとり、わたしはここで、高校時代から瑛九に接し、一九五八年に東京芸大を出ると、ワッペンや凧絵の型押しによって版画の概念を拡大しながら、日本のポップアートの代表となった磯辺行久に言及せずにはいられない。一九六六年、ニューヨークに渡った彼は、構成主義的立体作品からエア・アートに進み、エコロジー運動の狼火というべき「アースデイ」の実行委員会にも加わったが、やがてフィラデルフィア大学の環境計画科に入り直し、数年前に帰国すると環境調査の仕事に転じて、「小コレクターの会」以来彼を支援する尾崎正教が、独力で千葉県に「磯辺行久美術館」をつくったにもかかわらず、彼自身は美術を完全に離れてしまった。そして、芸術と生活の一体化を求める瑛九、靉嘔、池田満寿夫らの前にも、このような脱芸術の道はいつも扉をあけているのである。
磯辺行久磯辺行久
「Untitled」
1961年 水彩
31.0x21.0cm
サインあり


(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.65より再録
1981年1月 現代版画センター刊

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◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されました。
ご遺族の許可を得て再録掲載します。30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま再録します。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子さんのエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・土渕信彦さんのエッセイ「瀧口修造の箱舟」は毎月5日の更新です。
 ・君島彩子さんのエッセイ「墨と仏像と私」は毎月8日の更新です。
 ・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は毎月14日の更新です。
 ・鳥取絹子さんのエッセイ「百瀬恒彦の百夜一夜」は毎月16日の更新です。
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◆ときの忘れものは2014年1月8日[水]―1月25日[土]「瀧口修造展 機を開催しています。
245_takiguchi2014年、3回に分けてドローイング、バーントドローイング、ロトデッサン、デカルコマニーなど瀧口修造作品を展示いたします(1月、3月、12月)。
このブログでは関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。

●展覧会の感想から
<不勉強ながら、自分で作品も作る方とは知らなかった・・・美術の良き理解者・庇護者のイメージしかなくて。しかしすてきだ、うっとり。水彩の色使いがたまらんなあ。出品作のなかでは「I-28」が一番気に入った。>(Iさんのtwitterより)

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2013年
ときの忘れもの 発行
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76ページ
執筆:土渕信彦「瀧口修造―人と作品」
再録:瀧口修造「私も描く」「手が先き、先きが手」
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