現代日本版画家群像 第12回(最終回)
高松次郎と井田照一

針生一郎


 戦後版画の流れを、毎回二人ずつの作家に焦点をおいてたどってきたこの連載も、今回でひとまず終ることになった。ふりかえると、山口源、関野準一郎、上野誠、北岡文雄、菅野陽、内間安瑆、吉田政次、吉田穂高、利根山光人、深沢幸雄、松本旻、矢柳剛など、ほかにもとりあげるべき作家はまだ少なくない。だが、今の形で彼らを論じてゆくと、きりがないし、もともと美術家ならだれでも、版画も手がけるべきで、版画の専門家などない方がいいのに、閉鎖的な版画王国の勢力圏をなぞることになりかねない。そこで独特な角度から版画にとりくみ、そのワクをつきやぶった二人をあげて、しめくくりとしたい。
 その二人は高松次郎と井田照一で、わたしはたまたま一九六八年のヴェネツィア・ビエンナーレと、七九年のサンパウロ・ビエンナーレに、コミッショナーとして出品作家だった二人と同行した。高松は一九三六年生まれだが、父は同年の二・二六事件に加わった青年将校の一人だと、彼の口から聞いたことがある。おそらく、そのことは彼の生いたちに、複雑で重い影を落したにちがいない。一九五八年、東京芸大油画科を出ると、六〇年から読売アンデパンダン展に出品したが、同世代の「ネオ・ダダ」グループとはすでにややちがう道をたどりはじめた。それは六一年にはじまる「点」シリーズ、六二年にはじまる「紐」シリーズにみられるように、さだかならぬ予感の体系から演繹的に方法をみちびきだすみごとな首尾一貫性を特色とし、その体系が六四年に書きはじめた「世界改造計画」に集約された。
 もっとも、一方で高松は中西夏之らとともに、六二年秋「山手線ハプニング」をこころみ、六三年五月には中西、赤瀬川原平とともにグループ「ハイ・レッド・センター」を結成して、「ミキサー計画」「ロブロジー」「シェルター・プラン」「首都圏清掃整理促進運動」「ドロッピング」などのイヴェントをおこなった。六四年秋以後、グループの活動が不活発になったのは、「草加次郎」名の爆弾事件やにせ千円札事件で、同年はじめ朝日新聞社会面に赤瀬川の千円札模造作品のことが大きく報道され、警察の追及もはじまったことと関係があるだろう。だが、この年高松は「影」シリーズを開始し、これが存在と非在、対象と記号のあいだの謎めいた領域をさぐる仕事とし又、しだいに注目をあびていった。
 こうして六五年以後、シェル賞、長岡現代美術館賞、毎日現代展での受賞、ミラノ、ブラッセルでの個展、パリ青年ビエンナーレでの受賞がつづく。六六年には、遠近法的錯覚を机や椅子などの立体に固定した「遠近法」シリーズがはじまり、六八年のヴェネツィア・ビエンナーレには、「影」の絵とならんでこれらのオブジェが出品されて受賞した。このときの欧米旅行からもどると、高松は床にならべた平面が波うってみえたり、彎曲した柱が角度によってまっすぐにみえる「波」シリーズ、布や紐がゆるみによって遠近感が誇張されてみえる「弛み」シリーズ、石に数字を書きこむ「石」シリーズなどを手がけた。それまでの作品がおおむね、外観と実体の矛盾を構造的にあばきだすことによって、世界像の根本的な変革を要求したのにたいして、「石」シリーズは実体と記号と行為の結合を示す点で、新しい展開を予想させたものだ。
 一九七〇年代になると、彼は樹皮のついたままの丸木を高低さまざまに切り、頂部に半球形の部分を塔のように残した形態を床にならべたて、「石」シリーズから離脱する第一歩を印した。それと平行して、「この七つの文字」「THESE THREE WORDS」という文字を、シルクスクリーンで紙に刷った最初の版画が制作されたのである。この二点の版画は、そこに書かれた文字が意味するように、まさに七字と三語から成っており、メッセージとコード(シニファンとシニフィエ)が一致している。ついで七六年の東京版画ビエンナーレには、アルファベットの順序どおりの文字を単語のように配列し、タイプで打った上にゼロックスでコピーして、一冊の本にとじた作品を出品した。これらの文字だけの作品は、版画の概念を拡大したものとして話題をよんだが、じつは記号性の再検討をとおしてイリュージョンの要素を否定し、七〇年代後半の簡潔な線・面・色彩のうちに、材質と記号と行為を緊密に一体化した絵画へと復帰する転回点ともなった。しかも、このような絵画で高松は、古事記を主題とする「国生み」の絵本のためのイラストをもこころみ、みごとな成功を収めている。
 七〇年代初頭には、わたしたち十三人が多摩美大の教員として在籍しながら、授業からはずされて裁判をつづけるうち、高松が生活のためと芸術運動の両面を兼ねて、自宅で私塾をはじめたことも忘れられない。わたしも講師として招かれて話にいったことがあるが、終って報酬とともに印紙を貼った領収書をさしだされ、高松らしい几帳面な経営ぶりに感心した。透徹した思考から出発して、振幅の大きい彼の足跡は、六〇年代「反芸術」のピークをなしていたため、いま若い世代からは目の敵にされている傾向があるが、高松自身はこの風圧のなかで孤独な自己検証を経て、やがてまた思いがけない方向をひらく、新シリーズに進発するとわたしは信じている。

takamatu
高松次郎
「THESE THREE WORDS」
1970年
シルクスクリーン
79.0x54.5cm
Ed.100
サインあり

 高松にとって、版画が多様な媒体のなかのひとつにすぎないとすれば、井田照一にとって、版画はきりはなせない原点であり、たえずたちかえるべきスプリング・ボードらしい。一九六〇年代前半、京都美大在学中から、井田は女体の一部を思わせる形態や色面を明確に、リズミカルに構成した石版画を制作している。一九六八年、毎日新聞社のコンクールに一席となって、翌年フランスに留学したが、そのころから彼の版画には哺乳瓶、便器、裸の赤ん坊、女の脚などがポップ・アート風に登場し、石版のほかにシルクスクリーン、オフセット、写真の転写などさまざまな技法が併用される。ここでエロチシズムの主題は、はっきり制作の中心にすえられるが、それはピンク、ブルー、オレンジなどの透明な色彩と版に濾過され、空中にただようように配置されて、軽みをおびた記号と化している。
 フランスに一年滞在したあと、井田はニューヨークにしばらく滞在して帰国するが、この軽みへの志向は、一九七二年にはじまる〈ラ・ヴィアン・ローズ〉のシリーズでは、いっそうあらわになる。ここでは、画面いっぱいにバラの花が規則的に配列され、全体の色調はビニールの包装紙のようにきらびやかになり、その奥にピアノやティッシュ・ペーパーなどの形がすけてみえる。さらにこれと平行して、「風」という主題が出現して、眼にみえず、重い実体のない風や空気をとらえるために、布、紙、草、風船などの軽い対象を描くようになった。やがてその主題は、紙に刷られた版画の画面に小さな穴をあけたり、淡いピンクやブルーの紗の表面に、きれぎれの横線や海、人体などを刷りこんで、天井からつるしたりするこころみに発展する。七四年、京都・アメリカン・センターでのフランク・ベッカーと共同のマルチ・メディア展は、それまでの探求の集約ともいえるもので、ピンクの卵をびっしりと集積したオフセット版画を会場全体の壁に貼りめぐらし、その前に紙やビニールに同じ卵やにわとりを刷りこんだ幕を何層にもつるし、同様の版画を一二八枚、木製の箱に収めた『コンセプション・ボックス』を一方におき、さらに音楽とビデオとスライドを加えて、無限連続のイメージと多様なメディアの交錯する眩暈にみちた空間を現出したのだ。
 その間に、井田は多くの国際展に出品し、また何度もアメリカに出かけている。だが、ハトロン紙の紙袋の外側や内側に、切れ目のある横線をうすく刷って、任意の形で床に配列したシリーズあたりを転機に、彼は作品と現実空間との境界をとり去ることに集中しはじめる。こうして七〇年代後半には、変哲もない石ころを拡大または縮小して紙の両面に刷り、その紙の一端に実物の石をおいたり、実物の石を二つに切断して、そのあいだに横線をオフセット刷りした紙をはさんだり、木の木目をフロッタージュした紙を、細長い角材や板ではさんだりする、色彩の抑制された作品が多くなった。これは一見すると、日本的な材質と自然観の伝統への回帰のようにもみえるが、けっしてそうではない。なぜなら、一九七八年のサンフランシスコでの彼の個展は、“Surface is The Between”と題され、そこにはやはり木の木目、砂、瓦礫、海などの表面が、しばしばあざやかな色彩で転写されながら、その色面が切断されたり、重層的にかさねあわせられたりしている。視覚的な表面が、じつは材質と形態、存在と非存在の中間にほかならないという、存在論的な自覚があり風や空気への追求の一帰結だったわけである。
 近年の井田照一は、「表面は塗られたり、印づけられたりした平たい領域のあいだに存在する」ことを立証するため、大画面に油絵具で黒一色の茫漠とした空間をつくりだしたりしている。七九年のサンパウロ・ビエンナーレでは、床に硫酸を流した上に砂鉄を敷きつめ、それを片づけたあとの床面に残るさびの図形を作品とし、それと壁にならべた十点ほどの版画作品を展示した。その作業中、現地で調達した材料が、じつは砂鉄ではなく「ベンガラ」であったことがわかり、その作業に加わった人びとの衣服や靴から身体、また会場のかなりの部分まで、赤い塗料がしみついて、清掃と洗滌、ほんものの砂鉄さがしに苦労したことは、すでに新聞に報告したことがある。
 わたしはかつて井田照一のこういう制作姿勢を、「版画をこえて、版画に」という題で論じたことがある。版画の概念をこえてまた版画にたちもどる、その循環ごとに彼の思想はいっそう深い次元に達し、しかもその表現はいっそう軽みをおびて非物質の領域へと飛翔してゆく。そういえば、井田は近年でもなおパフォーマンスの発表もつづけている。こういう版画への愛憎のアンビヴァランスは、戦後の多くの作家のうちにひそんでいるといえるだろう。

ida_01_wind-rain井田照一
「Wind Rain on paper」
シルクスクリーン・和紙
45.5x36.0cm
Ed.65
サインあり

(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.80より再録
1982年5月 現代版画センター刊

*画廊亭主敬白
針生一郎先生がまだお元気で、ときの忘れものにときどきいらしてくれたとき、幾度か「あの原稿は本にしたいですね」と話したものでした。
現代日本版画家群像」は亭主が主宰していた現代版画センター(1974〜1985年2月)の月刊機関誌「版画センターニュース」に12回にわたり連載したものです。このご時勢なので「本」にするのはなかなか難しいので、せめてネットで皆さんに読んでもらいたいとご遺族のお許しを得てブログに再録した次第です。30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま再録しました。
現代版画センターがお世話になった評論家はたくさんいますが、亭主が最初に門をたたいたのが久保貞次郎先生、続いて瀬木慎一先生でした。
素人集団が徒手空拳ではじめた版画の普及運動を初めてマスコミで取り上げてくれたのが朝日ジャーナルでした。そのときの筆者が針生一郎先生であり、以来原稿執筆、講演などで私たちを応援してくださいました。
第1回の恩地孝四郎長谷川潔から、最終の第12回高松次郎と井田照一まで、12回24人の人選はさすがです。版画の市場は低迷しておりかつての勢いはありませんが、24人の作家たちの作品は時代を超えてこれからも生き続けるに違いない。
最終回が今もっとも世界から注目を浴びている高松次郎なのは針生先生の慧眼を証明するものでしょう。
一年間、ご愛読をありがとうございました。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。