内間安瑆インタビュー第1回(再録)
IN NEWYORK July. 1982

インタビューが行なわれた1982年当時の内間安瑆先生の自宅駅前風景 地下鉄A168st."
——まず、先生がお生まれになってから、早稲田時代までのことをお聞かせ下さい。
内間 ロサンゼルスで育ったんです。生まれはカリフォルニア州のストックトンですけど、ストックトンというところは憶えていません。その次はブドウの産地でアメリカのワインもできるフレズナに移ったらしいんですけど。で、ロサンゼルスに行って少年時代と青年時代を過ごした。ロサンゼルスのハイスクールというのは、マニュアル・アート・ハイスクールで、木村さんも面白いと思うでしょうけど、ジャクソン・ポロック、フィリップ・ガストンが出たハイスクール。
ハイスクールの時代
木村 そこにアートのコースがあるんですか。
内間 アートのコースがあって、その先生が僕が通ってたころはもう20年近くいたから、そういう人たちは教えている筈なんです。結局、同じ先生についたということになるんですけど、面白い人で、ポーランド系の作家でした。
——ハイスクールに入るとき、もう美術をやろうと。
内間 選択科目でしたけど、3年やりました。その先生のもとで。その先生はモデルは必ず置いたんですね。モデルのポーズを自分でつけて、それから紙と画材を生徒に配って、部屋から出て消えちゃうんですよ。
木村 それはクロッキーとドローイングだけでペインティングはなしで?
内間 ペインティングなしで。生徒は自分勝手に勉強する。まあ、美術に興味があったんでそういう科目をとったんです。
——自由に、自分の好きなように絵を描いてたんですか。
内間 好きなように描いたんだけど、巧い人がいると、結局それに習って勉強した。
——ハイスクールの前は、例えばお父さんが絵を描くとか、絵を見る機会があったとか。
内間 そういうことは全然なかったですね。ロサンゼルスというところは、そのころは博物館はありましたけれど、美術館はなかった。博物館の一室に絵を並べて。そういう雰囲気はないですけども、たまたま学生時代、仲間にそういうのがいたんで、その影響で。
——ハイスクールを卒業してから日本へ?
内間 1940年です。これから大学に入るには日本がいいんじゃないかというおやじの勧めもあって、早稲田に入ったんです。どうして早稲田に入ったかというと、あの頃、もちろんそれまでには毎日1時間ですけど、日本語の勉強をある程度していましたけど、公立学校で英語ばっかりしゃべっていた。あまり日本語の勉強になりませんでしたけど、ある程度の基礎が出来ていましたから。
早稲田・建築からの出発
早稲田国際学院というのは、早稲田大学の主宰で、われわれみたいな外国から来た者のために大学に入る準備の学校があったんです。それはアメリカから来た者だけでなくて、南洋から来た人たちもいたし、フィリピンから来た人たちもいた。初等級というんですか、それと一年生、二年生というのがあって、お前の学力だったら二年だというんで二年に入ったら、二年は難しすぎるということで一年に下げてもらって、一年から大学を受けたんです。そして建築をやった。
——そこで一番興味のあるところなんですが、なぜ?
内間 なぜ建築かというと、結局おやじとの話し合いで、こっちは絵に進みたい、向こうは絵じゃ駄目だという。
——一応、それの接点ということなんですね。少しでも美術に近い・・・・・・
木村 お父さんのお仕事は何だったんですか。
内間 おやじはその頃は引退していた。
木村 建築とは関係ないんですか。
内間 関係ないんです。
——建築は主にどんなことを?
内間 このあいだ、30年振りで同級生が十何人か集まりました。立派な建築家ばかりですけど、なかには数人が特攻隊で亡くなりました。木村さんは御存知でしょうけど、あの頃は戦争の最中でしたから、学徒出陣とか教練が厳しくて、それで建築で出される課題は兵舎とかそういうもの。
木村 はゝあ・・・・・・
内間 アメリカでいうキャンティーン、物を売るところとか、兵隊の集まるところを設計したり、飛行場の測量もやりましたね。
——先生は?
内間 だいぶ前のことで、今は憶い出せない。
——同級生の方は?
内間 竹中工務店の専務とか、それからそれぞれ自分の建築事務所を持ってる。なかにはそろそろ引退というのもいるし。一番憶い出すのは、ある程度のレジストはありますからね、設計でもこんなのは面白くないと言って、僕はこういうのを設計したんですよ。何も知らないのにウイスキー工場を設計したんです。そのため落とされちゃってね、嫌われてね。ところが昔の仲間が集まったら、君のお陰で英語は助かった、英語の試験なんか教えてもらってと言ってね(笑い)。だけど結局、建築にも飽きが来て・・・・・・。高田馬場に熊岡絵画研究所というのがあった。熊岡美彦という東光会の人で、高田馬場の駅からバスで行く途中にアトリエがあって、結局学校に行く途中にそっちに寄っていくんですよね。学校まで行かずに、そこで段々毎日過ごすようになった。そこで何をやっていたかというと、油でモデルペインティング。極めてアカデミックな研究所だったんですが、そういうのが楽しくて。籍は学校に依然としてあるからね。で、これは何とかせにゃならんと思っているうちに、京都に修学旅行に行って、初めて古いものに接して、それで僕は道を決めて、これは何とかせにゃいかんということで、京都から帰ってきて早稲田をやめたんです。
——早稲田には何年くらい?
内間 2年半。そのうち、7、8ヶ月は研究所に通っていた。
——京都に行かれて、絵という道を決めた、そのきっかけになったのは?
京都旅行で何とかせにゃと
内間 それは今は憶い出せません。とにかく全体がそうだったんですね。
——京都全体の雰囲気?
内間 ところが面白いことに、あの頃を振り返ってみると、ナイーブですからね、日本で絵というのは日本画と洋画というのが二つあるということを気づかずにやってた。そしてだいぶ後から気がついたんですけど、見方が二通りあるということ。
——それまでは日本画というものを意識していなかったんですか。
内間 日本画じゃなくて、絵画というものを意識してても、これは西洋も日本も同じだと思ってたんですね。
——京都に行かれて初めて日本画を見たんですか。
内間 そのときに日本画は見ませんでした。絵画の世界に二通りあるということは後で気がついた。
木村 僕がちょっと知っているコーリア(韓国)の建築家でキムというのがいるんですね。それからカリフォルニアの建築家でもう亡くなったルイ・カーン、それから丹下にしても、僕は思うんですけど、そういう建築家の例えばコーリアと日本とアメリカとの空間の処理の仕方が大変違うんですよね。先生の作品を見ていると、すごく日本的な空間の処理を感じるんですけども、建築を勉強なさっているときからそういうようなものは意識されてたんですか。
内間 僕は本当は意識してないんですけどね、そういうことは。その時代の話から飛びますけど、日本の場合、過去の作家で面白いのは岸田劉生だと思うんですよね。なんで面白いかと言ったら、非常に悩んだと思うんですよ。西洋絵画の運動、あの頃はフォーヴだけどね。そこで西洋に流れてゆくのに問題感じて、そして自分の過去を振り向いたんですね。彼の場合は北方ルネサンスに強い影響受けて、また南画とか支那の古いものに触れて、そういうものをここで立てなくちゃいかんということで、非常に悩んだんだと思うんですよ。悲劇的なのは日本でそういうものが見られなかったということ。それでリアクショナルに振り向いた形で、あれを油でやろうとしたのは、何かどこかで悲劇的なところがあるんじゃないかと思う。作家としてあゝいう段階がなくちゃいかんと思うんですよ。会は春陽会というのは出来たけど、思想は伝わって来ませんね。
木村 彼の場合面白いのは、そういう北方ルネサンス的な影響をすごく受けて興味持っているけど、彼の生活はすごくデカダンスであって、最も大正時代の遊び人の生活をするでしょう。芸者をあげて、芸者を連れてスケッチ旅行をしながら沢山借財を重ねて破滅していくでしょう。先生が劉生に興味を持つというのは、面白いのは、先生の場合は全然そういうデカダンスな生活はなさらないでしょう。最もスマートな(笑)・・・・・・。
内間 そういう意味で興味を魅いているんでなく、日本で何か思想的に立てなくちゃならないものがあるんですよね。ただ西洋から来るものを器用にこなしていくんじゃなくて、根付いていかなくちゃならないものがあるんですよ。劉生の場合は惜しいことに、彼はそういう風に向いていった人なんですけど、後ろを振り向いたんですね。あのステッピング・ストーンがなくちゃいかんと思う。
木村 先生の場合には、例えば京都にいらしたとか、建築を勉強したとかで、特別に友人関係とか特に絵描きの関係で刺激を受けたとか、絵描きとして日本の青春時代を過ごしたというのはあまりないんですよね。そうすると、やはりいつかはまたアメリカに帰るという気持ちがあったわけですか。
蒐集家・スタットラーとの出会い
内間 ありましたね。家族がいましたから。どっちかというと、僕は日本の生活に融け込んでいった。はずれたという気持ちじゃなくて一緒に勉強しましたね。
木村 ところで、先生が日本に居た時分の作品はどこにありますか。
内間 あまりここにはないですね。
——その時は殆ど油絵ですか。
内間 油絵もやってましたけど、読売アンデパンダン展にも二度くらい出してますよ。それで60号か80号くらいの作品を運んでまた持って帰る。油絵をやって運んで、また持って帰って置き場所に困るという生活を続けるのかと思ったら、大きな疑問を持ち始めた。個人的に木版というものはどうして始めたのか知らないけど、そのときにどこかで材料が手に入ったんですね。それは教えられなくても自分のなかで。判子屋で判子を彫っているのを見ているんでしょうね。何となく凸版に彫れば出来る。そういうものに3色か4色くらいで葉書き大の木版を作りまして。そのときは今から見ると、ブラックなキュービスティックな絵でしたけどね。いろいろやりましたけど、僕の手許にそれはありません。
木村 それは油絵のコピーですか。
内間 ノーノー。それで合羽版というのもやってみました。5色くらいで、これも本当に見たものでも何でもないんですけど、こういう風にしたら出来るんじゃないかと。
——誰かについてというんじゃなく、全部自分で?
内間 それでやったんです。油に疑問持ったんです。もっと小さくて、枚数が出来るということに興味持っていましたね。それをやって、美術は何も知らないもんですから、油絵も使ってやっていますからね。頭打ちになって、どうしていいかわからない。それをやっているうちに丁度いい話があって、スタットラーという創作版画のコレクターが、創作版画の木版画の作家を訪ねてインタビューして本にまとめたいという・・・・・・。
木村 恩地孝四郎を蒐めた人ですか。
内間 そうです。日本語が出来ないもんですから、絵のわかる人で英語が出来て日本語の出来る人ということでシカゴ美術館から話が回ってきたわけです。こういうのがいるといって紹介してもらって、僕も丁度いいというんで。創作版画はそのときは学校も本もなかった。
——何年頃ですか。
内間 それは1952、3年。
–––東京にいらして10年過ぎたときに。
内間 それまでは戦争の焼け野原を建て直すのに5年かかったから。1950年には朝鮮戦争があるでしょう。あの頃でやっと復活し始めた。
——その戦争の話ですが、先生は戦争のとき日本にいらしても国籍はアメリカにあったわけですね。国吉なんかはアメリカで辛い目にあったりしていますね。
木村 国吉はアメリカにいて反戦運動をやるんだけど、キャンプには入れられなかった。
内間 僕は国籍はアメリカですからね。僕らの場合、見た目は日本人に見えるもんですから、結局、シティ・アレストですね。その都市に居なくちゃいけない。ですから東京から出る場合は、特別な許可をもらわないと出られなかった。生活は自由を続けても、出るときは許可が要る。
(つづく)
(1982年7月、ニューヨークの内間安瑆先生のアトリエにて、インタビュアーは作家の木村利三郎先生と益子恵子さん。
現代版画センター機関誌『PRINT COMMUNICATION』83号[1982年8月]、84号[1982年9月]所収)
制作する内間安瑆先生
NYの自宅アトリエにて、
'82.6.18.

内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Early Summer Rain(五月雨)"
1961年
木版
50.5×38.cm
A.P. Signed

内間安瑆 Ansei UCHIMA
"IN BLUE(DAI)"
1975年 木版
47.7×73.6cm
Ed.30 Signed

内間安瑆 Ansei UCHIMA
"BLUE TO WHITE : CASCADE"
1976年-1977年 木版
75.8×28.5cm
Ed.30 Signed

内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Light Echo"
1977年 木版
70.8×50.5cm
A.P. Signed

内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu
(森の屏風・秋)"
1979年 木版
45.5×76.0cm
A.P.(実際に摺られたのはA.P.数部のみ)
Signed

内間安瑆 Ansei UCHIMA
"FOREST WEAVE
(Bathers-Fall)"
1982年 木版
75.8×41.0cm
A.P.(実際に摺られたのはA.P.数部のみ)
Signed
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■内間安瑆(うちま あんせい)
1921年 アメリカ・カリフォルニア州ストックトンに生まれる。
1940年 来日(〜’59年)、早稲田大学で建築を学ぶ。
1944年 早稲田大学建築科中退後、絵画を独学で学ぶ。
1952年 この頃から木版画を制作する。
1953・54年 自由美術協会展に油彩を出品。
1954年 デモクラート美術協会の作家青原俊子と結婚する。
1955年 日本版画協会会員となる。
1960年 前年末に帰米し、ニューヨークに住む。
1982年 病に倒れ、以後制作は中断する。
1985年 サラ・ローレンス大学名誉教授となる。
2000年 5月9日ニューヨークで死去(79歳)、12月18日俊子夫人死去。
◎個展
1955年 銀座・養清堂画廊(’61、’67、’76、’81)/1958年 東京・佐藤画廊/1961年 ニューヨーク Mi Chou Gallery/1962年 ニューヨーク・日本協会/1965年 シカゴ・アイコ・ギャラリー/1970年 ニューヨーク・プラット・グラフィックス・ギャラリー/1974年 ニューヨーク・ローズ・ギャラリー/1976年 ニューヨーク・ナルディン・ギャラリー(油彩、木版画)(’79)、ニューヨーク・スズキ・ギャラリー/1981年 ニュージャージー版画協会/1982年 東京渋谷・ギャラリー方寸、豊田・美術館松欅堂、仙台・ギャラリー青城、秋田・大曲画廊、大阪・番画廊、久留米・筑後画廊、青森・五拾壱番館画廊、山形・しろがね美術サロン、海南・画廊ビュッフェファイブ
(2000)、他/1985年サラ・ローレンス・カレッジ・ギャラリーで油彩・版画回顧展(’96)/1988年 ニューヨーク・アメリカン・アーティスト協会による木版画回顧展/1997年 ニューヨーク・アメリカン・アーティスト協会/2000年 東京青山・ときの忘れもの(2001)、旭川・梅鳳堂、盛岡・MORIOKA第一画廊
◎グループ展・国際展など
1956年 シェル美術展(水彩)/1957年 銀座・養清堂画廊で流政之と二人展/1958年 銀座・養清堂画廊で泉茂・吉田政次と版画三人展(1月)、利根山光人・駒井哲郎・泉茂・浜田知明・北岡文雄・吉田政次・吉田穂高と「版画八人集」展(10月)、グレンシェン国際版画トリエンナーレ(スイス、’61、’70)/1959年 第5回サンパウロ国際ビエンナーレ/1960年 アメリカン・グラフィック・アーティスト協会展(’62、’65)、ブルックリン美術館版画展/1961年 アメリカ色彩版画展(’64、’78)/1962年 グッゲンハイム・フェローシップ版画部門で受賞(’70)/1967年 バンクーバー国際版画展/1970年 第35回ヴェネチア国際ビエンナーレ/1972年 第2回国際現代木版画トリエンナーレ(イタリア)/1974年ノルウェー国際版画ビエンナーレ/1980年ニュージャージー・ハンタードン・アートセンターで“Reflections, Images–
Isamu Noguchi, Ansei&Toshiko Uchia”展(油彩、木版画)/1986年 東京・ストライプハウス美術館で安瑆・俊子二人展(’89、’94、’99)/1990年 マサチューセッツ・ウォルセスター美術館“Color in American Printmaking, 1890-1960”巡回展/1992年 練馬区立美術館「木版画明治末から現代」展/1996年ニューヨーク・ホイットニー美術館“Selections from the Collection: Prints from 1950 through the early 1960s”展/1996〜97年 東京国立近代美術館「近代日本美術の名作展」/1997〜99年 ニュージャージー・ルトガーズ大学ジェーン・ファヒーズ・ジムメリィ美術館“Asian Traditions-Modern Expressions, 1945-1970”巡回展(ニュージャージー、シカゴ、カリフォルニア、台北、日本)
◎パブリック・コレクション
メトロポリタン美術館、ホイットニー美術館、東京国立近代美術館、ワシントン国会図書館、フィラデルフィア美術館、アムステルダム国立美術館、ホワイトハウス、ブルックリン美術館、ナショナル・ギャラリー、大英博物館、シカゴ美術館、ウォルセスター美術館、ホノルル・アート・アカデミー、ローゼンウォールド・コレクション他。

フィラデルフィア美術館にて
内間安瑆・俊子ご夫妻
1982年

良きパートナーであり、自身優れた作家だった内間俊子さん

内間俊子(青原俊子)
「Fantasy」
1957年 木版・コラージュ
31.6x22.2cm Signed
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*画廊亭主敬白
本日20日は井桁裕子さんのエッセイの掲載日ですが、井桁さんの事情により今月だけ掲載日を24日に変更いたしましたのでご了承ください。

沖縄県立博物館・美術館で内間安瑆先生の回顧展が開催されています。
ご承知の通り、内間安瑆先生は私どもが敬愛する作家で、過去40年近く、幾度も展覧会をし、またエディションもさせていただきました。
大規模な回顧展「色彩のシンフォニー 内間安瑆の世界」が始まったので、社長と二人、那覇まで出かけブログでご紹介いたしました。
これを機に内間先生の画業を少しでも皆さんに知っていただきたく、集中して内間先生のご紹介をいたします。
10月14日には水沢勉先生の内間安瑆論を掲載いたしました。
本日から三日間連続、3回にわたり1982年7月にニューヨークの内間先生のアトリエで行なったインタビュアーを再録掲載いたします(第1回、第2回、第3回)。
このインタビューから僅か数ヵ月後に内間先生は病に倒れ、絶頂期を迎えた制作が突然中断されたことは、かえずがえすも残念なことでした。
このところ亭主は出張が続いています。
一人ではどこにも行けないので、社長のお供ということにして、あちこち転戦しています。今月初旬の沖縄に続き、18日には群馬県桐生市の大川美術館(難波田龍起展)に、本日20日は神戸で光嶋裕介さん設計の建物見学、26日は信州の池田満寿夫美術館と開館されたばかりの上田市立美術館の「山本鼎展」に。月末には金沢21世紀美術館にも行く予定なのですが、過密にしてハードな日程で果たして体調がもつかしら・・・
いずれブログでご報告します。
IN NEWYORK July. 1982

インタビューが行なわれた1982年当時の内間安瑆先生の自宅駅前風景 地下鉄A168st."
——まず、先生がお生まれになってから、早稲田時代までのことをお聞かせ下さい。
内間 ロサンゼルスで育ったんです。生まれはカリフォルニア州のストックトンですけど、ストックトンというところは憶えていません。その次はブドウの産地でアメリカのワインもできるフレズナに移ったらしいんですけど。で、ロサンゼルスに行って少年時代と青年時代を過ごした。ロサンゼルスのハイスクールというのは、マニュアル・アート・ハイスクールで、木村さんも面白いと思うでしょうけど、ジャクソン・ポロック、フィリップ・ガストンが出たハイスクール。
ハイスクールの時代
木村 そこにアートのコースがあるんですか。
内間 アートのコースがあって、その先生が僕が通ってたころはもう20年近くいたから、そういう人たちは教えている筈なんです。結局、同じ先生についたということになるんですけど、面白い人で、ポーランド系の作家でした。
——ハイスクールに入るとき、もう美術をやろうと。
内間 選択科目でしたけど、3年やりました。その先生のもとで。その先生はモデルは必ず置いたんですね。モデルのポーズを自分でつけて、それから紙と画材を生徒に配って、部屋から出て消えちゃうんですよ。
木村 それはクロッキーとドローイングだけでペインティングはなしで?
内間 ペインティングなしで。生徒は自分勝手に勉強する。まあ、美術に興味があったんでそういう科目をとったんです。
——自由に、自分の好きなように絵を描いてたんですか。
内間 好きなように描いたんだけど、巧い人がいると、結局それに習って勉強した。
——ハイスクールの前は、例えばお父さんが絵を描くとか、絵を見る機会があったとか。
内間 そういうことは全然なかったですね。ロサンゼルスというところは、そのころは博物館はありましたけれど、美術館はなかった。博物館の一室に絵を並べて。そういう雰囲気はないですけども、たまたま学生時代、仲間にそういうのがいたんで、その影響で。
——ハイスクールを卒業してから日本へ?
内間 1940年です。これから大学に入るには日本がいいんじゃないかというおやじの勧めもあって、早稲田に入ったんです。どうして早稲田に入ったかというと、あの頃、もちろんそれまでには毎日1時間ですけど、日本語の勉強をある程度していましたけど、公立学校で英語ばっかりしゃべっていた。あまり日本語の勉強になりませんでしたけど、ある程度の基礎が出来ていましたから。
早稲田・建築からの出発
早稲田国際学院というのは、早稲田大学の主宰で、われわれみたいな外国から来た者のために大学に入る準備の学校があったんです。それはアメリカから来た者だけでなくて、南洋から来た人たちもいたし、フィリピンから来た人たちもいた。初等級というんですか、それと一年生、二年生というのがあって、お前の学力だったら二年だというんで二年に入ったら、二年は難しすぎるということで一年に下げてもらって、一年から大学を受けたんです。そして建築をやった。
——そこで一番興味のあるところなんですが、なぜ?
内間 なぜ建築かというと、結局おやじとの話し合いで、こっちは絵に進みたい、向こうは絵じゃ駄目だという。
——一応、それの接点ということなんですね。少しでも美術に近い・・・・・・
木村 お父さんのお仕事は何だったんですか。
内間 おやじはその頃は引退していた。
木村 建築とは関係ないんですか。
内間 関係ないんです。
——建築は主にどんなことを?
内間 このあいだ、30年振りで同級生が十何人か集まりました。立派な建築家ばかりですけど、なかには数人が特攻隊で亡くなりました。木村さんは御存知でしょうけど、あの頃は戦争の最中でしたから、学徒出陣とか教練が厳しくて、それで建築で出される課題は兵舎とかそういうもの。
木村 はゝあ・・・・・・
内間 アメリカでいうキャンティーン、物を売るところとか、兵隊の集まるところを設計したり、飛行場の測量もやりましたね。
——先生は?
内間 だいぶ前のことで、今は憶い出せない。
——同級生の方は?
内間 竹中工務店の専務とか、それからそれぞれ自分の建築事務所を持ってる。なかにはそろそろ引退というのもいるし。一番憶い出すのは、ある程度のレジストはありますからね、設計でもこんなのは面白くないと言って、僕はこういうのを設計したんですよ。何も知らないのにウイスキー工場を設計したんです。そのため落とされちゃってね、嫌われてね。ところが昔の仲間が集まったら、君のお陰で英語は助かった、英語の試験なんか教えてもらってと言ってね(笑い)。だけど結局、建築にも飽きが来て・・・・・・。高田馬場に熊岡絵画研究所というのがあった。熊岡美彦という東光会の人で、高田馬場の駅からバスで行く途中にアトリエがあって、結局学校に行く途中にそっちに寄っていくんですよね。学校まで行かずに、そこで段々毎日過ごすようになった。そこで何をやっていたかというと、油でモデルペインティング。極めてアカデミックな研究所だったんですが、そういうのが楽しくて。籍は学校に依然としてあるからね。で、これは何とかせにゃならんと思っているうちに、京都に修学旅行に行って、初めて古いものに接して、それで僕は道を決めて、これは何とかせにゃいかんということで、京都から帰ってきて早稲田をやめたんです。
——早稲田には何年くらい?
内間 2年半。そのうち、7、8ヶ月は研究所に通っていた。
——京都に行かれて、絵という道を決めた、そのきっかけになったのは?
京都旅行で何とかせにゃと
内間 それは今は憶い出せません。とにかく全体がそうだったんですね。
——京都全体の雰囲気?
内間 ところが面白いことに、あの頃を振り返ってみると、ナイーブですからね、日本で絵というのは日本画と洋画というのが二つあるということを気づかずにやってた。そしてだいぶ後から気がついたんですけど、見方が二通りあるということ。
——それまでは日本画というものを意識していなかったんですか。
内間 日本画じゃなくて、絵画というものを意識してても、これは西洋も日本も同じだと思ってたんですね。
——京都に行かれて初めて日本画を見たんですか。
内間 そのときに日本画は見ませんでした。絵画の世界に二通りあるということは後で気がついた。
木村 僕がちょっと知っているコーリア(韓国)の建築家でキムというのがいるんですね。それからカリフォルニアの建築家でもう亡くなったルイ・カーン、それから丹下にしても、僕は思うんですけど、そういう建築家の例えばコーリアと日本とアメリカとの空間の処理の仕方が大変違うんですよね。先生の作品を見ていると、すごく日本的な空間の処理を感じるんですけども、建築を勉強なさっているときからそういうようなものは意識されてたんですか。
内間 僕は本当は意識してないんですけどね、そういうことは。その時代の話から飛びますけど、日本の場合、過去の作家で面白いのは岸田劉生だと思うんですよね。なんで面白いかと言ったら、非常に悩んだと思うんですよ。西洋絵画の運動、あの頃はフォーヴだけどね。そこで西洋に流れてゆくのに問題感じて、そして自分の過去を振り向いたんですね。彼の場合は北方ルネサンスに強い影響受けて、また南画とか支那の古いものに触れて、そういうものをここで立てなくちゃいかんということで、非常に悩んだんだと思うんですよ。悲劇的なのは日本でそういうものが見られなかったということ。それでリアクショナルに振り向いた形で、あれを油でやろうとしたのは、何かどこかで悲劇的なところがあるんじゃないかと思う。作家としてあゝいう段階がなくちゃいかんと思うんですよ。会は春陽会というのは出来たけど、思想は伝わって来ませんね。
木村 彼の場合面白いのは、そういう北方ルネサンス的な影響をすごく受けて興味持っているけど、彼の生活はすごくデカダンスであって、最も大正時代の遊び人の生活をするでしょう。芸者をあげて、芸者を連れてスケッチ旅行をしながら沢山借財を重ねて破滅していくでしょう。先生が劉生に興味を持つというのは、面白いのは、先生の場合は全然そういうデカダンスな生活はなさらないでしょう。最もスマートな(笑)・・・・・・。
内間 そういう意味で興味を魅いているんでなく、日本で何か思想的に立てなくちゃならないものがあるんですよね。ただ西洋から来るものを器用にこなしていくんじゃなくて、根付いていかなくちゃならないものがあるんですよ。劉生の場合は惜しいことに、彼はそういう風に向いていった人なんですけど、後ろを振り向いたんですね。あのステッピング・ストーンがなくちゃいかんと思う。
木村 先生の場合には、例えば京都にいらしたとか、建築を勉強したとかで、特別に友人関係とか特に絵描きの関係で刺激を受けたとか、絵描きとして日本の青春時代を過ごしたというのはあまりないんですよね。そうすると、やはりいつかはまたアメリカに帰るという気持ちがあったわけですか。
蒐集家・スタットラーとの出会い
内間 ありましたね。家族がいましたから。どっちかというと、僕は日本の生活に融け込んでいった。はずれたという気持ちじゃなくて一緒に勉強しましたね。
木村 ところで、先生が日本に居た時分の作品はどこにありますか。
内間 あまりここにはないですね。
——その時は殆ど油絵ですか。
内間 油絵もやってましたけど、読売アンデパンダン展にも二度くらい出してますよ。それで60号か80号くらいの作品を運んでまた持って帰る。油絵をやって運んで、また持って帰って置き場所に困るという生活を続けるのかと思ったら、大きな疑問を持ち始めた。個人的に木版というものはどうして始めたのか知らないけど、そのときにどこかで材料が手に入ったんですね。それは教えられなくても自分のなかで。判子屋で判子を彫っているのを見ているんでしょうね。何となく凸版に彫れば出来る。そういうものに3色か4色くらいで葉書き大の木版を作りまして。そのときは今から見ると、ブラックなキュービスティックな絵でしたけどね。いろいろやりましたけど、僕の手許にそれはありません。
木村 それは油絵のコピーですか。
内間 ノーノー。それで合羽版というのもやってみました。5色くらいで、これも本当に見たものでも何でもないんですけど、こういう風にしたら出来るんじゃないかと。
——誰かについてというんじゃなく、全部自分で?
内間 それでやったんです。油に疑問持ったんです。もっと小さくて、枚数が出来るということに興味持っていましたね。それをやって、美術は何も知らないもんですから、油絵も使ってやっていますからね。頭打ちになって、どうしていいかわからない。それをやっているうちに丁度いい話があって、スタットラーという創作版画のコレクターが、創作版画の木版画の作家を訪ねてインタビューして本にまとめたいという・・・・・・。
木村 恩地孝四郎を蒐めた人ですか。
内間 そうです。日本語が出来ないもんですから、絵のわかる人で英語が出来て日本語の出来る人ということでシカゴ美術館から話が回ってきたわけです。こういうのがいるといって紹介してもらって、僕も丁度いいというんで。創作版画はそのときは学校も本もなかった。
——何年頃ですか。
内間 それは1952、3年。
–––東京にいらして10年過ぎたときに。
内間 それまでは戦争の焼け野原を建て直すのに5年かかったから。1950年には朝鮮戦争があるでしょう。あの頃でやっと復活し始めた。
——その戦争の話ですが、先生は戦争のとき日本にいらしても国籍はアメリカにあったわけですね。国吉なんかはアメリカで辛い目にあったりしていますね。
木村 国吉はアメリカにいて反戦運動をやるんだけど、キャンプには入れられなかった。
内間 僕は国籍はアメリカですからね。僕らの場合、見た目は日本人に見えるもんですから、結局、シティ・アレストですね。その都市に居なくちゃいけない。ですから東京から出る場合は、特別な許可をもらわないと出られなかった。生活は自由を続けても、出るときは許可が要る。
(つづく)
(1982年7月、ニューヨークの内間安瑆先生のアトリエにて、インタビュアーは作家の木村利三郎先生と益子恵子さん。
現代版画センター機関誌『PRINT COMMUNICATION』83号[1982年8月]、84号[1982年9月]所収)

NYの自宅アトリエにて、
'82.6.18.

内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Early Summer Rain(五月雨)"
1961年
木版
50.5×38.cm
A.P. Signed

内間安瑆 Ansei UCHIMA
"IN BLUE(DAI)"
1975年 木版
47.7×73.6cm
Ed.30 Signed

内間安瑆 Ansei UCHIMA
"BLUE TO WHITE : CASCADE"
1976年-1977年 木版
75.8×28.5cm
Ed.30 Signed

内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Light Echo"
1977年 木版
70.8×50.5cm
A.P. Signed

内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu
(森の屏風・秋)"
1979年 木版
45.5×76.0cm
A.P.(実際に摺られたのはA.P.数部のみ)
Signed

内間安瑆 Ansei UCHIMA
"FOREST WEAVE
(Bathers-Fall)"
1982年 木版
75.8×41.0cm
A.P.(実際に摺られたのはA.P.数部のみ)
Signed
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■内間安瑆(うちま あんせい)
1921年 アメリカ・カリフォルニア州ストックトンに生まれる。
1940年 来日(〜’59年)、早稲田大学で建築を学ぶ。
1944年 早稲田大学建築科中退後、絵画を独学で学ぶ。
1952年 この頃から木版画を制作する。
1953・54年 自由美術協会展に油彩を出品。
1954年 デモクラート美術協会の作家青原俊子と結婚する。
1955年 日本版画協会会員となる。
1960年 前年末に帰米し、ニューヨークに住む。
1982年 病に倒れ、以後制作は中断する。
1985年 サラ・ローレンス大学名誉教授となる。
2000年 5月9日ニューヨークで死去(79歳)、12月18日俊子夫人死去。
◎個展
1955年 銀座・養清堂画廊(’61、’67、’76、’81)/1958年 東京・佐藤画廊/1961年 ニューヨーク Mi Chou Gallery/1962年 ニューヨーク・日本協会/1965年 シカゴ・アイコ・ギャラリー/1970年 ニューヨーク・プラット・グラフィックス・ギャラリー/1974年 ニューヨーク・ローズ・ギャラリー/1976年 ニューヨーク・ナルディン・ギャラリー(油彩、木版画)(’79)、ニューヨーク・スズキ・ギャラリー/1981年 ニュージャージー版画協会/1982年 東京渋谷・ギャラリー方寸、豊田・美術館松欅堂、仙台・ギャラリー青城、秋田・大曲画廊、大阪・番画廊、久留米・筑後画廊、青森・五拾壱番館画廊、山形・しろがね美術サロン、海南・画廊ビュッフェファイブ
(2000)、他/1985年サラ・ローレンス・カレッジ・ギャラリーで油彩・版画回顧展(’96)/1988年 ニューヨーク・アメリカン・アーティスト協会による木版画回顧展/1997年 ニューヨーク・アメリカン・アーティスト協会/2000年 東京青山・ときの忘れもの(2001)、旭川・梅鳳堂、盛岡・MORIOKA第一画廊
◎グループ展・国際展など
1956年 シェル美術展(水彩)/1957年 銀座・養清堂画廊で流政之と二人展/1958年 銀座・養清堂画廊で泉茂・吉田政次と版画三人展(1月)、利根山光人・駒井哲郎・泉茂・浜田知明・北岡文雄・吉田政次・吉田穂高と「版画八人集」展(10月)、グレンシェン国際版画トリエンナーレ(スイス、’61、’70)/1959年 第5回サンパウロ国際ビエンナーレ/1960年 アメリカン・グラフィック・アーティスト協会展(’62、’65)、ブルックリン美術館版画展/1961年 アメリカ色彩版画展(’64、’78)/1962年 グッゲンハイム・フェローシップ版画部門で受賞(’70)/1967年 バンクーバー国際版画展/1970年 第35回ヴェネチア国際ビエンナーレ/1972年 第2回国際現代木版画トリエンナーレ(イタリア)/1974年ノルウェー国際版画ビエンナーレ/1980年ニュージャージー・ハンタードン・アートセンターで“Reflections, Images–
Isamu Noguchi, Ansei&Toshiko Uchia”展(油彩、木版画)/1986年 東京・ストライプハウス美術館で安瑆・俊子二人展(’89、’94、’99)/1990年 マサチューセッツ・ウォルセスター美術館“Color in American Printmaking, 1890-1960”巡回展/1992年 練馬区立美術館「木版画明治末から現代」展/1996年ニューヨーク・ホイットニー美術館“Selections from the Collection: Prints from 1950 through the early 1960s”展/1996〜97年 東京国立近代美術館「近代日本美術の名作展」/1997〜99年 ニュージャージー・ルトガーズ大学ジェーン・ファヒーズ・ジムメリィ美術館“Asian Traditions-Modern Expressions, 1945-1970”巡回展(ニュージャージー、シカゴ、カリフォルニア、台北、日本)
◎パブリック・コレクション
メトロポリタン美術館、ホイットニー美術館、東京国立近代美術館、ワシントン国会図書館、フィラデルフィア美術館、アムステルダム国立美術館、ホワイトハウス、ブルックリン美術館、ナショナル・ギャラリー、大英博物館、シカゴ美術館、ウォルセスター美術館、ホノルル・アート・アカデミー、ローゼンウォールド・コレクション他。

フィラデルフィア美術館にて
内間安瑆・俊子ご夫妻
1982年

良きパートナーであり、自身優れた作家だった内間俊子さん

内間俊子(青原俊子)
「Fantasy」
1957年 木版・コラージュ
31.6x22.2cm Signed
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*画廊亭主敬白
本日20日は井桁裕子さんのエッセイの掲載日ですが、井桁さんの事情により今月だけ掲載日を24日に変更いたしましたのでご了承ください。

沖縄県立博物館・美術館で内間安瑆先生の回顧展が開催されています。
ご承知の通り、内間安瑆先生は私どもが敬愛する作家で、過去40年近く、幾度も展覧会をし、またエディションもさせていただきました。
大規模な回顧展「色彩のシンフォニー 内間安瑆の世界」が始まったので、社長と二人、那覇まで出かけブログでご紹介いたしました。
これを機に内間先生の画業を少しでも皆さんに知っていただきたく、集中して内間先生のご紹介をいたします。
10月14日には水沢勉先生の内間安瑆論を掲載いたしました。
本日から三日間連続、3回にわたり1982年7月にニューヨークの内間先生のアトリエで行なったインタビュアーを再録掲載いたします(第1回、第2回、第3回)。
このインタビューから僅か数ヵ月後に内間先生は病に倒れ、絶頂期を迎えた制作が突然中断されたことは、かえずがえすも残念なことでした。
このところ亭主は出張が続いています。
一人ではどこにも行けないので、社長のお供ということにして、あちこち転戦しています。今月初旬の沖縄に続き、18日には群馬県桐生市の大川美術館(難波田龍起展)に、本日20日は神戸で光嶋裕介さん設計の建物見学、26日は信州の池田満寿夫美術館と開館されたばかりの上田市立美術館の「山本鼎展」に。月末には金沢21世紀美術館にも行く予定なのですが、過密にしてハードな日程で果たして体調がもつかしら・・・
いずれブログでご報告します。
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