ギャラリー  ときの忘れもの

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内間安瑆インタビュー第2回(再録)
IN NEWYORK July. 1982
2014年9月12日付ブログ用画像_02
インタビューの行なわれた内間安瑆先生のアパート入口附近爛魯疋愁鸚邊鵑"


初めての版画発表のころ

木村 先生は版画を作られるひとつの理由として、数が出来るとさっきおっしゃったでしょう。数が出来た木版画はどうなさっていたんですか。
内間 数というのはそんなに沢山の数じゃなくて、二枚も数でしょう(笑)。
木村 そうか、なるほど。二枚以上ね。
内間 それが出来るというのは非常にやりがいがあると思う。スタットラーさんと一緒にいろいろな人たちを、主な人は恩地孝四郎、平塚運一、棟方志功、斉藤清、関野準一郎、こういう人たちにインタビューして、尋ねたいことは全部尋ねたんです。これ以上勉強になるものはなかった。
木村 制作点数ですけど、1ヶ月に何点くらい作っていたんですか。たくさん作った方ですか。
内間 たくさん作って・・・・・・アメリカに帰って来て振り返ってみると、展覧会が5年続けて、一年に25以上ありました。
木村 それは新しいものだけで?
内間 殆んど。もちろん個展、二人展、三人展、グループ展を入れて。
——初めての版画制作というのは1955年ですか。
内間 正式に発表したものはね。それまでもやってますけど。その場合はね、木版だけじゃなく紙版も使いましたね。木版というテクニックの枠外のものを研究したんです。バレンでも、摺る場合に紙の裏に当て紙をいろんな段階をつくって、そしてバレンでやったら圧力がみな違うんじゃないかってね。
——初めて発表した場所は?
内間 上野の版画協会。
内間夫人 それから養清堂で個展をしましたね。斉藤(清)先生がなされるはずだったんですが・・・・・・。
木村 その時分、内間さんが個人的に一番親しかった版画家とか、絵描きさんというのは。流(政之)さんは?
内間 流はもうちょっと後ですけど。
木村 僕が先生の作品を見たのは、泉茂とやった養清堂でした。
内間 吉田政次と三人展ね。
木村 1954、5年くらいですか。
内間夫人 そうですね。名古屋でもやりましたね。
木村 そのときにはアメリカではまだ発表なさってなかったんですか。
内間 いや、していました。版画というのは御存知のようにあちこち行っちゃうもんですから、行先がわからない。ここのビルに入ったきっかけは、日本時代から僕の作品を持ってる人なんですよ。ホノルルに着いた時にも税関で「君の作品持っています」と言われた。
——じゃ、日本で制作していてもアメリカにずい分・・・・・・。
内間 いろいろなところに出回っていましたからね。丁度出始めたころでしょうね。恩地さんにインタビューしたあの頃から初めて売れ始めたんですね。
木村 先生の場合には、そうすると日本とアメリカと同時に作品を発表し、同時にコレクターもついていくという形だったんですか。
内間 それに似たようなことですけど・・・・・・いま思い出すと、むしろあのころは日本で売れるよりアメリカで売れた。日本ではあまり売れなかった。
木村 そうですね。日本で版画ブームが起きたのはずっと後ですし、久保貞次郎さんが小コレクター運動を始めたのが1950年代のお仕舞いごろですから、そのときに池田(満寿夫)の作品が40円とか50円でしたからね。日本自身貧乏でしたし、買う機会なかったですね。
内間 最初の個展でも、この作品が買われたとき、初日には全然値段もついてなかったですからね。売る気持ちもあまりなかった。
木村 積極的に日本で作品を売る気持ちがなくてというのは、もうそろそろアメリカに引き揚げようという気持ちがあったわけですか。
内間 積極的に発表していましたから、売るつもりはあったけど。
木村 日本自身が貧乏だから買う力がなかった(笑い)。
内間 発表は喜んでさせてくれたけど、売れはしなかった。
——アメリカに帰られるとき、やはり同じアーチストとしてやっていくという考えで戻られたわけですか。
内間 そうですね。ロサンゼルスに帰りました。ロサンゼルスに、作品を通して知り合いが二、三人いました。だだっ広くて、どこにいるのかわからない雰囲気ですから、ロサンゼルスでは生活する気はなくて・・・・・・。ちょうどどうしたらいいかと思っていたときに、シカゴ美術館から招待があって、そこへ行って、そのままニューヨークへ。そのときはもう泉(茂)は来ていた。

ムンクは苦労したなと尊敬できるね

木村 その時分、アメリカでは現在ほど木版というのは、まだポピュラーではなかったわけでしょう。アメリカ人が考えている木版というのは浮世絵版画のイメージが強いでしょう。特に先生の場合には、こういうアブストラクトの形というものを、アメリカの人たちというのはスムーズにずっと理解してきたわけですか。どういうことかというと、リトグラフと木版の違いというのは多くの人々が理解していたわけですか。
内間 戸惑ってたらしいね。これは木版かなと。場合によっては、木版と信じられないっていうのがいますからね。教え込むには戸惑いましたけど、このごろはそうでもない。
木村 ある面ではこういう形をつくったパイオニアということになるわけですね。
内間 パイオニアと言いたいけど、そうでないんですよ。スタットラーさんとインタビューしたあの人たちがパイオニア。
木村 例えばムンクなんかの場合の木版というのは、もっと粗い感じでしょう。繊細なのもありますけど、テクニック的に言っても。
内間 テクニック的に感激するのもありますけど。こういうことありますね。ワシントンのフィリップス画廊で「小ムンク展」があって、版画ばっかりですけど見た。版画家だったらだれしもつくる、どうしようもない版画ができる場合があるでしょう。何ともまとまりのない。ムンクにもあるんですよ。恐らくその作品は、ムンクは発表する作品じゃなかったと思うんだけど、アトリエから出てきたんですよ。僕は一番興味を持ったんです。人物が二人いて、簡単な線で彫ったもので、色をちょっと加えたもんですけど、どうも作品としてはおもしろくない。彫った以上は何とかならんもんかといって、何回も摺っているんです。ムンクはどうしようもないから画鋲で紙をとめて何回も摺って、おろして摺って、また着色して摺っている。それを何回もやり過ぎて、画鋲で押さえたところの紙が破けている。これ見たら、その段階が身にしみてわかるんです。これはこういうところを苦労したなという。ムンクを余計尊敬できるね、これ見て。
木村 ムンクの作品で、クラッチがいっぱいあるのがあるんですよ、引っかいた。あれはやはりそういうものがあったわけですか。何か自分で拒否して壊していくというような。
内間 そんなことはないと思います。
木村 効果的に使ったわけですか。
内間 完全に効果的に使っていますね。
木村 日本の作家は往々にしてエスタブリッシュすると、すごくスヌープ(Snoop)になるでしょう。先生の場合にはそれはアメリカ人であるからということもあるけれど、すごくデモクラティックですよね。特別に人間と人間の関係を自分のキャラクターによって、差をつけて会話をしない。僕なんか話していて、とても淡々と話している感じがする。自慢はなさらないでしょう。それから相手にサジェスチョンを意識的にしないでしょう。ティーチングを相手にしませんよね。それが何かアメリカ人の作家だなと、僕は思うんですけどね。
——絵そのものがとっても日本的で、日本だけど何か日本にある木版と違う。その違いが何だか私にはわからないんです。絵から受けるものがあもりにも日本的過ぎちゃって、その日本的過ぎちゃっているところが逆に外国の方なんじゃないかという意識しかないんです。同じ日本人だとわかりきってて、そのわかんない部分ってありますよね。外から見ている方が日本を意識して見れば、こういう作品が出るんじゃないかなというような感じは、初めて見たときに思えたんです。
木村 僕は作品じゃなくて、いま話しているのは、キャラクターの事。すごくデモクラティックで、アメリカ的。完全なアメリカ人だね、感覚としては。人に対する社交的な面とか、すべての面で。
内間 こっちの人はそうは思わない。逆にかなり日本そのものを持っているものと思われているけど、僕はそういうもの一つもないから。
木村 それは先生のキャラクターですか、それとも作品の両方ですか。
内間 両方で。日本的なものを追求しているというのはない。さっきおっしゃったようにそのフラットネスな中で、僕はライトを持ち込みたい。その場合はできるだけ奥にくる空間のポケットを浅くとりたいですね。
(第3回へつづく)

(1982年7月、ニューヨークの内間安瑆先生のアトリエにて、インタビュアーは作家の木村利三郎先生と益子恵子さん。
現代版画センター機関誌『PRINT COMMUNICATION』83号[1982年8月]、84号[1982年9月]所収

*画廊亭主敬白
昨日に続き「内間安瑆インタビュー」を掲載します。
内間先生のNYのアトリエで1982年に行なわれたもので、当時私たちが主宰していた現代版画センターの機関誌に収録したものです。
長いインタビューなので、3回にわけてご紹介します。(第1回第2回第3回)。
第1回は昨日20日に掲載しました。第3回は明日22日に掲載します。
内間先生の略歴については、昨日20日のブログに掲載しました。
ちょうどいま沖縄県立博物館・美術館内間安瑆先生の回顧展「色彩のシンフォニー 内間安瑆の世界が開催されています。
10月14日には水沢勉先生の内間安瑆論を掲載しましたので、お読みください。
2014年9月12日付ブログ用画像_08
内間安瑆先生と俊子夫人
1982年NY郊外のセカンド・ハウスにて

1959 An Emotion
内間安瑆 Ansei UCHIMA
"An Emotion(或る感情)"
1959年 木版
40.7×30.2cm
A.P. Signed

1961 Conversation of the winds のコピー内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Conversation of the winds"
1961年 木版
30.3×40.5cm
A.P. Signed

1967 心象風景(C) のコピー内間安瑆 Ansei UCHIMA
"心象風景(C)"
1967年 水彩
29.4×37.4cm Signed

1969 DANCING SPHERES のコピー内間安瑆 Ansei UCHIMA
"DANCING SPHERES"
1969年  木版
71.2×58.2cm
A.P. Signed

1974 Space poem B のコピー内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Space poem B"
1974年 木版
38.0×39.0cm
A.P. Signed

1976 untitled(E) のコピー内間安瑆 Ansei UCHIMA
"untitled(E)"
1976 木版
75.8×44.0cm
A.P. Signed

1977 LIGHT MIRROR, WATER MIRROR のコピー内間安瑆 Ansei UCHIMA
"LIGHT MIRROR, WATER MIRROR"
1977年  木版
46.3×70.8cm
Ed.50 Signed

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