中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第13回 東京国立近代美術館

東京国立近代美術館
「瑛九1935-1937 闇の中で『レアル』をさがす」―その2


前回に引き続き、東京国立近代美術館2Fギャラリー4で開催中の「瑛九 1935-1937闇の中で『レアル』をさがす」展を取り挙げる。

東京国立近代美術館_01展示会場の入り口。タイトルの字体は、丸みを帯び、一部に若草色を使用している。本展の出品作の多くは瑛九の初期の手のもの。芸術家デビューしたばかりの初々しい「瑛九」を反映しているよう。

前回は、山田光春旧蔵資料の内容と展覧会開催までの経緯などを本展企画の学芸員大谷省吾氏から伺い、第1〜3章に展示されたフォト・デッサン、コラージュ、デッサンをみてきた。今回は、山田光春の史料やエピローグに着目したい。

東京国立近代美術館_02書簡や雑誌などが並ぶ木製の覗きケース。新収蔵となった瑛九より山田に送られた書簡は117通。そのうち、1935〜37年に投函された10通が会場で公開されている。


東京国立近代美術館_03「杉田秀夫から山田光春あて書簡 1935年5月29日」(図録pp123‐124)
中央美術展(東京府美術館、1935年5月19日〜5月30日)に秀夫の《海辺》(F60)が入選したことから、展示を観に上京したときのことを次のように書いている。


「やはり宮崎でみるてんらん展とはとはすこしちがつてゐた。比較的でたらめなことをやつとる奴は一人もおらんかつた。技巧の上で。」

「みんなコテさきでかいてゐてコギレイで古アカデミツクか新アカデミツクか、職人ぞろいにはちがいない」と中央画壇の会場で感じた違和感を率直に述べている。

なお、書簡の終盤では、秀夫(瑛九)が「はじめて美術カンとやらにナラベてみておれは少々アホラしくなつてしまつた。クイツキたい奴ばかりだ。おい貴様もすこしゴウマンになつて田舎でじぶんのやりたい繪をかいてゐゐんだ」と山田に言い放っている。

このとき秀夫は、中央美術展の出品作が技巧面で優れていることを認めつつ、審査員の眼ばかりを気にして、自分の表現を追求しない画家に憤慨している。この経験がのちのデモクラート美術家協会の階級制を設けず、無審査で展覧会に臨む体制につながってゆく。瑛九が「前衛芸術家(アヴァンギャルド)」と位置付けられる所以は、「フォト・デッサン」という技法材料の新しさだけでなく、このような美術団体の制度にかんして一歩前進した考えを持っていたことも関係しているのだろう。

ところで、上記のような瑛九の権威に対する過激な発言は、別日の書簡で裏を返したように、逆の想いが綴られていることにも注目したい。

僕は日本画壇に失戀した うつとうしい感情なかで不眠にかかる。夏の不眠はつらい。失戀したのに僕は彼女にラブレターを書いた。(評論)失戀してかいたラブレターを出した僕へ僕はぼんやりした無表情な失意をしめしてゐる。
(瑛九より山田光春あて書簡 1936年7月17日、図録p.132)※括弧内は瑛九によるもの

以上のように、瑛九は日本画壇と自分の立ち位置が違うことを認識し、評論でもって画壇に認められることを渇望しているかのようだ。このことから、彼の中央画壇に対する執着がなくなったとは言い切れない。おそらく、彼の権威的なものを否定する態度は、排他的なものではなく、むしろ自己に向けられた「戒め」であったのだろう。権威(既成画壇)に依拠しないで、自己の表現を確立しようとする内省的なものであり、これを仲間と共に貫こうとしたと考えられる。

東京国立近代美術館_04第一回自由美術家協会展目録。
この頃、美術家が仲間と共につくった小さなグループが無数にあった。戦前戦後に作られた小グループの目録の中には、紙の酸化やガリ版刷りで数が少ないものもあり、原物の目録ひとつ探すことも難しい。
近代日本アート・カタログ・コレクション」シリーズは、初期美術団体の稀少な目録を収録している。同館のアートライブラリでは、開催中の図録と共に常に手に取りやすいところに配架している。
青木茂監修『近代日本アート・カタログ・コレクション73 (自由美術家協会/美術創作家協会)』(ゆまに書房、2004年)


東京国立近代美術館_05『瑛九油絵作品写真集』(複写)瑛九の没後に山田光春が油絵の行方を調査した記録。作品の写真の下には、タイトル、制作年、号数、所在地、所蔵者、確認日が丁寧に記されている。愛知県美術館には、写真集のもとになった35ミリのカラースライドを保管している。なお、宮崎・埼玉で開催された「生誕100年記念瑛九展」図録(pp.268‐292)にはレゾネとして、全555点のモノクロ図版が掲載されている。


東京国立近代美術館_06右上は山田光春『瑛九年譜』(1966年)、右下は「瑛九の会 設立趣意書」、左は山田光春『瑛九(杉田秀夫)住所・居所・旅行表』(1963年)。瑛九ファンは、この折れ線グラフに見覚えがあると思う。じつは、山田の著書『瑛九 評伝と作品』(青龍洞、1976年)の目次ページに瑛九の活動の軌跡として掲載されている。


東京国立近代美術館_07左から山田光春《作品》(1930年代後半、油彩・ガラス、35.5×45.5)、山田光春《作品》(1951年、油彩・ガラス、45.7×35.8)
黒いバックに原始生物のようなイメージが表現されている。瑛九や長谷川三郎もこのころガラス絵の作品を残している。


東京国立近代美術館_08エピローグが展示されているコーナー。油彩、エッチング、リトグラフと多岐にわたる瑛九の作品。手前から《赤の中の小さな白》(1937年頃、油彩・キャンバス、52.7×45.2、右下に「九」)、《ベッドの上》(1948年、油彩・厚紙、24.4×33.5、サインなし)、《赤い輪》(1954年、油彩・キャンバス、左下に「Q.Ei 1954」)、《シグナル》(1953年、エッチング、右下に「Q.Ei」)、《旅人》(1957年、リトグラフ、37.5×52.3、右下に「Q.Ei」)


東京国立近代美術館_09《赤の中の小さな白》について、瑛九のパトロンであった久保貞次郎(1909−1996、美術評論家)が次のように解説している。


瑛九がこの絵をかいたときは、二十六歳の頃だったが、その数年前からシュールのスタイルで制作していた。この作品はシュールから進んで抽象風になっている。燃えるような情熱を感じさせるこの画布は、瑛九の青年時代の心情をうつしだしているといえよう。赤と橙と黒の構成のなかに、小さな白と、それよりいっそう小さな青のスペースが、まるでかれの情熱を押さえるかのように、おかれている。一見ぎこちない筆づかいのなかに、謎のような複雑さがかくされているのが、みるひとに感じられるだろう。この謎の感情こそ、瑛九の作品のどれにも貫かれた資質であり、この性質はかれの稚拙な筆づかいとともに、芸術家瑛九の人生に対する真摯な探求のあらわれである。まだ、ヨーロッパの前衛芸術がわが国に本格的に紹介されなかったころ、かれは時代の空気を敏感にとらえ、かれのキャンバスにそれを定着した
(『日本の名画検〕硫100選』三一書房、1956年、検8)

東京国立近代美術館_10都夫人のはにかんだ姿が印象的な《ベッドの上》。瑛九は1948年、8月31日宮崎市丸島町へ転居し、9月谷口都と一緒になることから、本作は瑛九と都が同居をはじめたばかりの作品であることがわかる。大谷氏によると、本作の寄贈者日比野夫美子氏は、山田光春の助手として働いていた人物であり、彼女が『瑛九 作品と評伝』(1976年)の完成を都に報告しに行ったところ本作を譲り受けた。都夫人がずっと大事に持っていた特別な作品を、日比野氏に譲渡されたことは、彼女にとって最高の感謝のしるしであったと想像する。


東京国立近代美術館_11前回紹介したように《旅人》は、第1回東京国際版画ビエンナーレ展の出品作である。


東京国立近代美術館_12_晩年の油彩画3点。右手前から《れいめい》(1957年、油彩・キャンバス、80.3×65.2、左下に「Q.Ei 1957」)、《午後(虫の不在)》(1958年、油彩・キャンバス、130.0×162.5cm、左下に「Q.Ei 1958」、《青の中の丸》(1958年、油彩・キャンバス、90.9×116.7、右下に「Q.Ei 1958」)


展覧会のまとめとして、大谷氏が以前から調査されてきたコラージュ《レアル》(1937年、コラージュ・紙、31.8×26.2、右下に「Q.Ei/37」)について書かれている図録の内容をご紹介したい。

大谷氏は、山田光春旧蔵の書簡の中で、批評家が目の前の作品を観ずに、ただ同類の作家に当てはめる安価な見方をしていることを瑛九が痛烈に批判していると指摘し、次の瑛九の言葉を引用している。

「現代がいかに現実の語りにくい時代であるかといふことはもう充分だ。現実を充分に語りにくい現実が現実なので、現実がかたりにくい時代だからと云って、現実を安価に理解して公式的にかたづけて現実を見失つてゐることと現実とは断じて同一ではない筈である」(瑛九「現実について」『アトリヱ』14巻6号、1937年6月p.73)

この瑛九の言葉を受けて大谷氏は、以下のように結論づけている。

現実を理解するとは、どのようにしたら可能なのか。私たちは現実を理解したつもりでいて、実は既成概念の枠にものごとを押し込めて、安易に理解したつもりになっているだけなのではないか。瑛九はそうした問いを、これらの作品によって私たちに突きつけているように思われる。本当に「レアル」なものは、生半可な理性によって、捉えられるものではありえない。それは常に、理性の光の届かない闇の中で、手探りで探し求めなければならないものではないか。だとするならば、これらのコラージュはやはり闇のような暗黒の台紙の上で展開させなければならなかった
(大谷省吾、「闇の中で『レアル』をさがす―山田光春旧蔵資料から読み解く1935‐1937年の瑛九」[本展図録pp.15‐16])

「レアル」なものを表現するための方法として、先に技法材料を選択したわけではなかったということが、大谷氏の指摘から伺い知ることが出来る。読み返すと、理性では捉えきれない「レアル」なものを手探りで探した結果「コラージュ」となった。全身全霊で作品づくりに集中している彼を有名美術家と比較するのは確かにナンセンスである。

当時の絵描きや批評家と瑛九は、「視座」からして異なっていたのだろう。目の前にあるモチーフや出来事を見て写すのではなく、師事する先生の技術を見て写すものでもない。瑛九は、目に見えるものだけではなく、もっと深い人間の真に迫るところに意識を集中し、表現しようと試みていた。このような「視座」の違いに気付いたからこそ、青年瑛九は画壇との距離感が分からなくなった。

本展では、瑛九が、憤りや悲しみ、虚しさ、苦痛、希望などさまざまな感情を抱えていたことを作品や書簡等で確認することができた。山田光春は、このような率直に感情をあらわにする瑛九の様子をつぶさに掬い取ろうとしている。また、熱心に耳を傾ける山田であるからこそ、瑛九は心を開いてすべてを打ち明けていたのだろう。

最後に繰り返しになってしまうが、瑛九の活動からよみ取った大谷氏の言葉を自戒の念を込めて以下に抜粋する。

「私たちは現実を理解したつもりでいて、実は既成概念の枠にものごとを押し込めて、安易に理解したつもりになっている」(本展図録p.16)

忙しなく過ごす私たちは、面倒なことは大枠で捉えて、小さな物事を丁寧に見たり、考えたりしていないのではないだろうか。大枠で捉えたことに果たして意味があるのだろうか。今一度「レアル」なものを注視する勇気を持ちたいと思った。

***

<展覧会関連情報 々岷蕾(要旨)>
演題:「書簡から読み解く 1935 -1937年の瑛九」
講師:大谷省吾学芸員 / 日時:12月17日14時から
この日に行われた講演会には、瑛九の関係者や他館の学芸員が集まっていた。以前の取材の段階からおっしゃっていたが、瑛九には専門家をはじめディープなファンが多いため「マニアック」な話になるということであった。たしかに、かなりの数の固有名詞が登場し、凝縮された内容であった。この場で講演内容を少し紹介したい。

はじめに瑛九の生い立ちや家族の紹介をし、今回扱っている作品や資料群について説明があった。瑛九と山田光春が出会ったのは、1934年秋のこと。瑛九の甥が通う宮崎県の妻の学校で山田が教員をしていたことで接点を持った。平日は学校で土日しか対面できなかったころから、しだいに二人は書簡で情報交換するようになったという。同館の所蔵となった書簡はこのうちの117通。本展で展示された書簡(葉書含む)は10通で、図録には1935〜1937年の3年間に書かれた58通が収録されている。本資料群の調査をすることで、瑛九の野心や悩み、あるいは、当時の雑誌ではわからなかった前衛美術の活動について明らかになってくるという。

講演会では、書簡の中に出てくる作品や当時の雑誌などについて、写真や図版を用いて細かな解説が加えられた。ひとつひとつ挙げるとあと3回ブログの枠が必要になるため割愛させていただくが、以下3つの内容について注目したい。

1935年から36年の芸術家デビューを果たす頃のこと。中央美術展で展示された作品を観に意気揚々と上京した杉田秀夫(瑛九)の心の内が綴られた35年の書簡。また、36年の書簡に隠されていたフォト・デッサン集『眠りの理由』誕生秘話およびこれの発売に合わせて初個展を開いた銀座紀伊國屋画廊のこと。当時、どのような傾向の人物が画廊に出入りしていたのかを紹介された。

▲侫ト・デッサン集『眠りの理由』は、未だ謎の多い作品であること。まず、10点1組が揃っている所蔵先が実に少ないということ。公共機関では、横浜美術館・国会図書館(状態悪)・東京国立近代美術館のみ。ただし、フォト・デッサンの天地や順番は、すべて異なるという指摘があった。なお、大谷氏はフォト・デッサンの裏面に唯一鉛筆でタイトルが記されたときの忘れもののコレクションと西村楽器店(宮崎)で開かれた目録を頼りに作品の天地や順序をつけたとの報告があった。

1936年3月9日の書簡について。これは、瑛九が山田に「豫定表」と題し、芸術家としてどのような活動を展開してゆくかをひとことふたこと箇条書きにしているものである。大谷氏はこれに1時間かけて解説された。例えば、「土浦といふ日本で最も新しいけんちく家と共に新しい仕事をする。住むためのキカイとしての住宅とむすびつく我々の作品――壁写真」という一文。「土浦」は、建築家土浦亀城のことであり、彼は紀伊國屋画廊の内装を手掛けていることもあり、こちらの方面から話が出ていたのではないかという報告であった。なお、瀧口修造と映画をつくる予定は実現せず、その他に長谷川三郎との新しき同人展の予定などいくつかは実現するものの、本人が想定していたことよりも大きなものにならなかったのかもしれない。その後の瑛九は、すっかり意気消沈してしまう。

大谷氏は講演会の最後に次のことを付け加えた。いくつかの美術館に収蔵されている瑛九の作品や資料について、総覧できるような仕組み(データベース)を作ることや史料の細かな読み解きをする必要があるということ、これが実現したら瑛九ばかりでなく当時の美術団体の活動状況が見えてくる。確かに、講演会で扱われた書簡に書かれた名前を辿るだけでも、いま明らかになっている交友関係の幅よりももっと広かったのではないかと想像させるものだった。いち瑛九ファンとして、今後の進展を期待したい。
以上、1月7日にも同様の講演会が行われるため、詳しく知りたい方は、ぜひ足をお運びいただきたい。


<展覧会関連情報◆―蠡∈酩陛検
瑛九の関連作品が東京国立近代美術館の4階にまとめて展示してあると伺って、作品を確認しに行きました。

【4階‐5室】
東京国立近代美術館_13右手前から福沢一郎《牛》(1936年、油彩・キャンバス)、三岸好太郎《雲の上を飛ぶ蝶》1934年、油彩・キャンバス、北脇昇《最も静かなる時》(1937年、油彩・キャンバス)


東京国立近代美術館_14右から吉原治良《作品2》(c.1934年、油彩・キャンバス)、吉原治良《朝顔と土蔵》(c.1931-34年、油彩・キャンバス)、古賀春江《そこに在る》1933年(水彩・鉛筆・紙)、古賀春江《楽しき饗宴》(1933年、水彩・鉛筆・紙)
12月17日に行われた講演会では、瑛九が山田に「古賀春江ついでがあったらおかりしたい」(杉田秀夫より山田光春あて書簡、1936年1月20日、図録p.128)と画集を借りていることを指摘された。その他にも、吉原治良、福沢一郎などの名前が書簡に記載されている。瑛九は自分の殻に籠らず、同時代の画家の活動は一様にチェックしていたようだ。


東京国立近代美術館_15右からオノサト・トシノブ(小野里利信)《黒白の丸》(1940年、油彩・キャンバス)、村井正誠《URBAIN》(1937年、油彩・キャンバス)、長谷川三郎《アブストラクション》(1936年、油彩・キャンバス)、岡本太郎《コントルポアン》(1935/54年、油彩・キャンバス)


【3階‐7室】
東京国立近代美術館_16河原温《浴室》シリーズ1〜28(1953‐54年、鉛筆・紙)、河原温《孕んだ女》(1954年、油彩・キャンバス)、河原温《DEC. 14, 1966》(1966年、アクリリック・キャンバス)、河原温《Date Painting》(1994年、アクリリック・キャンバス)、河原温《Date Painting》(1994年、アクリリック・キャンバス)、河原温《Date Painting》(1994年、アクリリック・キャンバス)
「浴室」シリーズと「date painting(日付絵画)」が展示された部屋。2014年作者の河原温の生きた記録に終止符が打たれた。昨年行われたグッゲンハイム美術館の展示準備中だったようだ。生きながらにして世界で注目される美術館で個展開催が実現した河原温だが、20歳の頃は、瑛九の浦和のアトリエに通っていた。瑛九に論破されて苦しんだ河原温の渾身の作が「浴室シリーズ」である。


瑛九1935-1937闇の中で「レアル」をさがす(表)瑛九1935-1937闇の中で「レアル」をさがす(裏)


「瑛九1935-1937 闇の中で『レアル』をさがす」
会期:2016年11月22日[火]〜2017年2月12日[日]
会場:東京国立近代美術館 2Fギャラリー4
休館:月曜(1/2、1/9は開館)、年末年始(12 /28 〜 2017 年1/1)、1/10(火)
時間:10:00〜17:00(金曜・土曜は10:00〜20:00)
主催:東京国立近代美術館

<講演会のお知らせ>
大谷省吾氏(同館美術課長・本展企画者)
「書簡から読み解く 1935 -1937年の瑛九」
2017 年 1 月 7 日[土]14:00-15:30
場所:講堂(地下1階)
※開場は開演30分前、申込不要、聴講無料、先着140名

***

ちょっと寄道....

東京国立近代美術館の近くに近代資料や美術品が展示されていることをご存知だろうか。別館の工芸館ではなく、「遊就館」と「昭和館」のことである。科学技術館と日本武道館を挟んだ先に同館はある。

じつは、瑛九の展示タイトルにある「闇の中」という言葉に、瑛九の個人的な悩みからくる「闇」と、戦争の色が濃くなってゆく社会の「闇」の二種が混在しているのではないかと思った。それは、瑛九が不眠症に悩まされている頃の次の書簡に見て取れる。

戦争は生きのこるものを作る。その點生活のドラマテックなしようちようである。
死をおそれないといふことがはじめて生きのこることにてんくわされる。生きおゝせなかつた人と生きのこるものとのビミメウさはまつたく不思議であろうが、作品のゆう劣はそれと同一なのではなからうか。

(瑛九より山田光春あて書簡1937年9月、図録p.144)

瑛九は、人として、あるいは芸術家として生き残ることが出来るか否かという瀬戸際に立たされている、不安や恐怖心を山田に打ち明けている。この頃の美術家については、戦争と隣あわせの生活を送っていたということも、頭の傍らで常に意識して作品を鑑賞したい。

東京国立近代美術館_17こちらは昭和館。「ぬりかべ」のような建物。1階は戦中・戦後のニュース映画を上映するシアタースペースと資料公開コーナー。4階は図書室。当時の貴重な雑誌などを検索・閲覧できる。5階は映像・音響室。文展や二科展の会場のようすを伝える映像もあった。


東京国立近代美術館_186・7階は常設展示室(大人300円)。昭和10年頃から昭和30年頃までの生活のようす伝える資料等が展示されている。エレベータで7階昇ると、突然、国会議事堂前の焼け野原(昭和20年5月25日空襲によるもの)が目の前に広がる。じつは、トリックアートで飾られた演出で、2015年のお正月明けに公開になったという。


展示室には、いくつか興味深い展示資料があった。そのなかでも2点だけ紹介したい。まず金10円と通し番号がつけられた日本万国博覧会の回数入場券(12枚綴り)。まるで株券のように大きく、細かな装飾が加えられている。また、「灯火管制」の解説が視覚的に理解しやすいものであった。瑛九の書簡でも灯火管制の記述が出てくるので以下に抜粋する。

もう太陽は上つたらしいが、晝もあま戸をあけない。毎晩トウ火くわんせいで、いつまでやらせるのかムキヱンキだとかいつてゐる奴もある。(瑛九より山田光春あて書簡1937年10月10日、図録p.145‐146)

瑛九はこの書簡の終わりにドストエフスキー『地下室(地下室の手記)』を読んでいることを山田に告げ、本書の主人公と自分を重ねている。瑛九は、精神的にも肉体的にも「闇の中」を経験していた。この真っ暗闇のなかで、瑛九は色彩の魅力に非常に惹かれていると山田に告げることになる(同年11月11日書簡)。この頃に制作していたのが《赤の中の小さな白》である。

東京国立近代美術館_19靖国神社の参道脇に広がる黄金色の絨毯。


東京国立近代美術館_20編⊃声匐内にある「遊就館」。武具、美術品、遺品等を約10万点収蔵し、特に近代史ゾーンの資料点数の多さは圧巻である。とくに千人針や遺影(一万柱)の展示の前では胸の詰まる思いがした。


東京国立近代美術館_211階玄関ホールには、零式艦上戦闘機(零戦)や機関車、加農砲が展示されている。会場に入ると、子供連れの家族や団体客、外国人観光客で賑わっていた。


東京国立近代美術館_223人の幼い子を持つ未亡人の逞しい姿を現している宮本隆《母の像》。編⊃声劼了夏擦箒内には、奉納された彫刻が数多く存在する。入口のゲートを抜け、エスカレーターで2階に昇ると日名子実三《兵士の像》もある。日名子実三の代表作といえば宮崎の平和台公園にある《平和の塔(八紘之基柱)》。かつて私も瑛九ゆかりの地を巡りながら、足を伸ばしたことがあった。


瑛九は1931年の徴兵検査で不合格となり、戦地に赴くことはなかったが、同館の所蔵にもある一部の美術家は、このような「現実」と向き合って作品を制作していた。

会場:昭和館
休館:月曜日 ※ただし、祝日または振替休日の場合開館、翌日休館。年末年始(12月28日から1月4日)
時間:10:00〜17:30(入館は17時まで)

会場:編⊃声辧〕圭館
休館:年中無休 ※6月末・12月末(26‐31日)臨時休業
時間:9:00〜16:30 
※元日24:00〜16:30/みたままつり期間中(7月13‐16日)、9:00〜21:00

本ブログの記事を作成するにあたって、東京国立近代美術館学芸員の大谷省吾氏(美術課長)、遊就館の鈴木亜莉紗氏(展示史料課 録事)、昭和館の菊池理恵氏(広報課)に取材の協力を得ました。貴重なお時間を割いていただき、この場を借りて深く感謝を申し上げたい。
なかむら まき


本日の瑛九情報!は上掲、中村茉貴さんの近美のレポートです。
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展は東京国立近代美術館で開催されています(11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

●ときの忘れものは2016年12月28日(水)〜2017年1月16日(月)まで冬季休廊です。
いつもより長い冬休みですが、お正月早々、ART STAGE SINGAPORE 2017に出展するためです。
ブログは執筆者の皆さんのおかげで年中無休、年末年始も連日新鮮な情報、エッセイをお届けします。
メールやネットでのお問合せ、ご注文には1月6日より通常通り対応いたします(日曜、月曜、祝日は除く)。

◆銀座のギャラリーせいほうで開催される「石山修武・六角鬼丈 二人展―遠い記憶の形―」には、ときの忘れものの新作エディションが発表されます。
会期:2017年1月10日[火]〜1月21日[土]*日・祝日休廊
201701_ISHIYAMA-ROKKAKU
主催/会場:ギャラリーせいほう
協力:ときの忘れもの
●オープニングパーティー
1月10日(火)17:00〜19:00
ぜひお出かけください。


◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・frgmメンバーによるエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」は毎月3日の更新です。
 ・夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は毎月5日の更新です。
 ・杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」は毎月10日の更新です。
 ・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
 ・普後均のエッセイ「写真という海」は毎月14日の更新です。
 ・野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
 ・小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。
 ・森下隆のエッセイ「鎌鼬美術館——秋田県羽後町田代に開館」は毎月21日の更新です。
 ・藤本貴子のエッセイ「建築圏外通信」は毎月22日の更新です。
 ・八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。
 ・小林美香のエッセイ「写真集と絵本のブックレビュー」は毎月25日の更新です。
 ・スタッフSの「海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
 ・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」はしばらく休載します。
 ・大野幸のエッセイ<ときの忘れもの・拾遺 ギャラリーコンサート>は随時更新します。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」と合わせお読みください。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・中村茉貴のエッセイ「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。
 ・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」英文版とともに随時更新します。
 ・深野一朗のエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・光嶋裕介のエッセイ「和紙に挑む」は終了しました。
 ・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は終了しました(時々番外編あり)。
 ・荒井由泰のエッセイ「いとしの国ブータン紀行」は終了しました。
 ・森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」は終了しました。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイや資料を随時紹介します。
 ・「オノサト・トシノブの世界」は円を描き続けた作家の生涯と作品を関係資料や評論によって紹介します。
 ・「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。
土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
 ・「関根伸夫ともの派」はロスアンゼルスで制作を続ける関根伸夫と「もの派」について作品や資料によって紹介します。
 ・「現代版画センターの記録」は随時更新します。
今までのバックナンバーの一部はホームページに転載しています。