中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第17回

宮崎県立美術館
「第4期コレクション展 瑛九の世界III」


瑛九の収蔵作品数国内一である宮崎県立美術館に訪れた。今回、取材に応じていただいた佐々木明子学芸員によると、美術館所蔵の作品の総点数は980点。油彩100点、水彩41点、素描80点、版画589点、写真170点である。加えて1階展示室3は、別名「瑛九展示室」として、常時瑛九の作品や関係資料が展示されている。

宮崎県立美術館_01夕暮れ時の宮崎県立美術館外観。美術館は県総合文化公園の中に施設され、同じ公園内に県立図書館、県立芸術劇場が併設されている。美術館から見て左側の図書館には、父杉田直が収集した「杉田文庫」が保管され、右側の芸術劇場には瑛九の《田園B》を再現した緞帳がある。宮崎大学教育学部教授石川千佳子先生が《田園B》について詳しく書かれているため、下記に紹介する。
(参考:影山幸一「瑛九《田園B》──発光する反近代『石川千佳子』」、art scapeアート・アーカイブ探求2016年10月15日号より、http://artscape.jp/study/art-achive/10128470_1982.html


宮崎県立美術館_02会場入口。デモクラート美術家協会の宣言文と写真パネル、瑛九の略年譜が展示されている。


本展は、コレクション展示の第4期目「瑛九の世界掘廚任△襦1誘紊梁召法◆峙楮蠅糧術掘廖◆嵬症淵戰好鉢掘廖◆屬△佞譴襯ぅ瓠璽検廚3本のコレクション展が同時開催されていた。第1~3期にも瑛九の特設展示が開催され、第1期目は版画集を中心にした展示、第2期目は子供向けのミュージアム探検の企画に合わせて瑛九の作品を出品し、第3期目は音楽をテーマにしたものであった。第4期目については、グループに着目した展示である。つまり、年間を通して瑛九の作品を盛り込んだ展示が実施され、いつ来館しても鑑賞できるようになっている。

宮崎県立美術館_03《花の散歩》1954年、33.3×24.0、油彩・板、「QEi」のサインあり


宮崎県立美術館_04《作品- E》1936 年、45.7×53.4、油彩・キャンバス
初期の抽象的な作例のひとつ。2種類の長方形の物体をスタンプのように、幾度も画面に押し付けて構成している。


宮崎県立美術館_05向かって右から《女》1952年、27.5×22.5、フォト・デッサン
《Visitors to a Ballet Performance》、1950年、45.7 ×55.8、フォト・デッサン
フォト・デッサン集『眠りの理由』より、1936年、22.3×27.2、フォト・デッサン
「フォト・デッサン」の中でも異なる表現方法が認められる3点。《女》は印画紙にスプレー状のやわらかな彩色を施している。真ん中は、感光時に型紙を移動して、イタリア未来派のような効果を狙った表現を試みている。


宮崎県立美術館_06右から《鳥》1956年、52.9×45.4、油彩・キャンバス、「QEi」のサインあり
《蝶と女》1950年、80.7×65.5、油彩・合板、「Q」のサインあり
《並樹A》1943年、33.3×24.3、油彩・キャンバス


宮崎県立美術館_07《花火C》1957年、45.5×53.1、油彩・合板、「QEi」のサインあり
個々の色が画面を動き回っているような作品。W・カンディンスキーの抽象絵画を想わせるが、瑛九の作り出す画面には鋭さはなく、牧歌的な暖かさを感じる。


宮崎県立美術館_08左《飛びちる花びら》1958年、80.3×116.3、油彩・キャンバス、「Q」のサインあり
右《田園B》1959年、130.7×194.0、油彩・キャンバス、「QEi」のサインあり


宮崎県立美術館_09《田園B》部分
オレンジ色を差した「光源」には、《作品- E》のスタンプのような表現が見受けられる。瑛九の作品は、技法材料が変わっても過去の技法がふっと現れることがある。そこを発見するのが作品鑑賞時のたのしみのひとつである。


宮崎県立美術館_10《つばさ》1959年、259.0×181.8、油彩・キャンバス
佐々木学芸員によると、瑛九を目的として訪れる来館者は、特に晩年の作品を好むため、本作か《田園B》のどちらか1点を必ず瑛九展示室で公開しているという。


実は、本作《つばさ》を制作していた前後の瑛九のようすについて、文通仲間による記録が残っている。1959年10月美術教師木水育夫は、浦和(現さいたま市)の瑛九のアトリエを訪問し、次のことを目の当たりにしていた。

瑛九はランニングシャツ一枚で脚立に乗って二〇〇号の油絵にとりくんでいました。見とれていたぼくを見つけて、「筆がね、こうしてすーっと画面に吸い込まれるのですよ。」これがそのときの挨拶でした。「寝不足がたたって、こんなに足が腫むのです。」と足をさするのです。彼はアトリエいっぱいに立ててある大作を指さして、「弾丸は出来た。来年は大いに暴れましょう。」と元気に語ったのですが、その後彼は病魔におそわれたのです。

十一月。瑛九入院のしらせを受け、浦和の病院へ見舞いました。彼はベッドの上で、「大作が出来ているから、庭に出して張りめぐらしその中で見てほしい。」といいました。ぼくたちはアトリエから大作を庭に出して、彼のいうように見ました。

(P.Sプランニング編「木水さん語録」『瑛九からの手紙』瑛九美術館、2000年、p.179)

この当時の瑛九は、体調不良により半分無意識で点を打つ作業を続けていたのだろう。抽象画ではあるが、制作過程を想像するとシュルレアリスムの「自動筆記」のような状態であった。妻都によれば、食事もろくに採らずに絵筆を握っていたと証言している。陽光がさす庭に張り巡らされた瑛九の大作を鑑賞した木水等にとっては、光に包まれ、まさに夢心地だったと思う。

宮崎県立美術館_11向かって左から
《森の会話》(SCALE Iより、林グラフィックプレスによる後刷り、ed.11/60)1953 年、36.1 ×27.2、銅版画
《れい明》1957年、52.9×42.0、リトグラフ、「QEi」のサインあり
《舞台のピエロ》1957年、53.4×40.5、リトグラフ、「QEi」のサインあり、ed.17/20


宮崎県立美術館_12ここからは、グループに所属していた当時の作品や同志の作品が展示されたコーナー。向かって左側から、
《タバコを吸う女》1935年、32.4×23.7、油彩・ボール紙
《街》1947年、116.8×91.5、油彩・キャンバス、「Q Ei」のサインあり
《プロフィル》1950年、22.7×19.3、フォト・デッサン


《タバコを吸う女》本作は西村楽器店にて第1回「ふるさと社」展に出品された。「ふるさと社」のメンバーは、第15回都城市立美術館に列挙した通り、主に宮崎の有志と結成された。後者の《街》は第13回「自由美術家協会」展に出品され、《プロフィル》は第1回「デモクラート美術家協会」展の出品作。

宮崎県立美術館_13左から 難波田龍起《古代図様》1938年、31.5×40.4、油彩・キャンバス、矢橋六郎《竹林》1940年、80.3×99.8、油彩・キャンバス


1937年、瑛九は自由美術家協会の創立会員のひとりであるが、翌年に出品を見送り、その後退会して復帰している。創立当初から入退会や「改称」の多い団体で著名な人物が会を通じて作品を出品していた。2人も自由美術家協会に所属しているが、矢橋は山口薫等と1950年に退会し、難波田は1959年退会している。瑛九の関係者から伺った話では、戦時下にあった当時、「自由」や「創造」などを掲げた活動が難しく、常に目を気にするような状況があったようだ。戦後も美術界の活気が戻らず、「毎日連合展」が企画されることなる。山田光春『瑛九―評伝と作品』(青龍洞、1976年)には、その当時の様子を次のように書いている。少し長くなるが、当時のようすを伝える貴重な証言のためご紹介したい。

自由美術の仲間には、小野里[オノサト・トシノブ]のようにシベリヤに抑留された者や、荒井[竜男]のように家族とともに京都や北海道を転々とした末に東京に舞い戻った者などもいたけれども、多くは山口[薫]の群馬県箕輪や矢橋の岐阜県赤坂といったように、それぞれの郷里へ疎開したままになっていた。そのために出足はおくれ、一九四八(昭和二三)年の一月に小規模ながら三越で会員展を開き、その秋大阪で戦後はじめての公募展を開いたのがやっとであった。
しかしまだ、本格的な活動を始めたとはいえず、敗戦後の厳しい現実の中で、どのように活動を進めて行くべきかとの意見をまとめることは出来なかったので、翌年の二月、難波田、森[芳雄]、荒井等の在京会員に長谷川[三郎]らを加えた数名の会員が箕輪の山口の所に集まって協議をした。そこでの中心課題が、今後会をどのように発展させるべきかとの方針と方策の決定にあったことはいうまでもなく、討議は会の組織の改革という点にしぼられていった。戦後の荒波を乗り越えて会を前進させるには会員十数名といった貧弱な組織では困難だから、会員を充足することが目下の急務だとの意見は一致したけれども、その具体的な実現方法については、一挙に大量の会員を補充して会の体質改善を図るべきだとする説と、急速な建て直し策には危険が伴うから、徐々に拡充を進めるべきは早急に会員を大幅に増強して、名称を自由美術協会(家を除く)と改めて再出発することを決定した。そこで、新しい会員にはこれまでの会友と、麻生三郎、井上長三郎、糸園和三郎、小山田二郎、大野五郎、寺田正明、末松正樹、鶴岡政男、吉井忠、佐田勝、松本俊介、広幡憲等の新人を迎えることにしたのであって、瑛九の会員復帰もこうした改革の波に乗ったものであった。[中略]こうして戦後の活動を開始した自由美術協会は、この年の五月に設けられた「毎日連合展」にも参加し、十月には会場をこれまでの美術協会から東京都美術館に移して第九回展を開いたのであって、瑛九もそれに参加した。[pp.295‐296]

※このとき瑛九が毎日連合展に出品した作品は、《鳩》(生誕100年展図録レゾネNo.191)《窓を開く》(レゾネNo.189《窓をあける》)
※[ ]は筆者によるもの

宮崎県立美術館_14デモクラート美術家協会会員の作品。左から
泉茂《作品(蝶)》1959年、33.3×45.3、油彩・キャンバス
幹英生《風景》1953年、38.0×45.5、油彩・キャンバス
内田耕平《作品》年代不詳、27.2×21.9、油彩・ボール紙
加藤正《敗戦ヒロシマ(赤)血の爆発》1953年、60.4×72.6、油彩・キャンバス


宮崎県立美術館_15左の3冊は機関紙「DEMOKRATO」No.1-3、右は「デモクラート美術家協会解散通知」葉書


内田耕平と加藤正はともに宮崎県串間市出身である。今回は展示されていなかったが、同協会の井山忠行もまた宮崎出身である。

ちょっと寄道…

宮崎県立美術館_16みやざきアートセンター
ここは、2009年10月に宮崎市橘通3丁目にオープンした複合文化施設で、展示ギャラリー、創作アトリエ、小ホール、交流サロン、キッズルーム、多目的室、ライブラリー、屋上庭園が設置されている。市が管轄する施設ではあるが、運営は民間団体に委託されている「指定管理者制度」が導入されている。建物にはそこここに利用者がいて、「場」に活気があった。センター入口前の広場では、ペンキで塗られたアップライトピアノがあり、ひとりの若い男性がショパンの「華麗なる大円舞曲」を軽快に弾いていた。ニット帽に革のジャケット姿というラフな格好の彼は、ただそこにピアノがあったから弾いているというようすであった。時々通行人がベンチに腰を落ち着かせて、ピアノに耳を傾けていた。このような場所は中々課題が多いという噂を耳にするがここは、「箱もの」にならず、すっかり地域に馴染んでいるようすであった。このとき、イラストレーター「生鯣狼繊彭犬行われ、盛況だった。80年代の映画「スター・ウォーズ」等のポスターを手掛けたことで全国的に知られているが、宮崎ゆかりの人物として地元で高く評価されている。


ところで、こちらの5階アートスペースでは、宮崎ゆかり作家を紹介する常設展が行われていることもある。このときは、企画展の会場として利用されていたが、瑛九の作品も公開することがあったという。私は図々しくも瑛九の作品について何か紙ベースで閲覧できる資料がないか伺ったところ、宮崎市地域振興部文化スポーツ課の久米徳太郎氏が急きょ要望に応えてくださった。取材や研究目的といっても、忙しい合間をぬって機転を利かせていただいたことは非常に嬉しかった。聞くと久米氏は県立美術館の佐々木明子学芸員の教え子だったという。今回の記事を書くにあたって、お二人にはたいへんお世話になった。この場を借りて厚く感謝申し上げたい。

宮崎市が所蔵する瑛九の作品総点数は38点。
版画28点(銅版画18点、リトグラフ10点)
フォト・デッサン10点

本稿ではフォト・デッサンのタイトルを以下に抜粋する。
《波のたわむれ》25.4×30.5
《想い出》22.6×28.0
《光と影》22.15×28.4
《シルク》21.2×28.4
《プロフィル》22.15×27.3
《家族》不詳
《犬》21.9×26.8
《夢》22.0×22.0
《あこがれ》21.8×27.6
《二人》不詳

今後、5階ギャラリーで瑛九が展示される機会があるかどうかはわからないが、現代美術を中心にした展示や市展などが開催されている。県外から宮崎県立美術館に足を伸ばすときには、ぜひ立ち寄りたいアートスポットのひとつである。
会場:みやざきアートセンター
休館:毎週火曜日(火曜日が休日の場合は翌平日)は、18:00まで(入場は17:00まで)
時間:10:00〜22:00(入場は19:30まで)

宮崎県立美術館_17宮崎県立美術館のすぐ近くに宮崎神宮がある。銅鳥居に銅版葺きの屋根。以前、参拝したときは野生の鶏がいたが寒さのためどこかに隠れてしまったのだろうか。


宮崎県立美術館_18宮崎神宮の境内にある宮崎神宮徴古館。登録有形文化財である。このときは「揮毫作品展会場」として内部公開していた。


なかむら まき

●展覧会のご案内
「第4期コレクション展 瑛九の世界III」
会期:2017年1月5日[木]〜2017年4月16日[日]
会場:宮崎県立美術館
休館:月曜、祝日の翌日(土・日曜日、祝日を除く)
時間:10:00〜18:00(展示室への入室は17:30まで)

宮崎市出身の瑛九(本名:杉田秀夫)は、生涯を通じて常に新しい表現を求め、写真や版画、油彩など様々な技法に取り組みました。またその作品も、初期から晩年に至るまで、印象派やシュルレアリスム(超現実主義)風、抽象的な作品など、多彩に変化しました。
20代でフォト・デッサン集『眠りの理由』を刊行し、一躍美術界で脚光を浴びた瑛九は、様々な技法や表現を模索した後に、その集大成ともいえる点描による絵画空間へたどり着きました。
 今回の展示では、油彩や版画など、各領域の代表的な作品に加え、瑛九の美術団体における活動を特集して紹介します。没後60年近くを経て、今なお輝き続ける瑛九作品の魅力をお楽しみください。
(宮崎県立美術館HPより転載)

●今日のお勧め作品は瑛九のフォトデッサンです。
瑛九「子供」
瑛九
子供
フォトデッサン
25.2×18.9cm

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください