中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第18回
宮崎・瑛九ゆかりの地を訪ねて


ちょっと寄道….特別篇 1

「美術館に瑛九を観に行く」の第14〜17回では、宮崎県立美術館と都城市立美術館で開催されていた展覧会の模様を紹介した。実はこちらの取材を進めながら、もう一つ並行して取り組んでいたことがあった。「瑛九の聖地巡礼」である。宮崎と云えば瑛九の出身地であることから、宮崎県に訪れたら、ぜひやりたいと長年胸に秘めていたことであった。とはいえ、宮崎の土地勘は全くない。情報不足で読み物に出来るか分からなかったが、生前瑛九と親交のあった宮崎在住の詩人鈴木素直氏の協力を得たことで、ぼんやりとしていた視野がクリアになった。そこで、表題のとおり「ちょっと寄道….特別篇」という枠を設けて、瑛九ゆかりの地を掘下げ、少しでも当時の空気感を届けることができたらと思う。

まず、現地へ行く前に私は『瑛九−評伝と作品』(青龍洞、1976年)から宮崎県に関する地名等をピックアップした。40年以上前に書かれた本書が現在の地名や建物(店舗)名と一致するかどうか、全く皆無に等しかったが、とりあえずめぼしいところを30カ所ほど列挙し、事前に鈴木素直氏と連絡をとった。

宮崎で鈴木氏に対面し、ひとつひとつ状況を伺ってみると、そのうちのほとんどが現存しない、あるいは遠隔地でとても今回のスケジュールではいけないという具合であった。しかし、その中でも瑛九の実家である杉田眼科、宮崎小学校、杉田家の墓標、郡司邸跡地などへは鈴木氏が車で案内できるということで、ガイドをお願いした。

以下には、鈴木氏の証言をもとに瑛九の実家や彼が通った場所を地図上で確認しながら、『瑛九―評伝と作品』に書かれた内容をいくつか参照したい。
参照先:「瑛九の聖地@宮崎」
https://drive.google.com/open?id=1cUFoWwqKUy8CARQBsUp2qtNQtuM&usp=sharing

特別篇_01杉田眼科医院および郡司邸(金城堂包装紙部分)
なお、こちらの画像は、宮崎の老舗銘菓「金城堂」の包装紙に印刷された地図「宮崎市街図」(出版社不明、昭和5年頃)の一部である。これを見ると中央部に横切る「南廣島通り三丁目」付近に「杉田眼科医院」があり、左中央部「南広島通り二丁目」沿いには、「郡司邸」とある。この地図入りの包装紙は、土産選びの最中に偶然見つけ、過去の地名を辿るのに大いに役立った。

特別篇_02「宮崎市街図」上半分・北側(出版社不明、昭和5年頃)
※地図が制作された年代は昭和5年頃であり、解説と表記が異なることもある。
※下記、括弧内のページ番号は出典先『瑛九―評伝と作品』の掲載頁を表す。
※アルファベットは、Googleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」と対応している。


A. 杉田眼科[杉田眼科医院](p.28他)
特別篇_03現在の杉田眼科
瑛九こと杉田秀夫は宮崎県宮崎郡宮崎町大字上別府(現宮崎市橘通東3丁目)に生まれる。『瑛九―評伝と作品』(以下「評伝」)の中で紹介されている瑛九の父直の日記には1911年4月28日に「格別ノ陣痛ナク午後六時三十分男子分娩」と記録されている。杉田家の父直は俳人としての活動をする一方で眼科医院の院長をしていた。

B. 郡司邸(p.50、pp.90-91、pp.116-117、p.211他)
特別篇_04画像の中央にある石碑には、「西郷隆盛駐在之跡」とある。かつてこの地にあった民家に西郷隆盛が約2か月滞在したことを伝える。実は、この場所、杉田家の親戚にあたる郡司邸があったところだと鈴木氏から教えていただいた。「生誕100年記念 瑛九展」の巻末にある油彩画カタログレゾネをみるとNo.81《郡司家の庭》(1942年)という作品がある。

郡司家は代々由緒ある家系で「佐土原島津家の家老職」であった。杉田家とは元々つながりはなかったが、姉杉田君子が郡司良(浜田家から郡司家の嫡子となる)と結婚し、郡司家と深い付き合いを持つようになる。なお、その後の郡司家は、義兄の良を含む3人が相次いで他界したことから、1932(昭和7)年に秀夫は用心棒として郡司家に身を置くようになる。この時期、かなりの数の油絵を制作したようだが、現存するものは極わずかしか存在ない。

特別篇_05郡司家で行われた送別会(「生誕100年記念瑛九展」p.221)
郡司邸は、人を送り迎えする玄関口として度々使用されていた。画像は1940年3月16日に開かれた上京する北尾淳一郎(1896-1973)の送別会の様子である。広々とした洋風の内装が目を惹く。なお、1935年エスペラント特派使節として宮崎に来ていた久保貞次郎の歓迎会も郡司邸で行われ、瑛九はその折に久保と知り合いになった。瑛九は「弟の秀夫です」と久保にあいさつをし、画室でシュルレアリスムの話をしたようだ。


C. フミタ写真館(p.120)
杉田家の向かいにあったという写真館。残念ながら現存しない。こちらの館主は、瑛九に対し、たいへん協力的であったと伝えている。こちらの写真館がなければ、瑛九の「フォトデッサン」の傑作は生まれなかったかもしれない。評伝の中に書かれた内容をみると、古賀春江画集を見たあとに制作意欲が高まっていた瑛九は「フミタ写真館の暗室へ飛び込んで猛然と制作を開始した。この時杉子や盛男を助手に頼んだけれども、そこの館主府味田安彦もこれを応援し、薬品の調合などを手伝っただけでなく、時々はウィスキーのサービスもしたものだと語っている」とある。このとき制作されたのが、『眠りの理由』(10点1組)を含む百点にも及ぶフォトデッサン(印画紙による作品)であった。その後も瑛九は、フミタ写真舘の暗室を借りることがあったようだ。「生誕100年記念 瑛九展」の巻末にある油彩画カタログレゾネNo.57には、当館をモチーフにした《フミタ写真館》(1941年、45.4×33.7、宮崎県立美術館蔵)が掲載されている。

D. 知事官舎(p.110)
当時、知事官舎は郡司邸の隣りにあった。1935年瑛九は、知事官舎に滞在中の清水登之(1887-1945年、栃木県出身)に会うことになっていたようだが、上野で開かれた中央美術展を見てきた帰りで、非常に気が立っており、ついに会うことはなかった。山田宛の書簡には「清水にはアワン。大家などにはアワンことにするです。本をかって、そいつをよむです。ハチきれるゼツボウ感でキャンバスをタタこう。ゼツボウが出発だ。」と綴っている。
なお、知事官舎が近いためか《安中宮崎県知事》(1951年、宮崎大学所蔵、「生誕100年記念 瑛九展」レゾネNo.216)という作品がある。1945年宮崎県知事に就任した安中忠雄を描いた肖像画である。

E. 谷口外科医院[私立宮崎県立病院](p.252)
1944年5月瑛九は宮崎神宮で腹痛に襲われ、この病院で腸捻転の手術を受けている。このとき瑛九は、担当医のことを次のように書いている。「院長の谷口熊雄は宮崎県立病院の院長として九州大学から召聘され、後に谷口外科医院を創設したこの土地の名士であり、担当の南田弘は文学芸術に関心をもつ若い医師で、回診の際に彼のところで画集を見ながらしばらく話して行くようなこともしばしばあったという」
術後の回復は良好とはいえず、瑛九は再入院するが、そのときも瑛九は南田医師のことを書簡に書き記している。瑛九は、手術後一年は重いものも持たないようにと南田医師からは注意を受けていたが、院長は特に注意するようにとは口にしなかったために、特に用心しなかった。「医術は経験だけではない」と瑛九は感じたようだ。
病院があった場所は、現在みやざきアートセンターが建つ。

F. 八幡社[八幡神社、現宮崎八幡宮](p.38)
杉田家の氏神を祀る神社であり、秀夫誕生のお宮参りはこちらであったと父直の日記に綴られている。

G. 安心堂書店(p.172)
瑛九は父親譲りの無類の読書好きで、小学生の頃には読書に集中しすぎるあまり、教員に怒られるほどであった。「古本屋」は、評伝の中で度々目にするが、兄正臣の日記から家の近くの「安心堂」であることが分かる。

なお、地図上の水色部分は、それぞれ墓地、教会、映画館である。鈴木氏によれば、「墓地」と書かれた場所にかつて杉田家の墓があった。杉田家の向かいにある「教会」は絵のモチーフになった可能性があるためにマークした。また、瑛九は、しばしば映画館に通ったことが評伝で確認することができる。「大成座」が果たして馴染みのところだったか定かではないが、可能性のひとつとしてマークしておいた。なお、杉田眼科医院の横の通りを北に進むと現在山形屋があり、その場所に「ロマン座」という映画館もあった。

以下は、「宮崎市街図」から外れたところにある瑛九ゆかりの地である。杉田家からみて北側にある地で位置情報は、冒頭で示した「マイマップ」の方で確認してほしい。

H. 橘通りロータリー
特別篇_06橘通りロータリー 現橘通り三丁目付近(『写真集 宮崎100年』宮崎日日新聞社、1982年、p.371)
鈴木素直氏よるとかつて橘通りの交差点にあったロータリーに、瑛九はよく酔っぱらって大の字で寝ていたという。ちなみに評伝では居酒屋「真」や「巴」に瑛九が通っていたことを伝えている。(p.172)


I. ヒマワリ画廊(p.290)
特別篇_07従弟の鳥原茂之が宮崎市広島通りに画廊を設立する。記念すべき第一回は、杉田作郎(父直)の傘寿の祝いで「杉田作郎氏短冊色紙展」が行われる。収集した芭蕉、蕪村、一茶の他、親交のあった紅葉、子規、虚子、不折、芋銭など、著名な人物のものが展示された。画像は、今の画廊で、一階は画材店で二階は会場として利用している。

J. 西村楽器店(p.114、p.117、p.148)
記憶に新しい東京国立近代美術館の常設展で展示物の中に、「西村楽器店」の会場名が入った資料があった。評伝によると店主池田綱四郎のはからいにより、瑛九らは2階のスペースを会場として度々活用していた。まさにこの場所で「ふるさと社」の展示、および宮崎での初の瑛九個展(1936年6月12・13日)が開催された。また、エスペラント劇「ザメンホフの夕べ」もこちらで行われていた。

特別篇_08宮崎県立美術館の佐々木学芸員から伺って、店舗のあった橘通り西3丁目訪ね歩いた。今はコーヒーショップに変わってしまったが、白い建物内に入っている店舗の説明を見ると「ニシムラビル」とあった。楽器店はなくなってしまったわけではなく、宮崎市内清水1丁目と大淀川に渡った先の中村東3丁目に店舗が移った他、九州・四国へと拡大している。


K. 丸島住宅(p.290、p.300、p.304)
特別篇_09画像は、瑛九がエスペラントを教えていた宮崎大宮高校の生徒たちと写っている丸島住宅の様子。鈴木氏から提供いただいた。
瑛九は1948年谷口都と結婚し、丸島町の市営住宅に引っ越すが、まだ戦災後の復興中で適当なところは無く、画像のとおり木造のバラックであり、実家暮らしとは目に見えてかなりの落差があったよう。海老原喜之助が瑛九を訪ねた時について、評伝では以下のように書かれている。「海老原は須田〔国太郎〕に誘われるままに宮崎へ来たのであった。そして内田〔耕平〕から瑛九のいるところを聞くとすぐに案内をたのみ、途中で杉田家を見て丸島町の彼の家へ行った。杉田家の門前に立った海老原は中へ入ろうとはせず、〔中略〕都に「この世に人間はいくらでもいるけれども、本当の人間というものはまれにしかいないのだから、どうか瑛九を大切にしてください。よろしくお願いします」と、丁寧に頭を下げて頼んだ」
2人きりになった瑛九と妻都は、普段からエスペラント語で会話していたようだ。慎ましやかな暮らしであっても、実りの多い暮らしであったことが想像される。

今回は、美術館の作品鑑賞ではないが、瑛九の誕生・芸術家デビュー・上京・病気・結婚など、人生の節目節目を地図上の場所から辿ることが出来た。瑛九が生活した環境や体験場所を地図上から探ることで、作品が描かれた「地」がどういうところだったのか、どういう経験を経て作品が制作されたのか想像しやすくなった。具体的に主な制作地をあげると、実家の杉田家・郡司邸・フミタ写真館・丸島住宅であったが、評伝でこれらの場所を見ると、各地での経験が瑛九に様々なインスピレーションを与えていたことが伺い知れる。郡司家では油彩画制作に傾倒し、フミタ写真館で印画紙による作品(フォトデッサン)を作り、丸島住宅では妻都の姿を多く描いている。想像以上に「画家と場所」が密接な関係にあることに気付かされた。

まだまだ紹介したいことは山盛りあるが、果たしてまとめきれるだろうか…次回は、「宮崎市街図」南側を中心に瑛九の足跡をたどりたい。

なかむら まき

*20170504/21時5分画廊亭主より追伸
石原輝雄さんからコメントをいただきました(下記参照)。この原稿をつくるのにヘロヘロになった中村さん、連休はひっくりかえっていたらしいけれど、石原さんのコメントで元気回復したらしい。読んでくださる方あってこそのブログです。引き続きのご愛読をお願いします。

●今日のお勧め作品は瑛九のフォトデッサンです。
20150504_qei_140_work瑛九
「作品」
フォトデッサン
40.8x31.9cm


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。