中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第19回
宮崎・瑛九ゆかりの地を訪ねて


ちょっと寄道….特別篇 2

「美術館に瑛九を観に行く」の執筆依頼があったとき、愉しみな反面、「瑛九」にかんする記事を私に書けるかどうか不安があった。瑛九を展覧会で扱う学芸員をはじめ、瑛九のコレクター、瑛九に関心をもつ研究者、瑛九と親交のあった方、はたまた瑛九にそれほど関心がない方、さまざまな立場の方の眼に触れることを想定すると、ストレートな内容を書くだけでは面白みがない。そのような考えが頭をよぎって、展覧会レポートに+αとして「ちょっと寄道…」を加えた。その「寄道」が今回も大幅な「寄道」になってしまい、返ってお叱りをうけてしまうのではないかと思いながら、前回に引き続き瑛九が生まれ育った街について、かつて瑛九の(エスペラント語の)教え子であった鈴木素直氏の案内や山田光春『瑛九―評伝と作品』(青龍洞、1976年)を頼りにお届けしたい。なお、今回も宮崎県の銘菓「金城堂」の包装紙に使用されていた地図「宮崎市街図」とGoogleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」を参照しながらご一読願いたい。
https://drive.google.com/open?id=1cUFoWwqKUy8CARQBsUp2qtNQtuM&usp=sharing

特別篇_07作者不明「宮崎市街図」出版社不明、1930年頃
地図が制作された年代は昭和5年頃であり、解説と表記が異なることもある。
※下記、括弧内のページ番号は出典先『瑛九―評伝と作品』の掲載頁を表す。
※アルファベットは、Googleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」と対応している。


L.宮崎尋常高等小学校[現宮崎市立宮崎小学校](pp.47-49他)
特別篇_08現在の宮崎小学校。手前に古い門柱が残る。

山田光春は『瑛九―評伝と作品』(以下、「評伝」と表記する)に、瑛九こと杉田秀夫の小学校在学時について次のように書いている。「一九一八(大正七)年の四月一日、秀夫は直に付き添われて宮崎尋常高等小学校(現宮崎小学校)に入学した。(中略)彼は幼稚園には行かず、この時はじめて集団生活を経験することになったのだから、そこに大きな抵抗を感じたのは、自然な成り行きであった。そのため、毎朝彼を学校に送り出すことは栄にとっての大きな苦労となって、坂本という気丈な看護婦が彼を押し出すようにして玄関から送り出すと、栄は急いで二階に上り、無事に行ってくれるようにと念じながら、カーテンの陰にかくれて、薩摩屋という家具屋の角を曲って姿が見えなくなるまで見送ったものだったという。しかし、そうしてほっとするのもつかの間で、学校から帰りを迎えるのがまた大変であった。」
文中にあった家具店「薩摩屋」は、杉田眼科から左に向かい、一つ目の角を右にまっすぐ進むと右手にある。地図上には示さなかったが、前回の上半分の「宮崎市街図」に「サツマヤ家具店」と表記された場所を確認する事ができる。

M.安楽寺・馬車(p.40、p.51-53)
安楽寺の裏手には、馬車乗り場があり、1914(大正3)年6月家族総出で馬車に揺られて青島へ出かけたことがあった。日豊線が鹿児島まで全通する1916(大正5)年頃まで、大淀川を渡って青島方面に行くには馬車を利用していた。1915(大正4)年母雪が病のため死去したことから、秀夫にとってはこの一日限りの小旅行が印象強く残っていたという。
また、小学5年生のときの秀夫は、毎日のように安楽寺へ訪れ、仏具(如意)に関心を示していた。住職の弘中慧見と秀夫は親しい仲になり、秀夫は住職から「サブ」と呼ばれ、住職は「ロマ」と呼んでいた。安楽寺という場所は、彼にとって日常から非日常へと放たれるところであったのかもしれない。

N.宮崎県立図書館(p.308、p.322、p.339)
特別篇_09宮崎県立図書館子供室入口(焼失)

現在は、宮崎県立美術館と同じ「宮崎総合文化公園」にあるが、旧県立図書館は、1915年に県庁の近くに建てられた。1950年には宮崎県立宮崎図書館から宮崎県立図書館に改称したことが切っ掛けとなり、1951年に帰郷した瑛九のもとに図書館の内装に関わる大きな仕事が待っていた。このことについて、評伝より以下に抜粋する。「宮崎に帰った瑛九は制作に打ちこむ傍で改装中の県立図書館の子供室入口の周囲に、館長中村地平の依頼による壁画を描いた。海と子供をテーマにしたその壁画は、この舘がその年の六月に開館されて以来長く子供たちに親しまれたが、惜しくも一九五九(昭和三四)年四月に同館が全焼した時、その建物と運命を共にしてしまった」ちなみに、壁画完成後から火事で焼ける前まで、図書館では下記の通り瑛九の展覧会が度々開催されていた。

1951年8月16〜20日「瑛九画伯個人展」
1952年3月21〜24日「瑛九画伯個展」
1955年4月21〜25日「瑛九個展」
1957年6月〜3日「瑛九近作個展」

1951年に行われた瑛九の展覧会では、油彩とフォト・デッサンに加え、エッチングが出品される。そのとき目録が発行され、そこに添えられたエッチングにかける瑛九の想いを振り返ってみたい。「創作版画というと日本では木版画を意味しますが、ヨーロッパやアメリカではエッチングと石版画が画家自身の手になる版画として愛されています。レンブラントはじめほとんど偉大な画家たちがエッチングを手掛けていますが、日本では単なる技術としてもてあそばれていて、すぐれた作家も一、二にすぎません。/日本が、浮世絵の為に世界の版画国と思われながら、日本の現代画家たちの手になるエッチングや石版がないのは残念です。僕も長年の版画への夢を最近実現しはじめた所です。僕のエッチングが鑑賞の手引きとなり、そして多数のエッチング愛好者を見出す事が出来たらうれしく思います。」(評伝より「個展目録『瑛九氏の言葉』」)
猪突猛進するタイプのように見えて、実は冷静に機を待っていたことが瑛九の発言から見て取れる。瑛九は国内外の美術動向の中で自分の立ち位置を俯瞰し、次にステップアップする方法として「エッチング」に取り組んでいる。

O.教育会館(pp.307-308)
特別篇_101950年2月11〜14日に教育会館で行われた「瑛九作品展」の展示会場。右から瑛九、都夫人、兄正臣である。
このときの出品作は、油絵92点、フォト・デッサン7点(うち着彩2点)、フォト・コラージュ2点、デッサン2点、水彩4点、合計107点にも及ぶ大個展であった。


特別篇_111945年頃の教育会館の外観写真である。教育会館は、昭和7年頃教員と県民の有志の資金援助で建てられた。正面玄関の二階部分に丸窓があるモダンな建物で、戦災を免れるも2000年に入って老朽化のため解体された。


P.宮崎商工会議所(pp.314-315)
旧商工会議所は大淀川沿いにあった。瑛九は商工会議所でも展覧会を開催している。評伝を紐解くと、1951年1月に本所において35点のフォト・デッサンを出陳したとあり、個展はたいへん盛会で半数が売約された。また、本展で瑛九の熱狂的なサラリーマンのファンが表れた。今まで全く芸術に関心の無かった人物であったが、瑛九の芸術論に心を奪われ、アトリエに毎日のように通った。古代から現代まで展開された瑛九の美術談話を彼はノートに取った。話は夜の1時2時過ぎまで続いたのにもかかわらず、翌朝アトリエに出かけると、真っ白だったキャンバスが作品に変わっていたという。彼は瑛九が魔法使いではないかと疑ったようだ。瑛九の講義ノートが明るめに出ることを願いたい…

Q.日房(p.99)
山田光春は、瑛九と知り合った直後、どのような親交を結んでいたのか、次のように述懐している。当時の瑛九と山田が戯れた地を転々と示していることから、少し長くなるが引用する。
「宮崎の地で秀夫という、唯一の友人をもつことになったぼくは、その後は土曜の午後になると急いでバスに乗って宮崎に生き、橘通りの停留所から郡司家に「ヒデチャンいますか?」と電話するようになった。電話嫌いの彼の電話口での応対はそっけなかったが、間もなくそこへやって来て、それから日曜の夜までのぼくらの生活が始まるのだった。よく橘橋の袂にあった日房というレストランの二階へ上って、霧島連峰や大淀川の静かな流れを眺めながらビールで気炎をあげたもので、それからは大淀川の堤の上を歩いたり、街に戻って古本屋をのぞいたり、時には映画を見たりして、結局は郡司家の彼の部屋にたどりついて夜遅くまで話したのであって、翌日もまた近郊を歩いたり、彼の画質に集って来る若者たちと語り、夜になって妻に帰るのだった。」(※「妻」は宮崎市から北に約30km離れたところにある地名。山田の赴任先の宮崎県児湯郡妻尋常高等小学校があった)
なお、日房があった場所は、現在宮崎市役所になっている。

R.橘橋(p.96他)
特別篇_12現在の橘橋から望む大淀川風景

鈴木氏、佐々木学芸員(県立美術館)、祝迫学芸員(都城市立美術館)に瑛九ゆかりの地を質問したとき、必ず出てきた場所が「橘橋」であった。評伝でも度々出てくる「大淀川」に掛かる橋で、宮崎市街と都城市・鹿児島方面を結んでいる。瑛九は、宮崎を訪れた友人を橘橋の袂に広がっている河原によく連れて行ったようだ。
評伝の中でひときわ目を引く橘橋にまつわるエピソードがある。1934年青島からの帰り道、大淀駅(現南宮崎駅)で下車して橘橋を渡る時であった。秀夫は、「これから四つんばいでどこまで行けるか競争しよう」と従妹や甥っ子に声を掛けて競走しはじめた。子供たちは恥ずかしさから早々に止めても、必死で続ける秀夫の異様な姿に周囲は心底心配したという。
秀夫はこの時期、作品制作を通じて経験を積み上げ、画家として生きる決心を固めていた。ところが、憧れの三岸好太郎を訪ねようとした矢先に、他界した事実を突きつけられ、ショックを受けている。この橘橋での一件は、何であっても「納得するまで、最後までやり抜きたい」という思いからこのような行動に至ったと想像する。

S.青島・海水浴場(p.95、p.207、p.246)
海水浴場のある青島へ行くのが杉田家の恒例行事であり、静養目的で赴くこともしばしばあった。1934年橘橋の一件と合わせて語られているのが青島でのエピソードである。秀夫は生魚を頭から食べはじめ、周囲を驚かせた他、肩まで海の波が押し寄せても座禅を組み続け、鬱積した気持ちをコントロール出来ずにいた。しかし、こうした中でも常に周りから支えられているところをみると、彼は本当に恵まれていると思う。
青島の風景は、実際に瑛九が描いた場所のひとつである。(生誕100年記念瑛九展図録「瑛九油彩画カタログレゾネ」No.38《青島の海》1940年)

T.宮崎農林高等学校(pp.98、99他)
現在の宮崎県総合文化公園(美術館、図書館、芸術劇場)がある敷地に本校は存在した。外観については、都城市立美術館を取材した第14回でも紹介した絵葉書のとおり、かなり洒落た洋風建築であった。
瑛九と親交のあった北尾淳一郎(1896-1973)は本校の教授であった。北尾は元々東京帝国大学農学部で動物学(昆虫)を専攻し、東京農工大学の学長も務めた人物である。瑛九は本校の美術展に出品されていた北尾の写真を見たことが切っ掛けで親しくなる。北尾は、宮崎の風景を被写体にした写真を発表していた。また、北尾が収集したレコードを聴くために、瑛九は度々農林高等学校の官舎に訪れていた。

U.宮崎県宮崎大宮高等学校 [旧宮崎県立宮崎中学校](p.78、p.297、pp.302-303他)
特別篇_13現在の大宮高校前

1924(大正13)年4月瑛九は宮崎県立中学校に入学するが、翌年春には退学している。この場所は、後に大宮高校となった場所で、瑛九はエスペラント語の指導者として本校に訪れていた。評伝には、画家の瑛九とは別の顔をのぞかせている場面を、次のように説明している。「彼はその頃、宮崎エスペラント会の機関誌が戦争のために廃刊されていたのを復刊するために、自ら原稿を書き、編集にも当たって、「LAGOJO」(よろこび)として刊行したが、これも日本人の精神を回復するための一つとして行ったのであろう。彼もまた、湯浅と佐藤が発足させた大宮高校エス語同好会を援助し、講演会を開いて後輩を指導した。同好会の機関誌「Studento en Nova Sento」(新時代の学生)の一号には、その第一回初等講習会の講師が瑛九と都であって、十名が参加したことなどが報道され、彼の筆によって、次のようにその指導法の一端が紹介されている《会話をなるべくエス語でやろう(中略)》(’50・11・5 Studento en Nova Sento 一号)」/このようにエス語習得の心構えを説いた言葉によって、勝れた啓蒙家であり教育者であったといわれる瑛九の一面を垣間見ることができるであろう。ところで大宮高校エス語同好会は翌年交友会の一つの部として認められ、三年生になった湯浅と佐藤との指導による第二回初等講習会には、実に百二十名を超す受講者が集まるまでに成長し、瑛九の直接の指導からは離れていった。」
先に挙げた1950年に教育会館で行われた瑛九の展覧会については、開催日前日にこの当時の大宮高校エスペラント部員の手によって作品が運び込まれ、陳列されたようだ。

V.宮崎県立宮崎大淀高等学校(現宮崎県立宮崎工業高等学校)(p.290)
妹杉子の結婚相手となった栗田恒雄は、大淀高校の教師をしており、彼の推薦から瑛九は本校でエスペラントを教えていたこともあった。なんと、丸島住宅へ引っ越しするときには、大淀高校のエス語の弟子たちがリヤカーを曳いて手伝ったという。ここでも瑛九は慕われた存在であったことが伺える。

W.宮崎神宮(p.43、p.61、p.177、pp.290-291他)
宮崎神宮を取り囲む森林の中には宮崎県総合博物館があり、宮崎県立美術館も近いため、ぜひ足を伸ばしてほしい場所である。神宮は地元では「神武さま」と呼ばれ親しまれているところで、瑛九もまたよく参拝していたところである。評伝には1939年に瑛九が宮崎神宮の社務所で神官と話している様子を郡司盛男が写真に撮ったと書かれている。この頃、眼鏡をはずし、袴にステッキというスタイルでいた瑛九は、生母の墓前や宮崎神宮で静座をしたり、詩を吟じたりして毎日過ごしていたようだ。
また、1949年谷口都を妻として迎えたときにも宮崎神宮へ参拝している。評伝の中で紹介された父直の日記には、簡潔にこう記されている。「九月五日 晴 神宮参拝 秀夫ノ結婚式ヲ行フ 谷口長太氏及婿児玉氏同道来駕タクシー送迎ヲナス 午後五時来リ七時共晩餐辞セリ」とある。なお、この時、杉田家の座敷で挙げた結婚式では、杉田家と谷口家の近親者のみが参列し、モンペ姿の花嫁に仕事着の花婿が三々九度の盃を交わした。そして、義父となる直から都は、次のことを告げられた。「あなたが、抱いている爆弾がいつ爆発するかわからないような秀夫と結婚して下さることは父親として心からうれしく、深く感謝いたします。しかし、秀夫は普通の者とはちがって芸術に進むという大きな問題をもっていますので、いつかは一緒にやって行けない時が来るかも知れません。もしもそんな時が来たならば、いつでもかまいませんから別れて下さい。私からそのことをこの席で特にお願いしておきます」このような優しくも厳しい言葉を都はずっと心に閉まって、瑛九とは最期まで片時も離れなかった。そして、未亡人となっても再婚することなく、先日106歳の誕生日を迎えたという。

X.岡山公園[現平和台公園](pp.171-172)
以前、第2回のアーツ前橋への取材でこの場所については取り挙げたことがあるが、評伝の中でも気に入っている場面のため、改めて下記に抜粋する。岡山公園は宮崎市を一望できる北尾淳一郎一押しの場所である。「午前中に瑛九兄弟と太佐との四人でフミタ写真館で記念撮影をして、午後には北尾の案内で岡山公園へ出かけた。平和公園となった今日では観光客で賑っているそこも、当時は訪れる人とてない小松林の平凡な小山に過ぎなかった。しかし、そこから宮崎平野を望む眺めは北尾が推奨するだけのことはあって、崇高さすら感じさせる壮麗なものであった。われわれが枯草の上に腰をおろして、その広濶な風景にみとれている間に姿を消した瑛九がいつまで待っても戻ってこないので不安になって探しにいったところ、彼はくさむらの茂みのかげにうづくまって、涙で顔をくちゃくちゃにして泣いていた。彼は風景の美しさに感極まって嗚咽していたのである」その後、北尾の書斎では瑛九を慰めるようにバッハのレコードがかけられていた。なんとも言い難い不思議な時間であったと想像する。

話が横道にそれてしまうが、この場面について気にかかってならなかったのは、このとき日名子実三《平和の塔(八紘之基柱)》が既にあったのか、無かったのか、である。公に出ている年号からたどれば、本作は紀元二千六百年記念の事業の一環として1939(昭和14)年5月に着工され、1940(昭和15)年11月には完成している。公園の近所にある宮崎神宮が神武天皇を祀っていることから記念事業が行われるのは、当然と言えば当然で、瑛九らが観に行った当時(1938年1月)は、着工の一年前で既に計画が発表されていたことが予想される。本書には一切この彫刻に触れていないが、瑛九はこの計画を既に知っていた可能性が高い。というのは、次のページには「その翌朝、油絵作品のすべてが片づけられた瑛九の部屋の壁に、『日の丸の 旗はためく 日本の風景』と毛筆で書かれた半紙の貼られていたのを見た」とあるからだ。瑛九は《平和の塔》が建立されることを知っており、ただ宮崎平野の風景に感激したわけではなく、変わりつつある未来の風景を見据えて涙を流していたのだろう。このような鋭敏な感覚の持主であったからこそ、瑛九は表現者として成功することになった。

特別篇_14現在の平和台公園。


特別篇_15エスペラント部の生徒と写る瑛九。1950年頃か。《平和の塔》に続く階段横で撮影されたことが分かる。


Y.宮崎大学(p.316、p.296)
宮崎大学で教鞭を執っていた塩月桃甫(1886- 1954、本名:善吉)について、評伝の中で次のように紹介されている。「桃甫は宮崎市外三財村の出身で東京美術学校卒業後台湾に渡って台湾美術展を創設し、それから三十年間を台湾美術振興のために力を尽くした人物である。敗戦後は宮崎に帰って宮崎大学で後進の指導に当り、瑛九はこの人を宮崎における唯一人の信頼できる先輩画家であるとして次のように言っている。/《宮崎で僕は一人の信頼する老画家を発見してよろこんでゐます。(中略)生活のケウイ〔脅威〕さえなければ、僕も宮崎にゐても、塩月氏がおる以上芸術上はさびしくないような気もしてゐます。しかし生活は仲々つらいし、内職はないので上京をけいかくしたのです。塩月氏としたしくなったのもごくさいきんなのです》(’49・11・?山田宛)」瑛九は、塩月の生活態度や啓蒙活動に強い関心を示していたようだ。
また、瑛九は宮崎大学からの依頼で「バイト」をしていた。いわゆる「仕事」が出来なかった瑛九が「バイト」と呼ぶのは、肖像画を描く事で、安中前宮崎県知事と甲斐善平前宮崎県会議長をモデルにした作品制作のことである。しかし、彼は湯浅英夫への書簡の中で「ぼくは食うために写真を見て肖像を描くといういやな仕事を今日までしなければならなかった」と訴えている。不服そうな顔をして筆を持つ瑛九の姿が目に浮かぶが、どこかほほえましくもある。

Z.宮崎駅(pp.99-100他)
瑛九は勤め人ではないが、当時としたらかなり列車を利用していると思う。車中でどのように過ごしていたか、書いている一文があるため紹介する。「その朝ぼくが広瀬から乗り込んで行った列車に、宮崎駅で写生用具を持って乗ってきた彼は、その頃毎晩のように見るという三十円の月給取になった夢について語り出し、鹿児島につくまでの四時間程の車中をしゃべり続けた」

特別篇_16宮崎駅で列車を待つ瑛九


特別篇_17戦時中に空襲で焼失した後に建てられた宮崎駅の駅舎。昭和30年代に撮影されたもので、この頃にも丸々と成長した特徴的なフェニックスがある。


a.一ッ葉浜(pp.50-51、p.207他)
特別篇_18一ッ葉浜の風景。2011年鈴木素直氏に案内していただいたときに撮影した。評伝に度々出てくるのは、宮崎市街地から一番近い海辺だからである。評伝によると、「秀夫が何時はじめて一ッ葉浜へ行ったのか明らかではないけれども、直の日記に見える限りでは、彼が二年生の夏休みを迎えた七月二十七日に、“正臣秀夫良氏一ッ葉浜へ行く”とあるのが最初になっている」と書かれ、その後も母や姉妹、学校からの遠足で一ッ葉浜へ行っているとある。

b.料亭「松月」(p.210)
評伝によると、1939年に北尾淳一郎は、「宮崎に帰ってきた瑛九を誘って一つ葉に遊び、入江に臨んだ料亭「松月」で一風呂浴びた後ぼら料理で酒を酌み交わしながら芸術談に時を忘れた」という。今はこの場所に「PILAW」というナポリピザの店がある。

c.住吉神社(p.49)
宮崎県の住吉神社は、日向住吉(旧二郎ケ別府)駅から東へ約2卆茲砲△襦I湘舛任盻撒反声劼何度か出てきており、最初に訪れたのは、秀夫が小学1年生になって間もない頃、3人の姉と継母栄と共に神社へ参詣している。

d.宮崎競馬場[現宮崎育成牧場](p.43)
父直の親友岡峰寅二郎がこの場所の近くで開業医(岡峰医院)をしていた。この野外広場では、簡易的な活動写真(映画)の上映会や飛行機のショーなどの巡業があった。小学生の秀夫は二階の窓からその様子を見物していたようだ。

e.富松良夫宅(p.100)
1929(昭和4)年に詩人富松良夫(1903-1954年、宮崎県出身)は26歳のときに自宅敷地内に絵画グループ「白陽会」のアトリエを建てる。瑛九が彼を訪ねて行ったときには、アトリエに転がり込んだと推測できる。瑛九は熊本滞在中に「大阪」という店などでビールを飲み、絵具の購入費に手持ちのお金をつぎ込んでしまう。豪遊の末、お金に困り借金をしようと良夫の所へ行ったこともあった。なお、このとき彼らは言い出せずに再び宿泊先に戻っている。

f.杉田家の墓
特別篇_19杉田家の墓に佇む兄正臣


特別篇_20現在の杉田家の墓(下原墓地)近くに郡司家の墓もある。
鈴木素直氏によるとこのモノクロ写真に掲載されている墓地と現在ある墓地は場所が異なるという。以前は、「宮崎市街図」下半分の左端(西側)辺りに掲載されている「墓地」に杉田家の墓があった。
その他、具体的な場所は特定できなかったが宮崎県内の瑛九ゆかりの地を以下に列挙する。また、Googleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」には今回、掲載しきれなかったが、評伝に出てくる場所としてg〜nのマークをした。

◆画材店「王様」(pp.24-25)
図画教師中心に活動が展開されていた「宮崎美術協会」の創立総会は、この場所で行われていた。山田光春が宮崎の地を踏んで間もない頃、本総会に参加した。山田は1934(昭和9)年東京美術学校図画師範科を卒業し、赴任した先は知らない土地で知らない顔ばかり、このとき心細さは計り知れず「宮崎に来て、ピカソについて語り合う友達のいないことは淋しい」などと訴えていた。総会終了後、青年杉田秀夫(瑛九)が山田に声を掛けたことから、2人の親交がはじまっている。残念なことにこの画材店は、調査不足で確認できなかった。瑛九が画材を調達していたことも考えられるため、いずれ明らかにしたいと思う。

◆大潮社(p.202)
1939年6月9日〜12日「瑛九・杉田秀夫個人展覧会」が開かれる大掛かりな展示だったようである。宮崎市内にあるよう。

◆民芸店「杉」(年譜)
1968年に開催された遺作展では、県立図書館を第一会場とし、この場所を第二会場として活用していた。

◆うどん屋(p.305他)
評伝には「うどん屋」が何回か出てきている。海老原喜之助が宮崎に来た時にも案内している。気になる一行を紹介したい。「海老原は翌年の四月にも宮崎に来た機会に瑛九を激励し、瑛九の作品をもっているうどん屋などへ出かけて、瑛九が大へんお世話になっているそうですが、どうか今後もよろしくお願いします、と挨拶して廻り、デパートに寄って、彼を顧問に招聘するようにと話をして帰ったのだった。」
この「うどん屋」は県内でも老舗の「山盛りうどん」という話を宮崎滞在中に伺った。評伝では確認できなかった。

◆野尻村(pp.255-274)
1945年5月から終戦を迎えるまで疎開していた場所。このとき瑛九は筆ではなくペンを執り小説を書いた。または、書物を読みレコードを聴き、夕方は散歩をする毎日だったようだ。

以上で宮崎県内における瑛九のゆかりの地の調査報告は、いったん終了としたい。私が住む街である埼玉のことも同じように調査したいが、埼玉時代のことについては、評伝から確認できるところが非常に少ない。島崎清海氏からもっと話を伺いたかったと後悔の念が沸き上がるばかりである。ともあれ、埼玉・東京における瑛九の活動場所も少しずつ突き止めていきたいと思う。
今回の記事は、何よりも鈴木素直氏が現地で同行してくださったおかげで、机上で見ていた瑛九の活動場所を立体的に理解することができた。この場を借りて感謝を申し上げたい。なお、後になってご家族から知らされたことだが、私が調査に伺ったときに鈴木氏はかなり体に無理をされていたようである。しかし、迎えてくれた鈴木氏の「瑛九のことを伝えたい」という熱心な思いに背を向けて引き返す気持ちにはなれず、甘えてしまった。その後、体調が優れないようで心配である。一刻も早く回復することを祈っている。

最後に鈴木素直氏が瑛九の「現実について」(『アトリヱ』14巻6号、1937年)を読んで書かれたことをご紹介したい。

「最も時代的な精神はすぐれた知性をもつものと最も単純な生活とにあり」ミルクホールのおかみさんや散髪屋の親方の実話をあげながら、「単純な生活人は知性の実体を無意識な生き方の中で感得している」と述べている。そして「芸術家が単純な生活人の感得だけではすまされないのは、彼には表現しなければならぬ一事があるからだ」と言う。

たとえば、さきの大淀川、一ツ葉浜、宮崎高農など、県民に親しまれ瑛九が愛したものの様相や変容を、私たちは最も時代的な精神でとらえているだろうか。表現しなければならぬ芸術家は現実をどう描いているのだろうか。時の流れを傍観していいはずがない。


参考図版:
「宮崎市街図」1930年頃
杉田正臣編著『瑛九抄』杉田眼科内「根」、1980年
鈴木素直『瑛九・鈔』鉱脈社、1980年
宮崎日日新聞社編『写真集 宮崎100年』宮崎日日新聞社、1982年
野口逸三郎、富永嘉久編『写真集 明治大正昭和 宮崎』国書刊行会、1986年
山田光春『瑛九―評伝と作品』青龍洞、1976年

なかむら まき

●今日のお勧め作品は、瑛九です。
20170513_qei_159瑛九
《子供》
フォトデッサン
25.2×18.9cm

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