石原輝雄のエッセイ「マルセル、きみは寂しそうだ。」─3

『ベアトリスの手紙』

展覧会 キュレトリアル・スタディズ(12)
    泉/Fountain 1917─2017
    京都国立近代美術館4階コレクション・ギャラリー
    2017年4月19日(水)〜2018年3月11日(日)

Case-3 誰が『泉』を捨てたのか
    キュレーション 河本信治
    2017年8月9日(水)〜10月22日(日)
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MR3-01京近美4階展示室


MR3-02


MR3-03吊り下げられた『折れた腕の前に』『帽子掛け』『男性用小便器』、固定された『男性用小便器』『罠』

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先日、美術館で再現された「リチャード・マット事件」の現場に行った。そこは、デュシャンのアトリエを連想させるような空間で、壁に映ったレディメイドの不気味な影と、例の小便器が吊り下がった奇妙な不安定状態がもたらす、犯行時の闇につつまれ、天井を見上げて無防備になったわたしは、雪かきシャベルと帽子掛けのシルエットを光源との関係から確認しつつ、ずんぐりした小便器の影は「認識出来ないな」と感じながら、幾枚かの写真を撮った。二本のロープで吊り下げられた小便器には「R.Mutt 1917」のサインがある。カメラを回すと入り口側の上部に、もう一つの小便器が固定して取り付けられており、これにもサインが認められる。でも、この2点、どこかおかしい。視線を戻して暗い部屋を進むと、最奥正面に雑誌『ザ・ブラインド・マン』第2号の該当頁が複写して掛けられているではないか、美術館で時折見かける他館貸出中の表示パネルみたい。シュヴァルツ版の『泉』はどこにあるのだろう。眼が慣れてA4サイズの解説シート5枚に気がついた。どうやら、ここに再現されているのは、主役が顔を出した雑誌、会場、デュシャンのアトリエ、再制作展示と云った場面であるらしい。

MR3-04影など


MR3-05雪かきシャベル『折れた腕の前に』


 監視員を避けて部屋を左側から出ようとすると、扉が開いていて長細い物置のような空間の奥に、台座に載せた『泉』が置かれている。側面のガラスに反射しているようでもあり、容易には近づけない。先の解説シートによると「独立美術家協会展の仮設壁裏の状況を試みた」とあるが、わたしのようなデュシャンに関する生半可な知識で事件現場を回るのは、危険極まりないと改めて思った。

MR3-06『泉』シュヴァルツ版6/8と男性用小便器の影


MR3-07大西洋を越えるとピカビアとマン・レイが待っている

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 さて、今回の『泉』誕生100周年を祝う連続企画第3回のキュレーションは京近美のシュヴァルツ版購入に尽力された元・学芸課長の河本信治氏。「リチャード・マット事件」で『泉』の現物が消えた真相を聴きたいと9月2日(金)夕方からのレクチャーに参加した。
 デュシャンの知人である作曲家エドガー・ヴァレーズが交通事故にあった1916年8月30日を事件考査の開始日とし、独立美術協会展の発足、翌年4月7日の『泉』会場到着、9日の展示拒否決定、『ザ・ブラインド・マン』第2号の発行を経て、スティーグリッツが291画廊を閉鎖した7月1日までのタイムテーブルに、登場人物の役割を当てはめながら「誰が『泉』を捨てたのか」の核心に迫って行った。──と書きたいところだが、最新研究を踏まえた調書も、主犯がマルセル・デュシャンとなると、もともと事件があったのか否かといったところまで、論を戻す必要もあって、困惑すると云うか、興奮してしまった。現代美術のイコンとして崇められる(?) スティーグリッツが撮影し雑誌に掲載された『泉』が、実際に会場へ持ち込まれ、一瞬「観ることが出来る状態で彫刻台の上に置かれていた」現物だったのか? 現物だったとしても、照明やカメラアングルの他に映像を加工しているといった指摘もあるらしい。その為に、「写真を最重要資料」として再現した「三次元的レプリカ」のシュヴァルツ版は、現物から乖離しているのではないか? スティーグリッツが用いたカメラの機構やレンズの性質をわたしは知らないので、判断を保留するけど、最新の画像解析技術が真実に近づくとは、とても思えない。いや、思いたくない。もちろん、購入されたとするパナマモデルの画像よりもシャープな形状になっているとは認めるけど。これにも、「背面が平らなベッドフォードシャー型」と云う研究があったりして、ややこしい。河本氏の解説とこちらの思考が入り乱れてしまった。氏は小便器複数説によって「グランド・セントラル・パレスでのアンデパンダン展会場仮設壁裏より消失」「デュシャンが回収後、アレンズバーグが紛失」「スティーグリッツが撮影後、ギャラリー291閉廊時に紛失」と云う3場面を解き明かしてくれた。これは、推理小説、2時間ドラマの世界。前2回同様に、レクチャーの内容が文字化されることを期待したい。でも、手にしたら「デュシャンピアン病」が発症するかしら、こちらは「マン・レイ狂い病」だから、合併症はいやなんだけど(笑)。
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MR3-08

 
MR3-09モダン・ギャラリー開設案内(左)とアルフレッド・スティーグリッツの肖像


MR3-10


 4階の常設展示室に戻った。犯行現場の闇はずいぶん明るくなっている。改めて雑誌『ザ・ブラインド・マン』第2号とイモジェン・カニンガムが撮ったスティーグリッツの肖像写真、モダン・ギャラリーの開設案内の前に立った。100年前の真相に迫る困難と「時限解除鍵」を手に出来る世代の楽しみを感じた。マン・レイは独立美術家協会展に油彩『魂の劇場』(後に『女綱渡り芸人はその影を伴う』と改題)を出品(会期中に「リチャード・マット事件」に抗議して取り下げたとも言われる)したが『自伝』(1963年)によると、スティーグリッツが作品の前で「まるで何か振動しているみたいだ、本当にほとんど眼もくらむばかりだ」(千葉成夫訳)と言ってくれたと誇らしげに書いている。事件の共謀者ではあったが、ルイーズ・ノートンと共に後から参加した扱いで、彼の役割が何だったかは判らない。マン・レイが撮った『泉』の写真が現れたら、世紀のニュースになるのだけど、それまで、生きているかしら(ハハ)
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MR3-11『帽子掛け』、『帽子掛け』の影、『罠』


MR3-12上部にシドニー・ジャニス版『泉』を模した男性用小便器

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 今回のCase-3では、京近美が2016年度に購入したマン・レイの2作品が初公開された。『糊の時代』は、日本で大規模な回顧展が最初に催された1984年に招来したコラージュで、机上を掃除する家政婦を助ける抜群の一品。1935年作のオリジナルはイギリスにあるはずだが、本作は1970年のレプリカ3点の内の3/3。もう1点は『自画像』で、こちらは「リチャード・マット事件」の時代に近い。原作は失われたと云うが1916年12月のダニエル画廊での第2回個展に出品されたもので、「もの笑いの種になった」「純粋な発明品」。これも『自伝』によると「黒とアルミ色の地のうえに電気のベルふたつと本物の押しボタンを取付けたものだった。中央部分には、手を絵の具のパレットに付けてその手形を署名みたいに記してあるだけだった。ボタンを押してみた人は、ベルが鳴らないのでがっかりした。」マン・レイは「創造において観客も積極的な役割をになうことを望んでいただけである。」(千葉成夫訳)としている。デュシャンの考えにつながる部分もあるが、マン・レイは気楽で楽しい。尚、本作は1970年にジョルジュ・ビザが版元となってアクリル版にシルクスクリーンで刷った再制作品で限定40部の内の21/40。ボタンもベルもイメージになってしまって、現在では美しいばかり、その為に長い引用となった、お許しいただきたい。加えて2点とも近年のデンマークやスウェーデンでの回顧展に登場していた事を報告しておきたい。

MR3-13マン・レイ作品3点、左から『糊の時代』『アングルのヴァイオリン』『自画像』


 事件現場から、フランシス・ピカビアの「機械的構図」「アストロラーブ」、マン・レイの「アングルのヴァイオリン」を加えた3点が掛けられた壁面との間は、大西洋が横たわるように輝いて広い。ニューヨークの短いスキャンダルの時代は、第1次世界大戦の終結と共に終わったように思う。「誰が『泉』を捨てたのか」の問は、犯人探しであるよりも、権威に対する反抗が、後年、小便器に謎を纏わせイコン化させる戦術で補強されたと、考えたい。それにしても、「現場」は美術館の展示室。京近美が1987年に「政府の貿易摩擦解消緊急経済対策の一環」として、『泉』を含むシュヴァルツ版のレディメイド13点を約1億円で購入した後、展示室のガラスケースに『折れた腕の前に』と並んで、台座の上に『泉』が置かれていた情景をわたしは思い出す(当時は「常設展示室7」と呼ばれていた。美術館ニュース『視る』259号参照)。その後、展示室は改装され、ガラスケースは展示壁に覆われた。あの時の『泉』が、90度向きを変えて仮設壁裏からわたしたちを見ていると思えてならない。今回の展示が終わって扉が閉ざされた後、『泉』の亡霊に怯えて展示室に入る姿を今から想像してしまった。---除霊しなければ。
 それで思ったのだが、デュシャンのアトリエ写真(1917年頃)から再現した小便器とシドニー・ジャニス画廊の出入り口上部に掲げた(1953年)小便器を模した2点は「誰が捨てるのだろう」、機会があったら「R.Mutt 1917」のサイン・シートを貼った方に尋ねてみたい。河本氏の話では、再現に用いた壁掛小便器は常滑市のジャニス工業の製品(U120BW1)で「シドニー・ジャニス版とシュヴァルツ版の折衷的な」形状だと云う。同品をネット検索したら1点1万円だった。デュシャンピアンの方なら注文されるでしょうね。──愛する小便器との生活、愛欲に溺れないようご注意下さい。

MR3-14ニューヨークのスタジオで吊るされた状態の『泉』を模した男性用小便器

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MR3-15『ザ・ブラインド・マン』第2号他


 京近美の『ザ・ブラインド・マン』第2号と1988年に対面した時は、ガラスケース越しだったが、今回の連続企画第1回の折に冊子仕様のコピーが配布されたので、今、それを手にしている。紙モノ好きには、こちらの魅力も捨てがたい。率直な感想を述べればアンリ=ピエール・ロシェ(37歳)、マルセル・デュシャン(29歳)、ベアトリス・ウッド(24歳)による男女の三角関係から生まれた雑誌と言ってもよいように思う。『泉』のスキャンダルを全面に押し出し、進歩的な女性による女性賛歌と、そこに取り込まれコケにされた「理想主義的急進主義者」のスティーグリッツ。悪ふざけは、それとして、別のところに書いているベアトリスのエッセイ「マルセル」(雑誌『アールヴィヴァン』第31号特集=ニューヨーク・ダダに収録)を読んで、わたしは青春の悲しみに涙した。彼女は愛するデュシャンの印象について「顔の上半分は生きていて、下半分は死んでいる状態を多くのひとが目撃している。若い頃にことばにはできない程のトラウマを被ったひとのようだった。」(矢内みどり訳)と書いている。わたしたちは、それぞれにトラウマを抱えて大人になって行くけれど、「意味のないことだよ」とマルセルのようには言えないのである。
 外に出ると月明かり。コレクターとしての人生は、ほとんど終わってしまって、意味を付け加えようとする余生ばかりが、暗く立ち込めている。やはり、今宵も一杯やりたいな。わたしのベアトリスは手紙を書いてくれるのだろうか?

MR3-16岡崎公園


続く

いしはら てるお

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「キュレトリアル・スタディズ12:泉/Fountain 1917−2017」
会期:2017年4月19日[水]〜2018年3月11日[日]
会場:京都国立近代美術館 4F コレクション・ギャラリー内
時間:9:30〜17:00(入館は16:30まで)
   ※毎週金曜・土曜9:30〜20:00(入館は19:30まで)
休館:月曜(月曜日が休日に当たる場合は、翌日が休館)、及び年末・年始
   ※展示替期間:2017年6月13日(火)、8月8日(火)、10月24日(火)
企画:平芳幸浩(京都工芸繊維大学美術工芸資料館准教授)、牧口千夏(当館主任研究員)

1917年にマルセル・デュシャンによって「制作」されたレディメイド作品《泉》は、20世紀美術にもっとも影響を与えた作品として知られています。また1960年代のコンセプチュアル・アート以降、デュシャンの《泉》を解釈・解読すること自体が創作行為にもなっています。2017年4月に《泉》が100周年を迎えるにあたって企画されたこのプログラムでは、当館の所蔵作品だけでなく現代の美術家によるデュシャン解読の作例を加え、各回展示替えをしながら本作品の再制作版(1964)を1年間展示するとともに、さまざまなゲストを迎えて《泉》およびデュシャンをめぐるレクチャーシリーズを開催します。

●Case 3: 誰が《泉》を捨てたのか
2017年8月9日(水)〜10月22日(日)
キュレーション・講師: 河本信治(元・当館学芸課長)
レクチャー:9月2日(土)午後6時〜7時30分
会場:京都国立近代美術館 1階講堂
※先着100名、聴講無料、要観覧券、当日午後5時より1階インフォメーションにて整理券を配布します。

下記は、詳細が決まり次第当ページにてお知らせします。
●Case 4 
2017年10月25日(水)〜12月24日(日)

●Case 5
2018年1月5日(金)〜3月11日(日)
(京都国立近代美術館HPより転載)

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●今日のお勧め作品は、マン・レイです。
20170921_ray_06_portrait_kaoマン・レイ 
"顔"(『ファースト・ステップス』より)
1920年撮影(1971年制作)
ゼラチン・シルバー・プリント
イメージサイズ:25.2×14.2cm
シートサイズ:25.2×14.2cm
限定8部
裏面にスタンプあり


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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

埼玉県立近代美術館では15年ぶりとなる「駒井哲郎 夢の散策者」展が開催されています。
会期:2017年9月12日[火]〜10月9日[月・祝]
企画を担当された吉岡知子さん(同館学芸員)のエッセイ<企画展「駒井哲郎 夢の散策者」に寄せて―武田光司氏のコレクション>をお読みください。

●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜18時。日・月・祝日は休廊。

JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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