My parents: A Reflection
追想:両親のこと


内間安樹(長男、美術専門弁護士、ニューヨーク州)


1959年の後半、壮年期に近づきつつあった私の両親は、慣れ親しみ居心地もよかったであろう東京を後に、先行きは不確かだが新たな人生を切りひらくためにアメリカに向かった。日本においては、父は創作版画運動、そして母はデモクラート美術家協会の作家として、二人とも一定の評価を得ていた。子供の私は当時まだ1歳であり、友人知人はほとんどが日本にいたのだから、アメリカでの再出発は大きな冒険であった。母がよく口にしたように、二人が持っていたものといえば、唯一、新たな世界で作家として成功する資質と才能が自分たちにあるという自信だけだったのだ。美術にかぎらず、他の分野でも成功する保証は何もなく、アメリカのどこに居を構えるのかということどころか、どう生計を立てるのか、その見通しさえもなかった。
1959年内間夫妻渡米
「色彩と風のシンフォニー/内間安瑆の世界」展図録より(2015年 沖縄県立博物館・美術館発行 *展覧会は2014年9月12日〜11月9日開催)

父にとっては、アメリカは生まれ故郷であったものの、それまでの人生の半分という長い期間をアメリカの外で過ごしたのだから、浦島太郎のような気持ちであったろう。日本で成人し、戦時期と終戦後という最も困難な時期を経験し、芸術家としてのキャリアを選択し、友人をつくり、家庭を築いたのだから、当然日本に留まれたはずだ。そして、日本以外の国を知らない母にとっては、移住にあたってはさらに未来への強い信念が必要であった。二人がアメリカに来る決心をした理由について私は正確には知らないが、様々な要因の中でも、新しい物の見方や、個人主義的精神への渇望が大きな役割を果たしたのではないかと思う。

この時点に至るまでの父の人生についてはあまり知らない。時たまカリフォルニアでの少年時代について、高校でアメリカン・フットボールをやったとか、柔道で黒帯を取得したとか、高校では10歳ほど年上のジャクソン・ポロックやフィリップ・ガストンと同じ美術教師に学んだというようなことを聞いたことがあるだけだ。一方、祖父母については若干の知識がある。二人は1920年に沖縄からカリフォルニアに移住して、農業や店舗の経営などいろいろな仕事で勤勉に働いた結果、多くの子供を育て、ロサンジェルスに不動産を所有して収入を得ていた。私が知る限りでは、父と二人の弟を含めた家族が属するカリフォルニアの日系人コミュニティでは、祖母が琉球音楽の蛇味線奏者であったこと以外、特に沖縄出身ということを自他ともに意識することはなかったようだ。父が日本で過ごした20年間について語ったことは一度もなく、そのほか自分の過去についてもほとんど口にしなかった。父は人前以外では無口であり、常に「今現在」に集中していたので、思い出を話す時間も、気持ちもなかったようだ。

父とは対照的に、母は自分の過去についてよく話していたので、私は母の家族や、日本の植民地であった満州での母の幼少期についてはよく知っている。祖父は事業家として成功していたため、母は何不自由ない環境で高等教育も受け(後には神戸女学院に入学)、美術や音楽に囲まれて育った。幼いころから美術を愛し、常に成功することを目指し、母自身がいうように負けず嫌いであった。それらの資質が1950年代初期から半ばにかけて日本の美術界で数少ない女性作家として活動する要因となったことは想像に難くない。母は、父に出会う以前からアメリカに渡り美術家として自分を伸ばすことを望んでいた。神戸のアメリカ軍基地内にあった図書館で美術家として働いていた時に、そこで親しくなったミス・ニューエンハムという上司が、母が作家としてのキャリアを追求できるよう、帰国する時には彼女をアメリカに連れて行こうと申し出たが、実現には至らなかった。私は日本での母の作家としてのキャリアについては多くを知らない。デモクラート美術家協会での経験について話してくれたことは覚えているが、事象や人名が私の日常とあまりにかけ離れていたため、記憶に残っていない。

東京を出発した両親は、父の両親と弟が住むロサンジェルスに到着した。その数週間後、地元の美術館やギャラリーで見る作品に失望した父は、シカゴのオリヴァ―・スタットラーとニューヨークに住むイサム・ノグチと相談した結果、アメリカでの自分の唯一のルーツであるロサンジェルスを離れて、東に移動することを決めた。1960年に入って間もなく、二人はニューヨークに移住することを決意した。今もそうだが、当時もニューヨークは文化の中心であり、世界中から集まる芸術家のメッカだったからだ。ニューヨークで二人は、当地に在住していた猪熊弦一郎、泉茂、森泰、靉嘔など、日本で知己を得ていて気心の知れた日本人美術家たちのグループを知り、頻繁に交流し、支え合った。このころの白黒写真には、私たち家族三人が彼らとセントラルパークやコニーアイランドなどで楽しく過ごした時の様子が記録されている。父はこの時から作品の制作と美術を教える仕事に一心不乱に取り組むようになった。美術教師としては、最初はプラット・インスティチュートで、続いてサラ・ローレンス大学、そして後にはコロンビア大学の夜間コースでも教えた。

1962年に私たち家族は、グリニッジ・ビレッジのエレベーターの無い5階建てのビルの最上階だったアパートからマンハッタン北部のエレベーター付きの大きな建物に移り、1976年までそこに住んだ。私の部屋は父の仕事場と隣り合わせで、入口から一番奥に入ったところにあった。父が版を彫り、和紙をバレンでこする単調な音、ラジオから聞こえるニュースやトークショー、クラシック音楽、そして時おり父が彫って床に散らばった木くずを掃き集める音が私の記憶に深く残っている。外で教えるとき以外は、父は一日中仕事場で過ごした。趣味というものを持たず、読むものといえばもっぱら新聞と、美術や版画の参考書で、それらの多くの本の中には『Printmaking』、『The Book of Fine Prints』、『Master Prints of Japan』、『An Introduction to a History of Woodcut』、『Post-Impressionism』、『From Van Gogh to Gauguin』、『Painting in the Yamato Style』、『Bonnard』等があった。仕事場は実用一辺倒で、装飾や感傷的な理由でおかれたものは一切なかった。あるのは整然と並べられた道具、絵具等のチューブ、びん、ボトル、缶、筆、木炭、鉛筆、定規、布、版画紙、版木、ボール紙などで、一つ一つが制作の過程に直接必要なものだった。私の部屋の隣ではあったが、父の仕事場は別世界であり、私が父の仕事を邪魔することなどはめったになく、たまに父と母が二人とも出かけている間に入ってみるだけだった。私が覚えている限り、母が父の仕事場に入ったのを見たことはない。

私が子供のころは、母は自分の芸術家としてのキャリアを一旦脇に置き、もっぱら私の世話と家事を引き受け、父が仕事をしやすい環境づくりに努めていた。したがって子供のころは母も美術家なのだと意識したことはあまりなかったが、母は時間を見つけては制作を継続しており、私がミドルスクールに入ってあまり手がかからなくなってから、ようやく本格的に作品を作るようになった。日本では版画を制作しており、当初ニューヨークでも制作していたが、後に全く違うミディアムを選んだのは、恐らく父と違う分野の作品を創造したかったのと、父の気を煩わせることなく、父が版画家として花開くことを望んだからであろう。理由はともあれ、母の新しいミディアム(コラージュとアッサンブラージュ)は、母の性格と美的感受性に最適なミディアムであったことに疑いの余地はない。

母のクリエイティブな世界は、母自身の記憶と空想から引き出されたロマンと抒情に溢れていた。母は「もの」を愛し、過去を大切にしていた。そのために若い頃は「おセンチ姉さん」と呼ばれていた。母の人生にとって意味のあった言葉の一つは、「あの時、あの人」であり、それは母が頻繁に回想していた、ある場所である人と過ごした特別な思い出である。母の作品は、世界中の過ぎ去った時代から自分の想像力を通して取り出した物や画像を使って、自身がもつ記憶への情熱を表現したものだ。江戸時代、イタリアルネサンス、ビクトリア時代、アメリカ植民時代からの断片や、古い切手、絵葉書、人形、おもちゃ、楽譜といった過去の遺物、また木の葉、貝殻、小石、バラ、鳥の羽などの自然物は、小さな道具や手鏡、雑誌の切抜き等とアレンジされて、優雅で特異なムードを醸し出す。不必要なものをためらわずに捨てた父とは対照的に、母は物を捨てず、古物商や蚤の市で物を買い求め、インスピレーションのために大切に保管し作品に用いた。母は夫婦の寝室の片側に置かれた大きな仕事台で、ハサミ、糊、金銀のパステルやその他の道具を使って制作し、それらの材料や作品は、そのわきにある大きなファイルキャビネットに保存していた。

父と母は、夫婦でよく日本人やアメリカ人の美術家と交流した。ニューヨーク在住の日本人作家や、日本からきた作家にとって、二人は気心の知れた主人役であり、長年にわたって多くの旧友を自宅の夕食に招いたり、彼らの関心のあるニューヨークの美術館や観光地を一緒に訪れた。全員は思い出せないが、私の記憶では吉田穂高、吉田遠志、吉田政次、棟方志功、北岡文雄、流政之、由木礼、萩原英雄、角浩、高橋力雄などの人々がいた。一方アメリカ人にとっては、二人はニューヨーク美術界の信頼のおける仲間であり、日本文化の紹介役として、自宅ですき焼きや刺身をふるまったり、日本と日本美術についての情報を提供したりした。それらの人々の中には、フリッツ・アイヘンバーグ、マイケル・ポンセ・デ・レオン、バーナード・チャイルズ、ソン・モイ、レタリオ・カラパイ、カール・シュラグ、リチャード・プセット=ダート等の作家、またサラ・ローレンス大学とコロンビア大学美術学部の同僚に加えて、ウナ・ジョンソンやドリー・アシュトンらの美術評論家がいた。

二人はまた、日本で親しくなったイサム・ノグチとは連絡をたやさない間柄だった。父はイサム・ノグチと1950年代初めに出会い、日本での彼の数々のプロジェクトを手伝い、あるいは制作に協力したようだ。ノグチが私たちの家に来たことや、両親が親しくしていたノグチの妹の郊外の家をノグチと両親と一緒に訪れて午後を過ごしたりしたことを覚えている。また、父は著述家のオリヴァ―・スタットラーとも生涯を通じて親しかった。父はスタットラーが出版した『Modern Japanese Prints: An art reborn(よみがえった芸術−日本の現代版画)』(1956年)に掲載された作家たちとの対話を仲介・通訳したり、『Japanese Inn(ニッポン歴史の宿)』(1961年)のためのインタビューを通訳したりと、日本における彼の重要な協力者であった。家族でシカゴの彼の家を訪ねたこともあり、父は1970年代には度々日本でも彼と会った。

1970年から1975年にかけて、私たち家族は広く海外を旅した。1970年には父が二度目のグッゲンハイム・フェローシップとサラ・ローレンス大学の長期有給休暇を得てヨーロッパに行き、そこから日本に行き主に京都で2か月過ごした後、ヨーロッパに戻り、イタリアのフローレンスで父は6週間の夏期学校(アメリカン・サマープログラム)で教えた。その後5年間は、毎年南フランスの夏期学校アメリカン・サマースクールで教えるようになった。その間に私たちはプロバンス、ロワール地方、ノルマンディー、ストラスブール、リビエラ、ブリターニュなどフランス各地をはじめ、イタリア、スイス、ギリシア、ユーゴスラビアを旅行した。京都のお寺数十か所をはじめ、ウフィツィ美術館、プラド美術館、パルテノン神殿、数えきれない城や聖堂からベニスのビエンナーレ、リュブリャナ国際版画ビエンナーレと、文化的に興味ある場所を精力的に巡った。これらの経験は両親に新しいインスピレーションを与えて、その後の制作に影響を及ぼしたであろうし、また両親が1979年に購入したニューヨーク州シュラブ・オークの別荘を囲む自然環境も同様であった。

私の両親にとって、1959年に踏み切った冒険は、アメリカにおいて40年の実りある人生として開花した。父は自己宣伝にはまったく無頓着であったにもかかわらず、二度のグッゲンハイム・フェローシップ版画部門で受賞し、その作品は現在、メトロポリタン美術館、ワシントンのナショナルギャラリー、大英博物館、アムステルダム国立美術館、ホイットニー美術館等に所蔵されるなど、作家として高い評価を得た。また教師としても、長年の献身的な教育姿勢が認められ、サラ・ローレンス大学ではまず正規教師の地位を得、後に名誉教授となった。母は、感傷的な性格と併せ持っていた鉄のような意思と決断力とで家庭と作家活動を見事に両立させ、生涯にわたりアメリカと日本で展示されるような個性的な作品群を生み出すとともに、私を育て、父の仕事を支えただけでなく、1982年に父が脳卒中で倒れてからは18年間介護をした。

日本を離れていなかったら父との人生はどうなっていただろうか、と時おり母は考えていたようだ。二人の人生に決して悔いはなかった、と私は思う。晩年の母は、自分たちは「アメリカン・ドリーム」を生きたのだとしばしば口にした。ほとんど何も持たずにスタートした彼らは、まったく独自のやり方で誇るべき二つの素晴らしいキャリアを築き、ニューヨークで子供を育てあげ、将来に続く家族のために根を下ろすことを成し遂げた。そしてなによりも、アメリカでの再出発にあたり絶対的な信頼を置いていた二人の資質と才能を最大限に活かし、二人は生きたのだから。
(翻訳:味岡千晶)

内間安王星2
1986年10月7日
六本木・ストライプハウス美術館にて
右から、内間俊子先生、内間安瑆先生、ご子息の内間安樹さん
(湯谷ひろみさん提供)


My Parents: A Reflection

Anju Uchima, Son
Art Lawyer in New York


In late 1959, my parents, both approaching middle age, left behind what must have been a familiar and comfortable existence in Tokyo to forge a new, uncertain path in the United States. They had achieved a certain amount of recognition as artists in Japan, my father associated with the sosaku hanga movement and my mother with the Demokrato Artists Association. They had just had a child; I was a one-year-old at the time. Almost everybody they knew was in Japan. Starting over in America was a bold and risky move: they had essentially nothing, as my mother often said, but trust in their own character and ability to pursue their dream of succeeding as artists in a new world. They were not assured success in art, or in any other field, for that matter. They did not know where in the States they would settle, much less how they would support themselves.

Though my father was returning to the country of his birth, he had been away for half of his life, so long that he was a bit of an “Urashima Taro.” Through that time, in Japan, he had reached adulthood, lived through the country’s hardest days in the War and its aftermath, chosen his career, made many friendships and started a family. He could certainly have stayed there. For my mother, who knew no country other than Japan, the move required an even deeper faith in the future. The exact reasons for my parents’ decision have never been clear to me; no doubt many factors, including the desire for fresh perspectives and an individualistic spirit, played important roles.

Of my father’s life prior to that point, I know relatively little. I heard, very occasionally, references to my father’s youth in California: he had played American football in high school, earned a black belt in judo and had had the same art teacher in high school as Jackson Pollock and Philip Guston, who had both been, by about ten years, his senior in the same school. I knew a little about his parents, who had immigrated from Okinawa to California in 1920, worked hard in various lines of work including running a store and farming, and done well enough to raise a large family and earn income from some modest real estate holdings in Los Angeles. From what I could gather, the family, which included my father’s two younger brothers, was part of a large Japanese-American community in California with no particular “Okinawan” identity, except that my grandmother played the jamisen. My father never spoke to me about his twenty years in Japan and only rarely about any other details from his past. He was reserved outside of social settings and ordinarily so consumed by the “here and now” of his daily life that he had little time or inclination to share his memories.

My mother, by contrast, spoke often about her past. I know many details about her family and her early life in colonial Manchuria. Her father was a well-to-do businessman and my mother grew up in comfortable surroundings, attending good schools (ultimately Kobe College), filled with art and music lessons. From an early age, she had a passion for art. She always had a strong desire to succeed and, in her own words, hated to lose at anything, qualities that undoubtedly propelled her to become one of the few women to be active in the Japanese art world in the early-to-mid-1950’s. Even before meeting my father, my mother had desired to come to America to further her art career. She had worked as an artist at the library of an American military base in Kobe and become friendly with her superior, a Miss Newenham, who had offered to take my mother back with her to the States upon her return and help her to develop an artistic career there, plans which could ultimately not come to fruition. About my mother’s artistic career in Japan, however, I know little. I do recall her speaking about her experiences with Demokrato but, because the names and details associated with it were too far removed from my day-to-day concerns, they did not stay in my memory.

Leaving Tokyo, my parents arrived in Los Angeles, where my father’s parents and brothers lived. Weeks later, my father, unimpressed with what he saw in local art galleries, decided to leave the only American city in which he had roots and move east, exchanging ideas about where to go with his friends Oliver Statler, who was in Chicago, and Isamu Noguchi, who was based in New York. In the early part of 1960, my parents decided to settle in New York, then as now a cultural capital and a mecca for artists from around the world. My parents found a small, congenial group of Japanese artists living in New York at the time whom they had known in Japan, including Inokuma Gen’ichiro, Izumi Shigeru, Mori Yasu and AY-O. They socialized often and helped one another. Black-and-white photos from those early days show happy moments with the three of us and these friends in Central Park and on the beach at Coney Island. My father began a life characterized by an almost single-minded devotion to his work, which consisted of artistic production and art teaching, first at Pratt Institute and then at Sarah Lawrence College and, later, also in the evenings at Columbia University.

In 1962, we moved from the top floor of a five-story walk-up building in Greenwich Village to a larger building in Upper Manhattan with an elevator, where we lived until 1976. My room and my father’s studio were side-by-side, farthest away from the entrance. Embedded in my memories are the constant repetitive sounds of my father carving his wood blocks with his cutting tools and rubbing his baren onto sheets of Japanese paper; the radio playing the news, talk shows and classical music; and, periodically, my father’s sweeping the carved wood chips that had gathered on the floor. When he was not teaching, he was in his studio all day long. He had no hobbies and his reading material consisted mainly of the newspaper and books to further his understanding of art and his medium, bearing titles like Printmaking; The Book of Fine Prints; Master Prints of Japan; An Introduction to a History of Woodcut; Post-Impressionism: From Van Gogh to Gauguin; Painting in the Yamato Style; and Bonnard, among many others. His studio was intensely practical. Nothing was extraneous or placed for aesthetic or sentimental reasons. All of the room’s neatly arranged contents - every tool, tube, jar, bottle, can, brush, piece of charcoal, pencil, ruler, rag, piece of paper, wood, cardboard - had a specific function directly connected to steps in his creative process. For all its proximity to my quarters, the studio was in a different world. I rarely dared disturb my father’s work and ventured inside the room only on occasion when both my parents were out of the apartment. I cannot remember my mother ever entering the room.

During the early years, my mother, for the most part, set aside her artistic career in order to care for me, tend to the housekeeping and create an environment that would support the development of my father’s career. For this reason, I was only dimly aware as a child that my mother was an artist in her own right. She continued her work when she found the time; it was only when I entered middle school and required less attention that my mother began producing work on a regular basis. Though she had been a printmaker in Japan and did some prints in New York, she went on to choose an entirely different medium, perhaps out of a desire to create works completely distinct from my father’s and to create an environment in which my father’s printmaking career could flourish without distraction. Whatever the reason, there is no doubt that her new medium - collage and box assemblage - was uniquely and perfectly suited to her personality and aesthetic sensibilities.

My mother’s creative world was filled with romance and sentiment drawn from memory and imagination. She loved objects and treasured the past. In her youth, she had been nicknamed “o-senchi nesan” for her sentimentality. One of the phrases that gave meaning to her life was “ano toki, ano hito,” referencing her frequent recall of special moments spent with particular people in particular places. She expressed her passion for memory through objects and imagery from the world’s past, filtered through her imagination. Glimpses from the Edo period, the Italian Renaissance, the Victorian era and colonial America; items from bygone eras such as old stamps, postcards, dolls, toys, music scores; her favorite symbols of angels and hearts; natural elements like leaves, seashells, stones, roses and feathers, were arranged with small tools, hand mirrors, magazine clippings and other objects, and projected elegant, fanciful moods. Unlike my father, who discarded unneeded items without a thought, my mother would save objects and search for new ones at antique shops and flea markets, keeping them for inspiration and use in her work. She used a large work table on one side of my parents’ bedroom, with scissors, glue, gold and silver-colored pastels and other implements, and stored her objects in a large file cabinet to the side.

As a couple, my parents socialized frequently with others, both Japanese and American, involved in the fine arts. To Japanese artists, both living in New York and visiting from Japan, my parents were congenial hosts and, over the years, had many of these old friends at our home for dinner parties and visited museums and other places of interest with them in New York. There were too many to remember, but among those I can recall are Yoshida Hodaka, Yoshida Toshi, Yoshida Masaji, Munakata Shiko, Kitaoka Fumio, Nagare Masayuki, Yuki Rei, Hagiwara Hideo, Kado Hiroshi and Takahashi Rikio. To the Americans, my parents were friendly colleagues in New York’s art world and, often, emissaries of Japanese culture, often introducing them to sukiyaki or sashimi over our dinner table and serving as sources of information about Japan and Japanese art. I can remember, among many others, the artists Fritz Eichenberg, Michael Ponce de Leon, Bernard Childs, Seong Moy, Letterio Calapai, Karl Schrag and Richard Pousette-Dart, and art authorities like Una Johnson and Dore Ashton, in addition to colleagues from the art faculties of Sarah Lawrence College and Columbia University.


My parents were also in regular contact with Isamu Noguchi, with whom they had become friendly in Japan, my father having met him sometime in the early 1950s and, I understand, assisted and collaborated with him in various endeavors in Japan. I can remember Noguchi visiting us at home and spending some afternoons with him and my parents at the countryside home of Noguchi’s sister, with whom my parents were also friendly. My father also maintained a lifelong friendship with author Oliver Statler, for whom he had played a key role in Japan, enabling Statler to communicate with the artists featured in his 1956 book Modern Japanese Prints: An Art Reborn, and accompanying him to interviews for his 1961 work Japanese Inn. We visited him in Chicago and my father met with him on several occasions in Japan in the 1970’s as well.

As a family, we traveled widely between 1970 and 1975. In 1970, on the occasion of my father’s second Guggenheim Fellowship and a sabbatical from Sarah Lawrence College, we journeyed through Europe and then to Japan, where we spent two months, mainly in Kyoto, before returning to Florence, Italy, where my father taught at a six-week American summer program. Over the summers of the next five years, my father taught at another American summer school in southern France. On those occasions, we covered many destinations in France, including Provence, the Loire Valley, Normandy, Strasbourg, the Riviera and Brittany, and continued on to Italy, Switzerland, Greece and Yugoslavia. We tirelessly toured places of cultural interest, from several dozen temples in Kyoto, the Uffizi and Prado Museums, the ruins of the Parthenon and numerous chateaux and cathedrals, to Biennale exhibitions in Venice and Ljubljana. These experiences provided my parents fresh sources of inspiration and undoubtedly influenced their later works, as did the natural surroundings of my parents’ country house in Shrub Oak, New York, which my parents bought in 1979.

What had started as an uncertain venture for my parents in 1959 blossomed into forty successful years in the United States rewarded in numerous ways. Though my father was never very interested in self-promotion, he achieved significant recognition, with two Guggenheim fellowships and the inclusion of his work in, among other places, the collections of the Metropolitan Museum, the National Gallery, the British Museum, the Rijksmuseum and the Whitney Museum. In teaching, too, his years of dedicated instruction were recognized, first with a grant of tenure and, ultimately, appointment as emeritus faculty at Sarah Lawrence College. My mother, with the iron will and determination that co-existed with her sentimentality, masterfully balanced home and career, creating a distinguished oeuvre of works exhibited in both the United States and Japan, while raising me and providing support for my father, both throughout his career and during the eighteen years following his stroke in 1982.

My mother occasionally wondered how she and my father would have fared if they had not left Japan. I believe they had no regrets. In her last years, my mother said on several occasions that she and my father had lived “an American Dream,” starting with little and achieving, completely on their own terms, two brilliant careers in which they could take pride, raising a child and laying roots in New York for successive generations of family, and making the most of their character and ability, in which they had placed so much faith in starting their lives over in America.

(Translated by Ajioka Chiaki)

20180719内間家、大井真二さん
2018年7月19日NYから内間さんご一家が来訪、内間家と親交のあった大井さんと数十年ぶりの再会。
前列左から、内間洋子さん、内間安樹さん、綿貫令子、
後列左から、内間蓮さん、大井真二さん、綿貫不二夫、尾立麗子

〜〜〜
●内間俊子の作品紹介
内間俊子は旧姓・青原、高知県にルーツを持ち、1918年満州・安東市で生まれました。1928年大連洋画研究所で石膏デッサンと油彩を学び、1937年に大連弥生女学校を、1939年には神戸女学院専門部本科を卒業。帰国後、小磯良平に師事します。1953年瑛九らのデモクラート美術家協会に参加。 この頃、久保貞次郎や瀧口修造を知り、 抽象的な油彩や木版画、リトグラフを制作し、デモクラート美術展に出品します。
1959年夫の内間安瑆と渡米後はニューヨークに永住し、制作を続けます。1966年頃から、古い切手、絵葉書、楽譜、貝殻や鳥の羽などが雑誌の切抜き等でアレンジして封印したボックス型のアッサンブラージュやコラージュの制作に取り組み、全米各地の展覧会や日本での個展での発表を続けました。1982年からは体の自由を失った夫を18年間にわたり献身的に看病します。介護をしながらの限られた時間の中でも制作は続けられました。作品は「夢、希望、思い出」をテーマにしたものが多く、日常の「モノ」たちの組み合わせから内間俊子の人生の記録が表現されています。
2000年 5月9日安王星が79歳の生涯を静かに終えると、その後を追うかの如く、同年12月18日ニューヨークで死去されました。
23_bridge内間俊子 Toshiko UCHIMA
"橋 (Bridge)"

1965年
木版
イメージサイズ:57.0×42.5cm
シートサイズ:61.0×45.0cm
サインと日付あり

Lady_photographer内間俊子
《Lady photogorapher》
1977年
ボックスアッサンブラージュ
Image size: 23.0x33.0cm
Acrylic box size: 31.0x41.2cm
Frame size: 42.0x49.0x3.0cm
Signed


Signal_600内間俊子
《Signal》
1974年
ボックスアッサンブラージュ
Image size: 31.5x25.0cm
Acrylic box size: 31.5x25.0cm
Frame size: 34.0x27.3x5.5cm
Signed

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●内間安瑆の作品紹介
内間安瑆は1921年アメリカに生まれます。苗字からわかるように父と母は沖縄からの移民です。1940年日本に留学、戦時中は帰米せず、早稲田大学で建築を学びます。油彩の制作をはじめ、後には木版画に転じます。
1950年アンデパンダン展(東京都美術館)に出品。1950年代初めにイサム・ノグチと知り合い、以降親しく交流する。1954年オリバー・スタットラーの取材に通訳として同行し、その著作に協力した。
その折に創作版画の恩地孝四郎にめぐり合い大きな影響を受けます。
1954年デモクラート美術家協会の青原俊子と結婚。1955年東京・養清堂画廊で木版画による初個展を開催。1959年妻の俊子と息子を伴い帰米、ニューヨーク・マンハッタンに永住。版画制作の傍ら、サラ・ローレンス大学で教え、1962と70年にグッゲンハイム・フェローシップ版画部門で受賞。サラ・ローレンス大学名誉教授を務めました。
日米、二つの祖国をもった内間安瑆は浮世絵の伝統技法を深化させ「色面織り」と自ら呼んだ独自の技法を確立し、伝統的な手摺りで45度摺を重ねた『森の屏風 Forest Byobu』連作を生み出します。現代感覚にあふれた瑞々しい木版画はこれからもっともっと評価されるに違いありません。
21_forest-byobu-autumn内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Autumn)"

1979年
木版
イメージサイズ:45.5×76.0cm
シートサイズ:55.0×88.0cm
サインあり

ForestByobu (Fragrance)内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Fragrance)"

1981年
木版(摺り:米田稔)
イメージサイズ:76.0×44.0cm
シートサイズ:83.6×51.0cm
限定120部 サインあり
*現代版画センターエディション

FOREST_BYOBU_TWILIGHT_WEAVE_A内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Twilight Weave) A"

1981年
木版
イメージサイズ:59.5×52.7cm
シートサイズ:71.0×60.3cm
サインあり

02_fw-bathers-two_cobalt内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Bathers-two-cobalt)"

1982年
木版
イメージサイズ:68.0×49.0cm
シートサイズ:82.0×57.0cm
サインあり

01_fw-bathers-two_cobalt_oil内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Bathers-two-cobalt)"

1982年
キャンバスに油彩
91.5×66.0cm

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ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

『内間安瑆・内間俊子展』カタログ
2018年
ときの忘れもの 刊行
B5判 24ページ 図版:51点、略歴収録
テキスト:内間安樹(長男、美術専門弁護士/ニューヨーク州)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
編集:尾立麗子
編集協力:桑原規子
翻訳:味岡千晶、他
価格:税込800円 ※送料別途250円(メールにてお申し込みください)

表紙_表1_内間展_修正_0628_600表紙_表4_内間展_修正_0628_600

版画掌誌「ときの忘れもの」第04号もぜひご購読ください。

◆ときの忘れものは内間安瑆・内間俊子展を開催しています。
会期:2018年7月17日[火]―8月10日[金] ※日・月・祝日休廊
内間安瑆の油彩、版画作品と内間俊子のコラージュ、箱オブジェ作品など合わせて約20点をご覧いただきます。図録も刊行しました(800円、送料250円)。

水沢勉版の音律―内間安瑆の世界」(版画掌誌第4号所収)
永津禎三内間安瑆の絵画空間
内間安瑆インタビュー(1982年7月 NYにて)第1回第2回第3回
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