ギャラリー  ときの忘れもの

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東京下町の私的な体験
 
平嶋彰彦


ポートフォリオ『東京ラビリンス』の写真15点は、『昭和二十年東京地図』(筑摩書房、1986)に掲載されたもので、撮影の時期は1985年9月から翌86年2月になる。
初出は『毎日グラフ』の12回連載(1985年10月27日号〜翌86年1月26日号)だが、書籍化にあたって、大幅に撮り直しと追加取材をおこなった。
「昭和二十年東京地図」の表題は文を担当した西井一夫がつけた。昭和二十(1945)年は、言うまでもなく日本が第2次世界大戦で無条件降伏をした年である。西井と私は、学年はちがうが、2人ともその翌年の1946年に生まれた。
企画のきっかけとなったのは『戦災焼失区域表示 コンサイス東京都35区区分地図帖』。原本は1946年9月15日に日本地図から発行された。この地図帖が東京大空襲から40年後にあたる1985年3月10日に日地出版(日本地図の後身)から復刻出版されたことは、『朝日ジャーナル』の読書欄で知った。
この地図帖を手に入れてしばらくして、西井一夫に見せると、思いのほか興味を示し、「連載企画を考えてみるから、しばらく時間をくれないか」ということだった。2ヶ月ほどしてからだったか、出版写真部の私の席にやってきて、「編集長の了解はもらった。デスクには君が担当してくれるようにこれから話をする」とのことで、確かその年の9月ごろから、この地図帖を手に、2人で東京を歩き廻ることになった。
『昭和二十年東京地図』は文章と写真による東京案内という体裁をとっている。誰のためでもない、自分たち自身のためともいえる。西井一夫はこの本の「あとがき」で「空白を歩こう、と思った」と書いている。空白とは時代感覚の欠落した彼の幼児期の記憶をさす。ポール・ゴーギャンの言葉を借りるなら「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処にいくのか」ということになるだろうか。
そのころの東京は、表通りを歩いても路地裏を歩いても、すでに取り壊しが決まっていたり、しばらくして訪れると、更地になっていたり、新しい建物になっていることがやたら目立った。西井一夫と私は、どうかすると、地上げ屋の手先と勘違いされ、詰問を受けるとか、白い眼で見られた。ちょうどバブル経済で世の中が浮かれ始めた時期にあたっていて、東京のどこでもかしこでも再開発が行われていた。
私の郷里は千葉県館山市で、大学進学のため東京に出てきたのは、東京オリンピックの翌年の1965年だった。実家は零細な農家で、明治か大正のころから代々出稼ぎで暮らしを立ててきた。東京は出稼ぎをするための仮初めの世界であり、地縁や血縁の異なる人たちの寄り集まる異郷という印象が強かった。
しかし、住めば都とも地獄も住処ともいう。私の場合もその例に漏れない。このことは上京していくらも経たないころ、貧しいなかで励まし合って生きる庶民社会の人間模様を間近に見た体験の影響が大きい。私にとっていわば東京の原像とでも言うべき暮らしの在り方であり、『昭和二十年東京地図』の写真取材でも、物事を見る眼差しの羅針盤になっていたように思われる。
大学2年のとき、それまで住んでいた板橋の下宿を引き払い、金杉橋の近くにあった洋服の仕立店に間借りすることになった。金杉橋の架かる古川(渋谷川)の対岸が明治時代には芝新網町と呼ばれ、東京の三大貧民窟の1つであったことは、ずいぶん後になってから知った。
この引っ越しは私ではなく父親の都合が理由だった。父はタグボートの船長をしていて、ふだんは船を芝浦ふ頭の南端に停泊させ、7人か8人の乗組員と水上生活を送っていた。休暇はまとめて取り、館山の実家に帰ることにしていたが、それ以外の臨時の休みにも、陸上で寝たいと言い出したのである。
仕立店の主人は島根県益田市の出身で、1男4女の子沢山だったが、そのうちの2人はすでに嫁いで家を出ていた。仕事場兼住宅の2階建ての建物は20坪ほどしかなかったが、戦後の1時期には、5人の子どものほかに、地方から上京した複数の若者を住まわせて世話をしていたという。その若者たちが前触れもなくときどき訪ねてくることがあった。すると、奥さんは決まったように彼らを引きとめて、ありあわせの総菜を分けて夕御飯をふるまった。絵に描いたような貧乏暇なしに映ったが、貧しくとも余裕のあるこの家族の暮らしぶりを目の当たりにして、なにが人の幸せかを教えられたような気がした。
下宿していたのは、わずか1年足らずだったが、それっきり縁が切れたわけでなかった。週1度のアルバイトをしていた学習塾が同じ裏通りにあった。紹介してくれたのは、この家族の長男で、大学の1年後輩だった。私が店の前を通りかかると、ご主人と奥さんは決まったように、夕御飯を食べていきなさいと声をかけてくれた。社会人になって2年目、1970年のことになるが、私はその家の一番下の娘と結婚することになり、店の主人と奥さんは義理の父親と母親ということになった。
『昭和二十年東京地図』はそれより15年後になる。義理の父と母はすでにこの世を去っていた。一家のあった裏通りの一帯は、大規模な再開発計画の対象となり、15階建てのオフィスビルの建設が計画されているとのことだった。のぞいてみると、子どもの泣き声や笑い声がうるさかった懐かしい街並みは、取り壊され跡形もなくなっていた。

ひらしま あきひこ

平嶋彰彦ポートフォオ_東京ラビリンス_1
平嶋彰彦ポートフォオ_東京ラビリンス_2
平嶋彰彦ポートフォオ_東京ラビリンス_5

●本日のお勧め作品は平嶋彰彦です。
hirashima-05
平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
《永代 大島川西支川の舟溜まり》
1985.9-1986.2(Printed in 2020)
ゼラチンシルバープリント
シートサイズ:25.4x30.14cm
Ed.10  Signed
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会期=2020年11月6日[金]—11月28日[土]*日・月・祝日休廊
無観客ギャラリートーク 平嶋彰彦さん・大竹昭子さん

324_aときの忘れものは平嶋彰彦さんのポートフォリオ『東京ラビリンス』を刊行します。
『昭和二十年東京地図』(写真・平嶋彰彦、文・西井一夫、1986、筑摩書房)の中から、監修の大竹昭子さんが選出したモノクローム写真15点を収録しました。
平嶋彰彦さんがエッセイ「 ”東京ラビリンス”のあとさき 」をブログで連載しています。
森山大道さんの「平嶋彰彦展〜写真を支える多様なレイヤー」大竹昭子さんの「東京上空に浮遊する幻の街 平嶋彰彦写真展に寄せて」もあわせてお読みください。

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TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
E-mail:info@tokinowasuremono.com 
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。*日・月・祝日は休廊。
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