ギャラリー  ときの忘れもの

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平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき

その15 子安観音の石像と女人講

文・写真 平嶋彰彦


 わが家のおばあさんネコの掛かりつけの病院が、船橋大神宮(意富比神社)の近くにある。名前はサリー。もうすぐ16歳になる。「猫年齢早見表」によると、人間の年齢なら80歳に相当する。ひと月ほど前のことになるが、そのおばあさんネコが食事をとらなくなり、しきりになにか吐いている。ふだんよくみる毛玉ともちがう。妻も私も心配でたまらない。居ても立ってもいられなくなり、動物病院で診てもらうことにした。
 昨年来のコロナ渦のあおりで、動物病院の館内に入れる付き添いは1人に制限されていたので、私は外で待っていた。隣は瓦葺き木造平屋建ての風情のある建物がしばらく前まで残っていた。米屋だったということだが、いまは有料駐車場になっている。その角を曲がったつきあたりに瓦葺き平屋の建物があり、切妻の壁に薬師堂と書いているのが見えた。薬師如来といえば、治病や延命の仏様である。さらに乳薬師とか夜泣き薬師などと称される変種もあって、安産や子育ての仏様として庶民信仰の篤い対象になってきた(註1)。
 行ってみると、お堂は鍵が掛かり、本尊も厨子の扉が閉じられていた。お賽銭をあげて、病院に戻ろうとして、お堂の手前に幼児に乳を飲ませる不思議な石仏像が祀られているのに気づいた(ph1〜ph3)。地蔵菩薩が幼児を抱いた石像は、いまでもあちこちで見られるが、その意匠とも明らかに違ったものである。

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ph1 薬師堂に祀られた子安観音の石像。船橋市宮本6-26。2021.07.14

202108/平嶋彰彦ph2-6V7A9838-bph2 (右から)子安観音像、吉橋大師八十八箇所巡礼第24番の標示、弘法大師像、地蔵菩薩像。宮本6-26。2021.07.14

202108/平嶋彰彦ph3-6V7A9871-bph3 薬師堂。右手前に子安観音像を祀る。宮本6-26。2021.07.14

 近づいてよく見ると、仏は胸をはだけて乳房を露わにし、右手で幼児を抱き、乳を飲ませている。それにたいして、幼児の方は両足をふんばって胸元にしがみつき、乳房にむしゃぶりついている。仏が左手に持つのは、とうぜん、蓮の花だろう。なんという仏か分からないが、どこにもいるありふれた俗人女性の姿に化身して現われ、献身的に安産と育児を守護してくれているのであろう。
 仏が腰をおろす台座には「女人講中」とあるが、願主の個人名はない。そのほかに刻まれた銘は「天保十二丑(1841)年三月吉日」とあるのみである。改めて仏の顔に眼をやると、人前で平気で乳房を露わにする大らかさと裏腹に、うつむきかげんに目を伏せた表情は、どことなく憂いをおびて気高く感じられる
 石仏像はこのほかに2基ある。隣の1基は銘もなにもないが、よくある弘法大師像である。もう1基は「上丁子共(上町の子ども)」とあることから、地蔵菩薩ではないかと思われる。そのさらに1つ隣に、これは仏像ではないが、丸みを帯びた平たい自然石が置かれている。確証はないが、ひょっとすると、女性の性器に見立てた道祖神ではないかと思われる。3基の石仏像との間に境界を設けているが、明治時代初期の神仏分離までは、3基の石仏と一緒に崇められていたかもしれない。
 薬師堂から動物病院に戻るとまもなく、妻がサリーを連れて病院から出てきた。診察の結果をきくと、血液検査のデータは正常だし、いまは吐き出すべき異物も体内には見あたらないといわれたという。そこで妻が2、3日前の出来事を思い出し、トリの手羽元を盗み食いして、骨まで食べていたと話すと、トリの骨は危険だから、食べさせてはいけない、はっきりと断定はできないが、その骨が腸のどこかに突き刺さり、それを無理に吐き出そうとして内壁を傷つけた可能性がある、というのである。サリーの体調不良は原因がはっきりしないが、とりあえず治療の必要はなく、体力増強の点滴をしてもらっただけで、その日のうちにすっかり元気になった。
 薬師堂をお参りしたのは、ぐうぜんの出来心でしかないし、その場しのぎの神頼みで賽銭をあげたにすぎない。しかし、胸をはだけて幼児に乳を与える仏の姿は、私に衝撃的な印象をあたえた。わが家のおばあさんネコの一大事から1週間後、今度はカメラと三脚をもって、改めて薬師堂を訪れることにした。
 その途中、船橋大神宮のすぐそばにある東光寺に立ち寄ってみた。この寺院は『江戸名所図会』でも取りあげられていて、明治の神仏分離までは船橋大神宮と同じ境内にあり、天道念仏を執り行っていたことで知られる。(註2)。天道念仏の面影を伝えるものは見当たらなかったが、代わりに思ってもいなかったものを見つけた。なんというべきか、これから行こうとする薬師堂の石仏像と同じ形式のものが、寺の一画に祀られていたのである(ph4)。
 お寺に尋ねてみると、子安観音と呼ばれていて、幼くして亡くなった子どもを供養するため、若い世代の女性たちが建てたものだという。東光寺の石仏像は「天保十亥年」とあるから、薬師堂のものより2年前の建立になる。台座は二重になっていて、それぞれ「女人講中」、「深川講中」と刻んでいる。「深川」は江戸の深川かと思われる。こちらの台座は石仏像と材質が違っている。あるいは建立当初はなかったのかもしれない。

202108/平嶋彰彦ph4-6V7A9809-bph4 東光寺に祀られた子安観音の石像。宮本5-13。2021.07.14

202108/平嶋彰彦ph5-6V7A0197-bph5 如意輪観音の石像のならぶ寄せ墓。東漸寺。習志野市津田沼4-1。2021.07.29

 帰りがけに船橋中央図書館で、子安観音の信仰について調べてみた。
 というのも、薬師堂の周りで地元の人から話を聞くつもりでいたのだが、これがとんでもない見込み違いだった。周りに住んでいる人や通りすがりの誰に尋ねても、一致して知らないという答えしか返ってこなかったのである。
 子安観音信仰の中心的な役割を担ったのは、『船橋市史』によれば、女たちだけで構成され女人講で、その前身は十九夜講とも女人念仏とも呼ばれたという(註3)。
 子安講の前身は十九夜講で毎月十九日の夜集まり念仏などを唱えており女人念仏ともいわれた。十九夜の主尊である如意輪観音を信仰していたが、近世末期に十九夜講は安産子育てを祈念する子安講に移行して、本来儀軌にない子安観音を主尊とすることが多くなり、明治から近年にかけて子供を抱いた子安観音が盛んに造立されるようになった。
 また別のところでは、こうも書かれている(註4)。
 しかし江戸時代中期の安永年間(1772-80)ころから子安信仰がひろまってきた。二世安楽を願う女人信仰から現世利益へとむかったといわれる。その結果、如意輪観音に幼児を抱かせた「子安観音」の像が創案され、十九夜講と子安講と年齢による区分を行って並立する地域も出てきた。
 同じ『船橋市史』からの引用だが、前者と後者では記述内容に矛盾がある。また事実関係の誤りもある。しかし、そうしたことを考慮に入れても、この2つの記述から子安信仰の歴史や子安観音の由緒を大雑把にうかがえるように思われる。
 江戸時代の中期か末期に、それまでの十九夜講は子安講に変容していった。それにともない、主尊として祀られてきた如意輪観音も、それまでの半跏思惟像から転じて、子どもを抱く子安像が案出された。墓地や道端で多く目にする如意輪観音像は、両足を組んで腰をおろし、右ひじをひざにつき、右手を頬にふれて思索する姿である(ph5)。この如意輪観音像に、右手で子供を抱かせ、左手に蓮の花を持たせたのが子安観音像というわけである。
 後者の引用文では「二世安楽を願う女人信仰から現世利益へとむかった」とも書いている。「二世安楽」とは、この世(現世)とあの世(来世)の安楽の意味である。女人講というのは、女性といっても、母親たちの自治組織である。誰のためかといえば、子どもたちのためであるのは、いうまでもない気がする。この世に生を受けた子どもたちが無事に生育するのを願い、その一方では、なにかの事情で早世した子どもたちの極楽往生を願ったのである。それが「現世利益」に向かったというのである。ということは、早世した子どもの供養を、女人講が止めたことを示唆する。だが、女人講の中核ともいえる祈願の内容に、なぜ変化が生じたかの言及はない。
 私は子どもを亡くした体験がある。生まれたばかりで、まだ出生届もすませていなかった。北九州市にある毎日新聞西部本社に赴任中のことである。このとき、産院と市役所で、水子として取り扱うかどうかを問われた。生まれたばかりといっても、ごみくずといっしょくたにするわけにはいかない。無性に腹が立ち、情なかった。火葬場で骨にしてもらったあと、父親に連絡をとり、先祖代々の墓に納めるつもりだといって承知してもらった。
 五来重の『石の宗教』に「石像如意輪観音と女人講」という短い論考がある(註5)。五来重は宗教民俗学者で、専門的に取りくんだ研究対象は庶民信仰だった。1909(明治四十二)年、茨城県日立市生まれだが、この論考によれば、少年時代に如意輪観音の石仏を見る機会が多かった。しかし、その印象はまことに暗かった。というのも、この石仏は間引きされた子どもの供養のために建てられたという風評があったからだ、というのである。
 如意輪観音石像には、多く女人講中が建てた銘がある。貧困女性たちはその悩みを女性だけの女人講で語り、心の痛みをこの石仏に託したのであろうとおもう。その講世話人は宗門改めなどする菩提寺の住職ではなくて、放浪してきて村の観音堂や地蔵堂に住みこんだ道心者か六十六部であったろう。
 文中にある貧困女性たちの「その悩み」とは、いうまでもなく間引のことである。間引は貧困の女性たちのギリギリの罪業であり、一種の自己防衛であったし、間引かなければならない胎児も多数生まれた、とも五来重は述べている。
 「七歳までは神のうち」という諺がある。昔は死産が少なくなかった。医学も医療制度も未発達だったから、無事に生まれても、天然痘その他の流行病に感染すると、命を落とす危険性も高かった。もう1つは、口減らしのための間引きの問題があった。同書によれば、間引きは現在とちがって、江戸時代には刑法上の罪を問われることはなかった、ということである。どういうことかといえば、人間の誕生と育児は人知のおよばない神仏の支配する領域の出来事に見立てられていたのである。
 柳田國男の「故郷七十年」に間引絵馬のことが出てくる(註6)。13歳というから明治20(1887)年ごろ、茨城県利根町布川に住んだことがあった。この町へ移ってきて驚いたのは、どこの家でも一軒に男子と女子の2人しか子どもがいないことだった。柳田が私は兄弟が8人だと話すと、そんなにたくさんの子どもを作って、「どうするつもりだ」と町の人たちは目を丸くした、というのである。
 約二年間を過ごした利根川べりの生活を想起する時、私の印象に最も強く残っているのは、あの河畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものか堂の正面に一枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである。
 その図柄が、産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それには角が生えている。その傍に地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も覚えている。

 それより7年前、柳田は6歳のときに、兵庫県加西市北条町で飢饉を体験している。長じて国家官僚として農政にたずさわる一方、民俗学の研究に生涯をささげたわけだが、そのきっかけは、少年時代に貧困のもたらす悲惨な情況を目の当たりにしたことにある、と同じ「故郷七十年」で回想している。
 十九夜講や子安講にまつわる『船橋市史』の記述には、間引の言葉はまったく出てこない。そうだからといって、この地域の女性たちの文化遺産ともいうべき石造子安観音像が、間引という禍々しい歴史的体験と無縁であったとは考えにくいのである。

202108/平嶋彰彦ph6-6V7A1308-cph6 船橋大神宮の灯明台。1880年の築造。船橋市宮本5-2。2020.04.09

202108/平嶋彰彦ph7-6V7A1393-cph7 1918年築の和菓子店。本町3-6。2020.04.09

202108/平嶋彰彦ph8-6V7A1422-dph8 瓦葺二階建ての木造住宅。本町3-21。2020.04.09

202108/平嶋彰彦ph9-6V7A1038-cph9 野良猫のあつまる屋台のやきとり店。湊1。2012.08.17

202108/平嶋彰彦ph10-6V7A1463-f
ph10 海老川河口の船橋漁港。正面は京葉道路。湊1。2020.04.09

追記:
 本稿のブログを更新したあと、別の用件で『東京細菌民沿革紀要』(警視庁衛生部、1917)を調べていたら、そのなかに「徳川時代ニ於ケル貧民の悪習」という間引きを取り上げた論考があるのに偶然いきあたった(註7)。それによれば、
 本邦古来嬰児圧殺及ヒ堕胎ノ悪習アリ、徳川時代に迨(およ)ヒ此の弊風殆ント常習トナリ、倫理的訓戒モ国君地頭の厳命モ何等の効ヲ奏セズ
ということである。文中でいう「倫理的訓戒」の1つが、先に述べた柳田國男が布川でみた間引き絵馬ではなかったかと思われる。「国君地頭の厳命」の「国君」とは、この場合、徳川将軍のことだろう。徳川幕府は間引きの悪弊を黙認していたわけではなく、1680(延宝8)年には、女医師による堕胎処置の禁令」を、また1767(明和4)年には、つぎのような「嬰児圧殺の禁令」を公布している。
 百姓共大勢子供有之候得者、出生ノ子を産所ニテ直ニ殺候国柄ノ有之段相聞、不仁之至ニ候、以来右体之儀無之様、役人ハ無論百姓共モ相互ニ心得心ヲ付可申候、常陸下総辺ニ而ハ別シテ右之取沙汰有之由、若外ヨリ相顕ニ於テハ為曲事者也 / 明和四年十月
 嬰児殺害を「不仁之至」とも「為曲事者」とも見なしているが、見落せないのは、それを殺人の罪であるとは明言していない点である。同文の禁令は、1842(天保13)年にも公布されたということである。船橋は下総の主要都市の1つであり、偶然かどうか分からないが、再度の禁令は本稿で取りあげた薬師堂の子育観音が建立された1年後にあたる。
 子安観音講の習俗との因果関係は今後の課題にしたいと思うが、間引きは経済的な困窮ゆえの口減らしである。幕府による間引きの禁令に実効力があったとは考えにくい。明治維新の後になっても、この因襲の弊はなおかつ隠微のうちに行われたのは明らかである、とも同書(警視庁衛生部)は書いている。

(註1) 『薬師信仰』「第一編 総論」(五来重、雄山閣、1986)
(註2) 「天道念仏 船橋宮の内の東光寺、および漁師町の不動院、夏目の薬王寺の境内において執行せり。毎年二月十六日に始り、同十八日に終はる。(中略)相伝ふ。往古弘法大師、出羽国湯殿山をはじめて踏み分けたまひし頃、同国山形の東南天道村といふ地において、これを開闢したまふを開基として、こは五穀豊穣のための行ひごとなりといひならはせり」(『新訂 江戸名所図会6』「巻之七 揺光之部 天道念仏」、ちくま学芸文庫)
(註3) 『船橋市史 民俗・文化財編』「第一編 第八章 信仰と俗信 / 二 講 3 子安講」
(註4) 『船橋市史 民俗・文化財編』「第二編 第一章 石造文化財 / 一 概況 2 月待・念仏塔」
(註5) 『石の宗教』「第八章 石造如意輪観音像と女人講」(五来重、角川選書、1985)
(註6) 「故郷七十年」(柳田國男、『定本柳田國男集』別巻第三収拾、筑摩書房)
(註7) 『東京細菌民沿革紀要』「第五章 徳川時代ニ於ケル貧民の悪習」(警視庁衛生部、1917、『日本庶民生活史料集成 第二十五巻 部落(二)』所収)
ひらしま あきひこ

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は毎月14日に更新します。

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。

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