ギャラリー  ときの忘れもの

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「線の詩情、色彩の調和――ジャック・ヴィヨンの生涯と芸術」第3回

「版画表現におけるキュビスム的視覚」

松井裕美


 キュビスムといえば、絵画作品を中心にした芸術運動であるという認識が一般になされているが、もちろん版画も存在する。例えばパブロ・ピカソが、詩人であり友人でもあるマックス・ジャコブの『聖マトレル』(1911年)のために制作したエッチングは、分析的キュビスムの線描が持つ難解さをその特徴としており、文章を図解するための「挿絵」という位置付けを超えるものであった。このためこの本を出版した画商ダニエル・アンリ・カーンヴァイラーは、顧客に何を描いた挿絵なのかを説明する必要があったほどだ。ピカソの絵画的な実験の背景には、素描において繰り返されていた気が遠くなるほどの試行錯誤があったのであり、版画はそこで培われた線描実験の一端を見せてくれるメディアだった。

 版画家としてのキャリアを確立したジャック・ヴィヨンにとってはなおさら、絵画ではなく版画を中心にキュビスム的な線描実験を展開することは、自然な流れだったに違いない。彼の版画の様式が明らかにキュビスム風になるのは1911年のことだが、それ以前にも、エッチングやドライポイントで制作されたいくつかの版画の中に、シンプルな抽象化された輪郭や、切子状の浅浮き彫りのような表現が認められるようになる。例えば、キュビスムへの移行期に位置付けられる1910年のエッチング作品《ムーラン・ルージュの舞踏会》(フィラデルフィア美術館所蔵)では、会場を埋める踊り手たちの服に施された規則的なハッチングが、キュビスム的な浅浮き彫りの空間を想起させるものとなっている。

 その後、姪をモデルにした1911年の《ルネ正面像》を初めとし、父親をモデルにした1913年の《E. D.の肖像》、妹たちをモデルにした同年の《スザンヌ D.の肖像》《イヴォンヌ・D正面像》といったドライポイントの作品では、規則正しいハッチングにより形成される幾何学的な面によって、身近な人々の姿が徐々に激しく分割されていく。風刺画家であることをやめた彼は、顧客の注文や読者受けなどお構いなしに、日常の人や物を新たな眼差しで観察し、造形的な実験を先鋭化させていったのである。いずれも技法は共通している。実物の精緻な観察に基づきならが輪郭を単純化し、さらに規則的な斜線を入れた幾何学的な面によってモチーフを切り子状に分割するのである。この切り子状の浅浮き彫りのような表面は、上に挙げた1913年の作品群においては、モチーフだけでなくその背景をも構成する表現となっている。

 上記で挙げたものは同時代のキュビスム絵画に認められる典型的な表現なのだが、それでもこの時期にはいくつか、典型から逸脱する作品が存在する。例えば1913年のドライポイント《綱渡り芸人》。綱の上でバランスを取る人間の身体の力学とスポットライトの光が、完全に抽象化された幾何学で表現されている。ここまで人間の身体を判別不可能にした図像は、ピカソのもっとも難解なキュビスム作品のうちにも思い浮かべることができず、見る者を不安にさせる。それでもこうした抽象的な構図の背景には、同年に訪れたパリのメドラノ・サーカスでの写生が存在することが知られている。

 そしてまた、同じ年のドライポイント《ディナー・テーブル》。テーブルの上に並べられた果物やコップ、皿、水の入ったボトルが、複雑な曲線から浮かび上がってきて、背景の切子状の空間と対比を成している。それぞれの事物の輪郭は決して対象を最後まで囲い込むことがなく、途中で気まぐれにその方向を変え、隣の事物の輪郭へと溶け合っていく。食器や食物がふと目にとまり、しばらくその輪郭をなぞるものの、その次の瞬間には別の対象へと眼差しを注ぐ…そんな観察者の意識の揺らぎをそのまま写し取ったかのようだ。それを多視点的表現というお定まりの一言で説明してしまうことはあえて避けたい。なぜなら、観察主体が観察する対象へと向けた、これほどまでにユーモアのある優しい眼差しは、この作品をおいて他のキュビスム作家の多視点的表現には感じられないからである。その表現は決して平易ではないが、しかしその難解さが、この作品から独特の心地よさを奪うことはない。この時期に制作されたヴィヨンの版画の中で一番好きな作品はどれかと聞かれると、個人的にはこの作品を挙げることになるだろう。

 ジャック・ヴィヨンがこのように新たなキュビスムの造形言語を発展させることができたのは、彼が単に理論を追求していたからではなく、事物の観察と、それを観察する自分自身の内面の省察を独自のやり方で突き詰めたからに違いない。


 最後に挙げた二点の版画作品については、同主題の油彩画も制作されている。次回は、ヴィヨンのキュビスムの油彩画について見ていく。
まつい ひろみ

■松井 裕美(まつい ひろみ)
1985年生まれ。パリ西大学ナンテール・ラ・デファンス校(パリ第10大学)博士課程修了。博士(美術史)。現在、神戸大学国際文化学部准教授。専門は近現代美術史。
単著に『キュビスム芸術史』(名古屋大学出版会、2019年)、共編著に『古典主義再考』(中央公論美術出版社、2020年)、編著に『Images de guerres au XXe siècle, du cubisme au surréalisme』(Les Editions du Net, 2017)、 翻訳に『現代アート入門』(名古屋大学出版会、2020年)など。

・松井裕美さんの連載エッセイ「線の詩情、色彩の調和――ジャック・ヴィヨンの生涯と芸術」は毎月25日の更新です。

*画廊亭主敬白
画廊では明日から今年最後の企画展「Uコレクション展」が始まります。
会期=2021年11月26日[金]―12月11日[土] 11:00-19:00 ※日・月・祝休
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(アジア全域を対象とする学問「東洋学」の研究図書館として1924年に設立された東洋文庫は、約100年間で100万冊をこえる蔵書を築いた。これらの貴重な蔵書を通して、アジア各地の歴史や文化に興味をもってもらうことを目指して、2011年10月にミュージアムが開館して10周年を迎えるのを機に、所蔵する東西をまたぐ幅広い地域、時代の至宝が公開されています。)

●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会Web展)を開催し、美術書の編集事務所としても活動しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18〜24頁>の特集も是非ご覧ください。
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