松本竣介研究ノート 第34回
松本竣介とルオー
小松拓男
第22回二科会展に『建物』(図1)が初入選して本格的な画家への道を松本竣介が歩みだしたのは1935年のことであった。それ以前に、岩手出身の在京画家の集まりであった北斗会や、鶴岡政男などが参加していたNOVA美術協会の展覧会に出品していたものの、職業画家としての確かな一歩となったのは、その後の経緯を考えると、この二科会への初入選がきっかけであったことは間違いない。有力な美術団体として社会的に認知されていた二科会。その初入選の喜びは、当時、後に妻となる松本禎子と掲出された名前を見に行ったという逸話とともに、朝日晃の評伝『松本竣介』にも紹介されている。また同書には、その作品の前で「モジリアニを例に引き出して」(注1)禎子に解説したともある。
図1
松本竣介『建物』
1935年
神奈川県立近代美術館蔵
この時、初入選した作品『建物』は、現在神奈川県立近代美術館に所蔵されており、よく知られている。自身が禎子にモジリアニを引き合いに出して解説したとあるが、見ての通り、その作風にはモジリアニであるよりは、むしろ、太い輪郭線の大胆な筆致で知られる、フランスの画家ジョルジュ・ルオーからの影響が強く現れている。線の説明をしたと朝日は書いているが、なぜルオーではなく、モジリアニだったのか、いささか首をかしげざるを得ない。松本が実際にそのように説明したにせよ、朝日晃の解釈だったにせよ、釈然としない。モジリアニのそれとは到底似ても似つかぬ線を用いた作品だからだ。
松本竣介がルオーから影響を受けたと思われる作品をこの時期に描いていたことは事実である。翌1936年の第23回二科展に出品した『赤い建物』(図2)でも同様の傾向が見られる。ところが、ルオー調の作風を示している松本の作品は多く存在するが、1935年以前の年記の確かな作品がほとんど見当たらない。綜合工房版の画集でも、また展覧会カタログの図版などで見ても、それ以前で確かなものは1933年の年記のある『山王の街』(図3)なのだが、この作品からはルオーの影響を見て取ることはできない。
図2
松本竣介『赤い建物』
1936年
図3
松本竣介『山王の街』
1933年
つまり、1934年、二科会初入選の前年にどのような作品を描いていたのかという確かなものがないということになる。またルオー風の画風の作品で確かな年記のものは、1935年の9月の初入選した二科展より以前の1月に開催された第5回NOVA展に出品された『建物』(図4)があるだけである。あとはこの頃描かれたものであろうという作風からの推定であり、多くは朝日晃や関係者が実作などを見ながら比定したものと思われる。ところが、松本には戦後の一時期に骨太の線を用いた作品を描いていた時期があったり、後から「竣」と彫られた印章の押印された作品があったりするなど、ルオー風の作品の制作時期に関しては個々に精査が必要なのではないかと思われ、これまでの展覧会カタログや画集などのこの時期の分類を少し疑っている。
図4
松本竣介『建物』
1935年
ということで、実は、松本竣介がいつ頃からルオーに影響を受けたような作品を制作し始めたか、確かな時期は分かっていない。だが、一般的には、福島繁太郎のコレクションの展観が行われた1934年の2月前後の時期からではないかと推測されている。これには根拠があり、実際にルオーの作品が展示されていた事実、またこの展覧会を松本竣介が実際に見ていた事実が明らかになっているからである。
松本はこの会期中に2度会場を訪れ、その時の展覧会評を『岩手日報』(注2)と当時兄彬と共に編集に携わっていた『生命の芸術』(注3)誌に書いている。ここで松本はルオーの実作を見ているのだが、その文章は思いの外短い。『岩手日報』では「ルオーの深さ」の一言であるし、『生命の芸術』でもピカソやモジリアニなどと比べて内容も少なく、熱量も低いように感じる。例えば、ルノアールに出会った梅原龍三郎やブラマンクと邂逅した佐伯祐三のような、何か大きな衝撃を受けたり、心酔したり、作風を変えてしまうような思いはそこからは読み取れない。
一体これはどういうことなのだろうか。そもそも、私にはルオーと松本竣介の間には大きな気質の違いといったものが感じられ、松本が画風を一変させてしまうほどの熱烈なシンパシーを持ったともあまり思えない。骨太の線の類似的な表現は、誰もが見てもルオーを思い出さずにはいられないのは確かだが、ルオーの題材に現れるキリスト教的な宗教性、粗野とも思える大胆な筆致や画肌(マチエール)と、松本竣介が本来持っている繊細な叙情性や情感といったものとの間には、大きな隔たりがあるように思える。何というか形式だけが似ている、ということなのかもしれない。
ここから先は、私の確証のない推測なのだが、1935年の初入選は、初搬入、初入選だったのだろうか。おそらくそうではなく、少なくとも一度や二度は落選を経験していたのではないか。いや経験していなくとも、松本はどのような作品を描けば入選できるか、考えたはずである。それはただ単に自分の描きたい絵を描いていた画家だった訳ではなく、充分に戦略的に、どのような作品を描けば、審査の目に止まるかを熟考していたのではないかということである。
この時、ルオーの強く大胆な表現形式が松本に思い起こされたのではないか。当時ルオーは現役の同時代の最も著名な画家の一人であり、最先端のアートの実践者であった。このスタイルを自分なりに、実験的に試してみよう、そう思い立ったのではないだろうか。
それが初入選の前年1934年の秋の二科会の会場を巡った後にそう思ったとすると、その年の初めの福島コレクションの展観でのルオーに対する冷ややかな態度にも納得できるような気がする。無論、これは私の想像に過ぎないのだが。
注1 朝日晃『松本竣介』日動出版 1977年 p103
注2 松本竣介「近頃の感激 ピカソの事など」『人間風景』(新装・増補版)中央公論美術出版 1990年 p31
注3 松本竣介「ピカソ、マチス等の作品を見て」同上 p46
(こまつざき たくお)
●小松拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。
■小松拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
●書籍のご紹介
2月16日に小松拓男先生の新しい書籍が発売されます。
『TOKYO POPから始まる|日本現代美術1996-2021|』
出版社:平凡社
小松崎 拓男 著
出版年月 2022/02
ISBN 9784582206494
Cコード 0070
判型・ページ数 4-6 304ページ
定価2,860円(本体2,600円+税)現在、予約受付中
90年代以降、キュレーターとして現代美術の現場を並走してきた著者が語る、日本現代美術の四半世紀。村上隆から奈良美智まで、日本のアート・シーンの現在についての貴重なドキュメント。
●本日のお勧めは長谷川潔です。
長谷川潔 Kiyoshi HASEGAWA
《樹と村の小寺院》
1959年
エッチング
イメージサイズ:33.5×24.0cm
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Ed.100
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●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています。WEBマガジン<コラージ2017年12月号18〜24頁>の特集も是非ご覧ください。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。*日・月・祝日は休廊。
松本竣介とルオー
小松拓男
第22回二科会展に『建物』(図1)が初入選して本格的な画家への道を松本竣介が歩みだしたのは1935年のことであった。それ以前に、岩手出身の在京画家の集まりであった北斗会や、鶴岡政男などが参加していたNOVA美術協会の展覧会に出品していたものの、職業画家としての確かな一歩となったのは、その後の経緯を考えると、この二科会への初入選がきっかけであったことは間違いない。有力な美術団体として社会的に認知されていた二科会。その初入選の喜びは、当時、後に妻となる松本禎子と掲出された名前を見に行ったという逸話とともに、朝日晃の評伝『松本竣介』にも紹介されている。また同書には、その作品の前で「モジリアニを例に引き出して」(注1)禎子に解説したともある。
図1
松本竣介『建物』
1935年
神奈川県立近代美術館蔵
この時、初入選した作品『建物』は、現在神奈川県立近代美術館に所蔵されており、よく知られている。自身が禎子にモジリアニを引き合いに出して解説したとあるが、見ての通り、その作風にはモジリアニであるよりは、むしろ、太い輪郭線の大胆な筆致で知られる、フランスの画家ジョルジュ・ルオーからの影響が強く現れている。線の説明をしたと朝日は書いているが、なぜルオーではなく、モジリアニだったのか、いささか首をかしげざるを得ない。松本が実際にそのように説明したにせよ、朝日晃の解釈だったにせよ、釈然としない。モジリアニのそれとは到底似ても似つかぬ線を用いた作品だからだ。
松本竣介がルオーから影響を受けたと思われる作品をこの時期に描いていたことは事実である。翌1936年の第23回二科展に出品した『赤い建物』(図2)でも同様の傾向が見られる。ところが、ルオー調の作風を示している松本の作品は多く存在するが、1935年以前の年記の確かな作品がほとんど見当たらない。綜合工房版の画集でも、また展覧会カタログの図版などで見ても、それ以前で確かなものは1933年の年記のある『山王の街』(図3)なのだが、この作品からはルオーの影響を見て取ることはできない。
図2
松本竣介『赤い建物』
1936年
図3
松本竣介『山王の街』
1933年
つまり、1934年、二科会初入選の前年にどのような作品を描いていたのかという確かなものがないということになる。またルオー風の画風の作品で確かな年記のものは、1935年の9月の初入選した二科展より以前の1月に開催された第5回NOVA展に出品された『建物』(図4)があるだけである。あとはこの頃描かれたものであろうという作風からの推定であり、多くは朝日晃や関係者が実作などを見ながら比定したものと思われる。ところが、松本には戦後の一時期に骨太の線を用いた作品を描いていた時期があったり、後から「竣」と彫られた印章の押印された作品があったりするなど、ルオー風の作品の制作時期に関しては個々に精査が必要なのではないかと思われ、これまでの展覧会カタログや画集などのこの時期の分類を少し疑っている。
図4
松本竣介『建物』
1935年
ということで、実は、松本竣介がいつ頃からルオーに影響を受けたような作品を制作し始めたか、確かな時期は分かっていない。だが、一般的には、福島繁太郎のコレクションの展観が行われた1934年の2月前後の時期からではないかと推測されている。これには根拠があり、実際にルオーの作品が展示されていた事実、またこの展覧会を松本竣介が実際に見ていた事実が明らかになっているからである。
松本はこの会期中に2度会場を訪れ、その時の展覧会評を『岩手日報』(注2)と当時兄彬と共に編集に携わっていた『生命の芸術』(注3)誌に書いている。ここで松本はルオーの実作を見ているのだが、その文章は思いの外短い。『岩手日報』では「ルオーの深さ」の一言であるし、『生命の芸術』でもピカソやモジリアニなどと比べて内容も少なく、熱量も低いように感じる。例えば、ルノアールに出会った梅原龍三郎やブラマンクと邂逅した佐伯祐三のような、何か大きな衝撃を受けたり、心酔したり、作風を変えてしまうような思いはそこからは読み取れない。
一体これはどういうことなのだろうか。そもそも、私にはルオーと松本竣介の間には大きな気質の違いといったものが感じられ、松本が画風を一変させてしまうほどの熱烈なシンパシーを持ったともあまり思えない。骨太の線の類似的な表現は、誰もが見てもルオーを思い出さずにはいられないのは確かだが、ルオーの題材に現れるキリスト教的な宗教性、粗野とも思える大胆な筆致や画肌(マチエール)と、松本竣介が本来持っている繊細な叙情性や情感といったものとの間には、大きな隔たりがあるように思える。何というか形式だけが似ている、ということなのかもしれない。
ここから先は、私の確証のない推測なのだが、1935年の初入選は、初搬入、初入選だったのだろうか。おそらくそうではなく、少なくとも一度や二度は落選を経験していたのではないか。いや経験していなくとも、松本はどのような作品を描けば入選できるか、考えたはずである。それはただ単に自分の描きたい絵を描いていた画家だった訳ではなく、充分に戦略的に、どのような作品を描けば、審査の目に止まるかを熟考していたのではないかということである。
この時、ルオーの強く大胆な表現形式が松本に思い起こされたのではないか。当時ルオーは現役の同時代の最も著名な画家の一人であり、最先端のアートの実践者であった。このスタイルを自分なりに、実験的に試してみよう、そう思い立ったのではないだろうか。
それが初入選の前年1934年の秋の二科会の会場を巡った後にそう思ったとすると、その年の初めの福島コレクションの展観でのルオーに対する冷ややかな態度にも納得できるような気がする。無論、これは私の想像に過ぎないのだが。
注1 朝日晃『松本竣介』日動出版 1977年 p103
注2 松本竣介「近頃の感激 ピカソの事など」『人間風景』(新装・増補版)中央公論美術出版 1990年 p31
注3 松本竣介「ピカソ、マチス等の作品を見て」同上 p46
(こまつざき たくお)
●小松拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。
■小松拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
●書籍のご紹介
2月16日に小松拓男先生の新しい書籍が発売されます。
『TOKYO POPから始まる|日本現代美術1996-2021|』
出版社:平凡社
小松崎 拓男 著
出版年月 2022/02
ISBN 9784582206494
Cコード 0070
判型・ページ数 4-6 304ページ
定価2,860円(本体2,600円+税)現在、予約受付中
90年代以降、キュレーターとして現代美術の現場を並走してきた著者が語る、日本現代美術の四半世紀。村上隆から奈良美智まで、日本のアート・シーンの現在についての貴重なドキュメント。
●本日のお勧めは長谷川潔です。
長谷川潔 Kiyoshi HASEGAWA
《樹と村の小寺院》
1959年
エッチング
イメージサイズ:33.5×24.0cm
シートサイズ:51.5×38.0cm
Ed.100
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