ギャラリー  ときの忘れもの

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平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき

その30 麻布台—我善坊谷の消滅

文・写真 平嶋彰彦


 昨年(2023年)の暮れ、いつもの仲間たちと麻布台ヒルズを歩いた。
 麻布台ヒルズは森ビルが再開発したオフィス・住宅・商店などの複合施設。1カ月前にオープンしたばかりだった。場所は六本木一丁目駅(東京メトロ南北線)と神谷町駅(東京メトロ日比谷線)に挟まれた広大な区域で、高さ約330メートル(地上64階、地下5階)の森JPタワーを中心に3棟のタワービルで構成される。
 下見をした福田和久君からのメールには、西久保八幡神社も我善坊町のあたりも大きく変化していると書かれていた。この日の集合場所は神谷町駅。西久保八幡神社をお参りするには、それまで桜田通り(国道1号)の鳥居から男坂か女坂を上り、社殿の前に出たのだが、神谷町駅から麻布台ヒルズを抜けて、境内にいたる近道が新しくできていた。
 西久保八幡神社は建て替えられ、豪華な威容を誇示していた。(ph12)。社殿の背後には森JPタワーとレジデンスAが聳え立つ。2022年に遷座祭が催されたという。麻布台ヒルズが開業する1年前である。

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ph1 御組坂。正面は泉ガーデンレジデンス。坂を下ったところに偏奇館跡の文学碑。六本木1-6(旧市兵衛町1-6)。2012.09.04

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ph2 スペイン大使館。偏奇館跡の近く。六本木1-3-29。2012.09.04

 『東京の地名』によれば、西久保八幡神社は麻布台一帯の鎮守として信仰を集めてきた。歴史も古く、平安時代の寛弘年間(1004〜12)の勧請とされる。1600(慶長5)年、関ケ原の戦いのとき、崇源院が東軍の勝利と安全を西久保八幡神社に祈願した。崇源院とは、徳川二代将軍秀忠の正室お江の方のことで、彼女の死後、1634(寛永11)というから三代家光の治世になるが、天下分け目の戦に勝利した報謝として社殿が造営された。(註1)
 我善坊谷は西久保神社の西側にある窪地で、周りを台地に囲まれたすり鉢の底のような地形である(ph3〜ph6、ph8)。というよりも、だったのであるが、こちらの変化はもっとすさまじく、街並みはいうにおよばず、地形そのものまで容赦なく地ならしされ、麻布に独特の起伏豊かな景観は見る影もなく消失していた。
 麻布台を歩くのは5年ぶりになる。我善坊谷南側の崖上には、麻布郵便局(旧逓信省貯金局庁舎)があった(ph3、ph6、ph7)。この1930(昭和5)年竣工の歴史的建造物は取り壊され、麻布台ヒルズ森JPタワーに建て替わっている。私たちが訪れたときはクリスマスセールの最中で、次からつぎへと観光客がやってきて、タワービルを背景に記念写真を撮っていた。眼の前に広がる未知の風景に過去の記憶が追いついていかない。我善坊谷のあったのは麻布台ヒルズの中央広場のあたりと気づくまでにしばらく時間がかかった(ph13、ph14)。

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ph3 我善坊谷。稲荷坂からの眺望。中央の重厚な瓦葺屋根は吉田苞竹記念会館。左奥の崖のうえは旧逓信省貯金局庁舎。麻布台1。2012.09.04

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ph4 我善坊谷。稲荷坂下から三年坂へ通じる道。麻布台1。2012.09.04

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ph5 我善坊谷。吉田苞竹記念会館。左は書壇院。奥は六本木ビュータワー、六本木ファーストビル。さらにその奥がアークヒルズ仙石山森タワー。麻布台1-1-12。2012.09.04

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ph6 我善坊谷。木造平屋建ての民家。1970年代に移り住み、そのときに新築した。崖のうえは旧逓信省貯金局庁舎。港区麻布台1-3-1。2012.09.04

 我善坊谷もやはり秀忠の正室お江の方と一方ならぬ縁があったとみられる。『東京の地名』は我善坊谷の地名由来をこんな風に書いている。
 1626(寛永3)年、崇源院(お江の方)が死去した。その葬送儀礼が執り行われたとき、この谷に龕前堂(がんぜんどう)が設けられた。そのことから、もとは龕前堂谷と呼んでいたが、やがてその由緒が忘れられ、我善坊谷と訛って呼ぶようになった(註2)。龕前堂は、火屋(火葬場)の前に建てた野葬礼の式場で、位牌や香花、霊供、茶湯などをかざり、その前で読誦、焼香のおこなわれる建物のことである(註3)。
 横関英一も『江戸の坂 東京の坂』で、ほぼ同様の説をとっている。すなわち、この谷は徳川二代将軍秀忠の夫人浅井氏の荼毘所のあったところで、その時の仮堂を龕前堂といったことから、がぜん坊谷と通称されるようになったと述べている(註4)。荼毘所は火葬場のこと。浅井氏は崇源院の旧姓で、父親は浅井長政だった。織田信長から豊臣秀吉さらに徳川家康と続く天下一統で混乱する時代に弄ばれ、数奇な運命をたどった女性である(註5)。
 戸田茂睡の著作に『紫の一本』がある。刊行されたのは1682(天和2)年で、五代将軍綱吉の時代である。武家の陶々斎と遁世者の遺佚なる人物が江戸の名所旧跡を訪ね歩くという趣向であるが、この2人は架空の人物で、どちらも戸田茂睡の分身とされる。
 江戸名所旧跡の項目のなかに「谷」があり、その冒頭に「がぜぼ谷」が出てくる(註6)。

 がぜぼ谷、麻布市兵衛町の近所、上杉弾正大弻綱憲の中屋敷の下也、此谷に坐禅する出家有、然ば坐禅房谷と云を、いひよきまゝにがぜぼ谷と云うにやと尋侍しに、坐禅する出家は此頃の事也、がぜぼ谷の名は久しといへり、由緒きかまほしきに、がぜぼ谷、麻布市兵衛町の近所、(中略)此谷の近所に得船入道といひて、幽に住ひするもの有しを尋ねたるに、折節庵にあれり、此入道もとは渡辺氏なり、世をのがれたるは、渡りに船を得たる心にて名つきたるとぞ、久敷くてまみえたれば、(中略)移り替る世のさまを嘆き、遠くは三河にて先祖の働き討死の合戦、近くは関ケ原大阪にて、親祖父のかせぎ(中略)など、互に語り合て袖をしぼる。(後略)

 「がぜぼ谷」は、我善坊谷のことに違いない。「麻布市兵衛町の近所」とあるが、後述するように、麻布市兵衛町は永井荷風の偏奇館のあったところである。茂睡は得船入道が「幽に住ひ」するのは「此谷の近所」であると書いている。もしかすると、その庵のあったのは、ほかならぬ麻布市兵衛町であったかもしれない。
 続けて「此谷に坐禅する出家有、然ば坐禅房谷と云を、いひよきまゝにがぜぼ谷と云うにや」とある。ここは読み解きにくい箇所であるが、以下に述べるように、戸田茂睡という人物は、もつれた糸を手繰っていくと崇源院にしっかり繋がっている。「がぜぼ谷」の地名由来が崇源院の葬儀における龕前堂にあることを茂睡が知らなかったはずがないのである。
 文中に「此入道もとは渡辺氏なり」とあるのが見落とせない。茂睡は俗名を渡辺茂左衛門といった。茂睡は隠居後の法名である。父親は駿河大納言忠長(徳川忠長)の大番頭をつとめた渡辺監物忠。戸田茂睡こと渡辺茂左衛門はその6男で、1629(寛永6)年、駿府城内の三の丸で生まれた(註7)。どういうことか。得船入道の名は、戸田茂睡こと渡辺茂左衛門の異称の1つに違いないのである。

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ph7 旧逓信省貯金局庁舎。再開発で取り壊され、現在はその跡地に麻布台ヒルズ森JPタワーが建つ。麻布台1-3。2012.09.12

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ph8 我善坊谷。三年坂から六本木1丁目・虎ノ門5丁目方面の眺望。手前の低地が我善坊谷。このときph6の民家はすでに廃屋になっていた。麻布台1。2018.09.18

 主君の駿河大納言忠長は徳川2代将軍秀忠の3男で、三代将軍家光の弟、母は秀忠の正室崇源院。秀忠と崇源院は才知にすぐれた忠長(幼名国松)を寵愛したことから、忠長が次期将軍になる風評が立ったが、家康の裁定により、家光が後継者となった。これには家光の乳母春日局の家康への嘆願があったともいわれる。
 忠長は1624年に駿府藩主となり、駿河・遠江両国55万石を領し、従二位権大納言に叙任された。しかし、1631年、大御所秀忠より粗暴の行為があったことを咎められ、甲州内への蟄居を命ぜられた。この一件については、忠長の狂気説のほか家光側の陰謀説など諸説あり、真相はかならずしも明らかではないようである。さらに秀忠が没すると、忠長は上州高崎に幽閉され、1933年には家光から自殺することを命じられた。(註8)
 主君が没落すれば、家臣に波風が及ばないことはありえない。しかも茂睡の父親である渡辺監物忠は、平時には領内の要地を守衛し、戦時は主君の先鋒となる大番組の頭領だった。このとき、茂睡は満2歳だったが、その後の半生が、順風満帆の安穏な船旅から、荒天の大海に小舟で乗り出す船旅に一転したのはいうまでもない気がする。
 茂睡の俗名は、先に述べたように、渡辺茂左衛門と考えられる。「此入道もとは渡辺氏なり」に続けて「世をのがれたるは、渡りに船を得たる心」とある。「渡り」とは、主君忠長の没落により、板子一枚下は地獄とも形容すべき渡辺家が嘗めたさまざまな辛酸を示唆する。
 「世をのがれたる」の「世」は、世俗社会一般というよりも、むしろ徳川幕府による治世を指しているようにみられる。茂睡は長ずると、伯父戸田政次の養子となり、本多家に仕えたという。本多家といえば、三河岡崎藩を領する将軍家の重臣中の重臣である。しかしながら、戸田茂睡の生涯は、本多家を辞した時期や事情を含め、深い霧につつまれて不明な多いのは、どういうわけなのだろうか。
 「久敷くてまみえたれば」という箇所も分かりにくい。「まみえた」の主語は、この引用文にはないが、後段を読み進むと「陶々子」であることが明らかになる。先に述べたように、「陶々斎」(陶々子)は茂睡の分身である。久しぶりに再会した相手は得船だが、その在俗時代の本名は渡辺茂左衛門とみられる。ということは、出家の身となった茂睡が、自問自答の形式で、在俗時代の自分自身を回想しているのである。おそらく、それが「久敷くてまみえた」の意味である。
 「がぜぼ谷」は信忠を溺愛した崇源院の生きていた時代の隠喩になっている。「親祖父のかせぎ」の「かせぎ」とは、主君のために一所懸命に働く・力を尽くす・心を砕くことをいう(註9)。したがって、「移り替る世のさまを嘆き」は、信忠の没落を契機に、渡辺家が翻弄された三代将軍家光から五代綱吉にいたる幕府の理不尽な治世を、はげしく批判していることになる。

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ph9 麻布台ヒルズ。セリーヌ。麻布台1-6。2023.12.20

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ph10 麻布台ヒルズ。ディオール。麻布台1-6。2023.12.20

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ph11 麻布台ヒルズ。ガーデンプラザB。麻布台1-6。2023.12.20

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ph12 西久保八幡神社。左は霊友会釈迦殿。その奥左が麻布台ヒルズ森JPタワー。右は麻布台ヒルズレジデンスA。虎ノ門5-10-14。2023.12.20

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ph13 麻布台ヒルズ。森JPタワーを背景にスマホで自撮りする人たち。麻布台1-3。2023.12.20

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ph14 麻布台ヒルズ。中央広場。奥のタワービルは(左から)六本木ビュータワー、ファーストビル、アークヒルズ仙石山、城山トラストタワー。麻布台1-3。2023.12.20

 江戸時代、我善坊谷は先手組の与力・同心の大縄地(組屋敷)が置かれていた(註10)。先手組は江戸城の警備、将軍外出の護衛、市中の火付盗賊改などにあたり、鉄砲組と弓組の2手に分かれていた。1632(寛永9)年、先手組は鉄砲15組、弓20組の計25組に編成されている(註11)。前回の連載で取り上げた大久保百人組は寛永年間の設立とされるが、我善坊谷の場合もそのころではないだろうか。
 先手組といっても、与力はともかく同心となれば身分は低く、幕府の扶持では生活ができないから、おのずと内職に精魂を傾けることになった。大久保百人組の場合はそれが植木栽培だった(註12)。麻布台3丁目には植木坂という坂道がある。我善坊谷のすぐ近くで、先手組の同心が関与した確証はないが、菊人形づくりで有名だったという(註13)。麻布のあたりは崖地から湧き出る泉水を利用した金魚の養殖で知られるが、これには少なからず下級武士が携わっていたといわれている(註14)。
 『紫の一本』が公刊された1682(天和2)年の12月28日に大火があった。駒込(向丘)にある焙烙地蔵で知られる大円寺より出火、たちまちに本郷に延焼し、さらに火の手は上野・神田・日本橋から隅田川を越えて、本所まで及んだ。茂睡は『御当代記』のなかで、この大火はこの年に幕府から大量に解雇された町奉行所を初めとする同心たちによる放火だとする噂があったことを特筆している(註15)。
 『御当代記』の「当代」とは五代将軍綱吉のことである。茂睡はその人物像を「当公方様ハ…天下を治めさせ給ふべき御器量なし、此君天下のあるじとならせタマハヾ諸人困窮仕悪逆の御事つもり、天下騒動の事もあるべし」と酷評している。『御当代記』の出版は1913(大正2)年になってからで、江戸時代には思いもよらなかった。思想表現の自由のない時代である。『紫の一本』の記述がなぜこのように捻じ曲がっているのかといえば、自分の想いや考えをそのまま人目にさらせば、身に危険が及ぶことが必須だったからに違いない。

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ph15 外苑東通り。イタリア料理店キャンティ。手前を左折し、道なりに歩くと、和朗フラットに出る。麻布台3-1-7。2018.09.18

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ph16 麻布通り沿いの脇道からみた麻布台3丁目の街並み。奥へ向かう道の途中を右折すると和朗フラットがある。2023.12.20

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ph17 和朗フラット壱号館。スペイン村とも呼ばれたのは、このようなデザインに起因するのかも知れない。麻布台3-3-2。2012.09.04

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ph18 和朗フラット四号館。植木のミモザに水やりをしている。麻布台3-3-2。2012.09.04

 2012年に我善坊谷を撮った写真がある。このときは永井荷風の偏奇館跡を確かめるのが目的で、私一人の街歩きだった。『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫)の取材で市兵衛町を訪れているが、偏奇館の正確な場所はつきとめられなかった(註16)。
 偏奇館があったのは現在の六本木1丁目6番地。道路脇の植え込みに旧居跡の文学碑があるのを見つけたが、目の前に地上32階・地下2階の泉ガーデンタワーが覆いかぶさるように聳え建ち、殺風景このうえなかった(ph1)。我善坊谷も『昭和二十年東京地図』で写真を撮っているのだが、せっかくなので、改めて歩いてみたくなった。というのも、その後に読んだ『断腸亭日乗』の1919(大正8)年11月8日の条に、次のような記事があるのを思い出したからである(註17)。

 十一月八日。麻布市兵衛町に貸地ありと聞き赴き見る。帰途我善坊に出づ。此のあたりの地勢高低常なく、岨崖(そがい)の眺望恰(あたか)も初冬の暮靄(ぼあい)に包まれ意外なる佳景を示したり。西の久保八幡祠前に出でし時満月の昇るを見る。

 荷風が偏奇館に転居するのは翌年5月23日。『断腸亭日乗』には「この日麻布に移居す。(中略)麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ」とある。偏奇館は1945(昭和20)年3月9日の東京大空襲で焼失するが、荷風はそれまでの約11年をこの偏奇館で過ごした(註18)。
 荷風は市兵衛町の貸地を目で確かめた帰りがけ、我善坊谷をへて、西久保八幡神社の前に出た。我善坊谷へ下りる道は稲荷坂とも我善坊谷坂とも呼ばれた(註19)。斜面の縁に沿って開削された坂道で見晴らしがよく、初冬特有のもやが立ち込める我善坊谷の夕景を「意外なる佳景」と称讃している。
 それより93年後の我善坊谷の眺望がph3である。『戦災焼失地図』(正式名は『コンサイス東京都35区区分地図帖 戦災焼失地区表示』)をみると、この谷は1945年の東京大空襲でそのほとんどが焼失したことが分かる(註20)。したがって写真にうつっているのは、戦後に焦土から復興した街並みということになる。画面手前が我善坊谷(旧我善坊町)で、重厚な瓦葺屋根は書壇院(吉田苞竹記念会館)。画面奥の左端に遠望されるのが、旧逓信省貯金局庁舎で、先に書いたように、現在は麻布台ヒルズ森JPタワーが建つ。
 『断腸亭日乗』を読むと、3月9日の東京大空襲で偏奇館が被災したときのありさまを次のように記している(註21)。

 三月九日。(中略)夜半空襲あり。翌暁四時に至りわが偏奇館焼亡す。(中略)予は四方を顧望し到底禍を免るること能はざるべきを思ひ、木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと角の交番にて我善坊より飯倉に出る道の通行し得べきや否やを問ふに、仙石山より神谷町辺焼けつゝあれば行くこと難かるべしと言ふ。道を転じて永坂に到らむとするも(後略)

 荷風は偏奇館が類焼を免れないと判断すると、三田聖坂に避難しようとした。「我善坊より飯倉に出る道」は、1919年11月、我善坊谷をへて西久保八幡に出たのと同じ道筋とみられる。そこから国道1号(桜田通り)を歩いて、三田聖坂に至るつもりだったのだろう。
 「飯倉」は飯倉交差点あたりと思われるが、そこから西久保八幡までは約100メートル。「仙石山より神谷町辺」とある「仙石山」は、江戸時代の仙石讃岐守の上屋敷のあったところ。西久保八幡の北側に位置し、直線距離で約150メートル(註22)。仙石山・神谷町も西久保八幡も、現在地名は虎ノ門5丁目である。『戦災焼失地図』で確認すると、仙石山・神谷町と西久保八幡のあたりは、一部をのぞき、被災地域として赤く塗り潰されている。

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ph19 外苑東通り。低層の商店街が残る。外国人のお客を想定しているのだろう。欧文で大きく商店名を併記している。六本木3-15。2023.12.20

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ph20 外苑東通りの脇道。マンションの前で道草をする学校帰りの子どもたち。麻布台3-3-15。2023.12.20

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ph21 外苑通り。飯倉片町交差点。信号待ちをする乳母車のカップル。麻布台2-4-7。2023.12.20

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ph22 六本木通り。日比谷線六本木駅前。外国籍と思われる人の姿が目につく。2023.12.20

 2012年の街歩きに話をもどす。
 我善坊谷の一画に、戦後に建てられた都営住宅を連想させる木造平屋の住宅があった。家屋のすぐ奥は崖が迫り、台地の上から旧逓信省貯金局の庁舎が見下ろしている。古老のご夫婦が家の外に出ていたので、わけを話して2人の写真を撮らせてもらった(ph6)。
 撮影メモをみると、ご夫婦が我善坊谷に引っ越してきたのは40年前とあるから、1970年代になるが、そのときに家を新築したとのことである。私の記憶に間違いがなければ、子どもたちは独り立ちして、ここを離れていったということである。
 別れぎわに「古い街並みに興味があるなら、近くに戦前に造られたアパートがあるから、行ってみたらどうか」と薦めてくれ、地図まで書いてもらった。その地図をたよりに、外苑東通りから南側に下る裏道を歩いていくと(ph15、ph16)、たどり着いたのは、なんということか、スペイン村の呼び名のある和朗フラットだった(ph17、ph18)。ここも『昭和二十年東京地図』で写真を撮っているのだが、かれこれ30年近くがたっている。とっくの昔に取り壊されたものと思い込んでいた。
 和朗フラットで興味深いのは、設計者で持ち主でもあった上田文三郎という人物は、農業技術者とも農業政策が本業だともいわれるが、建築については素人だったことである。上田は1928年に渡米することがあり、その旅行中にみたアパートメントホテルにいたく感心した。トランクひとつで入居でき、短期宿泊(ホテル)もできるし、長期滞在(アパート)もできるという賃貸の住宅システムのことである。それをきっかけに一大決心して、だれにも頼らずたった1人で、7棟の集合住宅を設計したというのである(註23)。
 いつもの仲間との昨年12月の街歩きでは、最初に再開発された麻布台ヒルズを見て、それより植木坂に沿って歩いたあと、最後にこの和朗フラットを訪れた。このときも写真を撮っているが、今回の連載では2012年に撮影したものを掲載している。
 ph18をご覧いただきたい。これは和朗フラット4号館である。まだ暑さの厳しい初秋の夕方、庭木のミモザに水を撒いているところだが、支柱があるのをみると、植樹してからいくらも経っていないのかもしれない。今回の写真を確認すると、ミモザの樹々はしっかり根づいたのだろう、支柱はすべて取り外されている。
 ph17は和朗フラット壱号館である。窓のデザインが子どもの悪戯描きのようで、どことなく夢を感じさせる。スペイン村という異称も、このあたりに起因するのかもしれない。写真を見れば分かると思うが、壁面に汚れが目につき、惜しい気がしないでもなかった。久しぶりに見てみれば、壱号館の外壁は塗り替えたばかりで、真っ白に輝いている。
 よそ事ながら、なぜだろうか、思わずうれしくなった。

【註】
註1 『江戸名所図会1』「巻之一 西窪八幡宮」。edomeishozue0327.jpg (480×720) (arasan.saloon.jp)。西久保八幡神社HP。縁起 - 西久保八幡神社 (hachimanjinja.or.jp)
註2 『日本歴史地名大系13東京の地名』「港区 我善坊町」(平凡社、2002)
註3 『喪と供養』「響具 その宗教的観念 十六 四門と仮門」(五来重、東方出版、1992)
註4 『江戸の坂 東京の坂(全)』「続江戸の坂 東京の坂 三年坂にまつわる俗信」(横関英一、ちくま学芸文庫、2010)
註5 日本大百科全書(ニッポニカ)「崇源院」(小学館)。『朝日日本歴史人物事典』「崇源院」(朝日出版)
註6 『紫の一本』「巻上 谷(上) がぜぼ谷」(『戸田茂睡全集』所収、国書刊行会、1915)戸田茂睡全集 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)。原典は1683(天和3)年の刊行
註7 『戸田茂睡年譜』(佐々木信綱(著・出版)、1913)戸田茂睡年譜 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)。「戸田茂睡略伝」および『梨本書』(『戸田茂睡全集』所収、国書刊行会、1915)。戸田茂睡全集 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)。『朝日日本歴史人物事典』「戸田茂睡」(朝日出版)
註8 日本大百科全書(ニッポニカ)「徳川忠長」(小学館)。『朝日日本歴史人物事典』「徳川忠長」(朝日出版)。
註9 『精選版 日本国語大辞』「稼(かせぐ)」(小学館)
註10 『日本歴史地名大系13東京の地名』「港区 我善坊町」(平凡社、2002)。『江戸切絵図』「増補改正・芝口南・西久保・愛宕下之図」(尾張屋版、1850・嘉永3年)。〔江戸切絵図〕 芝愛宕下絵図 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
註11 『精選版 日本国語大辞』「手先組」(小学館)
註12 平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その29 : ギャラリー  ときの忘れもの (livedoor.jp)
註13  港区ホームページ/植木坂 (city.minato.tokyo.jp)
註14 『アースダイバー』「第5章 湯と水 麻布〜赤坂」(中沢新一、講談社、2005)。『1960年代の東京』「六本木、麻布」(池田信、毎日新聞社、2008)。
註15 平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その11(前編) : ギャラリー  ときの忘れもの (livedoor.jp)
註16 『昭和二十年東京地図』「其二 麻布・三田・芝」(文・西井一夫/写真・平嶋彰彦、筑摩書房、1986)
註17 (『摘録 断腸亭日乗 上』「大正八年十一月八日」(永井荷風、ワイド版岩波文庫、1991)
註18 『断腸亭日乗』「大正九年」(『荷風全集 第二十一巻』所収、永井荷風、岩波緒書店、1993)。『摘録 断腸亭日乗 上』「昭和二十年」(永井荷風、ワイド版岩波文庫、1991)
註19 稲荷坂[我善坊谷坂](港区麻布台) (tokyosaka.sakura.ne.jp)
註20 『コンサイス東京都35区区分地図帖 戦災焼失地区表示』(日地出版、1985』。原典は日本地図(株式会社)により1946年に刊行された。
註21 『摘録 断腸亭日乗 上』「昭和二十年 三月九日」(永井荷風、ワイド版岩波文庫、1991)
註22 『港区/デジタル版 港区のあゆみ』「太田道灌塁」 テキスト / 太田道灌塁 (adeac.jp)
註23 『昭和二十年東京地図』「其二 麻布・三田・芝」(文・西井一夫/写真・平嶋彰彦、筑摩書房、1986)。『ザAZABU』No.50 2019.12.19(港区麻布地区総合支所)。AZABU50-1128_軽.indd (city.minato.tokyo.jp)。『和朗フラット四号館』昭和十一(1936)年建築 | 和朗フラット四号館 (warouflat.com)

(ひらしま あきひこ)

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2024年5月14日です。

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。

●本日のお勧め作品は平嶋彰彦です。
tokyo_labyrinth_1平嶋彰彦ポートフォリオ『東京ラビリンス』
オリジナルプリント15点組
各作品に限定番号と作者自筆サイン入り
作者: 平嶋彰彦
監修: 大竹昭子
撮影: 1985年9月〜1986年2月
制作: 2020年
プリント: 銀遊堂・比田井一良
技法: ゼラチンシルバープリント
用紙: バライタ紙
シートサイズ: 25.4×30.2cm
限定: 10部
発行日: 2020年10月30日
発行: ときの忘れもの
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。

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ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18〜24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
E-mail:info@tokinowasuremono.com 
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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