ギャラリー  ときの忘れもの

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平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき

その31 神田―日比谷入江の道祖神

文・写真 平嶋彰彦


 今年の1月17日、いつもの仲間たちと街歩きをした。コースはJR秋葉原駅⇒柳原通り⇒万世橋⇒昌平橋⇒湯島聖堂⇒神田明神⇒聖橋⇒JR御茶ノ水駅。今回掲載した写真は、この日に撮影したものに、一昨年の8月に撮影した5点を加えている。
 秋葉原やお茶の水あたりにやって来ると、なんとなく神田明神に足を向けてしまう。江戸っ子でもなんでないのだが、どういうわけか、お参りしないと落ち着かない。
 このときは随身門をくぐると左手に茅の輪が設けられていて、初詣の人たちだろう、行列が出来ていた。神田明神で茅の輪を見るのは初めてである(ph20)。茅の輪くぐりは悪疫除去の行事で、6月と12月の晦日に行われ、夏越(なごし)の祓・年越の祓と呼んでいる(註1)。
 『民俗学辞典』によれば、茅の輪くぐりは牛頭天王または素戔嗚尊にたいする信仰のことで、牛頭天王は一名を武塔天神、またの名を素戔嗚尊ともいい、疫病を免れるための最有力の神であるとされた(註2)。『備後国風土記逸文』「蘇民将来」では、南の海に求婚の旅に出た武塔の神が、妻と八王子を率いて帰還する途中、かつて一夜の宿をこころよく貸してくれた蘇民将来を謝礼に訪ねると、こう告げたとされている(註3)。

 吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり。
 後の世に疫気(えやみ)あらば、
 汝、蘇民将来の子孫(うみのこ)と云ひて、
 茅の輪を以ちて腰に着けるたる人は免れなむ。


 『民俗学辞典』は続けて、この「蘇民将来」の説話が喧伝された効果があって、牛頭天王信仰は京都およびその周辺にあまねく知られるようになったと解説している。

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ph1 柳原通り南側の横丁。古着のKs Corner。須田町2-15。2024.01.17

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ph2 柳原通り。看板建築の岡昌裏地ボタン店。須田町2-15。2024.01.17

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ph3 柳原通り。看板建築の海老原商店。須田町2-13。2024.01.17

 神田明神は現在、祭神に大己貴命(大黒様)、少彦名命(えびす様)、平将門(まさかど様)の三柱を祀る。境内摂社に江戸神社があるが、こちらの祭神は建速須佐之男命(素戔嗚尊)すなわち牛頭天王で、江戸の地主神だということになっている(註4)。
 江戸時代にはこの素戔嗚尊(牛頭天王)を祝う祭礼を「天王祭」と呼び、6月に神輿渡御が催されたという。『江戸名所図会』には次のように書かれている(註5)。

 祇園三社(本社の西に並ぶ。当社地主の神なり。毎歳六月祇園会あり)。
    五男三女(八王子と称す。六月五日大伝馬町旅所に神幸。同八日に帰輿あり)。
 祭神 素戔嗚尊(大政所と称す。六月七日南伝馬町旅所に神幸。同十四日に帰輿あり)
    奇稲田姫(本御前と称す。六月十日小船町旅所に神幸。同十三日に帰輿あり)


 祇園三社は祭神として、それぞれ素戔嗚尊・五男三女・奇稲田姫を祀るとある。五男三女は天照大神との誓約から誕生した八王子(ないしは牛頭天王と妻の婆利采女の間に生まれた八王子)。奇稲田姫は素戔嗚尊が八岐大蛇を退治したあと娶った妻(ないしは牛頭天王の妻となった婆利采女)。これは現在の京都八坂神社(旧称祇園感神院)の祭神と同じである。祇園(祇園精舎)は釈迦の布教活動の拠点となったインドの仏教寺院。その守護神が牛頭天王とされる(註6)。
 現在、京都の祇園祭は7月1日から31日までの1カ月にわたって執り行われるが、かつては神田明神の天王祭と同じように、祭日は陰暦6月7日から14日までだったということである(註7)。ということは、江戸神社の天王信仰は京都八坂神社の天王信仰を移植したものではなかったかと思われる。

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ph4 秋葉原駅南口。電気街。外神田1-15。2024.01.17

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ph5 万世橋北詰からみた電気街。外神田1-15。2024.01.17

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ph6 秋葉原駅構内。カプセルトイの自販機と外国人観光客。外神田1。2024.01.17

 永享の乱(1438・永享10年)とその後の関東諸国の情勢を綴った軍記物語に『永享記』がある。そのなかに文明年中(1469〜1487)における太田道灌の業績をつたえる次のような記述がある。そこに神田明神が出てくる(註8)。

 或記曰。文明年中。道灌江戸城にも河越の如くに。
 仙波の山王を城の鎮守に崇め。三芳の天神を平河へ移し給ふ。
 文明十戊戌年六月五日。日河社に視(なぞら)へ、津久戸明神を崇め給ふ。
 又神国(田カ)の牛頭天王。洲崎明神は。安房洲崎明神と一体にて。
 武州神奈川品川江戸。何も此神を祝ひ奉る。
 或人の云。平親王将門の霊を。神田明神と奉崇とかや。


 仙波は川越市小仙波町。太田道灌の築いた川越城があった。のちに道灌は江戸城を築くと、川越にならって、川越の日枝山王神社を江戸城の鎮守として勧請したのである(註9)。三芳は川越市郭町にある三芳野天神のこと。これを勧請したのが平河天神で、当時は江戸城内の平川門の近くにあった(註10)。日河社は川越氷川神社。現在、津久戸明神は九段北にあるが、道灌が最初に造営した社殿は北の丸公園(田安台)にあったらしい(註11)。
 「神国(田カ)の牛頭天王。洲崎大明神は。安房洲崎大明神と一体にて」とある。注記のように「神国」は「神田」の誤記と思われる。神田は、後続する文にある江戸のことで、将門塚のある現在の大手町1丁目あたりを指す。そこに牛頭天王と洲崎大明神が、おそらく、同じ境内に祀られていたものとみられる。
 「安房洲崎大明神と一体にて」は、神田の牛頭天王・洲崎明神は安房国洲崎(現在の館山市洲崎)に鎮座する洲崎神社(洲崎大明神)を勧請したもの、という意味と思われる。後述するように、安房国の洲崎神社は祭神に、天比理乃很拭覆△瓩里劼蠅里瓩里澆海函砲鱆る。この神は忌部(斎部)氏の祖神で、安房国を開拓した天太玉命(あめのふとだまのみこと)の后神であるとされている。
 「神奈川」は、現在の横浜市神奈川区のこと。区内の青木町に洲崎大神が鎮座し、主殿に天太玉命(あめのふとだまのみこと)と天比理刀売命(あめのひりとめのみこと)を祀り、相殿には素戔嗚尊(牛頭天王)を祀っている(註12)。「品川」は、港区北品川のこと。同地には品川神社が鎮座し、祭神に天比理乃很拭覆△瓩里劼蠅里瓩里澆海函法ΡР貲掲簗拭憤隹擔澄法α狽罫紡此糞軻天王)の三柱を祀っている(註13)。
 神奈川の洲崎明神も北品川の品川神社も、源頼朝が平家追討のあと、安房の洲崎神社に報謝するため、同社を勧請したことを社伝にうたっている。
 神奈川と品川は中世からの湊町として知られる。江戸(現在の大手町のあたり)は、徳川家康の関東入国後に埋め立てた新開地で、太田道灌が江戸城を築いた中世のころは、日比谷入江と呼ばれる海岸線に発達した湊町だった(註14)。
 したがって、「武州神奈川品川江戸」とは、東京湾の内奥に位置する水陸交通の要衝のことであり、いずれの湊にも共通して、牛頭天王と洲崎明神が祀られていたと『永享記』は書いているのである。
 神田神社のホームページをみると洲崎明神については言及がない。『永享記』の記述の誤りの可能性もある。また神田明神の社伝そのものに変化のあった可能性もある。あるいは現在の社地は内陸にあるが、上記のように、もとは海岸線に面していた。外神田に移転するのは近世の初めだが、土地柄の違いから、航海神もしくは海の道祖神としての信仰が希薄になっていったとも考えられる。
 『永享記』は牛頭天王・洲崎明神に言及したあとで、「平親王将門の霊を。神田明神と奉崇とかや」と書いている。この記述の仕方は『永享記』の筆者が、将門の霊よりも牛頭天王・洲崎明神を重要視したことを示唆する。「とかや」は「或人の云」をうけたものだが、筆者はどこか腑に落ちないものを感じているのである。
 江戸時代の史料だが、『江戸砂子』のなかに社家伝説として、将門の霊を大己貴命に合わせ祀った経緯が記されている(註15)。
 940(天慶3)年、親王(新皇)を名乗った平将門が平貞盛と藤原秀郷に討ち取られた。同じころ、将門の弟将頼も多摩郡中野の原(現在の中野区南部)で敗れたあと、河越で殺害された。その後、「中野の古戦場にその猛気とゞまり、人民をわづらはしむる事」があった。延文(1356〜61年)のころ、時宗二代真教坊が当所(江戸)を遊行中にそのことを知ると、「その党の長なれば将門の霊を相殿にまつりて神田大明神二坐」とし、「かたわらに草庵を立て芝崎の道場」とした。これが現在は浅草に移った神田山日輪寺の前身だというのである。
 真教の生没年は1237〜1319(嘉禎3〜元応1)年とされるから、延文のころというのは誤記になる(註16)。社家伝説というが、これは別当寺だった時宗日輪寺による唱導のための虚構の可能性があり、その製作年代は延享よりもっと新しい時期だった気もする。この伝説では世の中に災厄をもたらす元凶は横死した平将門とその一統の怨霊とされている。この説話の物語構造は芭蕉が『奥の細道』で「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」と詠んだ斎藤実盛にまつわる御霊信仰を否応なく連想させずにはおかない。
 源平合戦で横死した実盛の霊を済度し、浄土に導いたのは時宗十四代の太空であり、1414(応永21)に北陸を遊行中のことだとされる。太空はその1年前には上杉禅秀の乱の戦死者を弔うため、本山である藤沢清浄光寺(遊行寺)の境内に敵御方供養塔を建立したともいわれる(註17)。時宗の僧侶は戦争が生じると、陣僧といって将兵と共に戦地に赴き、味方に限らず敵方の戦死者の葬送と供養も執り行ったという(註18)。応永の元号は35年まであり、正長の1年をはさみ、『永享記』の永享に連続している。神田明神の祭神に平将門の怨霊が祀られたのも、そうした時宗の教化活動となんらかの関わりがあったのではないかと思われる。

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ph7 神田川に架かる万世橋。1930年の竣工。須田町2。2024.01.17

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ph8 神田川。万世橋下の水面。須田町2。2024.01.17

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ph9 神田川。昌平橋から聖橋方面の眺め。左は中央線。右は総武線。2024.01.17

 安房洲崎明神の所在地は館山市洲崎である。ここは東京湾の出入口にあたる。冬のよく晴れた日には、海上を見下ろす社殿の傍らから、鳥居の奥に東京湾と三浦半島、さらにその奥に富士山を望むことができる。
 地元の館山博物館にWEBサイトがあり、洲崎神社について、こんなふうに解説している(註19)。

 古来、漁師にとっての漁業神、船乗りにとっての航海神でした。
 祭神は天比理乃很拭淵▲瓮離劵螢離瓮離潺灰函砲箸いぁ安房開拓神話に出てくる
 忌部一族の祖神天太玉命(アメノフトダマノミコト)の后神です。
 平安時代には朝廷から正三位の位を与えられ、源頼朝が伊豆での挙兵に失敗して
 安房へ逃れたときには当社に参拝して坂東武士の結集を祈願したことは有名な話。
 中世には品川・神奈川など東京湾内の有力な港町にも祀られました。


 祭神の天比理乃很燭魑業神とも航海神とも書いている。なるほどと思うが、海の道祖神と呼ぶ方がぴったりする気がしないでもない。というのも、1月8日に恒例の行事があり、大鳥居の前に注連縄を張るのだが、その注連縄の中央に「久那斗神(くなどのかみ)」と書いた木札をつけるというからである(註20)。
 「久那斗神」は岐神とも書く。「くな」は「来(ク)勿(ナ)」で、邪悪なものは入ってくるなという意味。「と」は通路のことだとされる。この久那斗神のことが『日本書紀』「神代上」に出てくる(註21)
 あの世とこの世の境界である泉平坂(よもつひらさか)で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が伊弉冉尊(いざなみのみこと)にたいし、「此れよりな過ぎそ」と言い渡し、持っていた杖(みつえ)を投げつけた。これが岐神(ふなとのかみ)で、そのもとの名は「来名戸(くなと)の祖神(さえのかみ)であるというのである(註22)。
 つまり洲崎神社の天比理乃很燭蓮久那斗神すなわち道祖神であり、黒潮に沿った海上の道より侵入する邪悪な存在を退散させる神徳がある、とうたっているのである。
 先に引用した『永享記』によれば、洲崎神社を勧請した神奈川・品川・江戸には、牛頭天王が合祀されていたという。本社の天洲崎神社に天王信仰が及んでいたかどうか、気になるところだが、調べた史料が少なかったせいか、それについては確認することが出来ていない。

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ph10 柳原通り。柳森神社。摂社のおたぬきさん福寿社。須田町2-25。2024.01.17

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ph11 柳原通り。柳森神社。摂社江島大明神・厳島大明神社。須田町2-25。2024.01.17

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ph12 外濠通り。太陽徽章製作所。外神田2-1-15。2024.01.17

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ph13 外濠通り。瓶専門店の名取容器。外神田2-1-14。2024.01.17

 館山博物館が指摘する源頼朝の洲崎神社参拝のことは、鎌倉幕府の編纂した『吾妻鑑』に次のように記されている(註23)。

 (治承四年八月)廿九日、戊戌、武衛、実平を相具し、
 扁舟を棹さして安房国平北郡猟島に著かしめ給ふ、北条殿以下の人々、
 之を拝し迎へ、数日の鬱念一時に散開すと云々。
 (九月)五日、甲寅、洲崎明神へ御参有り、宝前に丹祈を凝し給ふ。
 召遣はす所の健士、悉く帰往せしめ給はば、
 功田を寄せて神威を賁(かざ)り奉る可きの由、御願書を奉らると云々、


 武衛は源頼朝のこと。実平は従臣の土肥実平。頼朝は石橋山の合戦に敗れたあと、九死に一生を得て、相模国真鶴岬から海をわたり、安房国猟島(現在の安房郡鋸南町竜島)に逃れた。北条氏以下の将兵が迎えに出ているところをみれば、ただ命からがら逃げのびたわけでなく、房総半島で軍勢を再編成することを目論んだのである。
 1180(治承4)年9月5日、安房上陸から6日目になるが、頼朝は洲崎明神に参詣している。洲崎は竜島から海路なら17キロの直線距離にある。「召遣はす所の健士、悉く帰往せしめ給はば」というのは、要するに平家追討の戦勝祈願のことだが、「扁舟を棹して」の心細い航海を無事に終えたことにたいする海の道祖神への報謝でもあったとみられる。
 洲崎神社は、先に述べたように、東京湾の出入口に鎮座する。地先の岬の沖合は汐の道と呼ばれる難所で、海上交通の関所ともいわれ、戦前の1930(昭和5)年ごろまでは沖を通過する船が洲崎神社に奉斎を納める風習があったともいう(註24)。
 神社の崖下に養老寺(真言宗寺院)が隣接する。神仏習合の時代にはこの寺が神社の社僧を務めた。役行者による開創とされ、本尊の十一面観音は天比理乃很燭遼榁亙だという。境内に石窟があり、役行者の石像を祀っている(註25)。
 曲亭馬琴の長編小説『南総里見八犬伝』では、この役行者の石窟が重要な舞台装置になっている。伏姫は安房国の領主の一人里見義実の娘で、八犬士の大地母神ともいうべき存在である。その伏姫が役行者の石窟に七日間の参籠を終えた帰路、役行者が眼の前に現れて、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八字を刻む水晶の珠数を授けたという筋書きになっているのである(註26)。
 長編小説といえば、中里介山の『大菩薩峠』がある。そのなかの「安房の巻」にやはり洲崎が取り上げられている。この物語は室町時代ではなく、江戸時代も幕末である。洲崎には、現在灯台の建っているあたりだろうか、欧米からの異国船を見張る遠見の番所が置かれ、駒井甚三郎(主要な登場人物の一人で、もと甲府勤番支配の旗本)が、密かに軍艦の開発に取り組んでいるという想定である(註27)。
 私の生まれ育ったのは洲崎神社から東側へおよそ4キロ離れた平砂浦にある鄙びた村である。小説のなかで「平沙の浦の海に入ると、下には恐ろしい暗礁が幾つもあって、海面は晴天の日でも大きなうねりがのたうちまわっている」と中里介山は書いている。当たらずとも遠からずの描写で、私は小中学生のころ、夏になるとこの海を潜ってサザエやイワガキなどを採って遊んだ。実家からも海が見渡せた。正面に伊豆大島。その手前を東京湾に出入りする船舶が次から次へ往来する眺めは今も昔も変わらない。

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ph14 湯島聖堂。入徳門。貘の木鼻を飾る。関東大震災で焼失を免れた。湯島1-4-25。2022.08.26

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ph15 湯島聖堂。大成殿。屋根の霊獣(鬼龍子)と霊魚(鬼口頭)。大震災で焼失、伊藤忠太よる設計で1935年に再建。湯島1-4-25。2024.01.17

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ph16 湯島聖堂。孔子銅像。1975年、台北ライオンズクラブから寄贈された。湯島1-4-25。2022.08.26

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ph17 神田明神。少彦名命(えびすさま)像。外神田2-16-2。2024.01.17

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ph18 神田明神。隋神門。将門に由来するという繋馬。外神田2-16-2。2022.08.26

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ph19 神田明神。隋神門。青龍と玄武の彫刻。外神田2-16-2。2024.01.17

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ph20 神田明神。茅の輪くぐり。外神田2-16-2。2024.01.17

 神田明神から御茶ノ水駅に向かうと聖橋がある。橋の上から神田川の下流方向の眺めが一望にできる(ph21)。眼下に東京メトロ丸の内線の神田川鉄橋。その右はJR御茶ノ水駅。駅の外れで中央線と総武線が交錯する。中央線の前身は甲武鉄道といい、1936(昭和11)年までは万世橋のそばに始発駅があった(註28)。
 総武線の下り電車は八の字を描いたような形の鉄橋(神田川橋梁)で神田川を渡る。するとすぐにアーチ型の鉄橋(松住町架道橋)があり、国道17号(中山道)を跨ぐことになる。この2つの橋梁は、1932年に総武線が両国駅から御茶ノ水駅まで延長したとき架けられたという(註29)。
 聖橋の下流に架かるのが昌平橋である。この橋から見る上流方向の景観も捨てがたく、ついつい写真を撮りたくなる。レンガ造りの中央線高架は荒れ放題になっていたが、いつのころだろう、気がつくと小洒落た飲食店や商業施設に衣替えしていた(ph9)。
 総武線は私の郷里に続いている。御茶ノ水駅から下り線で3つ目が両国駅である。戦災を免れた駅舎は現在も健在だが、1960年代から70年代には、館山方面への急行列車の始発駅になっていた。両国は文字通り東京と千葉の境界の駅で、半世紀もすぎた今になっても、房総半島の上野駅という印象がぬぐいがたい。

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ph21 神田川。聖橋から昌平橋方面の眺め。手前は東京メトロ丸の内線。その右はJR御茶ノ水駅。奥のアーチ型鉄橋は総武線。2022.08.26

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ph22 ニコライ堂。関東大震災で被災し、1929年に修復。駿河台4-1-3。2022.08.26

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ph23 茗渓谷通り。御茶ノ水駅聖橋方向の出口付近。神田駿河台4-5。2024.01.17

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ph24 茗渓谷通り。臨時休業の八吉お茶の水店。駿河台2-6。2024.01.17

 神田川は近世初頭に神田山を切崩して開かれた人工河川である。土木や建築工事を普請というが、諸国大名に命じて実施させたことから、天下普請と称された。神田川は中世には平川と呼ばれ、現在の皇居平川門のあたりで、日比谷入江という干潟の海に注いでいた。
 1590(天正18)年、徳川家康は関東に入国すると、神田川を新規に開削し、この平川の流れを迂回させる一方で、日比谷入江を埋め立て、現在の大手町・丸の内・日比谷一帯の武家屋敷地を造成したという。
 1606〜07(慶長11〜12)年、漁民たちの形成した町屋のならぶ日比谷入江の一帯は、江戸城の拡大工事により、城内に組込まれることになり、住民たちは豊島洲崎(現在の中央区日本橋浜町から新橋あたり)に移転させられた。移転先である豊島洲崎もやはり埋立地で、これは神田山を切り崩した土砂を利用し市街地として造成したものだという(註30)。
 詳しいことは深い霧に隠れて見えにくいが、おそらく将門塚のある大手町1丁目にあった神田明神は、この町ぐるみの移転にともない、いったんは駿河台に移転し、さらに1616(元和2)年に外神田の現社地に移転したのである(註31)。
 先に引用した『永享記』によれば、神田明神の祭神は安房国洲崎明神を勧請したものだということである。
 どういうことかといえば、この記述は近世以前に江戸と私の郷里である安房国が陸路ではなく海路を通じて濃密な交歓があったことを示唆する。まさかという気がしないでもないが、ありふれた常識や予見を鵜呑みにするのは間違いのもとになりかねない。
 私は報道カメラマンだった。取材対象がなんであろうと、自分の眼で確かめるのが仕事の基本である。「ぼうっと生きているんじゃない」という人気テレビ番組の台詞がある。叱られても返す言葉がない。私の長く勤めた毎日新聞社は、皇居平川門の眼の前で、将門塚からはわずか500メートルの距離しかなかった。

註1 『江戸総鎮守 神田明神』「年中行事 六月、十二月」。神田明神とは|江戸総鎮守 神田明神 (kandamyoujin.or.jp)
註2 『民俗学辞典』「天王信仰」(監修 柳田国男、東京堂書店、1951)
註3 『風土記』「逸文 備後国 蘇民将来」(秋元吉郎校注、日本古典文学大系、岩波書店、1958)
註4 『江戸総鎮守 神田明神』「境内図 江戸神社」。神田明神とは|江戸総鎮守 神田明神 (kandamyoujin.or.jp)
註5 『新訂 江戸名所図会5』「神田大明神の社」(市古夏生・鈴木健一校訂、ちくま文庫、1997)
註6 『日本陰陽道史総説』「四八 牛頭天王の像容とその曼陀羅」(村山修一、塙書房、1981)。『改訂新版 世界大百科事典』「牛頭天王」(宮本袈裟男、平凡社)など
註7 『宗教歳時記』「祇園御霊会の穂木から鉾へ」(五来重、角川選書、1982)。
註8 『永享記』(『続群書類従・第二十輯上合戦部』所収、続群書類従完成会、訂正三版、1957)
註9 『川越市』「太田道灌を大河ドラマに」。太田道灌を大河ドラマに! 川越市 (city.kawagoe.saitama.jp)
註10 『紫の一本』「坂 梅林坂」(戸田茂睡、『戸田茂睡全集』所収、国書刊行会、1915)。『猫の足あと』「川越氷川神社」。川越氷川神社。川越市宮下町の神社 (tesshow.jp)
註11 『津久戸神社』。築土神社移転遷座の歴史 (tsukudo.jp)。「「築土神社 津久土明神 田安明神」築土神社|千代田区九段北の神社 (tesshow.jp)」の検索結果 - Yahoo!検索
註12 『洲崎大神 由緒略記』洲崎大神(横浜市神奈川区青木町鎮座 洲崎明神・洲崎神社) (aoki.kanagawa.yokohama.jp)
註13 『日本歴史地名大系13 東京の地名』「港区 品川神社」(平凡社、2002)。『品川神社』「御祭神」御祭神・御由緒|品川神社 (shinagawajinja.tokyo)
註14 『日本歴史地名大系13 東京の地名』「江戸・東京 江戸」(平凡社、2002)
註15 『江戸砂子』「巻之三 湯嶋 本江 上野 / 神田社」(小池章太郎編、東京堂出版,
1976)
註16 『精選版 日本国語大辞典』「真教」(小学館)。『改訂新版 世界大百科事典』「真教」(今井雅晴、平凡社)
註17 『デジタル日本人名辞典』「太空」(講談社)。「実盛供養の起源」(『金沢市史通史編1』所収)。212jisyu.pdf (komatsu.lg.jp)。『おくのほそ道』「小松」(芭蕉、ワイド版岩波文庫、1991)
註18 『改訂新版 世界大百科事典』「従軍僧」(藤井学、平凡社)
註19 『館山博物館』「洲崎神社・養老寺」洲崎神社・養老寺−館山の寺社と名所 | たてやまフィールドミュージアム − 館山市立博物館 (hanaumikaidou.com)
註20 同上。鳥居の大注連縄の写真が上記WEBサイトに載る。
註21 『日本書紀 上』「神代上 第五段」(『日本古典文学大系』、岩波書店、1967)
註22 同上。「岐神」補注
註23 『吾妻鑑(一)』「治承四年 八月」「同 九月」(龍 肅・訳注、岩波文庫、1939)
註24 『日本歴史地名大系12 千葉県の地名』「館山市 洲崎神社」(平凡社、1996)
註25 『館山博物館』「洲崎神社・養老寺」洲崎神社・養老寺−館山の寺社と名所 | たてやまフィールドミュージアム − 館山市立博物館 (hanaumikaidou.com)。『日本歴史地名大系12 千葉県の地名』「館山市 洲崎村」。
註26 『南総里見八犬伝(一)』「肇輯 第八回 行者の石窟に翁伏姫を相す。(後略)」(曲亭馬琴、小池藤五郎校訂、岩波文庫、1990)
註27 『大菩薩峠5』「安房の国の巻」(中里介山、ちくま文庫、1996)
註28 『日本歴史地名大系13 東京の地名』「千代田区 須田町」(平凡社、2002)
註29 『Wikipedia』「松住町架道橋」「神田川橋梁」
註30 『日本歴史地名大系13 東京都の地名』「千代田区 平川」「同 大名小路」
註31 『改訂新版 世界大百科事典』「神田神社」(落合偉洲、平凡社)。『江戸総鎮守 神田明神』「神田明神の歴史」。神田明神とは|江戸総鎮守 神田明神 (kandamyoujin.or.jp)

(ひらしま あきひこ)

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2024年7月14日です。

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。

●本日のお勧め作品は平嶋彰彦です。
tokyo_labyrinth_1平嶋彰彦ポートフォリオ『東京ラビリンス』
オリジナルプリント15点組
各作品に限定番号と作者自筆サイン入り
作者: 平嶋彰彦
監修: 大竹昭子
撮影: 1985年9月〜1986年2月
制作: 2020年
プリント: 銀遊堂・比田井一良
技法: ゼラチンシルバープリント
用紙: バライタ紙
シートサイズ: 25.4×30.2cm
限定: 10部
発行日: 2020年10月30日
発行: ときの忘れもの
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。

*画廊亭主敬白
本日5月14日は菅井汲先生(1919年3月13日 - 1996年5月14日没)の命日です。
先日も書いた通り、1975年、渡仏以来三度目の帰国をした菅井先生をパレスホテルに訪ね、日本での版画制作を依頼し、現代版画センターのエディションとして28種類の新作(版画、立体マルチプル、タペストリー)を一挙に制作し、「菅井汲全国展1976」を開催しました。
支持する(師事する)作家の版画作品を集中してエディションし、版元&ギャラリーの営業基盤とする私たちのやり方は、このときに確立しました。あれから半世紀、ときの忘れもののスタッフは誰一人菅井先生に会ってはいませんが、作品を通じて日々親しんでいます。

取り扱い作家たちの展覧会情報(5月ー6月)は5月1日ブログに掲載しました。
photo (9)
ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18〜24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
E-mail:info@tokinowasuremono.com 
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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