駒井哲郎を追いかけて

没後40年 駒井哲郎「丸の内風景」はいつ作られたか

昨日終了したルリユール 書物への偏愛―テクストを変換するもの―展にはたくさんの皆さんにご来廊いただきありがとうございました。
初めての試みでしたが、羽田野麻吏さん、市田文子さん、平まどかさん、中村美奈子さんの参加作家たちの協力で、とても親密な感じの展示ができたと思っています。
作品の一部はときの忘れもののコレクションとしていつでも画廊でご覧になれます。またご希望の書物についての注文製作についても承りますので遠慮なくお問合せください。
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一昨日11月18日はマン・レイの命日でしたが、その二日後に東京藝術大学教授の現職のまま、56歳で逝ったのが駒井哲郎先生でした。
本日11月20日は駒井哲郎先生の命日です。マン・レイと同じく没後40年になります。
1920年(大正9年)6月14日生まれ - 1976年(昭和51年)11月20日没

久しぶりに駒井作品をご紹介します。
慶應義塾普通部に在学中の15歳の頃から西田武雄のもとで銅版画を制作し始めた駒井先生は根っからの「銅版の子」でした。
その初期を代表する作品として必ずといっていいほど紹介されるのが「丸の内風景」です。
冬の丸の内風景_トリミング_600
先日私たちが入手した作品の実物画像です。

冬の丸の内風景_年記
作品左下に鉛筆で<rue en hiver 1937>と記載。

冬の丸の内風景_タイトル
作品右下には同じく鉛筆で<冬の丸ノ内風景>と記載。

駒井先生が生前刊行した『駒井哲郎銅版画作品集』(1973年 美術出版社)に収録された227点(その他に賀状、案内状など10点を所収)のうち、一ページ大の口絵には56点が選ばれていますが(つまり自選の代表作)、そのトップを飾ったのがこの「丸の内風景」で、戦前の作品で掲載されたのはこの作品のみです。
先生ご自身がはがき半分ほどのこの小品をいかに重視していたかがわかります。
原版もずっと保存され、後年になってご自身も刷るし(セカンドエディション)、お弟子さんたちにも刷らせているので、部数は相当あります。私たちも今までにずいぶんと扱ってきました。
ところが今回入手した作品は以前に扱ったものとは少々異なる点がありました。
上に掲載したとおり、この作品には自筆サインと限定番号の他に余白に二つの書き込みがありました(書き込み自体が珍しい)。

さて、弱った。
駒井ファンなら今回の作品に書き込まれた駒井先生自筆のデータに「?」と思ったはず。
詳しく論じる前に、先ずは関連資料にあたりましょう。
亭主の本棚の駒井コーナーにはいろいろな文献がありますが、必ず目を通す三種の神器ならぬ5冊の基本資料があります。

1)『駒井哲郎銅版画作品集』(1973年 美術出版社)
2)『駒井哲郎版画作品集』(1979年 美術出版社)
3)『駒井哲郎展』カタログ(1980年 東京都美術館 発行は東京新聞)
4)『駒井哲郎ブックワーク』(1982年 形象社)
5)『駒井哲郎 1920-1976』カタログ(2011年 世田谷美術館他で開催 発行は東京新聞)

1)は駒井先生が生前自ら手がけた唯一の作品集です。
2)はそれを基本に漏れていたものや誤記を修正した没後刊行の作品集で、通常私たちがレゾネといっているのはこの本です。
3)は没後に開催された大回顧展のカタログで、東京都美術館(現在は東京都現代美術館に移管)が収蔵する大コレクションが基本になっています。
4)は駒井先生のブックワークに限っての詳細な書誌で、銅版画の全てを網羅しているわけではないのですが、書誌的正確さでは一頭抜きん出ており、とても重宝しています。
5)はいまや質量ともに最大の福原コレクション(世田谷美術館)の展覧会カタログで、駒井先生が密かに作り続けたモノタイプ(1点しかない版画)に関しては最も充実しており、モノタイプについて語るにはこのカタログが基本文献になります。
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今回の駒井先生の初期作品について、上掲1)2)3)の文献を参照すると、すべて生前刊行の1)を踏襲したデータが記載されています。

丸の内風景
エッチング
9.0×5.0cm 1938
限定30部 E.A.


IMG_4047_m
『駒井哲郎版画作品集』(美術出版社、1979年刊)の表記

IMG_4048_m
同奥付
この本を通常「レゾネ」としています。

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しかるにですね、今回私たちが某家から入手した作品(上掲画像参照)を素直に見て、作品のデータを記載すると、以下のようになります。

駒井哲郎
冬の丸ノ内風景 rue en hiver
1937年
エッチング
Image size: 9.2x5.1cm
Sheet size: 24.7x18.6cm
限定25部(9/25) サインあり

レゾネ類の記述と大きく異なる点が三つあります。
先ず、タイトル「冬の丸ノ内風景」とありますが、まあこれは誤差のうち(笑)。
フランス語のrue en hiver を直訳すると 「冬の道」です。
次に、制作年が1937年と記載されています。これは大問題ですね。
三番目に、限定部数が25部です。これは駒井作品によくあることなので・・・・

有名な作品なので、「丸の内風景」を所蔵する美術館はたくさんあります。
主要美術館の目録から確認すると、
東京都現代美術館には同じものが2点あり(ともにEp.d'artiste)
世田谷美術館の福原コレクションにも2点あり(ともにEp.d'artiste)
町田市立国際版画美術館に1点(Ep.d'artiste)
いかに駒井先生がセカンドエディションが多かったか、EAという番外作品を多数刷ったかがわかります。

ところが埼玉県立近代美術館の所蔵作品にはきちんと限定番号が入っています。
20150915_komai1
『果実の受胎 駒井哲郎と現代版画家群像』図録41ページ(1994年 埼玉県立近代美術館)より

20150915_komai216/25

これで、「丸の内風景」には少なくとも限定30部と限定25部の二つのエディションがあることが確認できますね。
EAを加えれば100部近い部数が生前刷られたのではないでしょうか。
先日ご紹介した「夜の中の女」や「悪僧」の入手困難さと比べてください。

問題は私たちが入手した9/25に記載された「1937」の数字です。
駒井先生の書き間違いなのか、それとも文献が間違っているのか。
私達は今まで名作「丸の内風景」は駒井先生18歳のときの制作と思ってきましたが、もし1937年だとすると17歳のときになる。

実物(の記述)が正しいのか、文献が正しいのか。
草間彌生先生の作品にもこういう実物情報と文献記述の食い違いがあることを以前書きましたが、まことに悩ましい。

再び奇跡が起こった〜駒井哲郎「悪僧」

韓国ソウルのアートフェアKIAFが終了し、昨夜遅くスタッフたちが帰国しました。
京都から参加してくださった出展作家の野口琢郎さん、通訳として遠路釜山から遠征してくださった井手さん、ご苦労さまでした。
フェアの様子は26日のブログにスタッフSがレポートする予定です。
出張の疲れを癒す間もなく、来月は台湾のアート台北に出展するので、スタッフはたいへんです。毎月海外というのは少しきついなぁと反省しています。

亭主は昨日も朝から昼まで病院で、リハビリとレントゲン、診察でへとへとになりました。おかげさまで回復は歳相応に順調らしいのですが、まだまだ先は長いようです。

10月12日のブログで「山口長男とM氏コレクション展」で展示している駒井哲郎をはじめ、古茂田守介、加納光於の珍しい銅版画作品をご紹介しました。
03
(右から桂ゆき、加納光於、駒井哲郎3点)

中でも「夜の中の女」と「悪僧」は、数多ある駒井作品の中でも希少中の希少作品であると強調しました。
駒井追っかけ歴、半世紀を誇る亭主も、「夜の中の女」に市場でめぐりったのはただの一回だけ(それも大魚を逸してしまった)、「悪僧」は回顧展で見ただけで入手の機会は一度もありませんでした。
11駒井哲郎
「夜の中の女」
1951年
インタリオ
22.9×18.0cm
Ed.25(5/25)    Signed
*Raisonne No.45(『駒井哲郎版画作品集』美術出版社 1979年)
*1/25〜8/25のみ刷られた

12駒井哲郎
「悪僧」
1950年
アクアチント
17.6×14.6cm
Ed.20(1/20)  Signed
*Raisonne No.30(『駒井哲郎版画作品集』美術出版社 1979年)
*1/20〜8/20のみ刷られた

いずれも作家自身によって各8部が刷られただけで、原版は失われており、セカンド・エディションはもちろん、没後の後刷りもありません。
この2点の駒井作品がいかに貴重かつ希少かについては、先日のブログで述べたとおりです。
代表作とされる束の間の幻影」は生前に幾度も刷られており、この2点に比べたら入手するのは数十倍も簡単です。
駒井《悪僧》1/20サイン

駒井《悪僧》1/20エディション番号

上掲は、今回展示している「悪僧」のサインと限定番号の拡大図版です。
入手できただけでも「奇跡」なのに、限定番号が1/20ですから、亭主の興奮をご理解いただけると思います。

駒井《悪僧》8/20
いくら興奮したからと言って同じ作品図版を幾度も載せるな、くどい、と言われそうですが、よくご覧になってください。上掲の1/20とは異なる「悪僧」です。

駒井《悪僧》8/20サイン

駒井《悪僧》8/20エディション番号

奇跡が二度起こった!
駒井作品の最も入手が難しいといわれる「悪僧」を、それも1/20を入手できた亭主は、有頂天になっていたのですが、なんと、2点目の「悪僧」、それも最後の8/20と記載された作品が突然舞い込んできたのです
長い画商人生でもこのようなことははじめてです。
70年近く前、僅か8部しか刷られなかった小さな銅版画のうち2部が数ヶ月の間に一箇所に集まってきた、これを奇跡と言わず何と言おうか。
いま亭主は、人生で二度とないような幸運を得た喜びと、その代償がはたしてどんなことになるのかと震える思いであります。

◆ときの忘れものは「山口長男とM氏コレクション展」を開催しています。
201609_Mcollection
会期:2016年10月12日[水]〜10月22日[土]
*日曜、月曜、祝日休廊

出品作家:津田青楓、仙波均平、山口長男、緑川廣太郎、オノサト・トシノブ桂ゆき、古茂田守介、駒井哲郎、高橋秀、加納光於

1950年代から70年代にかけて王様クレヨンや画廊を経営していたM氏は多くの画家たちと親交し、彼らのパトロン的存在でもありました。本展では山口長男の代表作「五つの線」(1954年、油彩、180×180cm、第39回二科展、翌年の第3回サンパウロ・ビエンナーレ展出品作品)をはじめ、M氏がコレクションした作品20点をご覧いただきます。
●出品全作品を収録した「山口長男とM氏コレクション展」カタログを制作しました。

201610_M氏カタログ_600『山口長男とM氏コレクション展』カタログ
2016年
ときの忘れもの 発行
テキスト:三上豊(和光大学)
和英併記、20ページ
25.7×18.2cm
500円(税別) ※送料250円
 メールにてお申込みください。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから

駒井哲郎の超希少作品〜「山口長男とM氏コレクション展」より

日本を代表する銅版画家といえば、長谷川潔、駒井哲郎、池田満寿夫浜口陽三などの名が浮かびます。
なかでも駒井哲郎は多くの後進を育て大学における版画教育の道筋をつけた指導者として忘れてはならない存在です。

本日から開催する「山口長男とM氏コレクション展」には駒井哲郎をはじめ、古茂田守介、加納光於のいずれも希少な銅版画作品を出品しています。
これだけの珍しい銅版画がM氏のもとに偶然あったとは思われず、M氏が経営していた絵の具会社と銅版を制作する画家たちとの何らかの因縁を感じさせます。
08古茂田守介
(作品名不詳)
モノタイプ、手彩色
18.5×20.5cm
Signed


09古茂田守介
「裸婦と貝殻」
1959年
エッチング
15.0×18.5cm
Signed


10古茂田守介
「カレイ」
1959年
エッチング
15.0×18.0cm
Signed


16加納光於
「紋章のある風景」
1957年
エッチング
19.5×21.3cm
Ed.15   Signed
*Raisonne No.42(『KANO mitsuo 1960-1992 catalogue raisonne & documents』小沢書店 1994年)
ただし、レゾネには1958年と記載

中でも圧巻は駒井哲郎の「夜の中の女」と「悪僧」の2点です。
11駒井哲郎
「夜の中の女」
1951年
インタリオ
22.9×18.0cm
Ed.25(5/25)    Signed
*Raisonne No.45(『駒井哲郎版画作品集』美術出版社 1979年)
*1/25〜8/25のみ刷られた

12駒井哲郎
「悪僧」
1950年
アクアチント
17.6×14.6cm
Ed.20(1/20)  Signed
*Raisonne No.30(『駒井哲郎版画作品集』美術出版社 1979年)
*1/20〜8/20のみ刷られた

2点とも異様な作品です。
暗い! 不気味ですらあります。
とても人好きする作品とは思えません。そんなこともあってか、いずれも作家自身によってそれぞれ8部しか刷られておらず、後刷りも一切ありません。
この2点の駒井作品がいかに貴重かつ希少かについて述べたいのですが、少し遠回りします。

駒井先生は生涯にどのくらいの銅版画作品をのこしたのでしょうか。
亭主の私見では600点ほどと思われますが、没後40年を経たいまでも新発掘のもの(特に初期作品)が次々と見つかってきています。
そういう「新発掘の作品」も画商にとっては格好の獲物といえますが、ここでは逆に「駒井ファンなら誰でも知っているけれど(イメージが印刷物などで浸透している)、入手がめちゃくちゃ難しい」作品について考えてみました。

駒井先生が生前自ら自選した『駒井哲郎銅版画作品集』(1973年 美術出版社)には227点の銅版画が収録されています。
15歳の頃から銅版を始めて1976年に56歳で亡くなるまで約40年間、銅版画一筋に歩んだわけですから、227点というのは少なすぎるというのは、駒井研究者はもちろん、駒井作品を扱う画商のあいだでは共通の認識でした。
没後に刊行された『駒井哲郎版画作品集』(1979年 美術出版社)には366点が収録されました。
さらに没後の1980年に東京都美術館で開催された大回顧展『駒井哲郎銅版画展図録』には409点が収録されています。
この3冊の作品集が、駒井研究の基本文献ということになりますが、これらにはほとんど収録されていないのがモノタイプ作品です。福原義春氏のコレクションによる世田谷美術館+町田市立国際版画美術館で開催された『駒井哲郎 1920ー1976』展図録(2011年 東京新聞)には349点が収録されており、特筆すべきは上記3冊にはほとんど収録されていないモノタイプ作品が多数収録されています。

ここではモノタイプはひとまずおいて、エッチングなどの銅版画に絞り話を進めます。
1973年の生前の銅版画作品集、没後1979年に刊行された版画作品集作品集、そして1980年の東京都美術館の回顧展図録、この3冊のすべてに収録されていて「駒井ファンなら誰でも知っている」銅版画をいくつかあげてみましょう。
「丸の内風景」(1938年)
「束の間の幻影」(1951年)
「記号の静物」(1951年)
「教会の横」(1955年)
「R夫人像」(1970年頃) 
これらの作品が、駒井作品の代表作であることは異論がないでしょう。
ではこれら代表作が入手が難しいかというと、実はそんなことはありません。生前から人気だった束の間の幻影」は幾度も刷られており、今でもときどき市場に出てきます。
それに比べて、画集や回顧展で目にしてイメージとしては強烈に印象に残っていながら、入手がめちゃくちゃ難しい作品の筆頭が「思い出」(1948年)であり、今回の「夜の中の女」と「悪僧」なのです。

亭主が駒井作品を初めて入手した作品は「岩礁にて」(1970年)で、筑摩書房から刊行された「現代版画 駒井哲郎」に挿入されていて定価28,000円でした。
以来半世紀近く、駒井哲郎を追いかけてきたのですが、「思い出」を扱ったのはただの一度だけ、「夜の中の女」は今から15年ほど前、ある画商さんから勧められたのですが、あまりに状態が悪く(にもかかわらず価格が非常に高かった)、躊躇しているうちに他にさらわれてしまった。痛恨の極みでした。
「悪僧」は全く縁がありませんでした。

M氏コレクションの中に、「夜の中の女」と「悪僧」があることを知ったのは数年前ですが、今回ようやく入手することができた次第です。
駒井先生が自ら記録したとおり、この2点の作品は限定部数の分母が25(夜の中の女)と20(悪僧)なのに、実際には1番〜8番のみが刷られたに過ぎません、原版も残っていません。
山口長男の大作はもちろんですが、駒井哲郎の希少な2点も今回の展覧会でぜひ注目していただきたい作品です。

◆ときの忘れものは「山口長男とM氏コレクション展」を開催しています。
201609_Mcollection
会期:2016年10月12日[水]〜10月22日[土]
*日曜、月曜、祝日休廊

出品作家:津田青楓、仙波均平、山口長男、緑川廣太郎、オノサト・トシノブ桂ゆき、古茂田守介、駒井哲郎、高橋秀、加納光於

1950年代から70年代にかけて王様クレヨンや画廊を経営していたM氏は多くの画家たちと親交し、彼らのパトロン的存在でもありました。本展では山口長男の代表作「五つの線」(1954年、油彩、180×180cm、第39回二科展、翌年の第3回サンパウロ・ビエンナーレ展出品作品)をはじめ、M氏がコレクションした作品20点をご覧いただきます。
●出品全作品を収録した「山口長男とM氏コレクション展」カタログを制作しました。
 テキスト:三上豊(和光大学)、和英併記、20ページ
 500円(税別) ※送料250円
 メールにてお申込みください。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから

南画廊と駒井哲郎

ただいま開催中の「アートブック・ラウンジVol.2〜画廊のしごと(南画廊のカタログ)」では、戦後の現代美術を画商として牽引した南画廊のカタログを特集展示しています。
志水楠男さんが1956(昭和31)年6月に設立した南画廊は、閉廊した1979年11月までに199回の展覧会を開催しています。

亭主が南画廊の志水さんを初めて訪ねたのはを1974年でした。
美術のびの字も知らないのにいきなり新聞社の新規事業の一環として「現代版画センター」を設立することになり、先ず相談にあがったのが高校生のときからお世話になっていた井上房一郎さんでした。井上さんは直ぐに鎌倉の土方定一先生(当時神奈川県立近代美術館館長)のところに連れていってくださり、そこから亭主は久保貞次郎先生を知り、版画の道へと進みます。
井上さんは同時に「東京画廊の山本さんと、南画廊の志水さんを訪ねなさい」と助言してくれました。いま思うと28歳の若造にその後の筋道をつけてくれた井上さんの的確な目と助言に感謝するばかりです。

そうして知った南画廊は当時美術界の輝ける大画廊でした。
「私設外務省」という比喩がぴったりな、サム・フランシスジャスパー・ジョーンズなど海外から来る作家やコレクターの多くが南画廊の志水さんを頼ってくるのでした。

南画廊の最初の展覧会(1956年6月)は「駒井哲郎銅版画個展」でした。
若い志水さんが30歳で自分の画廊を開くにあたり、駒井先生を最初の作家に選んだことは、その後のお二人にとって画期的なことでした。
南画廊史である『志水楠男と南画廊』所収の年譜によれば<開廊記念展には「現代日本美術のパイオニアは誰か」と考えた末に、当時、銅版画家として清冽な作品を制作していた新人駒井哲郎を選んだ。>とあります。

19560618南画廊(駒井哲郎展)
南画廊の最初の展覧会「駒井哲郎銅版画個展」の案内状


上掲は志水さんが画廊の案内状として印刷したものですが、駒井先生はいかにもコレクターを大切にする銅版画家らしく、印刷の案内状とは別に手刷りの銅版画による案内状も制作しています。
南画廊案内状1956年
駒井哲郎
「南画廊開廊記念個展案内状」(仏文、別に和文のものもあり)
会期=1956年6月18日〜23日
銅版
12.0×17.6cm

南画廊案内状1958年
駒井哲郎
「南画廊個展案内状」(仏文、別に和文のものもあり)
会期=1958年12月15日〜20日
銅版
12.0×17.6cm


志水さんはその後、大画商としての地歩を固めていきます。
駒井先生は1956年の開廊記念展、1958年と1960年の計3回の個展を南画廊で開催し、その都度、オリジナル銅版画による案内状を制作しています。

駒井先生の手刷りの銅版による南画廊の1960年の個展案内状を入手した当時20代のあるサラリーマンはそれをきっかけに駒井作品の蒐集につとめ、やがて500点を超える大コレクションをつくるにいたります。自分で好きなものだけを集めた結果だけれど、文化財は社会のものでもあるからと考えたその人はすべてを世田谷美術館に寄贈します(「再び福原コレクションについて 発見された駒井哲郎」)。
駒井哲郎_個展案内状_二匹の魚
駒井哲郎
「南画廊個展案内状(二匹の魚)」
会期=1960年4月18日〜28日
銅版(福原コレクション)

たった一枚の案内状ですが、駒井哲郎先生、志水楠男さん、福原義春さんのそれぞれの大きな物語になっていったことを思うと、感慨深いものがあります。

駒井哲郎《芽生え》駒井哲郎
《芽生え》
1955年  銅版
15.5×28.0cm
Signed

駒井哲郎「嵐」
駒井哲郎
「嵐」
1962年 エッチング(亜鉛版)
18.5×18.5cm
Ed.20 Signed
※レゾネNo.175(美術出版社)

駒井哲郎《街》駒井哲郎
《街》
1973年  銅版
23.5×21.0cm
Ed.250 Signed
※レゾネNo.298(美術出版社)


●今日のお勧めは、貴重文献『志水楠男と南画廊』です。
onosato_10『志水楠男と南画廊』
1985年
発行:「志水楠男と南画廊」刊行会
27×26.5cm 251ページ
執筆:大岡信、志水楠男、難波田龍起、今井俊満、小野忠弘、木村賢太郎、加納光於、オノサト・トシノブ、菊畑茂久馬、宇佐美圭司、野崎一良、靉嘔、中西夏之、清水九兵衛、飯田善國、戸村浩、菅井汲、保田春彦、桑原盛行、他
頒価:16,200円(送料250円)

*志水さん没後、ご遺族によって刊行された南画廊の全記録。60〜70年代の世界の現代美術を知る上で、第一級の資料です。
特に巻末におさめられた座談会の顔ぶれと内容が凄い。
出席者は大岡信、東野芳明、読売の名物記者であり日本の現代美術の影の仕掛け人だった海藤日出男、志水さんを画商の道に導き最初のパートナーだった東京画廊の山本孝、志水さんの同級生でパトロンでもあった山本陽一(日本ノボパン工業社長)の5人が志水さんの生涯を率直に語り合っています。

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆ときの忘れものは「第2回アートブック・ラウンジ〜画廊のしごと(南画廊のカタログ)」を開催しています。
モンドリアン本棚「第2回アートブック・ラウンジ〜画廊のしごと(南画廊のカタログ)」
会期:2016年6月14日[火]〜6月25日[土]
*日曜、月曜、祝日は休廊
志水楠男が設立した南画廊が1956年から79年に開催した199回の展覧会から、1959年の今や伝説となったフォートリエ展はじめ、ヤング・セブン展、中西夏之展、サム・フランシス展などのカタログ50冊を頒布します。南画廊の作家たちー靉嘔、オノサト・トシノブ、駒井哲郎、菅井汲、嶋田しづ、山口勝弘、山口長男、難波田龍起、加納光於の作品を展示し、1968年10月南画廊で刊行記念展が開催された瀧口修造『マルセル・デュシャン語録』(M・デュシャン、荒川修作、J・ジョーンズ、J・ティンゲリー)の完璧な保存状態のA版も出品します。

同時開催:ここから熊本へ〜地震被災者支援展

忘れられた版元〜駒井哲郎と日和崎尊夫

駒井哲郎(1920〜1976年 享年56)と日和崎尊夫(1941〜1992年 享年50)、年令はふた回りほど違いますが、日本の現代版画を牽引した優れた版画家でした。
駒井哲郎は早くから銅版画一筋に歩み始め「銅版画の詩人」と謳われました。
片や日和崎尊夫は埋もれていた技法ともいうべき木口木版を現代に蘇らせ、没後の回顧展のタイトルには「闇を刻む詩人」と冠されました。
ともに詩人的資質をもった作家であり、小さな画面に抒情あふれる心象風景を刻み続け、短い生涯に多くのことを成し遂げ、ともに50代の若さで逝ってしまいました。

私たちは生前のお二人を知り、作品の扱いも多いのですが、本日ご紹介する2作品だけは今までほとんど扱ったことはありません。
端的に言うと、市場にはめったに出てこない。

この2作品、いくつか共通点があります。
共通点1)ともに生涯の全作品の中では異例な大判作品です。
共通点2)ともに同時期の作品であり、制作数も210部(200+作家エプルーブ分)です。
komai_bigtree駒井哲郎「大きな樹」
(発表時のタイトルは「樹木」)
1971年
銅版(エッチング)
イメージサイズ:44.5×32.8cm
シートサイズ:63.2×45.2cm
Ed.210 signed
※レゾネNo.288(美術出版社)

日和崎_ピエロ日和崎尊夫「ピエロ
1973年
木口木版、板目木版(多色)
イメージサイズ:27.0×33.5cm
シートサイズ:39.0×50.9cm
Ed.200 signed
※レゾネNo.352

2点とも作家の代表作とはいえません。日和崎作品にいたっては、過去の作品の版木をそのまま使ってコラージュしたような作品になっている(手抜きとはいいませんが・・・)。
代表作でもないし、200部も刷ったのだから市場にたまに出てきてもいいはずなのにほとんど出てこない。

種明かしは額の裏に貼られたシールです。
駒井哲郎_大きな樹駒井哲郎作品のシール

日和崎ピエロシール日和崎尊夫作品のシール

このシールを見て、「ああこれは」と頷く人は、1970年代の「版画の時代」に業界にいた人でしょう。

1970代には、版画の時代を反映して、画廊以外の「版画の版元」が雨後の筍のごとく輩出しました。
亭主が主宰した現代版画センターもその一つですし、「版画友の会」を引き継いだプリントアートセンター、フジ美術、内装業の最大手・乃村工藝社がつくった乃村マルチプルアートセンター、大月版画などなど。

そしてブリヂストン(当時は「ブリヂストンタイヤ株式会社」)です。
共通点3)上の2点はブリヂストンが版元としてエディションした作品です。
亭主の記憶だと、ブリヂストンが版画の版元として活動したのはごく短期間でした。大企業ですから資本は贅沢で、当時の第一線の版画家を口説いて、かなりのラインナップでエディションを発表しました。そのエディションが各200部です。大きさも全部そろえたらしい(額も自前です、というか額のサイズにあわせてエディションしたようなものですね)。
だから、駒井先生も日和崎先生も無理して大きな作品を作らざるを得なかった。

ブリヂストン美術館の当時の学芸員さんたちが作家の選定に関わったかどうかはわかりませんが、十分にありうる話だとは思います。

ブリヂストンが異色だったのは、その販売方法です。
私たちを含め多くの版元たちは、エディションした版画作品を既存のルート(コレクター組織、画商、デパート)で頒布したのに対し、ブリヂストンはそういう既存の美術業界にはタッチせず、自前の販売組織で売ろうとしたことでした。
これも亭主のおぼろげな記憶なのですが、ブリヂストンは傘下の布団屋さんのルートで頒布したらしい。あまり順調とはいえなかったようで(だから直ぐに止めてしまった)、布団屋さんも苦労したと思います。
売ったルートがルートなので、以来ブリヂストンのエディションが世に出てくることはめったにない。

版画の専門誌や、70年代の版画を回顧する美術館の展覧会カタログなどによく「版画年表」が掲載されていますが、亭主の見た限り、ブリヂストンの名はどこにも記録されていません。
忘れられてしまった版元です。

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久保貞次郎×駒井哲郎〜第25回瑛九展より

◆久保貞次郎のエッセイ〜駒井哲郎(1960年執筆)

「駒井哲郎展によせて」

久保貞次郎


 夢と現実、駒井哲郎の芸術はこの夢と現実のあいだを時計の振り子のように振幅する。かれの夢は、あるときには、時間の迷路であったり、また別のときには、夜の森であったりする。現実は小さな魚や、樹や、パリの屋根である。かれの研ぎすまされた神経は拡大鏡を使っても見えないほどの細かさで、あの小さい画面にゆきわたっている。どの銅版にもこの画家の人生への懐疑と憂うつと詩が織りこまれているではないか。かれの世界はわたくしたちの心の郷愁である。
 駒井哲郎はおおげさな身振りを避け、みじろぎもせず心のなかを凝視している作家だ。かれのエッチングのどれをとっても、通俗との袂別が宣言され、ただ独り道を進んでいる。この画家の姿がわたくしたちの網膜に残るばかりである。かれの孤高な精神は、わたくしたちの胸をたゆみなく純化する。
 かれのここ十年間の仕事は、かれの夢を深め、観察を鋭くしつづけてきた。こんどの新しい制作が、どのようにかれの夢と現実を発展させているであろうか。わたくしはおさえがたい感情をこめて、かれの近作に期待する。
くぼ さだじろう
(一九六〇年 駒井哲郎展図録 日本橋白木屋画廊)
『久保貞次郎 美術の世界5 日本の版画作家たち』(「久保貞次郎・美術の世界」刊行会、1987年)
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第25回 瑛九展 瑛九と久保貞次郎」出品作品を順次ご紹介します。
komai_04_hana出品No.40)
駒井哲郎
「花」
1965年
銅版(アクアチント)+手彩色
12.5x9.3cm
Ed.100
Signed

駒井哲郎_賀状出品No.41)
駒井哲郎
「賀状」
1959年
エッチング
10.1x12.2cm
Signed
※レゾネNo.351(美術出版社)

藝大カレンダー出品No.42)
駒井哲郎
「藝大カレンダーより」
1974年
エッチング
8.8x8.2cm
Ed.180 Signed

駒井哲郎_mebae出品No.43)
駒井哲郎
「芽生え」
1955年
アクアチント、エングレーヴィング
15.5x28.0cm
Signed

駒井哲郎_onti-syo出品No.44)
駒井哲郎
「恩地孝四郎頌」
1974年
アクアチント(亜鉛版)
20.7x10.0cm
Signed
※レゾネNo.309(美術出版社)

Nature_Morte_600出品No.45)
駒井哲郎
「Nature Morte(静物)」
1975年
アクアチント、ソフトグランドエッチング
18.3x15.0cm
Ed.75 Signed
※レゾネNo.318(美術出版社)

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*画廊亭主敬白
今回は<瑛九と時代を共にし、久保貞次郎が支持した作家たち>の中から11作家の作品を展示しています(瑛九を含め12作家)。
しからば<瑛九と時代を共にし、久保貞次郎が支持しなかった作家たち>は誰か。
その筆頭が恩地孝四郎でした。
久保先生が後年(つまり亭主に昔語りをしてくれたとき)最も悔いていたのが自らの大コレクションに松本竣介と恩地孝四郎がないことでした。
亭主が久保先生に初めてお目にかかったのは1973年の秋、久保先生が64歳、亭主28歳、以来足しげく市谷のお宅に伺いましたが、活字に残されていない貴重なお話をいくつも聞くことができました。

「若い頃、ボクは西洋かぶれでしたから、日本の土俗的なもの、木版や民芸など大嫌いでした。」

具体的な例を挙げれば久保先生は上掲の駒井哲郎をのぞき、「日本版画協会」系の作家には見向きもしませんでした。駒井先生だけは例外で、その才能を高く評価し、自ら主催した頒布会のために駒井先生に水彩画の制作を依頼したりしています。
後述するように、上掲の「恩地孝四郎頌」も久保先生の助力で生まれた作品です。
若年の頃「大嫌い」だったものに後年目を向けていくのですが、昔の過ちや誤解を悔いて正すことに躊躇しない「陽性」で潔い人でした。

「戦後すぐの頃、ある人が大八車に竣介を山と積んで売りにきました。ボクは現金で買おうと思えばそっくり買えたのに一点も買いませんでした。」

「恩地先生とは幾度も会合でご一緒し、エディションのチャンスもあったのに古臭い木版画という先入観でその価値を認めることができず、一枚も買いませんでした。」

少年の頃から恩地ファンであった亭主の密かな誇りは、この話を聞いて直ちに恩地三保子さんの北軽井沢の別荘に久保先生をお連れし、三保子さんに紹介したことです。
三保子さんは生涯の夢だった父・孝四郎の作品集刊行に全力を挙げて取り組んでおられました。
版元の形象社は弱小の出版社で四苦八苦していましたが(後に久保先生の著作集の版元ともなるのだが途中で倒産してしまい、久保先生はその後自ら刊行会をつくり、自分の著作集全12巻を完結させた)、三保子さんを知った久保先生は若年の頃の後悔を取り戻すかのように『恩地孝四郎版画集』 (1975年 形象社刊) に多大な資金的バックアップを行ないました。上掲の駒井哲郎「恩地孝四郎頌」はその特装版のために制作された作品です。
三保子さんは深く感謝し、そのお礼にと恩地孝四郎の「藤懸静也像」を久保先生に贈られました。その仲立ちも亭主がお手伝いさせていただきました。
久保先生の支援なくしては恩地のレゾネは実現しませんでしたし、駒井哲郎の『恩地孝四郎頌』も生まれなかったでしょう。

久保先生と駒井先生、お二人とも亭主の恩人ですが、亭主が倒産後の再起のきっかけは資生堂ギャラリーでの駒井哲郎回顧展でした。そのことは駒井先生の珍しい木版画発掘に関連して書いたことがありますので、お読みください。

話は急に変わりますが、明日花巻に行きます。宮沢賢治イーハトーブ館で友人の石田俊子さんたちがピアノコンサートを開くので久しぶりに温泉の会もかねての小旅行です。もちろん夜は盛岡・直利庵で大宴会の予定であります。
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瑛九関係の文献資料コチラをご参照ください。
画廊では久保先生の著書を会期中のみの特別価格で頒布しています。

◆ときの忘れものは2014年6月11日[水]―6月28日[土]「第25回 瑛九展 瑛九と久保貞次郎」を開催しています(*会期中無休)。
DM
大コレクター久保貞次郎は瑛九の良き理解者であり、瑛九は久保の良き助言者でした。
遺された久保コレクションを中心に、瑛九と時代を共にし、久保が支持した作家たちー北川民次、オノサト・トシノブ、桂ゆき、磯辺行久、靉嘔、瀧口修造、駒井哲郎、細江英公、泉茂、池田満寿夫らの油彩、水彩、オブジェ、写真、フォトデッサン、版画などを出品します。
また5月17日に死去した木村利三郎の作品を追悼の心をこめて特別展示します。

◆宇都宮の栃木県立美術館で、「真岡発:瑛九と前衛画家たち展―久保貞次郎と宇佐美コレクションを中心に」が6月22日[日]まで開催されています。
展示風景はユーチューブでご覧になれます。

駒井哲郎の新発掘の木版画、再び現る

昨夜の「葉栗剛展」のギャラリートーク、レセプションにはたくさんの方々においでいただき、ありがとうございました。その様子は近々、レポート担当の新澤からご報告させますのでお楽しみに。
本日(日)も明日(月)も画廊は開いていますので、ぜひお出かけください。
作家も在廊しています。

亭主が画商になって以来40年、追いかけてきた作家は、瑛九を筆頭に、オノサト・トシノブ駒井哲郎戸張孤雁恩地孝四郎をはじめとする創作版画、などなどですが、「追いかけ」ることが可能だったのはそれを購入してくださるお客様がいたからです。
いくら画商がこれぞとほれ込んでも、それを買って下さる客がいなければ仕事にはならない。
以前、世紀の大発掘と威張って紹介した駒井哲郎の木版画がありました。
「駒井哲郎を追いかけて」第27回28回でその顛末は紹介しました。

あのとき、駒井先生が河田清史著『象とさるとバラモンとーインドの昔話―』の挿絵として制作したものに、別の飾り縁を加えて単独作品として完成させたものを入手したわけですが、こういうものを作ったのなら、他にもまだあるのではないかと亭主は推測していました。
先日、亭主のブログを読んだある方が「私も駒井先生のものだと言われて30年前に木版を入手したが、いまひとつ確信が持てなかった。ところが綿貫さんのブログを読んで、やはり駒井先生のものだったかと得心しました」といって、下に掲げた木版画をもっていらっしゃいました。
間違いなく、駒井先生の挿画シリーズの飾り縁と同じスタイルの木版です。コンディションもよく、手彩色もされています。
20140422木版画v2
駒井哲郎
『ラーマーヤナ』より
「ラーバナの立腹」

木版画+手彩色
イメージサイズ:28.0×20.2cm
シートサイズ :34.5×27.2cm

驚きました。推測していたものがあちらから飛び込んできたのですから。
最初は本の挿絵として制作したものに、別の飾り縁を加えて単独作品として完成させたものがこれで3点見つかったことになります。

もとの挿絵のことも直ぐに亭主の駒井文庫をひっくりかえして判明しました。
20140422木版画書籍掲載版
河田清史・著
『ラーマーヤナ(上)
●インド古典物語』
1971年
第三文明社

20140422木版画書籍掲載版2
同書P.135
駒井哲郎
「ラーバナの立腹」扉絵

レグルス文庫の河田清史著『ラーマーヤナ(インド古典物語)』(上下二巻 1971年)は、駒井資料として私がずいぶん前に入手していたのですが、実は前書きともいうべき3〜6ページの「この大切な物語りについて」という文章の重要な一節を見落としていたことに今回気づきました。

<この本が、はじめて刊行されたのは、戦時中でした。そして二十二年前にも再版されました。こんどが三度目であります。この長いあいだ、駒井哲郎画伯は挿絵の版木をだいじにしまっておいてくれました。幸いなことです>。(以下略)
同書5〜6ページ

二十二年前というのは、福村書店から昭和25年に刊行された『印度古典童話ラーマーヤナ』のことだと調べがついたのでさっそく古本屋さんでゲット!
名称未設定-10
河田清史・著
『印度古典童話集
ラーマーヤナ』
1950年
福村書店

名称未設定-14
同署P.107
駒井哲郎
「ラーバナの立腹」扉絵

しかし最初の版<戦時中>の刊行物については、いまのところ不明で、国会図書館で探すしかないでしょうね。
なんとしても確認したいと考えているのですが、もし最初(戦時中)の版にも駒井先生の挿絵が入っているとすれば、今まで不詳だった駒井先生の戦時中の制作活動が解明されるきっかけになるでしょう。

まだまだ「駒井哲郎を追いかけて」の旅は続きそうです。

駒井哲郎とその時代の版画家展

亭主が美術業界に入った1970年代前半、「版画」がデパートで扱われることはほとんどなかった。
こう言うとまさかと思われるでしょうが、当時のデパート(百貨店)美術部は日本画と洋画(油絵)が扱い品目の第一で、現代版画など持っていっても相手にもしてくれませんでした。
新宿の京王デパートに「京王版画サロン」というのがあり、例外的に版画を常設展示していました。同サロンが版画の普及に果たした役割はとても大きい。

最近はデパートも「版画」はもちろん「現代美術」や「写真」さえ普通に扱うようになりました。時代の流れでしょう。

お正月に同じ新宿の小田急で「オノサト・トシノブ展」が開催されたのでご紹介しましたが、今度は駒井哲郎を取り上げるという、駒井ファンとしてはとても嬉しい。
20140416駒井哲郎とその時代の版画家展 表20140416駒井哲郎とその時代の版画家展 裏


駒井哲郎とその時代の版画家展
会期:2014年4月16日[水]―22日[火]
会場:小田急・新宿店本館10階美術画廊
時間:10:00〜20:00 ※最終日は16:30まで
出品作家:駒井哲郎、浜口陽三、長谷川潔、浜田知明、南桂子、他

日本にまだ銅版画が知られていない時代からエッチングを始め、独学で銅版画の技法を習得していった開拓者、駒井哲郎。その詩的で幻想的な白と黒の造形の世界を、同時代の版画作家も交えて展覧いたします。(案内状より)

会期が短いですね(デパートの催事というのはほとんどが一週間単位ですが、もう少し長くならないもんでしょうか)。お近くにお出かけの皆さん、どうぞお立ち寄りください。

◆ときの忘れものは2014年4月19日[土]―5月6日[火 祝日]「わが友ウォーホル〜氏コレクションより」を開催します(*会期中無休)。
ウォーホル展DM
日本で初めて大規模なウォーホル展が開催されたのは1974年(東京と神戸の大丸)でした。その前年の新宿マット・グロッソでの個展を含め、ウォーホル将来に尽力された大功労者がさんでした。
アンディ・ウォーホルはじめ氏が交友した多くの作家たち、ロバート・ラウシェンバーグ、フランク・ステラ、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、萩原朔美、荒川修作、草間彌生らのコレクションを出品します。

●イベントのご案内
4月25日(金)18時より、ジョナス・メカス監督「ファクトリーの時代」の上映会を開催します(※要予約/参加費1,000円)。
※必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申込ください。

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本日のウォーホル語録

<18歳のとき、友だちがぼくをクローガーのショッピングバッグの中につめこんで、ニューヨークに連れてきてくれた。その頃、ぼくはずっとルームメイトたちといい友だちになって、悩みをわかちあえると思って住んでいたのだが、いつも彼らはただ誰かと部屋代を分けあいたいだけなのだということがわかった。一時期ぼくは103丁目/マンハッタン・アヴェニューのアパートの地下に17人の人たちと住んでいた。17人のひとりとして、本当に大事な悩みをぼくとわかちあった者はいなかった。彼らはみんな、クリエイティヴな子供たちだったから、(そこはアート・コミューンのようなものだった)たくさん問題を持ってたに違いなかったが、そういう問題について一度も耳にしたことはなかった。台所で、誰がどっちのサラミを買ったか、なんていうケンカはしょっちゅうあったのに、だ。当時ぼくは毎日長時間働いていたので、彼らがぼくに話したとしても、聞いてやる時間がなかったのかもしれない。それにしても、みんなからとり残されたような感じがして、ぼくは傷ついた。
―アンディ・ウォーホル>


ときの忘れものでは4月19日〜5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催しますが、それに向けて、1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介して行きます。

針生一郎「現代日本版画家群像」 第4回 駒井哲郎と浜田知明

現代日本版画家群像 第4回
駒井哲郎と浜田知明

針生一郎


 一九五二年から、たどたどしい美術批評をはじめたわたしは、五三年に二つの銅版画個展をみて、小さな画面に世界を凝縮するような銅版画の魅力に眼をひらかれた。―資生堂の駒井哲郎展とフォルム画廊の浜田知明展である。黒白の微妙な諧調と質感で、ポール・クレーを思わせるメールヘン的幻想をくりひろげる駒井は、一見してきびしい自律性につらぬかれた、造形の詩人であることがわかる。一方、象徴的に単純化された形態で、戦場と軍隊の極限状況におかれた人間の運命をうかびあがらせる浜田は、仮借ない告発の画家というべきか。
 わたしは当時、自由美術に親近感をもっていたから、浜田の主題にはすぐひきつけられた。それにたいして、駒井の方はまもなくフランスに留学したから、個人的に話しあう機会がなかなか訪れなかった。一九五〇年代の末、ひろし画廊でユリイカ社の主催する詩画展があって、駒井は大岡信の詩を主題とする銅版画を発表したが、そのころから大岡や安東次男などの詩人たちが、駒井の仕事を熱烈に讃美しはじめたのも、わたしが近づけない一因となったかもしれない。その上、すらりとした好男子の彼は、酒飲みの文人でもあって、酔うとはげしくからんでくるのも苦手だった。
 六〇年代の末、渋谷の酒場に数人で入ると、前から二階で飲んでいた駒井がわたしをよんで、「オレは多摩美では学生がかわいいから授業をやっているだけなんだ」といったが、自宅が多摩美大に近いため、前から非常勤講師で版画を教えてきた彼には、あとから専任に入ったわたしが、ひとりでかきまわしているようにみえたのだろう。七四年ごろ、養清堂画廊で会った駒井に、「何だか顔が変ったね」というと、舌瘤で手術をうけたことを説明され、わたしは心ない言葉をかけたことを後悔したが、それがわたしとの最後の出会いとなった。彼がなくなってからわたしは、もっと自分から出かけて彼の話を聞いておくべきたった、とかえすがえすも残念に思っている。
 駒井哲郎は一九二〇年、いまの室町界隈にあたる日本橋魚河岸に生まれ、家は氷室問屋だった。十三歳のとき、父に送られてきた雑誌で銅版画を知り、翌年麹町にあった西田武雄の日本エッチング研究所に通いはじめ、そこで関野準一郎などと知りあった。三八年、東京美校油絵科に入り、在学中に文展にエッチングで入選したが、美校を出て東京外語でフランス語を学ぶうちに召集をうけ、一年ほど軍隊生活を送った。戦後は四八年に日本版画協会展に出品、受賞して同会員となり、五〇年春陽展に出品、受賞して、翌年同版画部会員に推された。そして資生堂での最初の個展のあと、五四年私費留学生としてパリに渡り、翌年末に帰国したのである。
 わたしは五三年の個展の印象から、駒井が戦前に留学して銅版画法を身につけてきたと思いこんでいた。だからのちに、五四―五五年の留学が最初であることを知って、少々おどろいたのである。この留学体験は彼にとって、長谷川潔を訪れてそのマニエール・ノワールをつらぬく意志的生活態度にうたれ、また初期銅版画展をみてビュラン彫りの力づよさに感動し、エコール・ド・ボザールのビュラン教室に入ったことにつきるだろう。といっても、これらの感動や衝撃のうちには、銅版画を支えてきた西洋文明の伝統が集約されており、それを駒井は鋭敏な感受性でうけとめながら、身をもってその落差を埋めてゆくほかないと決意したことにほかならない。
 滞仏中わずかな作品しかつくらなかったという彼は、帰国するとあのクレー風の幻想を離れて、明晰でつよい線条による写実的ともいうべき樹木シリーズにとりかかった。技法的には、マティエールと諧調を中心とする渡欧前のサンド・ペーパーやシュガー・アクワチントよりも、ビュランやニードルによる彫刻凹版に集中したわけだ。それは彼の西洋体験が何よりも画面の骨格と空間の深さにかかわっていて、いわばデッサンからやり直すことを彼に決意させたようにみえる。だが、五八年の南画廊での個展や六〇年の白木屋での回顧展では、そういう再出発を経た彼がすでに、写実から幻想まで、抽象から象徴まで多様な方向を生みだしつつあることが知られた。思えばそういう苦渋にみちた内省と転回の過程を知らずに、わたしなどは依然として初期以来のイメージで駒井の仕事をみ、彼のようにすでにできあがった作家について、わたしなどの語るべきことはないと考えていたのである。
 一九六〇年代をとおして、版画は若い世代の美術家たちに急速にひろがり、創作版画以来のどこか民芸調をもつ木版画の趣味的閉鎖性はうちやぶられていった。だが、シルクスクリーンの技法が普及し、下絵と刷りの工程が発注芸術などの名称でよばれるように分離していったなかで、銅版画にも安易な多色刷りが流行し、駒井が西洋で再確認した黒白の魅力もビュランの骨格もおき忘れられようとしていた。彼は鋭敏な感受性にうけとめた銅版画の理念のゆえに、この事態に深い痛みと困惑をおぼえたにちがいない。これは明治以来の皮相な文明開化をのりこえ、西欧的伝統をまさに自己の感性のドラマとして血肉しえた作家が、その伝統すらふりすてようとする新しい開花の風潮のなかで、孤立のままとりのこされるという、戦後美術最大の転換点であった。
 駒井は六三年七月読売新聞に、「もう少し計画的にだんだんと仕事を整理して不必要なものは捨てていかなければならない」と、自戒の言葉を書いている。その矢先の十月、彼は信号無視のトラックにはねられて両脚を骨折し、二度も大手術を受けた。回復後、彼は銅版画の基本原理を制作と教育の両面で日本に定着することに、自己を限定したようにみえる。だから、多摩美大、ついで七二年以後東京芸大の非常勤講師として教えることは、駒井にとって重要な仕事であり、死後出版された『銅版画のマチエール』(美術出版社)は彼のライフ・ワークの意味をもつのだ。弟子たちによると、駒井の制作は一ヵ月一点ぐらいだが、周到な精神的、物理的準備の上で制作にかかったらスピードが速く、指先がよごれることは全然ないのに、作品は多様な技法にわたり自在だったという。しかも、芸大講師になった翌年には舌癌で舌と顎を切除せざるをえず、その二年後には癌が肺に移転して、五十六歳で死んだのだから悲劇的である。だが、七三年に出た彼の作品集(美術出版社)と遺著『銅版画のマチエール』は、いま若い世代の最良の指南書となりつつある。

komai_bigtree駒井哲郎
「大きな樹」
1971年
エッチング
44.5x32.1cm
Ed.210
サインあり
※レゾネNo.288(美術出版社)


komai_mati駒井哲郎
「街」
1973年
銅版
イメージサイズ:23.5×21.0cm
Ed.250
サインあり
※レゾネNo.298(美術出版社)


 浜田知明は一九一七年、熊本市に近い御船村に小学校長の子として生まれ、肥後の「もっこす」の典型としての父親への反骨を幼時からつちかった。美校でも藤島武二のアカデミズムに反撥したため、「学校をやめろ」と叱りつけられたという。一九三九年末、現役で軍隊に入ると二ヵ月でその不条理をつぶさに体験し、徹底して劣等生で通す決意を固めた。中国戦場に駆りだされたのちは、たえず自殺だけを考え、「いつの日か、戦場で考えたことを絵にしたいという願い」だけで自殺を思いとどまった。思いがけず四三年に満期除隊となり、美術文化展に油絵を出品し、熊本市の呉服卸商の娘と結婚したが、新婚一ヵ月で再度召集されて伊豆新島に送られた。敗戦後の四八年、妻子を熊本に残して単身上京し、横浜の中学教師をつとめながら、自由美術の会員となったが、油絵では戦争体験の主題がどぎつく露出しすぎるので、駒井哲郎と関野準一郎に銅版画の手ほどきをうけ、一九五〇年からようやく《初年兵哀歌》シリーズの制作にとりかかったのである。

hamada浜田知明
〈初年兵哀歌〉より「歩哨」


 銅版画には長い準備の上に器材と技術がいるから、銅版画家の道程はいずれも計画的だが、浜田知明も戦場で自己をうちのめされ、幻覚とともにいだいた極限状況のイメージを、戦後数年反趨し凝縮して表現しはじめた。熊本にとどまった妻が親の家業を手伝いながら、二人の娘の養育をひきうけたせいもあるが、浜田の銅版画は一年に四、五点の寡作なペースを守り、商品としての流通を求めないから、部数も十部ぐらいだったようだ。だが、そのシリーズをたどると、初期の抒情的心象から状況のリアルな把握へ、さらに極限状況の象徴的表現へと進み、とりわけ日本軍の暴力にさらされた中国民衆の死体が導入されることによって、初年兵をたんなる被害者ではなく、同時に加害者としてとらえる視点が確立した。一九五〇年代後半の「逆コース」時代になると、戦場の光景をはなれて戦後につづく眼にみえない戦争を、寓話的ないし諷刺的にえぐりだそうとする姿勢がめだってくる。
 一九五七年、浜田は九年におよぶ下宿生活をきりあげて、熊本の家族のもとに帰り、五九年自由美術を退会した。そのころから彼は、戦争への告発を現代文明の不条理へのアイロニーにまで拡大して、亡霊や怪物がうごめく百鬼夜行の世界を描きはじめた。六四年には、私学研修福祉会の助成金で一年間ヨーロッパを旅行し、カメラももたず、スケッチもせず、ひたすらみることに徹したらしい。その結果、十五世紀から十七世紀まで、油絵草創期のとくにフランドル絵画に傾倒するとともに、戦争と革命につながるギロチン、貞操帯、城郭、地下牢、カタコンベ、騎士の甲冑などにひかれた。こうして《ヨーロッパの印象記》シリーズが十年近くかかって描かれたのち、七〇年代半ばからふたたび現代日本の人間喜劇を痛烈な批評とアイロニーをこめて描きつづけている。
 ふりかえると、わたしが浜田知明の方にまずひかれたのは、わたし自身が駒井哲郎のような東京育ちではなく、地方出であるせいもあるだろう。だが、わたしは戦後三十数年を右往左往してすごしたので、浜田のように一点に固執して凝縮された制作を持続してきた作家に、あらためて敬服せざるをえない。昨年三月、熊本県立美術館でひらかれた浜田知明展につづいて、昨秋はウイーンで浜田の個展がひらかれており、彼の真価が国際的に知られるのはこれからだと思う。
(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.54より再録
1980年1月 現代版画センター刊

◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されたもので、毎月28日に掲載(再録)いたします。
30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま転載します。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子さんのエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・土渕信彦さんのエッセイ「瀧口修造の箱舟」は毎月5日の更新です。
 ・君島彩子さんのエッセイ「墨と仏像と私」は毎月8日の更新です。
 ・鳥取絹子さんのエッセイ「百瀬恒彦の百夜一夜」は毎月16日の更新です。
 ・井桁裕子さんのエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
  バックナンバーはコチラです。
 ・小林美香さんのエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新です。
 ・「スタッフSの海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は毎月28日の更新です。
 ・植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実さんのエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は終了しました。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・飯沢耕太郎さんのエッセイ「日本の写真家たち」は英文版とともに随時更新します。
 ・浜田宏司さんのエッセイ「展覧会ナナメ読み」は随時更新します。
 ・深野一朗さんのエッセイは随時更新します。
 ・荒井由泰さんのエッセイ「マイコレクション物語」は終了しました。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイ他を随時更新します。

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駒井哲郎の廃版(レイエ)作品

毎日新聞に紹介されたおかげで殿敷侃さんのことを知る人や、初めてその名を聞く人などが来廊され、いつもと違う展覧会です。
殿敷さんは「版画家」ではありませんでしたが(1977年からの数年間、集中的に銅版画にとりくんだ)、その作品の完成度には皆さん目を瞠っています。
長谷川潔駒井哲郎と比べても遜色ありませんね」とまでおっしゃる方もいる、嬉しい限りです。

某月某日、駒井コレクターのSさんがぶらりと来廊。
Sさん「ヤフオクで駒井さんのレイエ版が出ている
亭主「そりゃあ珍しいや、ぜひ落としなさいよ」
Sさん「ボクはヤフオクやってないから・・・」
亭主「お任せください、かわりに落としましょう。落札金額の1割だけ手数料ください」

てなことがありまして、Sさんの代理でヤフオクに挑戦、「買うのが大好き」な亭主は意欲満々、場合によってはン十万円も覚悟して締め切り日に臨んだのですが、競る人も少なく、21,000円であっさり落札しました。少し拍子抜け。

レイエ(rayer)とはフランス語で「線を引く、削除する」の意味。版画用語で、限定部数の刷りが完了した後に、原版に廃棄の処置をほどこすことです。
銅版画の場合は、通常、版面上の一隅に、1本あるいは2本の斜線を刻み込む方法がとられます。

駒井先生は原版の多くはそのまま保存して、レイエ処理することはほとんどありませんでした。
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駒井哲郎 
<人それを呼んで反歌という>より
「PL11 腐刻画」
1966 エッチング
27.0×16.4cm
Ed.60
*2本の斜線で廃版処理されたもの

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用紙の下部に「L.1 2/2 1981.8」と鉛筆で記載されています。
1981年には既に駒井先生は亡くなられているので、この作品はおそらく廃版処理された原版の所有者が、2枚を刷ったということなのでしょう。
「腐刻画」ほどの名作を(たとえ廃版処理されていようと)僅か2万数千円で入手したSさんのよろこぶまいことか。
駒井作品を大事な商売としている亭主としては果たして喜んでいいのやら・・・・複雑な心境であります。

●『殿敷侃 遺作展』カタログのご案内
Tonoshiki表紙600『殿敷侃 遺作展』カタログ
2013年
ときの忘れもの 発行
15ページ
25.6x18.1cm
執筆:濱本聰
図版:21点
価格:800円(税込)
※送料別途250円

2013年8月開催の「殿敷侃 遺作展」のカタログです。
広島で生まれた殿敷侃は、被爆体験をもとにヒロシマにまつわる遺品や記憶を細密極まる点描で描き、後に古タイヤなどの廃品で会場を埋めつくすというインスタレーションで現代社会の不条理に対して批判的・挑発的なメッセージを発信し、1992年50歳で亡くなりました。
このブログでは「殿敷侃の遺したもの」を記録するため「久保エディション第4回〜殿敷侃」はじめ、濱本聰(下関市立美術館)さん、山田博規さん(広島県はつかいち美術ギャラリー)、友利香さん、土屋公雄さん、西田考作さん、池上ちかこさんらに寄稿(再録も含む)していただきました。

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tokinowasuremono
緑豊かな青山のギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱い、毎月企画展を開催しています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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